平成が最後の日になっちゃった。 行く年来る年に近い感覚な今日。 しかし別に実際の暮らしにはなんの変化もなく、ホームセンターで半額になっていた高齢犬向けの餌を、お得かなという安易な考えで三つも四つも買って帰ってきた平成最後の午前。 ちなみにうちの犬は推定年齢20歳のよぼよぼ婆さんである。 帰りの途中でコンビニに寄り携帯料金を支払ったんだけど、ふとこんな本が目についたので買ってみた。 相対性理論という言葉は知っているが、それがどういうことなのかというのは知らん。 だから興味本意で手を伸ばした。 これで平成最後の夜は相対性理論について知るアインシュタイン的な夜となるだろう。 うん、相手にとって不足な…
時々フッとある閃きの如く、つい忘れていたことを思い出させる言葉が脳内に浮かんで来るのでメモをよくとる。 散歩の途中にもこの現象はしばしば起こるので、鮮度が命なこの言葉をすくいあげる、つまり立ち止まってペンをとることが頻発することで歩行が困難になるときもある。 やれやれとは思うがこれがまた新鮮な驚きを含んだ楽しみの一つでもあるのである。 まぁはやる心は押さえてまずは気の利いた音楽でも流すとしよう。 今日はこれ サックスとかいう楽器がメインかな。 サム テイラーとかいうその世界では有名な人らしい。 捨て曲はない。ものを書くのに良いムードが出せる音。 さてと、話は戻るが例えば今日なんかは散歩中にこん…
巷がGWで浮かれていようがそんなものは何処吹く風な無駄無し屋である。 と、まぁ格好良く表現したらそうなるが、なんのことはない。ただの暇人なだけのことである。 暇人の特権として、色々と考えることができるというのがある。 それは瞑想とも想像とも空想とも妄想ともいう多岐にわたるものである。 今日はちとその中でも一番の快楽である妄想をこの場を借りて膨らませてみようかと思う。 自分は自分にとって都合の良い人間だけと付き合って自分にとって都合の良い人生を構築してやろうと目論んでいる人間である。 他人の賛否には耳を塞ぎ、ただ純粋にその願望の達成になんの躊躇いも疑いも持たず、むしろそれが崇高な行いであるとさえ…
このblogで自分の生活をさらけ出すつもりは更々ないんだけど、自分の考えはオフェンシブにさらけ出してゆきたいと常々、書くたび心で思っている。 今日は風邪が少し冷たい。 だがそんなことはどうでもいい。 もしかしたら世間はすでにGWにひょっとして突入してしまったのか? まぁそれもどうでもいいことだ。 何が今日、今、この時点でどうでもよくないことなのかと言えばそれは、 別に特にないのである。 つまり今日もすべてどうでもいい一日なのである。 どうでもいい一日なんて贅沢なものを手に入れた今日なんかは早くこの記事を書き上げて昨日ゲオで買ったマライアキャリーの中古CD五百八十円でも独り静かに熟聴したく思って…
人間の善意の感情と人生がうまくいく仕組み、つまりこの世の法則は必ずしも一致しない。 それどころか、善であろうが悪であろうが感情での判断では辻褄が合わずうまくいかないことのほうが多い。 たとえば可哀想という感情のみで相手に施しを与えたとする。 これはいわば善意であり、自分の気持ちは満足するだろうし、一見その相手も助かったかに見えるし、事実助かっていることもあるだろう。道徳的にも素晴らしい行いである。 しかし目線を少し離して遠くからこの行いを大局的に眺めてみると、また違ったふうに見えてくる。 施すことは助けにもなれば、甘やかしにもなることがある。 相手にもよるが、野良犬、野良猫のように一回餌をやる…
元来好き嫌いがはっきりしているタチなもんで嫌いな人間とは一言も口をききたくない。 嫌いな人間には話しかけないし話しかけさせない。 稀にそういう空気を読まずに話しかけてこられることもあるが、こう言う。 「話しかけてこないでくれる?」 と。 誰がどのように非難や忠告をしてこようが、お気に入りの物や人以外は身辺に置く気が全くない。 それじゃあ世界が狭くなるよとの忠告なんてありがた迷惑でしかなく、広く浅くよりも狭く深くが心地いいんだから仕方がない。 そんな生き方があったっていいはずだし、好きでもない物や人を身辺においてストレスを感じるよりもよっぽど自分にとっては快適だ。 八方美人を否定はしない。 それ…
何を隠そう実はピノが大好物である。 あのミルキーなアイスをチョコレートで優しくタイト且つしなやかに包み込んだ至高の一粒。 その至高の瞬間を六回も味わえるお得感。 好きになる感情というものは理屈ではない。 プラスチックのつまようじのようなものでピノをプスッと突き刺す瞬間に唾液が口の中に充満する。 げに恐ろしき魅力と甘味とを兼ね備えた人類の希望とも言えるピノ。 ピノをこよなく愛する人間のことをピノラーと呼んでいいのかどうかわからないが、ただひとつハッキリしていることは、回数を重ねて食していくことにより発生するピノイズムは一種の信仰のようなものであるということだ。 この世の中で信じられるのは自分の実…
未だにこのブログで稼いだ金といえばほんの雀の涙ほどのものなんだけど、金になるならないは別にして、毎日のこの執筆はすでに自分の中では立派な仕事であると解釈している。 書きたいときだけ書くという自由なスタンスも魅力的であるけれど、これは仕事であるから毎日確実に書かなくてはならないといったようなスタンスについて回る緊張感もまた捨てがたく魅力的なのである。 なにせ日頃がニートさながらのゆるい暮らしであるもんで、日常に緊張感というスパイスを欲しているのだろう。 メリハリがなければバランスを保てない。 緊張感のみだとキツいしユルいだけだと堕落への道を辿ってしまいそうな怖さがある。 正直なところ、たかがブロ…
誰かを幸せへと導くようなのを目指してもそれは偽善となってしまいそうなので、せめて時間の無駄にならない程度のものを書けたらなどと思いながらの今日の執筆は始まってゆくのである。 他人に自分の文章を読んでもらうということは、他人の大切な有限なる時間を数分ばかりではあるが奪っているという見方もできなくはない。 そういう見方をすると、自分の表現に時間を割いてくれている方々にはありがたいという感謝の念を抱くことが誠意というものだろう。 時間をいただいて申し訳ないなどというのは建前上の謙遜として見ることもできるが、申し訳ないと本当に思うんならば、そもそもそんな申し訳ないものを書いて読ませるなよ、と思うわけで…
昨夜はひょいとしまなみ街道に乗って愛媛松山の道後温泉郷まで足を伸ばした。 どうも聞くところによると千と千尋の神隠しに出てくる油屋のモデルにもなっているんだそうな。 まぁそんなことはどうでもいいことなんだけど、温泉には入らずただ歩いただけでもなかなか趣があって楽しめた。 自分が住んでる尾道も観光地ではあるが、こちらの方が観光地としての格は上っぽい。 なにせ温泉があるからね。 土曜の夜ということもあってかなかなかの賑わいを見せていたよ。 そんな感じで帰ってきたのは夜中だったもんで今日はゆっくり昼からこうしてブログを書いている。 しかしずいぶんと暖かいね、今日は。 こんな日は昼寝がはかどりそうだ。 …
春の天気の良い午前中ののどかな時間にこうして自室でブログを書けることは幸せである。 何を書こうかというのは悩みではなく楽しみだ。 子供の頃に100円玉を一枚握りしめて駄菓子屋に目移りするほどに並べられたお菓子を吟味していた時のあの気持ちに近い。 色々と書きたい、今日はどれにしよう、というような感じ。 書くことを楽しむのはブログを運営していく上での基本中の基本だと思ってやっている。 この基本は別にブログに限ったことではなく、全てにおいて言えることではなかろうか。 楽しいという感情は素晴らしい。 積極的になれるし疲れを知らない。 何気ない一文にさえ趣向を凝らしたものにしようという意欲は、楽しいとい…
苦節三ヶ月とちょいにしてついに百記事に到達した。 一記事一戦として百戦錬磨となったネット上の物書きの飛躍はここから始まるのである。 ものを書くという行為は命のやりとりこそないが、真剣勝負であることにかわりはない。 その真剣勝負を百回もこなしてくればやはりなにか得るものがある。 実戦あるのみ そう自分に言い聞かせて生きる癖ははるか昔からの言わば教訓のようなものだった。 ただのその場しのぎな文章を書いたことはこれまで一度もないつもりである。 すべてはまずは閃きにヒントを得、そこから丹念に練り上げてきた愛着ある言葉たちだ。 紆余曲折、七転八倒に悪戦苦闘しながらもここまでなんとか辿り着いた今は三ヶ月前…
ニートの定義を仕事をしていない者とするならば自分は間違いなくニートなんだよね。 まぁ厳密にいうと世に認められた一般的なお金稼ぎの仕事はしていないだけで自分なりの仕事はしているんだけどもね。 でも隣近所の方々は間違いなく自分のことを無職のニートだと思っていることだろう。 それでいい。ニートでOKだ。陰でヒソヒソやってくれるのも大丈夫。 そもそも他人に雇われ、その価値観や常識というようなくだらんものを押しつけられるなんてことはまっぴらごめんである上に、物欲はないので金も生きていけるだけで充分というスタンスだ。 金は追いかけるもんじゃなくてついてくるもんだとの考えには賛成派である。 まぁ追いかけるこ…
自分の落ち度を落ち度として認められない人間は幼稚である。 自分が未だ未熟だということを認められない人間は雑魚である。 こうした言葉を冒頭にもってくるのにはそれなりの訳がある。 世間じゃ成り立つの意味を知らずに成り立ってもいないのにそのつもりな人間がゴロゴロ。 会社の社長のような組織を束ねるべき人間でさえもそんな感じなのがチラホラいることには驚く。 騙し騙し無理矢理まかりとおすのにはいつか限界がくることを悟らなければならない。 精神的な成長というものは自分がこの世を去る時まで必要なものなのである。 と、まぁそんなふうに思うわけなんだけどもね、 「何を偉そうにっ!じゃあそういうお前はどうなんだ」 …
散歩か事務所に向かう時と、誰かからお呼び出し電話があった時以外は基本的に家から出ない。 LINEやFacebookも一切やらないし電話をかけるなんてことは月に数回程度。 とにかく布団の中でくつろぐのが好きで、あの平日の昼間に布団の中でゆっくりとする読書の味ときたらそれはもう広島名物もみじ饅頭の如くに高貴な甘味がある。 小学生の頃は時々学校をズル休みして布団の中で漫画を読んだりゲームボーイをしたりしながら 「みんな今頃はなんも面白くない授業を受けながら苦痛に耐えてるんだろうなぁ、うふふ」 などと、少々の憐れみと大半の優越感とを感じながら親が近寄ってくると調子の悪げな小芝居の一つも打ってみせていた…
どうでもいいようなことを、如何にもどうでもよくない重要なことのように大袈裟に盛って書いていくのは少年時代にスーパーマリオに熱中した時レベルで面白い。 その文章に意味があるとかないとか考えることに全く意味はない。 ただ単に表現で遊んでいるだけの話であって最優先すべきは自分が面白いかどうかというところ。 好きこそものの上手なれという言葉が本当ならばこうして無目的に表現で遊ぶことも文章が上手になっていく一つの手段として大いに認める価値がありはしないかと思ってみたりもする。 ハープの音色がポロロンいうてスピーカーから鼓膜を心地よく刺激している。 朝からスヌープドッグを大音量で流すような下手は打たない…
昨日今日に始まったような青く成熟してない酸っぱいレモンの如くな我が儘とは訳のちがう、時を重ね熟成されたまるで晩秋から初冬にかけて軒下に吊るされた干し柿の外はモサモサ中はトロトロのあの感じに似た我が儘を嗜む無駄無し屋。 そういうモサトロな我が儘を好む酔狂な人間も決して多くはないが必ず何処に行っても一人や二人はいるもんだ。 そんな酔狂な人間達とだけ付き合いお互いが得をする関係を築くことが徳を積むことだと判断し、それを信じきり、実践している悪く言えば妄信的、良く言うならば崇高な我が信仰は現在進行形であって別に調子は悪くない今日この頃。 種を蒔いたら芽が出たなどと退屈極まりない表現なんぞに興味はない。…
雰囲気の良い飯屋にドライブがてら行ってきた。今日は疲れたので写真だけで。
タイトルに面白い話なんてつけてしまうと些か荷が重いようにも感じるわけだが、そこはとっておきの話をここに書き記すことで面目の躍如としたい。 さて、貧乏暇ありな自分の日頃の暮らしといえば、散歩、読書、ブログといった別段特筆すべきこともない平々凡々なものであるからして、そこからこのページを開いてくれた読者の皆さんを面白がらせるようなものを拾いあげることなどそう容易いことではない。 が、しかし、しいて挙げるとするならば、その精神的な営みであろうと自分では思っている。 では一体この平凡なる凡夫の暮らしの中において自分がどのような精神的営みに励んでいるのかをこれから書いてゆこうと思う。 まず、朝の目覚め。…
さぁてと、時間が来たので今日も駄文を紡いで一人悦に入るとするか。 なにを書こうかなにから書こうか、どっちにしたって大したもんなんて書けるはずもないんだから適当に行こう。 キーボードを打楽器さながらにリズミカルに叩くのが快感なんだけど、この叩くという行為は気持ちがいいね。 叩けば文字が起こってくる。 非常に面白い。 手書きは分からん文字をいちいちと調べながら書かんといけんのでちいとばかし面倒なところがあるが、キーボードで叩くぶんには変換してくれるのでスムーズな執筆が可能というメリットがあるね。 書いてて途中で文字を調べるなんて中断があったりすると、せっかくのいいリズムが崩れる。 文章を書くのにも…
Bluetoothのキーボードとマウスとタブレットがこのブログ執筆においての三種の神器である もしも自分がこのブログを始めていなかったならば、未だにアナクロニズムを、鎖国的スタイルを貫いていたんだろうな。まぁそれはそれでまた違った良さがありはするんだが。 しかしこれは自分の中ではある意味文明開化だと言うことができる。 それはある日突然に黒船がやって来たようなものだった。 今となってはこうして日々当たり前のようにブログを書いているけれど、ほんの三ヶ月前までは誰に見られることもない文章を黙々と原稿用紙に鉛筆で書き綴っていた。 一冊の本を出版しよう この一心で原稿用紙に文章を書き始めたのが去年の五月…
小学生の頃にドラゴンボールに感化されて風呂場でカメハメ波の練習をしてみたり、きんとうんを呼んでみたりは今となっては懐かしい思い出だ。 同じ頃、北斗の拳に感化されてある時ケンシロウが敵のハートに対して 「臭い息を吐くのはそこまでにしとけ」 的なことを言ったのを、 「これは使える!」 と、考えさっそく次の日に日頃から気にくわなかった先生に言ってみたところ、強烈なビンタが飛んできてひでぶー的に鼻血ブーとなったのも、また懐かしく、忌々しい思い出である。 感化されるということは影響を受けるということであるが、人間は常に何かに感化されながら進化してゆく生き物と言えるだろう。 間違った感化を受けると先に書い…
麻生太郎財務大臣の政治的手腕がどうなのかは政治に興味がないので知らないが、国会でのメロリンQこと山本太郎議員に対するこの発言には思わず手を叩いたよ。面白い。 麻生太郎が山本太郎に言った名言がかっこよすぎる 国会中継 - YouTube シンプルでいいじゃない。 一日が希望で始まり、感謝で終わる。 理想的だよね。 この問答は麻生さんのが一枚上手だったね、との感があった。 「この種の訳のわからん質問が来たときには…」という返しが個人的にはツボ(笑) まぁそれはそうと今回はじめて動画をこのブログに偶然アップすることができたんだけど、いいね、こういう機能。 やり方分かったからこれからもたまにはこういう…
たまには記事の書き貯めでもしようかね、と思っても、どういうわけか書けない。 一日に一記事しか書けないようになっているようなんだよね。 まったく不思議なことなんだけど、まあ、それならそれでいいかという感じ。 江戸っ子気質の宵越しの金は持たねぇ、と同じで宵越しの記事は書かねぇ、なんて表現しちゃうとなんだか格好いいような気もしてくるな、島っ子だけど。田舎の。 その日にしかない閃きをその日のうちに投稿する。 鮮度は抜群。 如何に駄文といえどもここまで書いてくるとそれなりのスキルもついてきてるんじゃないかと思ってもそんなに図々しく思われることもあるまい。 一文千金を目指して長い道を歩み始めて三ヶ月が経っ…
煙草をね、ぷかぁ~っと吹かしながらね、お気に入りの音楽を流しながらさ、熱いアール グレイでも飲みながらだね、こうしてブログで好きなことを書く。昼間からのんびりと。 こんな幸せなことってほかにもあるけどね、自分はこれ以上は別に望まないよ。 なんだろね、体に入れ墨とか入っちゃってて銭湯なんかも行けないし夏でも長袖じゃないと世間の目は冷たいけどさ、こうして自室で楽しんでる分には誰にも迷惑かけないし自分はこれで充分幸せだからいいんだよ、今回の人生はこれでさ。 いや、本当に人生なんてどうなるかわからないもんだよ。 20年前の自分にはとても想像できなかった未来が今こうして現実として目の前にある。 感謝 こ…
自分の表現方法は言葉。 このブログにおいては文章。 何を題材にし、それをどのような言葉を用いて表現するか。 題材選びは表現の自由によって、どのような言葉を用いるかは自由な表現によって成り立つ。 自分の書きたいことだけを書き、書きたい言葉だけを使って表現を完成させたい。 文章を書くに当たってのセオリーというか基本というものがあるのかもしれないが、自分は知らない。なにせ中学の成績表は全ての科目で5段階中のオール1。 工業高校に定員割れで入ったものの、途中で「やめてくれ」と、担任の先生に頼まれて中退。 以後、まともな勉強というものはしたことがない。 そんなレベルの人間である。 だから今、このように文…
こういうことを書いて多くの人からどういう目で見られるのかは大方の予想はついている。 それでも書くのはどうしてかと言えば、ただ多くの人が気づいていないことに気づいてるという優越感に浸りたいだけの自己満足だ。 性格の悪さは時として大きな勇気となるもんだ。 これから書くことについて馬鹿だと思う人は思ってくれて構わない。 こちらも同じように思うだけの話である。 まぁ、そんなノリの話をこれから書いていこうと思う。 神様がいるかいないか。 馬鹿らしい議論である。 正義が勝つという主張。 眠たい話である。 世界を争いのない平和なものにという考え。 はいはいである。 他人の為にが最高だという思想。 嘘をつくな…
良い自己暗示という営みほど理想の自分や環境を手に入れるのに現実的な方法もあるまい。 人間がその目や耳から受ける影響たるや良きも悪きも絶大なものがあるということを念頭において話を進めていこうと思う。 例えばこのブログを書くにしたって 「文章には自信がないしアクセスも集められないからとても自分のことをブロガーだなんて恥ずかしくて言えない」 などという自己暗示をかけてしまうと表現も消極的になり、面白いものはできない。 逆に 「自分はこうして毎日書いてる有能なブロガーなんだ。そのうち時代が自分に追いついてくるさ」 と、端から見れば素敵な勘違いと思われる位の暗示を自分にかけてしまうと、少なくとも消極的な…
今まで生きてきて宝クジを三回ほど買ったことある。 実は一等の三億円が当たったことがある というような嘘は昨日ならばエイプリルフールとして許されたであろうが日付が変わっちまった今日ではそういうのは人からの信用を失うことになるので止めておいた方がいいだろうな。 狼少年ならぬ狼中年だとかいう不名誉な通り名をいただいたんじゃ墓参りの際にご先祖様に顔向けができやしない。 宝クジを買って一時の夢を楽しむことはできたが夢は夢のままで三回とも終わっていったよ。 皆もそうだよね? いや、俺は私は高額当選の経験がある!などという生意気な主張は別に聞きたくないよ。 なぜならば聞いたところで自分の懐は温かくならないだ…
今日は新しい年号が発表されたしエイプリルフールとかいう訳のわからん風習もあって世間はにぎやかなのだろうか。 自分の暮らしは至って普通である。 昭和生まれはいよいよ生きた化石扱いになっていくんだろうなという危惧を覚えつつも、それならそれで老獪さを武器に若者に負けじとまだまだなんぞやらかしてやろうかなという気持ちはある。 自分が40代だなんて未だに信じられないところもあるが、そこは現実を見ていこう。 平均年齢でいうと人生の半分は終わっているわけだしね。 昔よりも一日が貴重に感じられる。 この貴重に感じられるところに良さがあるような気がする。 もしも不老不死の薬がドラッグストアーで手頃な値段で売って…
「ブログリーダー」を活用して、無駄無し屋さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。