あんまり人様からもてはやされるような肩書きを持っているわけではないのが幸いして、わりかし自由に人生を過ごせているし、発言も言いたい放題を許してもらえている。 その昔、ブルーハーブという北海道のインディーズのヒップホップアーティストが歌詞の中に 「美しさを保つために広がりを拒む」 という言葉を盛り込んでいたのを覚えているが、それには大きく共感したのも今となっては懐かしい話だ。 自分の人脈は10年前から大して広がってはいない。 スマホのメモリ件数ときたら20件をきるほどだ。 友達が少ない可哀想な奴だなんて同情はいらない。 なぜならその20件弱のメモリ、つまり人脈で充分事が足りているからである。 他…
郵便局へ行って来月の支払いを済ませて来た時のこの安堵感。 支払いを済ませた後はじつに気持ちがいい。 なんか自由になった感じ。 この感覚の虜になっているが故にあえて貧乏に暮らしているというような主張も成り立たないことはない。 物は言いよう、とはまことに言い得て妙である。 主観純度100%の駄文でも80記事ほども書いてくると、どこからともなく自信というのも生まれてきて、自分もいっぱしの物書きじゃないかというようなわりと図々しいことを考えだす節があることも自覚していながらそれを隠そうともしないあたりが無駄無し屋たる所以だろう。 う~ん…今日事務所に客人が来ていたのだけど、ウチの駐車場にあまり似つかわ…
タイミング フットワーク スピリット イメージ バランス この五つの要素のトータル、つまり総合力での勝負なのである。 他人を動かすのにも色々な手段がある。 しかし大きく分けると 魅力か恐怖か の二通りになると思っている。 金や納得は魅力の類いであり、権力や暴力は恐怖の類いとなる。 動かす側はどちらでも人を動かすことは可能であるのだから、これはもう好みの問題と言っても間違いではない。趣味が良いか悪いかだ。 しかし動く側に回ると、どちらが良いのかは議論の余地はないだろう。 よほどの変わり者でもないかぎりは、恐怖の檻の中でビクビクしながら動くよりも、魅力の泉の中で優雅に泳ぎたいはずだ。 動かす側と動…
化ける、という言葉にはどこか魅力的な響きがある。 女は化粧で美しく化けるし、何かもよく分からないで安く買った骨董品がオークションでとんでもない値に化けることがあるし、それまでパッとしなかった人間が何かのきっかけで後光が差すほどに輝きだし、井の中の蛙が鳳凰に化けるということだって稀にある。 化ける可能性を感じる物や人を化ける前に発掘し手元に置いて、と言うたらば人間に対しては些か失礼にあたるのかもしれないが、とにかく原石の状態から光輝く宝石となるまでの過程を観察するのが一つの趣味なのである。 逆に言うと、化ける可能性を感じない人や物には興味が湧かない、というのはあまり声を大にして言えることではない…
突然だけど、飛行機が嫌いだ。 いや、これでは少し説明が足りないな。 地に足が着いてなく、もし途中で機体の様子がおかしくなってもなす術なく恐怖に戦きながら念仏を唱えるしかほかはないような状況になる可能性がある移動手段としての飛行機が嫌いなのである。 嫌いというか怖いのほうが正しいね。 一度だけ沖縄に行くときに乗ったことがあるけれど、空港で滑走路から離れて飛び立っていくのを窓から眺めていたけど、もう生きた心地がしなかったね、まじで。 羽根とかグラグラ揺れてていきなりちぎれて大変なことになっちまうんじゃないかとヒヤヒヤしたよ。 何時間乗ってたのか知らんけど、あれで三年は寿命が縮まったんじゃないかと今…
段々と季節は春の模様を呈してきている今日この頃。 春には新しい芽が出てきて生命の息吹を感じられる、 期待に胸を膨らませることが可能な一種独特の高揚感がある。 嫌いな季節はないけれど、春には春にしかない良さがある。 だから春を目一杯楽しみたい。 自分の現実世界においても、新しい芽が出そうな感じがチラホラ見てとれる。 こういう時は、植物を育てたことがある人は解ってくれると思うけど、手放しでまずはその新しく出てきた芽を喜びたいと思うところから全てが始まってゆく。 春というものはそういう気分から始まってこそ春である、とまで思ってみたりもするほどだ。 芽が出さえすれば、あとはその芽に適した栄養と環境を与…
世の中の宗教や、大成功を納めた実業家などを見ていると、 あたかも自分の行為が神聖で崇高なものであると信じきっているような感じを受ける。 その行為が一般的に見てどうであろうが、とにかく自分の行為を正しいと信じることは理屈、道徳すらも蹴散らすほどにつよい。 これもこの世の中に無数にある法則の中の一つではないかと思っている。 この国では信仰という言葉、営みに対して否定的に捉えられることが多い。 全てを信仰=洗脳という間違った捉え方をしている人が少なくない。 しかしそうした洗脳を嫌がる人の殆どが、自分がテレビや広告やその他の情報に洗脳されていることに気づいていないのは些か滑稽ですらあるように感じる。 …
どういうわけか、事務所に珍品、珍獣が集まってくる。 珍獣というのは、珍しい気質を持った人のことである。 考えられる法則といえば、類は友を呼ぶというものくらいだ。 まあ、自分がそもそも珍獣なのであろうという結論には既に至っている。 先日、友人からホーロー看板なるものをいただいた。 どうやら未使用のようで錆び一つなくピカピカだ。 この時の自分の心の中に沸いた感情といえば、まず、嬉しい。 それからほぼ同時にこのあまりにもきれいな状態に対して、 「怪しい」 正直なところ、こちらの感情のウエイトのほうが上回っているように感じた、友よごめんなさい。 この手の物に、復刻版のようなものがよく出回っているのは古…
ブログを書く人のことをブロガーと言うらしい。 なんだかあまり好ましい語感ではないな。 物書きの方が良いな。 物書きの端くれ。 うん、これが良い。なんかだしっくりとくる語感である。 これからは自分のことを物書きの端くれと呼ぶことにしよう。 自分は別にこの世界で一番を目指しているわけではないけれど、唯一無二は目指している。 稀少価値を勝ち取る為に。 世間に認められるか否か。 そこが無意味なことだとは思わんが、そこが最優先ではない。 自分の納得がいくか否か。 そこが最優先事項である。 自分の納得のいかないもので評価されたとしてもそれは別段愉快なもんではない。 逆に世間に認められまいが、自分が納得のい…
小学二年生の時の通知表の備考欄のところにこう書かれたことがある。 「先生の揚げ足を取って困らせないようにしましょう」 勿論、親には手拳で殴打され性根を入れられた。 「いらんこと書きやがってこの糞野郎が」 とまで当時の自分が思ったかどうかは記憶にないが、おそらくそれくらいの感情は余裕で持つだけの反抗心は持っていたような記憶はある。 それでもめげずにコツコツ且つ的確に先生の揚げ足を取り続けた、向こうからしたら忌ま忌ましい糞餓鬼であった自分も、今やその忌々しさにも研きがかかってきて、グラデーション的に、寧ろ清々しさすら漂わせるに至ったことに、ある種の到達感を覚える。 もしもあの時、備考欄に憤慨した親…
今日は暖かい、ウグイスが窓の外で鳴いている。 こういう季節の風物詩が身近に感じられることに贅沢感を感じる。 自然と触れ合うことは心身共に悪くはないはずだ。 夏に蚊に食われたり、ムカデが部屋に侵入してくるのはちと困り者だけど。 エネルギーを貰えるというか浄化されるというか、とにかく本能的に良いと感じる。 いわゆる第六感という本来人間に備わっているのにもかかわらず、退化もしくは埃を被っている状態のものに、刺激を与え、埃を振り払う役を自然が担ってくれているのではなかろうか。 と、考えるというか感じるというか、まあ実感としてある。 因島というところに住んでいて、そこは周囲は海に囲まれて、緑もわりかし多…
生きていると辛いことがある。 一日の内に辛いと思うことは平均して10回はある。 今日はもうすでに8回辛いと思った。 おそらくあと2回は辛いと思うことが起こるだろう。 大好きなモンブランのケーキが母親に食べられていた。 それが本日8回目の辛い出来事だった。 まぁ、罪を憎んで人を憎まず。 と、こうして書いている最中に9回目の辛い出来事がやって来た。 タバコがきれた。 別になくても手が震えるような症状はないが、あればあったほうのがいい。 残念だと思いながら灰皿を漁りシケモクに手をつける自分を客観的に見たときに、 本日10回目の辛いと思う感情をめでたく迎えることとなった。 人生は辛いことだらけである。…
自分が見て縁起の良さげな物を持つことは精神衛生上すこぶる良いことだと思っている。 物じゃなくても、迷信の類いでもなんでもそう。 信じて当たるうちはそれを信じ続ければいい。 占いにしてもそういう付き合い方ならありだ。 自分にとって都合の良いことだけ信じる。 信じることによって得られる何かがたしかに存在している。 こういうのはあながち馬鹿にはできない。 物とか迷信とか占い自体がどうこうじゃなく、信じるということに力がある。 何かを成し遂げるのに信じる力は主戦力となる。 目に見えないものを信じるには生まれ持った資質か修行が必要なところもあるが、 目に見える物ならば幾分敷居は低くなる。 だから縁起の良…
不平を言えば、まあいくらでも思い付くことはあるけれども、そこは前向きに、自分は恵まれた星のもとに生まれた幸運な人間だというふうに思うことにしている。 何を根拠に自分が恵まれていると思うのかと言えば、一日に三度の飯が食え、寝たいときに寝れて、起きたいときに起きれる、と、こういうことが根拠になっている。 上を望めばキリがなし、これだけ叶えば後のことに文句をつけるのは贅沢なことだと思うことができるのも、その根拠の一つに数えることができる。 自分の外見や持って生まれた性質、生まれ落ちた環境などを恨んでみたところで、どうなることでもなし、そこに意識を向ける時間があったらほかのこと、今や、これからのことに…
陰徳(いんとく)あれば陽報(ようほう)あり という言葉がある。 意味は大体、人知れず良い行いをすれば良いことが起きるといったようなもの。 これは精神世界でもあり、オカルトであり、非科学的な言葉である。 これを実験してみたことがあり、効果を認められたので、今でも実践しているお勧めの行為だ。 人知れず良い行いをするということは、たとえば他人に親切にしたとしても、それを気づかせないように行っているので、お礼も感謝されることもない。 これでは面白くないと本音では思う人も多いのではなかろうか。人間とはそういうものだ。 いや、自分はそんなことはない、と思った人は素晴らしい。既に仏である。 自分なんかは俗物…
社会的にはほぼ引退し、素朴で自由な暮らしを手に入れて一年と三ヶ月が経つ。 そんな生活にもこうして二度目の春がやってきた。おめでたい。 この状況の継続もしくは向上こそが、自分の、天の恵みと導きという一種の信仰をより強くしてくれる格好の材料となる。 この暮らしを手に入れて、たかだか一年とちょっとでしかないが、最初に自由を求めてから、そこへ辿り着くまでには十年…、いや、過去を遡る話はやめておこう。 それはもっと影響力を持つようになってからのが望ましい。 うまいこと影響力を持てるといいが。 今とこれから。これしかない。特に今。 ところで自分はよく自分を実験材料にしていろいろな研究をするのが好きだ。 科…
場合によっては謙虚なフリもするけれど、基本的には自己中心で厚かましく、図々しいというような自分の性質上、あんまり物事にウジウジと悩むことがないのは幸せなことだ。 なんかあったらすぐ開き直るというこの単純明快なる思考回路は持って生まれたものらしい。 遺伝子に感謝しなくては。 他人に面倒な奴だと思われることは、面倒を避ける為の一つの有効的な手段であると思っている。 自分が仲間だと認識している人間以外にどう思われようが無頓着。 全ての人に愛を、なんて高尚な思想は持ち合わせていないし、またそれが必要だとも思わない。 眠たい話は好きじゃない。 自分は森にひっそりと暮らしている妖精でもなけりゃ、悪人が一人…
朝からいい音楽を聴きながらブログを書いてるよ。 なんて贅沢な一時だろうと思うことができればしめたもんで、筆がはかどることとなる。 内容なんて別に何でもいいね。 気分が乗ってる時には何を書いてもいい文章ができてくるからね。 ここは表現の場であると自分は解釈しているもんで、色んなスタイルの表現をその日の気分で使い分けたい。 まあファッションが好きな人が、クローゼットを開いて今日の衣装は何にしようかと思うのと同じような感覚だと思ってもらいたい。 あえて一つの、自分はこういうスタイルだ、という主張をするとすれば、 それは一つのスタイルに拘らないという拘りがあるということ。 自分の色んな面を楽しみたいね…
どこまでゆけるものか、それは誰にも分からない。
宗教、というジャンルは嫌いじゃないんだけど、その語感はあまり好きじゃない。 なんか宗教なんて言葉を口に出しただけで煙たい顔されるようなイメージがあるんだもん。 大体、この国で宗教が煙たがられるのはその教義内容云々に対してではなく、その教義内容を扱っている人間が胡散臭いからなんじゃないのって思っちゃうんだよね。 まぁあるいは国民性というのもあるのかもしれないけど。 そんな中にも真面目にやっている人はいるんだろうけど、それはごく少数派に留まるのではないかとの見解を自分が持ってしまっていることは残念だよ。 寺の住職の堕落ぶりにはがっかりしないわけにはいかないね。すーぐ事件を起こす。 それに車屋の友人…
たとえば文章を書くのも絵を描くのも車をカスタムするのも洋服をデザインするのも、基本的な姿勢、心がけというものは共通するところがある。 あんまり横文字につよいほうではない自分でも、クリエイティブという単語くらいは知っている。 つまり今挙げた行為はすべてクリエイティブな営みという処で共通点が見出だせる。 自分はこうして今ブログサービスを通じて文章を書いているが、友人には絵描きもカスタム屋もアパレルブランド背負ってる人間もいる。 表現の手段は違えどお互いを刺激しあえる良い関係だと思っている。話が合うしね。 そんな仲間達の中では自分が一番スタートが遅かった。 まず、一足先に土俵に上がって七転八倒しなが…
たとえば、三日間風呂に入ってない人の脇の下の臭さというのは好みではないけれど、人間が醸し出す、体臭とは違う、どう表現すればよいのか雰囲気とでもいうべき人間臭さというものはめっぽう好みの部類に入る。 伝わっていなければ残念であるが、とにかく、甘かろうが辛かろうが苦かろうが、味のある人間が好きということを言いたいのである。 味気のない料理は病人か囚人か修行僧だけが義務的に口にしなければならない、いわば招かれざる客のようなものだ。 健全でいて謙虚を美徳とする我々善良なる一般の日本国民はビフテキ、もしくはカップラーメンなどという、これでもか、と味のするものを好むのが普通ではないか。 それと同様にとなる…
今日は朝からずっと雨だもんで、一日中机の前に座っている。 本を読んでみたり、ブログを覗いてみたり、鼻毛を抜いてみたり、今日の晩飯を予想してみたりと、幸い暇をもてあますということはない。 曜日の感覚というものはすでに失われて久しい。 半世捨て人的生活に曜日の感覚はお呼びでない。 ついでにいうと時間の感覚も一般の方々に比べると乏しいと言える。 腕時計は三年前に人にやったし、部屋に時計は置いていない。 日に2、3度スマホで時間を確認するくらいのものだ。 スマホといっても使い方はほぼガラパゴスケータイと変わらない。 つい2年前まではガラケーとはガラクタケータイの略だと思ってた。 FacebookやLI…
と、いうことで、 「たまには馬鹿の一つも言わないと、儒学でいう処の中庸の精神に反することになってしまう」 という危惧の念が僕をこうした方向へ誘うことには大いに賛成だ。 元来、根が馬鹿に出来ているのをどうにかなるべく上手に世渡りができるようにと、日々がんばって多少の無理を押してでも脱線しがちなこのやっかいなタチの軌道修正のつもりで、まともなふうなことを言うてみたり、書いてみたり、考えてみたりとしているだけのことである。 馬鹿とはそもそもなんぞや?という疑問から始まるのだけど、ちょろっと辞書を引いてみたところ、こう書いてあった。 頭のはたらきがにぶいこと。 頭のはたらきがにぶいこと、だと? なんだ…
自分にはすでに若さというものはない。今年で四十二。 だがしかし、想像していたのと随分違って案外楽しい。寧ろ、これからが人生の本番だとすら思っている。 ところで若い時の経験は成功よりも失敗のほうが自分の中では価値が高い。 若い人は色んなことに勇気をもって挑戦し、大いに失敗を経験すればいいと思っている。 世界は広く、奥は深く、人生は長い。 今の時点での大きな悩みは、時が過ぎれば小さな笑い話となることも少なくない。 それなりに経験を積んだ今でさえ、十年後の自分から見たら、まだまだ青いと映るだろう。 友人の一人に九十三才のお婆ちゃんがいる。 お婆ちゃんというには申し訳ないほどにテキパキとした人だ。 半…
自分は、どうしても、とまでは思いはしないが、なるべくならば一日一記事を、と心がけてこのブログと向き合っている。 ネットを見ていると、この一日一記事にも賛否両論あるようである。 まぁどんなことでも満場一致とはならないのが、世の中というもんだ。だからこそ面白い。 結論から先に言うたほうのがどうやらいいらしいので、ご多分に漏れずそうするが、自分の感覚では毎日とにかく書いてみて、ある程度記事が貯まってきたらば、そこから取捨選択をすればいいのではないかと思うている。 一日一記事否定派の意見としては 「中身の薄い駄文をいくら書いても無駄」とか 「別に毎日更新に拘らず、自由に書きたい時に書けばいい」というの…
今日は一日雨だった。 昼を過ぎて図書館へ行った。 これといって読みたいものがあった訳ではないけれど、まぁ暇だったもんで足を運んだ。 いつも思うが図書館というやつは金はかからんし、本など一生かけても読みきれんほどの数があるしで、自分にとっては最高の場所の一つである。 ずらりと並んだ本棚の前に立つ。 すると今日に限ってあることを実感してしまった。今更ながらに。 どんなことを実感したのかといえば、こんなことを実感したのである。 並んである本を見て、まず最初に目につくのは作者の名前とタイトルだ。 ある特定の作者をめがけていく時には、勿論その名前で探す。 しかし今日のようにそうじゃないときの判断材料とい…
今日は何を書こうかなあ、なんて呟きながら今こうして文字を打ち込んでいる。 毎日こうして更新してることは、それだけでスゴいことだと思ってもいいんじゃないのか? などと考えながら今日のインスピレーションを待つ。 考えてても何も始まりそうもないので、とりあえずタイピングを始めてみる。 文字が打ち込まれていくと、思考のエンジンがかかってくるような気がしてくる。 少しはこのブログというやつにも慣れてきたようにも感じるな。 余裕が出てきたとまではいかないまでも、感覚というかなんというかそういったものが多少なりとも掴めてきた。のだといいのだが。 文章を書くという行為は会話とは違って、一方的なところがあってな…
皆さんは情熱というものをお持ちだろうか? 死ぬまで情熱という聖火を灯し挑み続けるチャレンジャーでありたいと思っている。 もしもその灯が消えてしまったとしたら、それは挫折を意味する望まざる結果だ。 だからどういう局面に立たされたとしても、これだけは死守していかなければならない。 それは雨が降ろうが、風が吹こうが、小石につまづいてスッ転んでしまおうがである。 燃え尽きることなく静かにメラメラと燃え続ける炎をイメージし続ける。 それはもはや神聖でいて崇高な輝きを放っているかの如くにね。 誰にも消すことなどできはしない不屈の炎。 そんな無敵の原動力を誰もが手にする権利を持っている。権利は平等だ。 金は…
人生においては、「天の恵みと導き」というシステムが存在していて、それぞれに応じた恵みや導きが与えられている、というと皆さんはどのような反応を示すのだろうか。 ある時から、このように感じるようになり、それまでの人生を振り返ってみても色々と辻褄が合うことから、これを認めることにしている。 これは非科学的な視点から見ると、一種の信仰であるとも言えるし、科学的な視点から見るとシステムであるとも言えると思っている。 つまり天とは、ある意味で[神]と表現することもできると思うが、自分は、現時点では人智を越えている、現在の科学ではまだ裏付けることができていないシステムであるというふうに解釈している。 呼び方…
こう立ち回ればこういう印象を他人に与えることができる、などと常にしたたかに考え続けているフシがある。 言わば自分の魅せ方というやつかね。 唯一無二という称号を現実世界では手に入れた。ご満悦だ。悪くない。 できれば死ぬまでそう呼ばれ続けたいとつよく願っている。 ところが図々しいことに現実世界だけでは飽き足らず、今度はネットの世界でもそう呼ばれたいと望むに至る始末なのである。アグレッシブでいいじゃないかと自画自賛する。 誰にも書けない自分だけの文章。 このブログの世界の住人であれば、誰もが求めるものなんじゃなかろうか。 求めるが故に精進する。苦労する。思い悩む。 結構なことだ。大いに七転八倒四苦八…
今日は親しい友人から朝の7時に電話があり、事務所に迎えて遊ぶことにした。 二人で事務所の炬燵にもぐり込んで会話を楽しんだ。 その友人は古いマスタングという車を持っていて、それをすこぶる愛しているようだ。 文字通り、愛車である。古いだけあって、あっちが壊れ、こっちが壊れとするみたいで修理をするにも部品がなかなかないとかで大変みたい。 しかし彼はその古いマスタングという車を愛している。 いつかの誕生日に先輩からプレゼントされた物みたいである。プレゼントに車というのも、なかなか面白い。 そんな彼が炬燵にもぐり、話の中でこんなことを言う。 「物にも魂が宿るということも聞くけれど、お前どう思う?」 きっ…
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