2度目の芸大入試を終えた後、僕はこれ迄の件で大学事務へ話をしに行った。 僕は1~3年生までの間で、多くのトラブルに見舞われていた。 そのことを、大学事務の偉い立場にある人も多少は知っている訳である。 そのことで、これから何等かの対応はして貰えないのか、して貰えないのであれば、この足で大学を相手に裁判を起こす準備を始める、と伝えた。 僕の言葉に、対応していた事務員は「君の状況がよい方向に向かうよう、必ず対処する。」という約束を最初にしながら、この件ですぐに話をする事となった。 僕は大学の組織的なものは全く解らないのだが、これからの対処で大学事務は動くけれど、それでも日本画の教員達が善処する行動を…
中止・延期になった展示 中止になった展示です。 アートギャラリー『ねこの引出し』さんで、今月の24日から開催する予定だった『公募おひろめ展』。 そこで、今回は僕も油絵を出品する予定でした。 ↑画像は僕の描いた油絵で、 『大福の妖精(大福ちゃん)』 です。 コロナ問題がこれから集束すれば、展示は7月くらいになるでしょうが、難しいでしょうね。 これから大福ちゃんについて少し書いてみます。 元々は、展示が始まったら書いていこうと思っていたことで、中止とはいえ展示の開催期間がきたことで、完成の画像も含めてここに公開することとしました。 大福ちゃん この大福ちゃんは、Facebook上の友達である小野加…
M先生のアトリエ 洋画のM先生のアトリエについて、M先生は自身のことや雑談ばかりをする。 M先生の話の区切りをみて、僕は本題に切り替えていく。 僕がM先生に語った話というのは、このブログで書き綴ってきた内容物と同じ性質のものだった。 しかし、M先生は僕の話を途中から聞こうとしなくなり、それでも僕が話を続けようとすると 『これ以上君の話を聞いてしまうと、俺は日本画の先生と喧嘩しなくてはならなくなる!』 といって怒り始める。 その事に、僕がどう言葉を返していこうか考えている時に、M先生はこんな内容の話を語り始める。 『M先生は、僕の話を最後まで聞かなくても、大体の内容は解ってしまったという。 M先…
洋画のM先生 芸大受験の半ばから終わりにかけて、母から電話が来ていた。 その内容というのも、前回に母とした電話での喧嘩が関係している。 その喧嘩の最後、僕は携帯電話を床に叩きつけて壊した為、新しい機種を購入する迄は、母から僕に連絡をとることは出来なかった。 その喧嘩の後に母は大学事務へ連絡し、大学内で起こっていることを調べて報告しなさい、という主張をしていた。 それから大学事務がやろうとしていたことは、大学の教員内で『学生生活部長』という役職についている洋画のM先生と僕とで会話をさせ、そこで状況を把握しようとしていた。 僕は、学生生活部長というものがどういうものかは解らないが。 説明を聞く限り…
前回に書き綴った宮崎勤の事件は、1988~1989年のことで、劇場版マクロスは1984年に公開されたもの。 宮崎勤の話は、ちょっと脱線しちゃった感じかな。 まぁ~宮崎勤の件があって、漫画やアニメは見ない方が良いとか、見すぎると馬鹿になる、という感じのイメージも一部であったなかで。 それでも僕は漫画やアニメが好きで、もし抑圧された環境が出来ても、好きな気持ちは棄てられなかっただろう。 漫画やアニメが好きな人は、みんなそうだったんじゃないかと思う。 漫画の話を語ろうとすると、際限なく色んな話が頭に浮かんできて、書きたい話は幾らでも出てきてしまうもので。 話が広がるばかりで、なかなか話がまとまらずに…
今回の話も、省いた方がいいのではないかと迷いながら、やっぱり書いてみようと思う。 タイトルに漫画と書いているけれど、アニメ等も含めた話とするつもりでいる。 超時空要塞マクロス 芸大受験であちこちまわっていた時のこと。 何気なく行った銭湯内のサウナでは、ラジオが流れていた。 そのラジオでは、飯島真理という女性が、昔のことを幾つか語っていて、僕は何気なく話を聞いていた。 飯島真理という女性は歌手ではあったけれど、僕はその名前さえも知らなかった。 それから話を聞いて、その歌手が歌った昔のアニメソングが流れてくると、色んなことを思い出し、涙が溢れてきた。 その時の曲は、劇場版アニメで『超時空要塞マクロ…
ひとつ目の受験 受験した三校とも、一次試験は石膏デッサンだった。 今の芸大の流れはどうだかは知らないけれど、この年も毎年恒例の流れ通りだった。 そのなかで、東京芸術大学だけは、石膏像に黒い布が被さて出題される。 これも東京芸術大学の例年通りの出題なのだが、僕は石膏に布の掛かったものを描いたことがなかった。 見たことのない初めてのものであっても、僕は何でもデッサンは出来ると思っていた。 でも、この時に描いた石膏と黒い布のモチーフはデッサンとしてまとまらず、時間切れとなった。 そうして時間終了と共に、自分で一次試験は通らないことを把握した。 日本の美大・芸大のなかで一番の難易度を誇る入学試験で、作…
美大受験 平田先生が亡くなっていたことを知ってから一ヶ月以上、物思いにふけるばかりで何もしていなかった。 それから我に返り、これからやらなければならないことを整理して考える。 日本画の未提出課題が幾つかあり、それについては一応は全部やる。 この時期になってしまったなら、やっつけ仕事や納得のいかないものになろうと、関係はない。 2年次の学年末から、3年次のこの時期も似通った状態になることは予想できていたから、気持ちの割りきりはできている。 (とはいっても。割りきれていなかったから、教員達の意見を聞こうとしたり、制作に時間をかけてしまい、提出期限に間に合わなかった訳だが。) 前以て予想していただけ…
物思い 北海道から愛知県の住まいに帰ってきて、ひと月くらいはボーとしていたのだと思う。 食べるものも飲むものも、全く口にせず、物思いにふけていた。 平田先生が亡くなってしまった。 本来ならば平田先生が亡くなる前までに、僕はそれなりの力をつけて、何かしらの実績をあげていくつもりでいた。 平田先生は不器用ながらも絵に打ち込んできた人だけど、それらしい実績はあげてこれなかった人だった。 その教え子として可愛がられていた僕が、幾つかの実績をあげていくことで、平田先生の他界前に、人生のなかで、充実していた部分もあったと思って貰いたかった。 僕が本来、そのような状況に持っていくべきだった時期といえば、大学…
北海道のラーメン 平田先生の自宅に行くと、先生の奥さんがでてきた。 浪人時代に一度だけ会ったことのある先生の奥さんは、以前会った時よりも明らかに痩せていた。 僕が平田先生に会いたいことを伝えると、「もしかして、年賀状をくれた方ですか?」と聞かれた。「そうです」 そう伝えると、奥さんは先生ではなく義父さんを呼んでくる。 それから改まって、平田先生が昨年に亡くなっていたことを伝えてくれた。 その話を聞いていて、平田先生が亡くなっていたことには驚いた。 でも、先生の死を知っても涙が出る訳でもなく、悲しみで溢れる訳でもなく、自分が普通でいることの方が驚きだった。 そこからはあまり会話もせず、先生の為に…
北海道の実家へ 大学へ入学してから、はじめて実家へ帰ることとなった。 時期としては、8~9月の夏休みだったと思う。 通っていた美術大学は愛知県で、そこから北海道への移動には、それなりのお金がかかる。 それまでの母は、正月などに帰るように言ってきてはいた。 なかなか帰らない僕としては、移動の為の飛行機代をケチっていた部分もあるけれど。 実はそれ以上に、年末年始や長期の休みであっても、教員達との課題のトラブル件で、実家に帰ってゆっくりする余裕を作ることは出来なかった。 自分の学んでいる絵や大学の課題に対して、適当に考えて割りきっていれば、こうはならなかっただろう。 色んな問題で噛み合わないまま、そ…
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