誰にでも、もて期というものがあるという。どうも、おれにもそんな時期があったようだ。といっても、ほとんど自覚はなかったのだが。会社勤めをはじめて間もないころ、どうも客先でもてていたらしい。 「こないだの合コンどうたっだんですか」「ああ、あそこはだめだよ」「へぇ、何でですか?」「何でって。おまえの人気が高すぎるんだ」「冗談でしょう」「いやいや、おまえの物まねとかして盛り上がったりするんだよ」 おれのいないところで、色々あったらしい。おれ自身に対するアプローチは、ほとんどなかったけれど。客先で作業していたときに一度話しかけられたことはある。それくらいで。そもそもおれは、情けない話ではあるが、おんなの…
それはおそらく、滋賀県の片田舎であったように思う。もしかしたら、違ったかもしれない。単線の電車にのり、その駅についた。なくなったのは冬であったが。その時はもう、夏になっていた。全ては手遅れであったのかもしれないが、ではいつであればよいというものでもない気もする。寂れた駅前には、花屋があった。「おれは薔薇の花を買ってゆくけれどおまえはどうするんだよ」彼の問いに。おれは、ぼんやりと頭を働かせる。「そうだな。おれも何か花を買うよ」おれは結局霞草を買って。紅い薔薇の花とともに。目の眩むような夏の日差しの元を歩き。鬱蒼とした林の中にあるその墓所で。花をささげたのである。 おそらくその時、雨が降っていたの…
僕は、その薄暗い部屋のなかで。愛するひとを腕にだきながら。ああ、一体このひとはそれにしても誰だったのだろう。そう思いながら。こころの底の闇の中を。ただひたすら手探り続けるのだが。腕の中のそのひとの。美しい花びらのような唇も。黒い太陽のように闇色に輝く瞳も。残酷に忘却の帳が僕を覆ってしまい。ただ、愛しているという思いだけが、そこに残るのだが。同じ文字を見つけ続けていると、そこから意味が抜け落ちてゆくような気がするのと同じで。僕の愛も。まるで砂を手にしたようにさらさらと。さらさらと流れていって。それすら僕から失われてゆくようで。ああ、そのとき僕に蘇った記憶は。 あなたは、抱きしめようとする僕の中か…
おれ自身にもっとも近しい存在とは。結局のところそれは痛みであり。それは恐怖であり。それらは、幾人もおれから離れていったひとびとはいるが。ひとり残ったおれのもとに。兄弟のように。恋人のように。そっと寄り添い。つきそい続けたのだ。 ヒルデガルド・フォン・ビンゲンについて。さて、一体何を語ればいいのだろうか。ただその楽曲の美しさに触れさえすれば。既に十分とも思えるのではあるけれど。ヒルデガルド・フォン・ビンゲンは常に病とともにあった。彼女にとって生きることは病とともに苦痛とともにあることであった。そしてその苦痛こそが。彼女にヴィジョンをもたらした。 「しかし彼女は生来非常に病弱な体質で、終生自由に歩…
若き日のおれが最ものぞんでいたものは得られなかったのだが。まあ、そのむくいのようにぐだぐたの生活を一時送っていた。単に働いていただけといえば、そうなのだが。特に目的も希望もなくまあ、ゾンビのように。昼夜を問わず徹夜の連続で仕事をしていた。出口のない暗い道をただひたすら歩いているようなものだったが。そうしていることで、望んだものが手に入るかもしれないという。勘違いを生きていた。 それは春先のことであった。そのころはまだ窓の外に桜の木があり。薄い血の色に染まった花びらが雪のように舞い。徹夜続きで陽が夕刻には部屋を赤く燃え上がらせるように染めるその部屋で。おれは横たわっていたのだが。疲労しつくしてい…
おれは過ちをいくつも犯してきた。そして。今もさらに積み重ねていこうとしている。そんなことは、今更なのだが。かつて、過ちについて、このようなことを語ったことがある。 「過ちとは、量子力学的なふるまいをする事象だと思う。個々の愚かな行為を行っている間、そのときの行為はシュレディンガーの猫が生と死が重なりあった状態にあるように、それはまだ過ちとは決定されていない。でも。愚かな行為が積み重ねられ、それが自らの重みで崩壊して誤りと決定された時。愚かな行いだけではなく、積み重ねられた全てが過ちの自壊へなだれこんでいく。コヒーレントに重なり合った波動関数が量子重力の崩壊で、一意に局所実在化するようなものだ。…
7年ほど前の話である。毎晩終電車が過ぎ去ってから仕事場より帰るのが通例であった。まあ、忙しかったのである。電車がなければ、必然的にタクシーに乗って帰ることになった。確か1号線沿いを通って帰ったように思う。広く長い真っ直ぐな道は深夜を過ぎると車の通りもへり、ビジネス街も暗く闇に沈んで行くせいもあってか、どこか夜の河のようでもあった。おれは、タクシーをその夜の河を渡る船のようだと思いながら、黒く闇に溶け混んだ街を眺めていたものだ。その日。闇の中から大きなトレーラーが、海の底から海獣が浮かび上がるように姿を現したのを見た。始めはそれはクレーン車を積んでいるのかと思ったが。薄明かりの中で影のように浮か…
子供のころの話である。まだ小学生の低学年であったころ。なにかと血塗れになるような怪我ばかりする子供であったようである。頭部に傷を負うことが多く。額に何針か縫うような傷をよくおっていた。今では、特に傷跡も残っていないようであるが。小学生のころは額に傷跡があったため、なんとなく前髪をたらしてそれを隠していたらしい。幼い日の記憶がいいかげんなので定かではない。だいたいが、不器用で臆病な子供であったらしく。特に危険な遊びをしていた訳ではなく。普通に遊んでいて、全身血塗れになるような怪我をしていたようなので。まあ、ある意味怪我する才能があったのかもしれない。怪我をしたとき、本人はただ茫然としていただけの…
10年ほど前のことになるだろうか。おれは、タブレット型のパソコンを使っていた。後にアップルがipadを売り出したときには、随分懐かしいものをひっぱり出してきたものだと思ったが。それにしても、パソコンを携帯電話として売るとは、たいしたものだと思った。それはともかくとして、おれは結構そのタブレット型のパソコンを気に入っていたので、長い間使っていた。ただ、ジャンク品として安く売られていたものを買って自力でリストアしたしろものだけに。とてもスペックが低かったため、ネットに繋がなければそう問題では無かったのだが、いざネットに繋ぐとなると。アンチウィルスのソフトや、ファイヤーウォールに、アンチスパイウェア…
その図書館は、書物の迷宮のようであった。建物自体はそう大きいわけではない。けれども、幾重にも折り重なるように配置された書架は、まるで僕を袋小路へと誘い込んでゆくようだ。その本で作られた森のような図書館の中につくられた、森の空き地のような読書スペースに僕はなんとか辿り着くと本を開く。腰をおろして本を読み出すとようやく気がつくのであるが、以外とこの図書館はひとの行き来がある。本の作り上げた海の底を静かに遊弋していく魚のように、ひらりひらりとひとが漂っていった。また、物思いに沈むように、書架を前に本を読み耽るひともいる。秘密の話を囁き合うような声で、本を前にして語り合うひとたちもいた。僕は、自分の選…
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