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  • 百物語 二十九回目「綱渡りの夢」

    おれはかなり綱渡りの人生を歩んでいる気がすることもあるが。これはそういうことではなく。子供のころの夢の話だ。子供のころは、よく熱をだしたらしい。一度大病したらしく、その後よく熱をだすようになったと聞かされたが。正直あまりはっきりした記憶はない。おとなになってから、扁桃腺が大きくてよく発熱する体質と医者から言われたことがあり。未だに年に数回は高熱がでる。今は熱がでても夢をみることなどない。けれど、発熱したときに子供のころは決まってみる夢があった。それが、綱渡りの夢だ。あまり子供のころの記憶はないのだが、妙にその夢だけは記憶に残っている。 もちろん。綱渡りを現実にやったことがある訳でもなく。現実の…

  • 百物語 三十回目「ヒサルキ」

    8年ほど前のことになる。そのころおれは、いわゆるデスマーチの真っ只中にいた。例えば、月曜日に出勤して金曜日に帰るような日々で。半年くらい、一日も休まず働いていた。はたからは、死のうとしているように見えたらしく。実際そう言われたこともあるのだが。そういうつもりではなく。エッセイでデスマーチがおこる原因について書かれているのを読んだことがあるのだが。まあ、マネージメントの問題とかそういうものとはべつに、日本的なデスマーチの原因というのが書かれていて。いうなれば、呪術的なものがあり。自分自身を生贄としてさしだすことによって、プロジェクトを成功させようとするというのが書かれていたが。確かにそんな面もあ…

  • 百物語 二十八回目「九字印」

    それは30年くらい前の話になる。古い街に住んでいた。近くには、縄文期の土器が出土するような山があり。いくつもの沼地が近くにはあった。今はもう、山は崩され沼は埋められ、延々と住宅地が広がっているのだが。そのころは、色々な気を孕んだ緑や水場が溢れていたところで。そこは迷路のような住宅地があり、その行き止まりの路地の奥におれの住む離れがあった。家自体、相当古いが、周囲の街も古くまた迷路の奥にひっそりと佇む離れがおれの住処であったのだが。そこには何か澱む気があったのであろうと今になって思うことがある。 ある夜。おれは九字の印を切る声で目覚めた。おそらく午前2時か3時くらいのことであるおそらくおとことお…

  • 百物語 二十七回目「夜の夢」

    僕はその黒い車の後部座席に座っていた。夜の国道を黒い車は西へ向かっている。夜の街のイルミネーションは綺羅綺羅と輝きながら、左右を飛び去ってゆく。遠くに黒い壁のように山が聳えていた。カーラジオからは、定期的にそれの情報がながされている。「現在南南西へ時速15キロで移動しています。現在位置はI市の北端で山沿いに移動中です。移動している地域のみなさんは、十分ご注意ください」情報を伝え終わるとカーラジオは、また少しメランコリックな音楽をながしはじめる。遠い昔の恋愛映画のサントラだ。僕は、後部座席に深く腰を降ろすと緞帳に覆われたみたいにチャコールグレーの夜空へ、イージーリスニングが翔び去ってゆくのを見て…

  • 百物語 二十六回目「文学について」

    彼女は再び訪れる。 彼女は再びこの地を訪れるだろう。その両の手には荊の焔につつまれた、剣を持ち。芸術と呼ばれる駿馬に跨り。その両脇には、美と快楽という名の猟犬をうち従えて。古に、東の草原を駆ける騎馬の民が。西の古都を燎原の火が焼き尽くすように、蹂躙したかのごとく。彼女の焔はひとびとを花びらにかえて宙を舞わし。彼女の叫びはひとびとを音楽にかえて空を散らす。 彼女はそうして、再びこの地を訪れるだろう。 「これはなんだい」まあ、詩だな。「これが詩だって? 韻を踏んでないじゃないか。それに対句法や反復法の使い方がでたらめだし」うるさいな、韻を踏めば詩だってもんじゃあないだろう。谷川俊太郎の「なんでもお…

  • 百物語 二十四回目「グノーシス主義」

    果たしてキリスト教徒を最も陰惨に迫害し、虐殺した宗派はなんだろうか。それはもう、疑う余地もなく明白である。キリスト教徒は大量のキリスト教徒を迫害し虐殺してきた。邪悪な教えを信仰したという理由で。例えば、プロテスタントはカトリックを。カトリックはプロテスタントを。邪悪として否定し、互いに殺しあってきた。中世ヨーロッパ最大の虐殺とされるのは、あの有名なアルビジョア十字軍である。カトリックはフランス南部を中心として広がった、カタリ派を弾圧し、未曾有の大虐殺を行った。しかし、外から見るとカタリ派であろうと、プロテスタントであろうと、カトリックであろうとさして大差はないように思える。いや、当事者のキリス…

  • 百物語 二十四回目「目について」

    ベルクソンは、目について光という問題に対する解と語ったという。それは、複数の生物の種が異なる器官を発達させていった結果、たどりついたのが同じ目という器官であったためだ。ベルクソンは重要なのは問題を解くことではなく、問題をみいだすことだという。では、光とはそもそも問題なのだろうか。アインシュタインは、光とは波であると同時に粒子であるという非常に奇妙な解釈を行う。問題は、そもそもそこにある。局所実在という問題。波は空間に遍在し、一ヶ所に収束することはない。しかし、粒子は一ヶ所にしか存在しえない。ここからあの有名なシュレディンガーの猫というパラドックスが生まれてくる。波から粒子へ。波動関数の収縮。そ…

  • 百物語 二十三回目「脳について」

    アンティキティラの機械よりも古いコンピュータがあるとすれば、それはひとの脳ということになろうか。脳というものは、大変不思議な機械である。そこでは複数重なりあって存在する世界がひとつの実存に向かって収束するという出来事が行われている。量子力学におけるコペンハーゲン解釈に基づくのであれば、おれたちの脳が認識した瞬間に。無数に平存していた世界は唯一のものへと収束するのだ。かつてフリードリッヒ・ニーチェが賽の目がでる確率を測ることではなく、何千回、何万回振っても必ず同じ目がでる永劫回帰を問題にしたように。予め定められていたように、ひとつの出来事へと収束してゆく。 例えば恋愛という出来事について考えてみ…

  • 百物語 二十二回目「ジョン・ディー」

    そういえば、二十年ほどまえ新聞の映画の紹介で、エリザベス女王を暗殺者の手から救うため魔法使いジョン・ディーが魔法の力で彼女を未来へ送るのだが、そこはパンクスに支配されたロンドンだったというのを読んだんだが。一体なんというタイトルの映画だったかも覚えておらず、観てみたいと思うのだが、観るすべもない。 ジョン・ディーは映画のエリザベス・ゴールデンエイジにも登場してくる。ジョン・ディーは実在の魔法使いである。かつて魔法使いがどの程度宮廷の中枢で機能していたかは、よく知らないが。少なくとも、ジョン・ディーは何らかの形で機能していたことは、まちがい無いと思う。 16世紀ごろ、魔法とはどのようなものであっ…

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