【備後蔀山城主・多賀山通続、攻略戦】3月、元就は、敵対する勢力の一つ、備北の三吉氏を攻め、さらに北進して尼子方の備後蔀山城主・多賀山通続(久意)を攻めた。多賀山通続(久意)は、備後国人で、妻は山内直通の娘、山内氏の分家である。初め尼子家に属すも、大内
趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。
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【備後蔀山城主・多賀山通続、攻略戦】3月、元就は、敵対する勢力の一つ、備北の三吉氏を攻め、さらに北進して尼子方の備後蔀山城主・多賀山通続(久意)を攻めた。多賀山通続(久意)は、備後国人で、妻は山内直通の娘、山内氏の分家である。初め尼子家に属すも、大内
【毛利一族と共に生きた禅僧の軍師・安国寺恵瓊】 よく、「世が世ならば」という言い方をする事があるが、安国寺恵瓊にも、その言い方は当てはまる。 恵瓊は毛利氏の使僧であったが、本来、その主従関係は逆であった。正に世が世ならば、毛利氏が恵瓊に仕えるという事態も
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)(1539、37?~1600)【列伝】毛利家臣、秀吉直臣、立雪斎の弟子、安芸安国寺の住持、京都東福寺退耕庵主、伊予大名。竹若丸・辰王丸。父武田信重の子(伴繁清の子)。廟は建仁寺。宗派は臨済宗東福寺派。道号(字)は瑶甫、法諱
村上武吉(むらかみ たけよし)(1533~1604)【列伝】能島村上氏当主。父村上義忠、母平岡左近将監の娘。妻来島通康の娘。子元吉、景親。通称少輔太郎、武慶。官位掃部頭、大和守。居城伊予能島城主。村上氏は、瀬戸内海に浮かぶ島々を拠点とした豪族。海岸地帯
清水宗治 (1537~1582)【列伝】備中国人衆。父清水宗則。妻石川久孝娘。子宗之、景治、難波宗定、女子(中島元行室)、女子(駒木根清右衛門室)。兄弟宗知(月清入道)、難波宗忠。幼名才太郎、通称長左衛門尉。官位左衛門。居城備中清水城主、備中都窪郡幸山城
吉川広家(きっかわ ひろいえ)(1561~1625)【列伝】吉川家一門衆、初代岩国藩主。父吉川元春の三男、母新庄局。子広正、毛利就頼、益田就宣正室、天野元嘉正室。幼名才寿丸。通称次郎五郎・又次郎。初名経言(つねとき)経信(つねのぶ)とする説もある。別姓宮
吉川経家(きっかわ つねいえ)(1547~1581)【列伝】父吉川経安の嫡男、母吉川経典女。妻境経輝(境氏吉川)。子経実、家種、家好、あちゃこ(都野家頼室、後武安十兵衛室)、女(粟屋加賀守室)、女(福富晴方室)。通称千熊丸、小太郎。官位式部少輔。居城石見
【宍戸氏との和解②・婚姻政策】宍戸氏は毛利氏と並ぶ名家で、安芸の代表的国人である。しかも両家は領土が隣接していたので抗争が絶えなかった。郡山城と五龍城は一里程しか離れておらず、父・弘元は臨終の際、兄・興元に対して、宍戸氏と和解することを遺言するほどだっ
第92話【天文二年(1533)】 【徳寿丸の誕生】郡山城内で、元就と妙玖夫人の三男として徳寿丸が誕生した。隆元より11歳、次男元春より4歳下である。 【熊谷信直の加入 下部横川合戦】 3月、尼子派の安芸武田家は、元繁の討死により、嫡男の光和が継
第91話【天文元年(享禄五)(1532)】 【互いの利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文】 家督を継いだ義隆も、独占した日明貿易を通じて国力を強化。各地に軍勢を派遣して分国の維持・拡大に努めた。 まず豊前・豊後・筑前・筑後で大友義鑑と、肥前・筑
第90話【享禄四年(1531)】【石見国人衆・出羽氏の加入】2月、元就は、高橋氏を滅亡させて手に入れた出羽の領地の内、出羽450貫は元来、二ツ山城主出羽祐盛のものであったから石見国人衆の出羽祐盛に返還し、祐盛は毛利氏の与力となることを誓約する起請文を提
第89話【享禄三年(1530)】【塩冶興久の乱 前編】3月8日元々出雲の強豪国人衆塩冶氏は貞慶の代に至って一族内に紛争が起こったらしい。経久はそこにつけ入って、貞慶を追い出し、代わって自分の三男興久を養子に送り込んで塩冶氏を乗っ取っとり、出雲平野の獲
第88話【享禄二年(1529)】【石見高橋氏の滅亡 前編】元就は、毛利領のすぐ北方に蟠踞する高橋氏攻略を目論んでいた。この一族は、この地方に一大勢力を有していて、元就の多治比時代から、忌まわしき存在であった。毛利幸松丸の外戚として専権を振るい、尼子家に
第87話【享禄元(大永八)年(1528)】 【大内義興の死】 7月、大内義興が重病になり大内軍は備後から撤退。8月20日、年号を「享禄」と改元。 10月、大内家に服属した元就は、家臣の井上新三郎を人質として山口に送り、嫡男の少輔太郎を差し出すことを
【安芸諸城の降伏】3月18日、毛利軍は、大内軍の安芸進出に強力し、大内・毛利連合軍は尼子方に寝返った阿曽沼氏を攻めるため、陶興房は、元就と共に広島湾東岸の瀬野川河口に蟠踞する阿曽沼氏の本拠地安芸鳥籠山城を攻め、新城も攻めたことにより、阿曽沼家重臣野村氏
【備後和泉氏の降伏】 尼子家の侵攻に対して大内家も勢力挽回を策し、義隆は元就に備後の攻略を命じた。元就はまず備後の和泉氏に目を向けた。 備後の和泉氏の出自は明らかでないが『芸藩通志』によれば、初代信正(久勝)、信行、久正の三代の在所として黒岩城が記さ
【大内家の再従属①】 この頃、元就は盛んに尼子領に間者を送り込んでいた。その結果、尼子家の実権が、経久から孫の晴久に移りつつあることが明らかになった。経久はすでに67歳、嫡子の政久が戦死し、孫の晴久が後継者となっている。 経久は元就の資質を警戒して、
第83話【大永四年(1524)②】【大内軍の安芸侵攻】5月20日 尼子経久が伯耆に侵攻している間隙を狙って、大内義興・義隆父子が豊前、筑前、周防、長門、安芸、石見の全領国から動員された軍勢25000の兵余を率いて周防山口を発ち岩国の永興寺に到着。尼子家
第82話【大永四年(1524)①】 【相合少輔三郎元綱と北(相合)四郎就勝】 弘元が側室・家女房に産ませたのが、元綱と就勝である。つまり元就の異母弟である。この兄弟の事は、毛利家の記録や後世の史料でも不明な所が多い。『毛利弘元子女系譜書』によると、元綱は
【井上党の誕生】元就に宗家の家督相続を要請した宿老15人の連署状には元兼、弟の元盛、元貞、就在、元吉の井上一族が5人も署名しているが、井上氏の惣領家である井上元兼は、井上一族の中で最後に署名していることから、当時はまだ元兼個人の力は無かったと推測できる
【嫡男隆元誕生・反大内の友田興藤】大永三年(1523)27歳4月妻の妙玖は25歳で隆元を出産(すでに長女を出産している)。隆元誕生の大永三年は、元就が毛利本家の家督を継いだ年でもあり、ようやく妙玖も、晴れて猿掛(多治比)かみさまから、郡山かみさま(
【壬生城攻略戦】大永二年(1522)8月、このとき元就は大内家麾下の武将として、尼子方の武田家に、従属していた山県氏の居城安芸山県郡壬生城攻めを開始。城主は山県信春(信春は、元照の兄玄番の嫡子)である。16日、叔父・山県筑前守元照を本領を安堵して新しく
【石見の梟雄・高橋久光戦死】大永元年(1521)、高橋氏の当面の敵は備後の三吉氏であった。備後の三吉に隣接して高田郡の青屋という所がある。500貫ばかりの狭隘の土地だが、高橋氏はここに手を伸ばした。阿須那を本拠として、高田郡一帯を掌握せんとしている高
【三九八 毛利元就井上衆罪状書】 天文十九年に井上党を誅殺した際、元就が隆元夫人に送った罪状書。 ※当主の隆元に直接送付しないあたり、隆元には秘密裏に進められていたのか? 「おさき(尾崎)御つほねまいる もと就」 元就兄候興元死去以来
井上元在(元光)の軍功十月廿二日武田刑部少輔有田要害発向之時、於山下小溝鑓被仕、剰前原・山県備中守被討捕候、一段之忠節抽群輩候、感悦無極神妙之至也、仍為後証一行如件 永正十四年十月廿八日 幸松丸 井上小太郎元光殿 「読み下し」
【参考文献『毛利元就史書・小説一覧』】 【昭和58年(1983)】9月20日(一・二・三)、10月20日(四・五)『毛利元就(一)全5巻』(榊山潤著 時代小説文庫83 富士見書房) 1月20日『続・毛利元就』(榊山潤著 叢文社) 【
【吉川経基死去】永正十七年(1520)24歳1月8日、「吉川氏中興の英君」と呼ばれた吉川経基が死去、享年93歳。 吉川氏の所領は山県郡の東北、可愛川流域の大半にまで及ぶこととなり、家督は国経が相続。 また同年に、安芸横田松尾要害合戦で、父の代から毛
【初めての子】森本繁、山田兵庫、他の研究によると、元就と妙玖との間には、永正十六年(1519)頃に長女(見室了性)が生まれている。高橋氏は石見と安芸にまたがって領地を持っており、元就と吉川家との結びつきを警戒。そこで、元就と妙玖との間に最初に生まれた
【武田元繁との決戦 武田軍4800騎、毛利・吉川連合軍1150余騎】 中井出の柵が破られて敗走すると、元繁は驚き、有田城の包囲陣を伴繁清と品川信定に任せて、自ら4800余騎の軍勢を率いて武田軍の陣頭に立った。五段構えの布陣をもって寡兵の毛利軍を一蹴し、
【尼子政久の戦死】永正十五年(1518)9月6日、出雲の大半は尼子家に帰属したが、出雲大原郡東阿用の磨石山にある阿用(阿与)城主・桜井入道宗的は抵抗していた。桜井氏は、経久の父・尼子清定の代に従属したが、経久が不祥事で追放されると離反した。月山富田城
【尼子経久の侵攻と赤屋・小国の合戦での敗北】都では将軍・足利義稙や細川高国と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった石見や安芸国人衆が勝手に帰国する者が相次いだ。そこへ出雲の守護代尼子経久が大内領に侵攻を開始。8月2日、尼子家の勢力が安芸や石
第73話【中井出の合戦 熊谷元直の討死 毛利・吉川軍300騎 熊谷軍500騎】
【中井出の合戦 熊谷元直の討死 毛利・吉川軍300騎 熊谷軍500騎】慌てた広良は裸馬で多治比城へ駆けつけ、事情を聞いて直ぐさま毛利家中に動員をかけた。急を聞き、動員に応じて猿掛城に入って来たのは、元綱以下、福原広俊、桂元澄、井上元兼、坂広秀、渡辺勝と
【「西国の桶狭間」といわれた初陣】 なお、元就の初陣が遅かったのは、当主興元の弟だったことも関係していた。初陣は、実際の戦いというより、武将としての一種の通過儀礼としての性格が強かったからである。つまり、まず負けることのない戦いに臨ませ、形の上で手柄を
【元就初陣 毛利軍150騎、熊谷軍600騎】永正十四年(1517)10月21日、武田軍の先鋒熊谷元直は、毛利軍が有田城へ救援に来ることを察し、郡山から有田へ西進するには猿掛城を経由するためまず猿掛城を攻めている。熊谷・山中・板垣ら600騎が、有田の東隣
【有田城包囲】永正十四年(1517)10月3日、安芸の守護である武田元繁は安芸北部の山県の諸勢力を攻め、下した者らや元々の配下を糾合した後、有田城をおよそ4800の兵で包囲した。有田城主・小田信忠は老練の武将であり、城兵は300ばかりだったが敵の数に
【武田軍出陣】永正十四年(1517)2月10日武田軍は、南方の厳島神社領を侵し、次いで安芸の北方の山県郡今田に要害を築かせ、今田城を拠点に近隣の諸豪族を糾合すべく従わぬ者は誅伐すると威嚇しながら、服属を呼び掛けた。すると日和見の国人衆が続々と参陣し、
【有田城と小田信忠】有田城は、毛利の本拠吉田からおよそ20キロの距離だ。八重盆地の西方を画する緩やかな丘の上に築かれた山城で、東南に壬生、本地の平野を展望することが出来る。その山麓は、可愛川の支流支路原川と冠川の合流する、デルタ地帯上の丘陵なので、乱世
【外戚高橋久光】 もう一人の後見人は、隣国石見の出羽を本拠とする有力国人で、石見邑智郡上二ツ山城(出羽城)、松尾城主、藤掛城主である。弘元の側室杉の大方も高橋氏の出であり(彼女と興元の妻とは全く血縁関係はない)、興元の妻は高橋久光の娘で、名前や年齢は不
【兄・毛利興元の死】永正十三年(1516)8月25日、毛利家当主・毛利興元が若くして死去。享年24歳。興元は帰国後、北隣の甲立五龍城主宍戸元源との抗争が絶えず、雌雄がつかないままの無念の死であった。死因は酒で健康を害していたといわれているが、打ち続く
【宍戸氏】兄の興元が京からの帰国を急いだのも、この宍戸元源が侵略の兆しをみせたからである。安芸宍戸氏の本家は関東の常陸宍戸氏から出ている。常陸の宍戸朝家が足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸守に任じられ下向したのが、安芸宍戸氏の始まりだ。
【尼子経久の帰国】 京極氏に代わって出雲・隠岐の守護の座を獲得した尼子経久も、将軍義稙の要請を受けるや、大内義興に従って上洛。経久は、一応、義稙の味方として上洛はしたものの、義稙は将軍の座に座っているだけで、都には依然不安定な状態が続くなど天下の情勢は
【元就初期の軍事力】 毛利氏は、安芸国人領主の1人に過ぎず、毛利氏と同等の領主は、安芸国内に30数家あったという。それら国人領主は、平均で数百人くらいの動員力であったと思われる。元就の初期の頃の軍事力は、それより若干大きく、500~800人くらいの動員
【高橋元光の戦死】永正十二年(1515)3月、石見の豪族高橋久光は、領境を接し永年紛争を繰り返している備後三吉氏の支城加井妻城攻めを行うも、嫡子・元光が戦死。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって没落の要因となってしまったのである。この元光の
【武田元繁の帰国と侵略】安芸佐東銀山城主の武田家は鎌倉時代、安芸の安南・佐東・山県三郡の安芸分郡守護に任ぜられた家柄で、甲斐源氏の武田家と同族で、若狭武田家の安芸分郡守護代として、安芸銀山城を拠点として太田川下流域を支配し、川之内衆と呼ぶ水軍を勢力下に
【隆元の弱点】 隆元は、いまだに合戦の経験に乏しく、人質生活から帰還した直後の初陣の出雲遠征は大敗し挫折感を味わっていた。その後も元就に従って備後方面で尼子軍と戦うも、思うような戦功をあげることはできず、元就の嫡男でありながら、内外ともに周囲が認めるよう
【元就の家督相続①】 天文十五年(1546)年5月27日付で、元就が宿老志道広良に宛てた書状(『毛利家文書 58、588』)。「自分は、やや家中の者達に飽きられておるし、重なる戦闘で家臣たちに与える賞与や扶持も、必ずしも公平でないかもしれない。だから
【妾のもとに忍ぶ男を誅殺】元就の囲う妾のもとに、忍んで通う男があった。名を木原兵部少輔といって、世に聞こえた大力の剛の者だ。これを知った元就は、木原を誅殺しようと画策したが、誰にやらせるかが問題である。木原も手練れ、しかも主君の女に手を出している負い目
【毛利家臣団と軍事力の総括】毛利軍の軍事力を担った圧倒的大多数の家臣は、在郷の土豪層、即ち兵農未分離の武士でもあり百姓でもある下層家臣であった。ちなみに、寄親寄子制という仕組みは、寄親も寄子も毛利氏の家臣である点に変わりはないが、寄親は土豪とか地侍と
【毛利家臣団の構成】大名と国衆との間の不安定な関係を解決するためには、何といっても秩序だった家臣団制度をつくりだすことが必要だった。毛利家の軍事力を構成する家臣団は、その系譜や毛利家との歴史的な関係によって「家来」と「国衆」に区分されている。家来(家人
【尼子詮久の誕生】永正十一年(1514)2月12日尼子経久が57歳の時、嫡男・政久の次男として、尼子詮久(晴久)が誕生。既に政久の嫡男・尼子某が夭折していた為、嫡男として育てられる。幼名が又四郎ではなく、三郎四郎なのはその為であった。 また同年から
【有田中井手の戦いにおける井上一族の功績】 永正十四年(1514)、有田中井手の戦いで、第一陣福原広俊が指揮する左翼に井上元兼・井上就兼ら400騎で従軍。 他に井上資忠(100騎)、井上元在(元光)、井上光俊、井上光政らも参戦。井上衆の戦闘力は毛利
【大器となる人相】元就の容貌は、英雄に相応しい、堂々たる風貌を備えていた。『陰徳記』、『陰徳太平記』の「丹比松寿丸元服、附明人相人(二)相事(一)」に出てくる元就の人相に関する逸話だが、これも『名将言行録』は、次の様に記している。永正十年癸酉6月18日、
【志道広良との起請文】永正十年(1513)3月19日、執権志道広良は、元就との間に起請文を取り交した。 広良は毛利家三代にわたっての重臣ので、興元と幸松丸の執政職を務めていた。興元の執権時に、元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう
【井上党の活躍】大永四年(1524)元綱派を粛清後、坂氏庶家の志道広良は罪が及ぶと恐縮したが、元就は元兼を使者として、「このたび坂広秀が元綱の謀叛に一味したので、是非なくこれを討果たしたが、桂広澄・志道広良については多治比時代より忠勤を抽んで、今度の
【安芸八家一揆契約】永正九年(1512)3月3日、安芸には他国の守護権力に対抗するための、国人衆による一揆契約があった。つまり、安芸の分郡守護である武田氏の弱体につけ込んで領国内に侵入してくる、尼子家や大内家の外部権力に、共同で対処しようとする、安芸国
【宍戸氏との関係】興元は、帰国後に芸備の国人衆と連携を強め、安芸の天野氏、平賀氏、小早川氏、吉川氏ら8人の諸領主たちと、相互扶助の盟約を結んだ。また、中郡衆と呼ばれる三篠川流域の内藤元廉(祖父泰廉の父)、秋山親吉、井原元造らは、毛利氏に忠節を誓い、京
【興元の帰国】船岡山合戦において細川軍と戦った折、興元の部将・国司有相が、抜群の勲功を立て、後に安芸高田郡吉田村秋貞の地を興元から与えられた。興元の活躍もあり、細川澄元の軍勢を破って、京を奪還。足利義澄を追放して、義稙を再び将軍の座に据えることに成功
【15歳の松寿丸の元服「毛利元就」の誕生】永正八年(1511)、松寿丸が15歳の春を迎えると、杉の大方は佐藤某を使者に京に在陣している興元のところに向かわせ、松寿丸の元服について相談した。『陰徳太平記』のなかに、「永正八年、丹比松寿丸十五歳になり給へ
【坂氏について】坂氏は、『吉田物語』所載坂氏の系譜によると、坂氏の始祖は安芸吉田毛利家第4代元春の舎弟匡時で、大膳大夫を称した。この坂氏は代々毛利氏の執権職を務め、『毛利家文書』により分明なものは、坂氏第三代の広秋、第四代広明と続き、そのあとは広明の弟
【雨を祈って政を正す】ある年、元就の領国に日照りが続き、百姓が集まって毎日雨を祈った。元就は百姓の雨乞いを制止して、自ら潔斎して天に祈った。戦死者の跡を手厚く弔い、忠節の臣に加禄し、軍功の家に新しく物を贈って、3日の施行をした。施行終わって2日目に大雨
【少年の大志】 『江譜拾遺』、『名将言行録』に掲載された逸話に「規模」というのがある。「少輔次郎が12歳のとき、家来たちとともに安芸の厳島神社に参詣した。参詣がおわって帰りがけに、元就は家来たちに、今日お前たちは何を祈ったかと聞いた。家来たちは、みん
【大内軍の上洛と大内傘下の興元の従軍】永正5年(1508)6月、この時期の京都は、室町幕府を支えていた畠山政長が、擁立した室町幕府第10代将軍・足利義稙(義材、義尹)に、細川政元がクーデターを起こし、足利義澄を擁立したことで、将軍足利家の分裂と畠山・細
【井上氏との関わり①】 ここで、松寿丸が大方殿とともに訪れたのが、井上光兼の屋敷であったことに注目したい。この井上一族は郡山城下の有力者だった。この一族は吉田の交通の要衝を握り市場の管理権を持つ実力派で、しかも他の国人領主とも親しく、譜代の臣下とはいえ
【日輪信仰と元就と宗教】11歳の時、井上光兼の屋敷に一人の客僧が訪れた。客僧は人々に念仏を説き、光兼の所から、旅の僧が来ていて念仏の大事を授けるから、という案内があった。杉の大方殿は、松寿丸を伴って、光兼の屋敷に向かった。そこで一緒に聴聞し、念仏の
【兄の元服・毛利興元の誕生】 永正四年(1507)1月17日、安芸高田原で宍戸軍と合戦。4月3日、甲立で、宍戸軍と合戦。11月16日、15歳になった兄の幸千代丸は、大内家に対して忠誠を誓い、大内義興を烏帽子親として、「興」の偏諱を受けて毛利興元と名
【元就と宗教】元々、毛利家は代々臨済宗で、菩提寺は安芸吉田の興禅寺である。当時、興禅寺村が置かれ、寺領を与え保護している。興禅寺は後に広島に移り、安芸吉田の興禅寺跡は現在、郡山公園になっている。 しかし、元就は、必ずしも宗派にこだわっていなかった。元就
【元就の人間学】 元就が隆元に語った自身の生立ちによると、元就は5歳で母に、父には10歳で死別、14歳の兄興元も京に出陣中だったのでまったくの孤児同然となった。これを不憫に思い、元就のために若き身をかえりみず再婚を断念し、貞女をとげた父の後室大方殿に
【義母杉大方の教育】 いずれにしても、松寿丸は貴公子然とした穏やかな顔をしていた。そんな松寿丸が急に武芸に身を入れ始めたのは、多治比を横領した井上元盛が死んで、猿掛城に復帰して間もなくのことである。継母の杉の大方は、松寿丸から武芸を取り上げていた弘元の
【逸話「少年の大志」】 松寿丸は猿掛城に戻ってから間もない頃、初めて家来数名をつれて厳島神社に参詣した。帰城してから伴をした者に、「そちは厳島の神に何を祈ったか」と問うた。家臣は、「若君が安芸の太守になられるよう祈りました」と答えた。それに対し
【井上元盛横領事件】松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、兄がいうように気楽な身ではない。元就の述懐によれば、収入も、ろくに手にすることができなかったという。父の死後まもなく、あわよくば毛利の所領を乗っ取ろうという魂胆のあった家臣の井上元盛(惣領井上
【父弘元の死】永正三年(1506)1月21日、松寿丸10歳のときに、綱渡り外交を続けながらも、どうにか毛利氏を潰さなかった、父弘元が、その心労と酒害により多治比猿掛城内で死去。享年39歳。酒の飲み過ぎが原因と伝えられている。大国との狭間での日々の苦悩
【安芸の特産品】安芸は古くから木材の産地であり、安芸榑は特産品として需要が多かった。小瀬川、太田川、沼田川、そして芦田川など、芸備両国内の河川の河口は、上流からの物資の集積地であり、商人らも集住し、地域の流通経済と内海水運との接点として機能した。領主は
【毛利の君臣関係】毛利の君臣関係は、江戸時代のような関係ではなく、安芸の郡山城を中心に元就は領地を持っているが、家臣たちも大小様々の領地を持っている。その中で有力なのは親類衆(庶家)で、かなり以前に毛利本家から分かれた、坂、有富、麻原、中馬、福原がそ
【酒の戒め】 元就の記憶にある父弘元は、いつも酒を飲んでいた。「よほど、うまいものらしい」 で、7、8歳の頃、こっそり盗み飲みしようとして、杉の大方に見つかり、「そなたも死にたいのですか」 こっぴどく叱られたことがある。 母が亡くなって以来、
【「裁断」(狐の罪も許さず)】 次に「裁断」と題して、「松寿丸が7歳になったとき、白い鶏を愛好し飼育していたが、ある夜、忽然として消え失せた。明くる日、驚いて所々を探し回ったところ、庭の築山のあたりにその鶏の羽が散らばっており、近くの築山に狐の穴があ
【「寛容」】 松寿丸時代の逸話として、岡谷繁実の『名将言行録』によると、「寛容」と題して、「元就は幼名を少輔次郎といった。その傅(守役)が、あるとき松寿丸を抱いて多治比川を渡っていたとき、誤って石に躓いて倒れ、松寿丸を水中に落として溺れさせた。守役は
【杉の大方について】 生母福原氏に代わって松寿丸の養育に努めたのは、杉の大方と呼ばれる高橋氏である。松寿丸の実質的な母親は、この杉の大方であった。 杉の大方は弘元の側室であったが、「弘元子女系譜書」にいう御袋腹ではない。元就は弘治四年(1558)8月
【吉田郡山城の絵図】 吉田郡山城を描いた絵図は実に20数点も存在する。その中でも、代表的な絵図として知られている『吉田郡山御城下古図』(山口県文書館蔵)がある。 本図で絵画的に表現されているのは、縦長の紙面上北方の郡山城と内堀・外堀、城下の街路、その
【郡山城と輝元時代】 輝元は天正十年代前半の時点では、郡山城の修築と城下の整備につとめていた。その重点は、堀を含む山麓部分の城郭の整備と城と城下の威容を整えることにおかれており、大門。会所などの建造物を建てることや城下の建物を白壁に塗ることなどが行われ
【郡山城の構造】 中枢部郭群は山頂部を利用したもので、本丸・二の丸・三の丸・御蔵屋敷ほかからなる。内部郭とは5~20メートルの比高差があり独立性が強い。さらに南側には高さ2~5メートルの石垣もみられ、少なくとも南側の城下に面した方向については石垣を築い
【収集能力の限界に達した中世の山城】 毛利氏は、多くの戦国大名と同様に近隣の国人や土豪を次々と支配下に組み入れて領国を拡大していった。その結果、毛利氏の家臣団の大部分は、自らの居城を有する城主層が占めた。そのような家臣団の構成では、その全兵力が同時に一
【郡山城での生活】 元就の代になって郡山全山に城郭が拡張されると、郡山城は、山上部分の「城」と山麓部分の「里(麓)」に区分されるようになる。山頂は「かさ」と呼ばれ、元就の居所があった。後に家督を相続した隆元は「尾崎」と呼ばれる郭にいた。山上の郭には、年
【城内の様子】 城内の様子は不明だが、広島城を参考にして考えてみる。毛利氏時代の「広島城絵図」(毛利家文庫「芸州広島城町割之図」)によると、御本丸を囲む内郭部分では吉川・小早川氏のほか、福原・桂・志道・粟屋・国司・赤川・口羽など譜代の近臣が配置されてい
【元就入城と大改修】大永三年(1523)、元就が家督を継いで猿掛城から本城郡山城へ入城。この頃の郡山城の原形は、旧本城だけの規模の小さな山城であった。室町時代中頃になって築かれたものと考えられる。その時の郡山城は、郡山の東南の一画に過ぎず、曲輪の数は
【初期の郡山城】国人領主から戦国大名として毛利家が一貫として本拠とした郡山城。郡山城は毛利家の城として知られているが、築城の時期については明らかでない。 当初は郡山東南麓の本城といわれる部分のみを城地としており、16世紀中頃の元就による城域の拡大、輝元
【郡山城の歴史】正中二年(1325)、郡山山麓に祇園・崇道社(清神社)が造立。郡山のある吉田荘は十二世紀には京都祇園社の荘園となっている。 承久の乱(1221)以降に毛利氏が安芸吉田荘を得る。建武三年(延元元、1336)、城の歴史は古く、江戸時代の
【城の構造】 吉田郡山城の遠景は、可愛川と多治北川の間の市街地に城下の町屋があり、その背後に郡山城が建てられていた。城は、そそり立つような急な斜面である標高390メートルの郡山の四方に伸びた屋根頂に築かれている。城の構造は、中央部の山頂に本丸と二ノ丸
【郡山と吉田盆地】 毛利家の本城郡山城は標高390メートル、比高100メートル(約190メートルの郡山に築かれている説あり)の郡山に築かれた大規模な山城で、吉田盆地を南に見下ろすことができる。 郡山は前面南を多治比川が流れ、側東を可愛川(江の川)が流
【父の側室「家女房」】 松寿丸の母が亡くなったころ、弘元にはもう一人側室がいた。それが家女房、通称御袋様である。難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。父は難破勘兵衛元房、佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男相合元綱、次女八幡の上様、
【生母・福原氏の死】元就の生母は父弘元の正室・福原氏である。福原氏は毛利家と先祖を同じくする長井氏の後裔で、安芸の内部荘福原村に居住したので、この名がある。福原氏の系譜には広俊、貞俊の名が交互に続いているが、元就の母は、鈴尾城主・福原武部大輔広俊の娘で
【苦肉の策】 文亀元年(1501)1月、毛利弘元は幕府に一書を呈した。幕命を謹んで受けるという内容の物で、幕府は喜んで次の指令を出した。大友親治らと協議して、早々に義稙や大内義興を討つようにと。追っかけるように、僧の慧通らの幕府からの使者が安芸に下向し、
【猿掛城の歴史】郡山城の北西およそ4キロほどの多治比にあったので、多治比城ともいわれ、元就も多治比殿と呼ばれていた。弘元の子幸松丸がそのまま何事もなく成長していれば、元就は当主の叔父という立場で、そのまま一生をこの猿掛城で送っていたものと思われる。
【猿掛城の構造】 猿掛城の遺構は山上の中心部郭群・寺屋敷郭群・物見丸と山麓の出丸・悦叟院跡からなる。 山上の中心部郭群は、屋根続きの南側背後を深さ10メートル以上の堀切で区切り他の三方は急峻な崖にそれぞれ小郭をつけたもので、約5000平方メートルの広
【猿掛城について】 前面を多治比川が流れ、本丸の南側には土塁や堀切。出丸や物見丸、山麓には館を配した典型的な中世の山城である。元就が青少年期を過ごした城として知られ、麓の悦叟院の森には、父弘元と母福原夫人の墓が並んでいる。 猿掛城は吉田盆地の北西方に
【猿掛城へ隠居】3月29日、幕府と大内家の勢力争いに巻き込まれた父毛利弘元は33歳のとき、隠居を決意。まだ壮年であったが、病を得ていたのかも知れない。弘元は、任を解かれて吉田へ帰ると間もなく、多治比300貫の領地、その他、郡山城をはじめとする毛利氏の本
【家女房】家女房は弘元の側室で難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。別名に御袋様とも呼ばれる。父は難破勘兵衛元房、或は佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男元綱、次女八幡の上様、三女相合の大方、四女松姫、五女竹姫の一男四女を儲ける。郡
【小領主毛利弘元】 毛利氏の本拠は、安芸高田郡の吉田の里。中国山脈の山裾に近い平明の地だが、安芸は20を超える土豪が割拠していた。毛利氏の居城郡山城は可愛川を裾に巻く丘陵の一端にあり、もとより小規模である。父弘元は、文明八年(1476)、元就の祖父豊
【古河内守 井上光兼】 明応8年(1499)11月、将軍の座を追われた足利義稙が義興を頼って周防山口へ下向するに及び、毛利氏は大内家に従い京へ従軍。そのため父弘元は、ほとんど郡山城にはいなかった。 内政面では、井上惣領家の井上光兼が、この頃に隠居。惣
第16話【安芸国人温科氏の謀反】明応8年(1499)2月、明応の政変で幕府から追放された前将軍・足利義尹(義稙)は、大内義興を頼って周防へ逃亡。毛利弘元は、義興や義稙自身からも、京都で復権できるための援助を依頼され、幕府からも義稙討伐に力を尽くすよう命
【毛利家の軍学】 元就は多治比での不遇時代、勉学に勤しみ、家伝の大江流兵法を会得した。毛利家の本姓は大江氏であり、この大江氏は代々、学問をもって朝廷に仕えた家柄である。学問とは文章道と兵法である。大江氏の始祖である音人は詩文に優れ、その子孫は菅原氏と並
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【備後蔀山城主・多賀山通続、攻略戦】3月、元就は、敵対する勢力の一つ、備北の三吉氏を攻め、さらに北進して尼子方の備後蔀山城主・多賀山通続(久意)を攻めた。多賀山通続(久意)は、備後国人で、妻は山内直通の娘、山内氏の分家である。初め尼子家に属すも、大内
【毛利一族と共に生きた禅僧の軍師・安国寺恵瓊】 よく、「世が世ならば」という言い方をする事があるが、安国寺恵瓊にも、その言い方は当てはまる。 恵瓊は毛利氏の使僧であったが、本来、その主従関係は逆であった。正に世が世ならば、毛利氏が恵瓊に仕えるという事態も
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)(1539、37?~1600)【列伝】毛利家臣、秀吉直臣、立雪斎の弟子、安芸安国寺の住持、京都東福寺退耕庵主、伊予大名。竹若丸・辰王丸。父武田信重の子(伴繁清の子)。廟は建仁寺。宗派は臨済宗東福寺派。道号(字)は瑶甫、法諱
村上武吉(むらかみ たけよし)(1533~1604)【列伝】能島村上氏当主。父村上義忠、母平岡左近将監の娘。妻来島通康の娘。子元吉、景親。通称少輔太郎、武慶。官位掃部頭、大和守。居城伊予能島城主。村上氏は、瀬戸内海に浮かぶ島々を拠点とした豪族。海岸地帯
清水宗治 (1537~1582)【列伝】備中国人衆。父清水宗則。妻石川久孝娘。子宗之、景治、難波宗定、女子(中島元行室)、女子(駒木根清右衛門室)。兄弟宗知(月清入道)、難波宗忠。幼名才太郎、通称長左衛門尉。官位左衛門。居城備中清水城主、備中都窪郡幸山城
吉川広家(きっかわ ひろいえ)(1561~1625)【列伝】吉川家一門衆、初代岩国藩主。父吉川元春の三男、母新庄局。子広正、毛利就頼、益田就宣正室、天野元嘉正室。幼名才寿丸。通称次郎五郎・又次郎。初名経言(つねとき)経信(つねのぶ)とする説もある。別姓宮
吉川経家(きっかわ つねいえ)(1547~1581)【列伝】父吉川経安の嫡男、母吉川経典女。妻境経輝(境氏吉川)。子経実、家種、家好、あちゃこ(都野家頼室、後武安十兵衛室)、女(粟屋加賀守室)、女(福富晴方室)。通称千熊丸、小太郎。官位式部少輔。居城石見
【宍戸氏との和解②・婚姻政策】宍戸氏は毛利氏と並ぶ名家で、安芸の代表的国人である。しかも両家は領土が隣接していたので抗争が絶えなかった。郡山城と五龍城は一里程しか離れておらず、父・弘元は臨終の際、兄・興元に対して、宍戸氏と和解することを遺言するほどだっ
第92話【天文二年(1533)】 【徳寿丸の誕生】郡山城内で、元就と妙玖夫人の三男として徳寿丸が誕生した。隆元より11歳、次男元春より4歳下である。 【熊谷信直の加入 下部横川合戦】 3月、尼子派の安芸武田家は、元繁の討死により、嫡男の光和が継
第91話【天文元年(享禄五)(1532)】 【互いの利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文】 家督を継いだ義隆も、独占した日明貿易を通じて国力を強化。各地に軍勢を派遣して分国の維持・拡大に努めた。 まず豊前・豊後・筑前・筑後で大友義鑑と、肥前・筑
第90話【享禄四年(1531)】【石見国人衆・出羽氏の加入】2月、元就は、高橋氏を滅亡させて手に入れた出羽の領地の内、出羽450貫は元来、二ツ山城主出羽祐盛のものであったから石見国人衆の出羽祐盛に返還し、祐盛は毛利氏の与力となることを誓約する起請文を提
第89話【享禄三年(1530)】【塩冶興久の乱 前編】3月8日元々出雲の強豪国人衆塩冶氏は貞慶の代に至って一族内に紛争が起こったらしい。経久はそこにつけ入って、貞慶を追い出し、代わって自分の三男興久を養子に送り込んで塩冶氏を乗っ取っとり、出雲平野の獲
第88話【享禄二年(1529)】【石見高橋氏の滅亡 前編】元就は、毛利領のすぐ北方に蟠踞する高橋氏攻略を目論んでいた。この一族は、この地方に一大勢力を有していて、元就の多治比時代から、忌まわしき存在であった。毛利幸松丸の外戚として専権を振るい、尼子家に
第87話【享禄元(大永八)年(1528)】 【大内義興の死】 7月、大内義興が重病になり大内軍は備後から撤退。8月20日、年号を「享禄」と改元。 10月、大内家に服属した元就は、家臣の井上新三郎を人質として山口に送り、嫡男の少輔太郎を差し出すことを
【安芸諸城の降伏】3月18日、毛利軍は、大内軍の安芸進出に強力し、大内・毛利連合軍は尼子方に寝返った阿曽沼氏を攻めるため、陶興房は、元就と共に広島湾東岸の瀬野川河口に蟠踞する阿曽沼氏の本拠地安芸鳥籠山城を攻め、新城も攻めたことにより、阿曽沼家重臣野村氏
【備後和泉氏の降伏】 尼子家の侵攻に対して大内家も勢力挽回を策し、義隆は元就に備後の攻略を命じた。元就はまず備後の和泉氏に目を向けた。 備後の和泉氏の出自は明らかでないが『芸藩通志』によれば、初代信正(久勝)、信行、久正の三代の在所として黒岩城が記さ
【大内家の再従属①】 この頃、元就は盛んに尼子領に間者を送り込んでいた。その結果、尼子家の実権が、経久から孫の晴久に移りつつあることが明らかになった。経久はすでに67歳、嫡子の政久が戦死し、孫の晴久が後継者となっている。 経久は元就の資質を警戒して、
第83話【大永四年(1524)②】【大内軍の安芸侵攻】5月20日 尼子経久が伯耆に侵攻している間隙を狙って、大内義興・義隆父子が豊前、筑前、周防、長門、安芸、石見の全領国から動員された軍勢25000の兵余を率いて周防山口を発ち岩国の永興寺に到着。尼子家
第82話【大永四年(1524)①】 【相合少輔三郎元綱と北(相合)四郎就勝】 弘元が側室・家女房に産ませたのが、元綱と就勝である。つまり元就の異母弟である。この兄弟の事は、毛利家の記録や後世の史料でも不明な所が多い。『毛利弘元子女系譜書』によると、元綱は
【井上党の誕生】元就に宗家の家督相続を要請した宿老15人の連署状には元兼、弟の元盛、元貞、就在、元吉の井上一族が5人も署名しているが、井上氏の惣領家である井上元兼は、井上一族の中で最後に署名していることから、当時はまだ元兼個人の力は無かったと推測できる
【元就初期の軍事力】 毛利氏は、安芸国人領主の1人に過ぎず、毛利氏と同等の領主は、安芸国内に30数家あったという。それら国人領主は、平均で数百人くらいの動員力であったと思われる。元就の初期の頃の軍事力は、それより若干大きく、500~800人くらいの動員
【高橋元光の戦死】永正十二年(1515)3月、石見の豪族高橋久光は、領境を接し永年紛争を繰り返している備後三吉氏の支城加井妻城攻めを行うも、嫡子・元光が戦死。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって没落の要因となってしまったのである。この元光の
【武田元繁の帰国と侵略】安芸佐東銀山城主の武田家は鎌倉時代、安芸の安南・佐東・山県三郡の安芸分郡守護に任ぜられた家柄で、甲斐源氏の武田家と同族で、若狭武田家の安芸分郡守護代として、安芸銀山城を拠点として太田川下流域を支配し、川之内衆と呼ぶ水軍を勢力下に
【隆元の弱点】 隆元は、いまだに合戦の経験に乏しく、人質生活から帰還した直後の初陣の出雲遠征は大敗し挫折感を味わっていた。その後も元就に従って備後方面で尼子軍と戦うも、思うような戦功をあげることはできず、元就の嫡男でありながら、内外ともに周囲が認めるよう
【元就の家督相続①】 天文十五年(1546)年5月27日付で、元就が宿老志道広良に宛てた書状(『毛利家文書 58、588』)。「自分は、やや家中の者達に飽きられておるし、重なる戦闘で家臣たちに与える賞与や扶持も、必ずしも公平でないかもしれない。だから
【妾のもとに忍ぶ男を誅殺】元就の囲う妾のもとに、忍んで通う男があった。名を木原兵部少輔といって、世に聞こえた大力の剛の者だ。これを知った元就は、木原を誅殺しようと画策したが、誰にやらせるかが問題である。木原も手練れ、しかも主君の女に手を出している負い目
【毛利家臣団と軍事力の総括】毛利軍の軍事力を担った圧倒的大多数の家臣は、在郷の土豪層、即ち兵農未分離の武士でもあり百姓でもある下層家臣であった。ちなみに、寄親寄子制という仕組みは、寄親も寄子も毛利氏の家臣である点に変わりはないが、寄親は土豪とか地侍と
【毛利家臣団の構成】大名と国衆との間の不安定な関係を解決するためには、何といっても秩序だった家臣団制度をつくりだすことが必要だった。毛利家の軍事力を構成する家臣団は、その系譜や毛利家との歴史的な関係によって「家来」と「国衆」に区分されている。家来(家人
【尼子詮久の誕生】永正十一年(1514)2月12日尼子経久が57歳の時、嫡男・政久の次男として、尼子詮久(晴久)が誕生。既に政久の嫡男・尼子某が夭折していた為、嫡男として育てられる。幼名が又四郎ではなく、三郎四郎なのはその為であった。 また同年から
【有田中井手の戦いにおける井上一族の功績】 永正十四年(1514)、有田中井手の戦いで、第一陣福原広俊が指揮する左翼に井上元兼・井上就兼ら400騎で従軍。 他に井上資忠(100騎)、井上元在(元光)、井上光俊、井上光政らも参戦。井上衆の戦闘力は毛利
【大器となる人相】元就の容貌は、英雄に相応しい、堂々たる風貌を備えていた。『陰徳記』、『陰徳太平記』の「丹比松寿丸元服、附明人相人(二)相事(一)」に出てくる元就の人相に関する逸話だが、これも『名将言行録』は、次の様に記している。永正十年癸酉6月18日、
【志道広良との起請文】永正十年(1513)3月19日、執権志道広良は、元就との間に起請文を取り交した。 広良は毛利家三代にわたっての重臣ので、興元と幸松丸の執政職を務めていた。興元の執権時に、元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう
【井上党の活躍】大永四年(1524)元綱派を粛清後、坂氏庶家の志道広良は罪が及ぶと恐縮したが、元就は元兼を使者として、「このたび坂広秀が元綱の謀叛に一味したので、是非なくこれを討果たしたが、桂広澄・志道広良については多治比時代より忠勤を抽んで、今度の
【安芸八家一揆契約】永正九年(1512)3月3日、安芸には他国の守護権力に対抗するための、国人衆による一揆契約があった。つまり、安芸の分郡守護である武田氏の弱体につけ込んで領国内に侵入してくる、尼子家や大内家の外部権力に、共同で対処しようとする、安芸国
【宍戸氏との関係】興元は、帰国後に芸備の国人衆と連携を強め、安芸の天野氏、平賀氏、小早川氏、吉川氏ら8人の諸領主たちと、相互扶助の盟約を結んだ。また、中郡衆と呼ばれる三篠川流域の内藤元廉(祖父泰廉の父)、秋山親吉、井原元造らは、毛利氏に忠節を誓い、京
【興元の帰国】船岡山合戦において細川軍と戦った折、興元の部将・国司有相が、抜群の勲功を立て、後に安芸高田郡吉田村秋貞の地を興元から与えられた。興元の活躍もあり、細川澄元の軍勢を破って、京を奪還。足利義澄を追放して、義稙を再び将軍の座に据えることに成功
【15歳の松寿丸の元服「毛利元就」の誕生】永正八年(1511)、松寿丸が15歳の春を迎えると、杉の大方は佐藤某を使者に京に在陣している興元のところに向かわせ、松寿丸の元服について相談した。『陰徳太平記』のなかに、「永正八年、丹比松寿丸十五歳になり給へ
【坂氏について】坂氏は、『吉田物語』所載坂氏の系譜によると、坂氏の始祖は安芸吉田毛利家第4代元春の舎弟匡時で、大膳大夫を称した。この坂氏は代々毛利氏の執権職を務め、『毛利家文書』により分明なものは、坂氏第三代の広秋、第四代広明と続き、そのあとは広明の弟
【雨を祈って政を正す】ある年、元就の領国に日照りが続き、百姓が集まって毎日雨を祈った。元就は百姓の雨乞いを制止して、自ら潔斎して天に祈った。戦死者の跡を手厚く弔い、忠節の臣に加禄し、軍功の家に新しく物を贈って、3日の施行をした。施行終わって2日目に大雨
【少年の大志】 『江譜拾遺』、『名将言行録』に掲載された逸話に「規模」というのがある。「少輔次郎が12歳のとき、家来たちとともに安芸の厳島神社に参詣した。参詣がおわって帰りがけに、元就は家来たちに、今日お前たちは何を祈ったかと聞いた。家来たちは、みん