毛利元就家臣団列伝
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ハンドル名
佐近下野守さん
ブログタイトル
毛利元就家臣団列伝
ブログURL
http://blog.livedoor.jp/sakonsimotukenokami/
ブログ紹介文
趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。
自由文
素人が趣味で研究しているブログです。宜しく願います。
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ハンドル名
佐近下野守さん
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毛利元就家臣団列伝
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毛利元就家臣団列伝
  • 【尼子家の初期栄華】

    【尼子家の初期栄華】尼子経久が64歳のときには、全盛期を迎えた。山陰五ヵ国に加え、山陽の安芸、備前、備中、備後、播磨、美作の6ヵ国を従え、じつに山陰山陽11ヵ国を勢力圏内に置いたのである。当時、尼子氏の当主は少年期の晴久だったが、経久が実権を握っていた。

  • 【幸松丸に対しての感情】

    【幸松丸に対しての感情】乱世における大名家の内紛は全て、この家督争いだ。いうなれば、御家乗っ取りの陰謀と、疑心暗鬼が、骨肉相食む悲惨な結果を招く。元就が若くして冷静沈着だったのは、諸国の事情や、歴史に耳を傾けることが多かったからだ。部屋住みという生まれと

  • 大内義隆

    大内義隆(おおうち よしたか)(1507~1551)【列伝】周防の戦国大名。大内義興の嫡男。幼名亀童丸。左京大夫、太宰大弐、兵部卿侍従、周防権介。周防・長門等七ヵ国の守護職を兼ねた。 周防・長門等七ヵ国の守護。享録二年(1529)、父義興の跡を継ぎ、尼子氏

  • 【謀略という生き方】

    【謀略という生き方】 乱世を生き抜くため、元就が75年の生涯に権謀術策の限りを尽くし、敵を貶めた例は数限りなくある。 元就は最後に信じられるのは自分だけだ。だから、他人の意見に惑わされることなく、自分の見識を深め、人や物ごとに対しては、表面に現れたことだけ

  • 【大内家小史】

    【大内家小史】大内氏は、一説に百済の聖明王から発すると伝えられ、すでに平安時代には有力な豪族として名をなしていた名族である。百済王の末裔の血を引くというが、勿論確証はない。百済の琳聖太子が祖先で、周防に土着し、初めは多々良氏を称した。多々良は製鉄集団を指

  • 山本晴幸

    山本晴幸(やまもと はるゆき)(1500~1561)【列伝】武田家臣。通称勘助、勘介、菅助。入道名道鬼斎。武田二十四将の一人、武田五名臣の一人。素性不詳の伝説的な軍師。 確かな記録ではないが、明応九年(1500)八月十五日、三河国牛窪に生まれたとされている

  • 【元就の悩み】

    【元就の悩み】 毛利元就には、いつもどこか暗い影がつきまとう。一言でいえば元就は、同じ時代に生きていた織田信長のようなカラッとしたタイプとはかなり違うのだ。極端に言えば、人間不信特に部下不信性格は狷介孤高それでいてマイホーム主義領土確保主義天下に目を向け

  • 【毛利元就に見る覇者の条件】

    【毛利元就に見る覇者の条件】 毛利元就は、戦国武将の中でも傑出している優れた謀略家であり、その謀略を駆使して、安芸の山間の小領主から身を起こし、最後には中国地方十一ヵ国を擁する西国の覇者となった。天才肌の武将ではないかもしれないが、緻密な布石を打って、着

  • 北条高広

    北条高広(きたじょう たかひろ)(1517~1587)【列伝】長尾上杉家臣。丹後守、安芸守。広春の子。越後北条城主、上野厩橋城主。毛利治良の後胤である。 上杉謙信麾下、永録五年長尾景連(謙忠)のあと上野厩橋城にいて活躍した(山吉文書・武家事紀)。 北条氏は、

  • 【傘連判状】

    【傘連判状】元就は慎重派で、根強く時間をかけて、着々と地盤を築いていった。このとき、彼が地盤構築に最も活用したのが、地方の国人衆と呼ばれる地侍の群れである。よく、〝国盗り〟という言葉が使われるが、国を盗るといっても、土地だけの争奪戦ではない。国盗りには、

  • 【杵築大社国造家】

    【杵築大社国造家】 これらは現在の神社や寺とは異なり、それじたいが大領主だった。中でも杵築大社は出雲神話以来の伝統を誇り、領主は国造家と呼ばれていた。つまり大昔のクニノミヤツコを継ぐ家柄なのである。当時は千家と北島家に分かれていたが、山陰の支配者として、

  • 【稀代の謀将】

    【稀代の謀将】毛利元就は合戦、策略、暗殺、買収、婚姻など、勝利のためにあらゆる手段を用いた戦国時代最高の謀略家である。中国地方に一代で大領国を築き上げたことから、「西国随一の戦国大名」とも評される。特に巧みなのが敵将や敵勢力に対する偽報や離間策であり、吉

  • 神屋宗湛

    神屋宗湛(かみや そうたん) (1551~1635)【列伝】博多の商人。通称寿禎、善四郎。神屋家は日明貿易や石見銀山の開発で巨富を築いた豪商である。大永六年(1526)、大内義興の命によって、出雲の銅山師三島清左衛門と相談して、採掘にかかった。その頃は採鉱

  • 山科言継

    山科言継(やましな ときつぐ)(1507~1579)【列伝】山科家出身の公卿で、衰微しつつあった皇室財政の維持に尽力した。費用がかかるためにやり手が少ない上卿(宮廷行事の奉行)も率先して務めたが、そのために生活は苦しく、刀や家宝を質に入れ、医学知識を活かし

  • 荒木村重と福島正則

    荒木村重(あらき むらしげ)(1535~1586)【列伝】義村の子、初め足利義昭の家臣。法名道糞。摂津守。摂津伊丹(有岡)城主。利休高足七人の一人。 織田信長から摂津の地を任されたが、のちに謀叛を起こす。1年に及ぶ籠城戦のすえ、妻子や家臣を捨てて逃走した。

  • 戦国ミニ知識②

    「別働隊」 前線で敵を拘束し、側面を機動させて横撃を加える奇襲攻撃だ。極めて一般的な戦術なので、ちょっとした合戦には必ず応用されている。 当時の合戦は、命令方法が伝令や合図(鐘や太鼓)に頼っていたので、縦長の布陣にならざるを得ない。しかし、それぞれの備は

  • 戦国ミニ知識①

    「竹束の車」(たけたばのくるま) 籠城作戦をとった敵を攻めるのは、難しい戦いだった。相手には城という巨大な楯がある。軍勢をたのんで攻め立てるだけでは、矢や鉄砲の格好の標的になり、犠牲者がたくさん出るばかりである。そこで考案された城攻めの兵器として登場した

  • 龍造寺隆信

    龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)(1529~1584)【列伝】肥前戦国大名。肥前守。肥前佐嘉(賀)城主。 鍋島氏を従え、有馬義貞、大友宗麟と戦って、肥前・筑前・筑後等を殆んで平定。天正十年七月十一日秀吉に送欵(鍋島文書)。十二年三月二十四日、有馬晴信、

  • 【大友家臣団ミニ紹介②】

    【大友家臣団ミニ紹介②】田原親賢(たわら ちかかた)(1537?~1600)【列伝】大友譜代衆、加判衆。奈多鑑基の子、田原親資の養子。近江守。別名紹忍。 田原氏は志賀一族と並ぶ大友家の支族だが、親賢は庶流の奈多氏の出身である。 大友宗麟・義統親子に重用され

  • 【謀略に暗躍した人々】

    【謀略に暗躍した人々】「忍者」 忍、乱破、素破等の呼び名で知られる。 城の構造物、櫓や郭など支城網を構成する砦の破壊など、周辺の補助防御施設を含めた要塞群の弱体化、等小部隊による破壊工作が主な活動であろう。 当時の城にはこういった活動で落城した例もあるが

  • 【世鬼一族】

    【世鬼一族】 毛利元就の謀略戦術には、よく忍者が登場する。毛利家臣の家に伝わる諸記録を集成した『萩藩閥閲録』(毛利家文書)などを見ると、毛利氏の有名な忍者に世鬼一族の名がその史料に出てくる。「常々御中間に罷り成り、そのうちへ相交わり、地下にても御中間とと

  • 立花道雪

    立花道雪(たちばな どうせつ)(1513~1585) 大友重臣。戸次親家の子。立花宗茂の養父。別名戸次鑑連。伯耆守。筑前立花城主。「雷の化身」。【列伝】 吉弘鑑理・臼杵鑑速と並ぶ大友宗麟の「三老」の一人で、初めは戸次鑑連といった。 道雪は大友家中随一の闘将

  • 【戦国社会の諜報活動】

    【戦国社会の諜報活動】 戦国大名は、情報収集と敵の撹乱などのため、その道の専門家である忍者を抱えていることが多かった。 当時、忍者は「しのび」と呼ばれ、「くさ」とか「かまり」などとも言われていた。地域によっては、乱波、透波、鳥波などとも言った。 しかし、

  • 【大友家臣団のミニ紹介】

    大友親家(おおとも ちかいえ)(1561~1641) 大友一門。大友宗麟の次男。常陸介。別姓田原宗麟は親家を寿林寺に入れたが、僧侶になることを嫌い武道の修行に専念、「無理やり僧侶にするなら自殺する」と言うほど激しい気性の持ち主、田原親賢の養子となった。 謀

  • 【腰の低さを保ち続けた「婚姻政策」と「養子送り込み戦略」】

    【腰の低さを保ち続けた「婚姻政策」と「養子送り込み戦略」】 どうしても、戦国武将というと専制君主的な剛将、あるいは猛将を頭に描きがちである。 しかし、その点でも元就は異質だった。元就は剛将でもなければ猛将でもなかった。腰が低く、下手に出ることが平気な武将

  • 【大友家について】

    【大友家について】 豊後を本拠に戦国大名として北九州一帯に覇を唱えた大友氏は、鎌倉幕府草創記の功臣中原親能の猶子であり、豊後・筑後両国の守護に任じられた能直を祖とする。一説には源頼朝の落胤能直の嫡流と伝えられる。鎌倉時代に相模大友郷から頼康が下向して土着

  • 【何故元就は稀代の〝智将〟と云えるのか?】

    【何故元就は稀代の〝智将〟と云えるのか?】 毛利元就は、嫡男隆元に宛てた自筆書状の中で、「ひとヘニゝ武略・計略・調略かたの事までに候ゝ」といっている(『毛利家文書』)。 要するに、「戦いの基本は武略と計略と調略だ」といいきっているのである。 武略・計略・

  • 【毛利家の軍学】

    【毛利家の軍学】 元就は多治比での不遇時代、勉学に勤しみ、家伝の大江流兵法を会得した。毛利家の本姓は大江氏であり、この大江氏は代々、学問をもって朝廷に仕えた家柄である。学問とは文章道と兵法である。大江氏の始祖である音人は詩文に優れ、その子孫は菅原氏と並ん

  • 【毛利軍の得意戦法】

    【毛利軍の得意戦法】 毛利軍が得意とした戦法は、いわゆる力攻めなどではなく、元就の個性を反映した奇襲戦であった。調略や巧みな武略をもって相手の戦力を削ぐか、あるいは戦意を喪失させたうえで巧みに攻め落とす、という作戦である。 勿論、相手あっての作戦であるか

  • 足利義輝

    足利義輝(あしかが よしてる)(1536~1564)【身分】室町幕府十三代将軍【父母】足利義晴、近衛尚通の娘【初名】義勝、義藤【官位】左馬頭、左近衛中将【列伝】室町幕府十三代将軍。初め義藤と称す。父は十二代義晴。 十二代将軍義晴と近衛尚通の娘との間に嫡男と

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