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毛利元就家臣団列伝 http://blog.livedoor.jp/sakonsimotukenokami/

趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

素人が趣味で研究しているブログです。宜しく願います。

佐近下野守
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2017/07/12

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  • 第55話【坂氏について】

    【坂氏について】坂氏は、『吉田物語』所載坂氏の系譜によると、坂氏の始祖は安芸吉田毛利家第4代元春の舎弟匡時で、大膳大夫を称した。この坂氏は代々毛利氏の執権職を務め、『毛利家文書』により分明なものは、坂氏第三代の広秋、第四代広明と続き、そのあとは広明の弟

  • 第54話【元就逸話集】

    【雨を祈って政を正す】ある年、元就の領国に日照りが続き、百姓が集まって毎日雨を祈った。元就は百姓の雨乞いを制止して、自ら潔斎して天に祈った。戦死者の跡を手厚く弔い、忠節の臣に加禄し、軍功の家に新しく物を贈って、3日の施行をした。施行終わって2日目に大雨

  • 第53話【少年の大志】

    【少年の大志】 『江譜拾遺』、『名将言行録』に掲載された逸話に「規模」というのがある。「少輔次郎が12歳のとき、家来たちとともに安芸の厳島神社に参詣した。参詣がおわって帰りがけに、元就は家来たちに、今日お前たちは何を祈ったかと聞いた。家来たちは、みん

  • 第52話【大内軍の上洛と大内傘下の興元の従軍】

    【大内軍の上洛と大内傘下の興元の従軍】永正5年(1508)6月、この時期の京都は、室町幕府を支えていた畠山政長が、擁立した室町幕府第10代将軍・足利義稙(義材、義尹)に、細川政元がクーデターを起こし、足利義澄を擁立したことで、将軍足利家の分裂と畠山・細

  • 第51話【井上氏との関わり①】

    【井上氏との関わり①】 ここで、松寿丸が大方殿とともに訪れたのが、井上光兼の屋敷であったことに注目したい。この井上一族は郡山城下の有力者だった。この一族は吉田の交通の要衝を握り市場の管理権を持つ実力派で、しかも他の国人領主とも親しく、譜代の臣下とはいえ

  • 第50話【日輪信仰と元就と宗教】

    【日輪信仰と元就と宗教】11歳の時、井上光兼の屋敷に一人の客僧が訪れた。客僧は人々に念仏を説き、光兼の所から、旅の僧が来ていて念仏の大事を授けるから、という案内があった。杉の大方殿は、松寿丸を伴って、光兼の屋敷に向かった。そこで一緒に聴聞し、念仏の

  • 第49話【兄の元服・毛利興元の誕生】

    【兄の元服・毛利興元の誕生】 永正四年(1507)1月17日、安芸高田原で宍戸軍と合戦。4月3日、甲立で、宍戸軍と合戦。11月16日、15歳になった兄の幸千代丸は、大内家に対して忠誠を誓い、大内義興を烏帽子親として、「興」の偏諱を受けて毛利興元と名

  • 【元就と宗教】

    【元就と宗教】元々、毛利家は代々臨済宗で、菩提寺は安芸吉田の興禅寺である。当時、興禅寺村が置かれ、寺領を与え保護している。興禅寺は後に広島に移り、安芸吉田の興禅寺跡は現在、郡山公園になっている。 しかし、元就は、必ずしも宗派にこだわっていなかった。元就

  • 第48話【元就の人間学】

    【元就の人間学】 元就が隆元に語った自身の生立ちによると、元就は5歳で母に、父には10歳で死別、14歳の兄興元も京に出陣中だったのでまったくの孤児同然となった。これを不憫に思い、元就のために若き身をかえりみず再婚を断念し、貞女をとげた父の後室大方殿に

  • 第47話【義母杉大方の教育】

    【義母杉大方の教育】 いずれにしても、松寿丸は貴公子然とした穏やかな顔をしていた。そんな松寿丸が急に武芸に身を入れ始めたのは、多治比を横領した井上元盛が死んで、猿掛城に復帰して間もなくのことである。継母の杉の大方は、松寿丸から武芸を取り上げていた弘元の

  • 第46話【逸話「少年の大志」】

    【逸話「少年の大志」】 松寿丸は猿掛城に戻ってから間もない頃、初めて家来数名をつれて厳島神社に参詣した。帰城してから伴をした者に、「そちは厳島の神に何を祈ったか」と問うた。家臣は、「若君が安芸の太守になられるよう祈りました」と答えた。それに対し

  • 第45話【井上元盛横領事件】

    【井上元盛横領事件】松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、兄がいうように気楽な身ではない。元就の述懐によれば、収入も、ろくに手にすることができなかったという。父の死後まもなく、あわよくば毛利の所領を乗っ取ろうという魂胆のあった家臣の井上元盛(惣領井上

  • 第44話【父弘元の死】

    【父弘元の死】永正三年(1506)1月21日、松寿丸10歳のときに、綱渡り外交を続けながらも、どうにか毛利氏を潰さなかった、父弘元が、その心労と酒害により多治比猿掛城内で死去。享年39歳。酒の飲み過ぎが原因と伝えられている。大国との狭間での日々の苦悩

  • 第43話【安芸の特産品】

    【安芸の特産品】安芸は古くから木材の産地であり、安芸榑は特産品として需要が多かった。小瀬川、太田川、沼田川、そして芦田川など、芸備両国内の河川の河口は、上流からの物資の集積地であり、商人らも集住し、地域の流通経済と内海水運との接点として機能した。領主は

  • 第42話【毛利の君臣関係】

    【毛利の君臣関係】毛利の君臣関係は、江戸時代のような関係ではなく、安芸の郡山城を中心に元就は領地を持っているが、家臣たちも大小様々の領地を持っている。その中で有力なのは親類衆(庶家)で、かなり以前に毛利本家から分かれた、坂、有富、麻原、中馬、福原がそ

  • 第41話【酒の戒め】

    【酒の戒め】 元就の記憶にある父弘元は、いつも酒を飲んでいた。「よほど、うまいものらしい」 で、7、8歳の頃、こっそり盗み飲みしようとして、杉の大方に見つかり、「そなたも死にたいのですか」 こっぴどく叱られたことがある。 母が亡くなって以来、

  • 第40話【「裁断」(狐の罪も許さず)】

    【「裁断」(狐の罪も許さず)】 次に「裁断」と題して、「松寿丸が7歳になったとき、白い鶏を愛好し飼育していたが、ある夜、忽然として消え失せた。明くる日、驚いて所々を探し回ったところ、庭の築山のあたりにその鶏の羽が散らばっており、近くの築山に狐の穴があ

  • 第39話【「寛容」】

    【「寛容」】 松寿丸時代の逸話として、岡谷繁実の『名将言行録』によると、「寛容」と題して、「元就は幼名を少輔次郎といった。その傅(守役)が、あるとき松寿丸を抱いて多治比川を渡っていたとき、誤って石に躓いて倒れ、松寿丸を水中に落として溺れさせた。守役は

  • 第38話【杉の大方について】

    【杉の大方について】 生母福原氏に代わって松寿丸の養育に努めたのは、杉の大方と呼ばれる高橋氏である。松寿丸の実質的な母親は、この杉の大方であった。 杉の大方は弘元の側室であったが、「弘元子女系譜書」にいう御袋腹ではない。元就は弘治四年(1558)8月

  • 第37話【吉田郡山城の絵図】

    【吉田郡山城の絵図】 吉田郡山城を描いた絵図は実に20数点も存在する。その中でも、代表的な絵図として知られている『吉田郡山御城下古図』(山口県文書館蔵)がある。 本図で絵画的に表現されているのは、縦長の紙面上北方の郡山城と内堀・外堀、城下の街路、その

  • 第36話【郡山城と輝元時代】

    【郡山城と輝元時代】 輝元は天正十年代前半の時点では、郡山城の修築と城下の整備につとめていた。その重点は、堀を含む山麓部分の城郭の整備と城と城下の威容を整えることにおかれており、大門。会所などの建造物を建てることや城下の建物を白壁に塗ることなどが行われ

  • 第35話【郡山城の構造】

    【郡山城の構造】 中枢部郭群は山頂部を利用したもので、本丸・二の丸・三の丸・御蔵屋敷ほかからなる。内部郭とは5~20メートルの比高差があり独立性が強い。さらに南側には高さ2~5メートルの石垣もみられ、少なくとも南側の城下に面した方向については石垣を築い

  • 第34話【収集能力の限界に達した中世の山城】

    【収集能力の限界に達した中世の山城】 毛利氏は、多くの戦国大名と同様に近隣の国人や土豪を次々と支配下に組み入れて領国を拡大していった。その結果、毛利氏の家臣団の大部分は、自らの居城を有する城主層が占めた。そのような家臣団の構成では、その全兵力が同時に一

  • 第33話【郡山城での生活】

    【郡山城での生活】 元就の代になって郡山全山に城郭が拡張されると、郡山城は、山上部分の「城」と山麓部分の「里(麓)」に区分されるようになる。山頂は「かさ」と呼ばれ、元就の居所があった。後に家督を相続した隆元は「尾崎」と呼ばれる郭にいた。山上の郭には、年

  • 第32話【城内の様子】

    【城内の様子】 城内の様子は不明だが、広島城を参考にして考えてみる。毛利氏時代の「広島城絵図」(毛利家文庫「芸州広島城町割之図」)によると、御本丸を囲む内郭部分では吉川・小早川氏のほか、福原・桂・志道・粟屋・国司・赤川・口羽など譜代の近臣が配置されてい

  • 第31話【元就入城と大改修】

    【元就入城と大改修】大永三年(1523)、元就が家督を継いで猿掛城から本城郡山城へ入城。この頃の郡山城の原形は、旧本城だけの規模の小さな山城であった。室町時代中頃になって築かれたものと考えられる。その時の郡山城は、郡山の東南の一画に過ぎず、曲輪の数は

  • 第30話【初期の郡山城】

    【初期の郡山城】国人領主から戦国大名として毛利家が一貫として本拠とした郡山城。郡山城は毛利家の城として知られているが、築城の時期については明らかでない。 当初は郡山東南麓の本城といわれる部分のみを城地としており、16世紀中頃の元就による城域の拡大、輝元

  • 第29話【郡山城の歴史】

    【郡山城の歴史】正中二年(1325)、郡山山麓に祇園・崇道社(清神社)が造立。郡山のある吉田荘は十二世紀には京都祇園社の荘園となっている。 承久の乱(1221)以降に毛利氏が安芸吉田荘を得る。建武三年(延元元、1336)、城の歴史は古く、江戸時代の

  • 第28話【城の構造】

    【城の構造】 吉田郡山城の遠景は、可愛川と多治北川の間の市街地に城下の町屋があり、その背後に郡山城が建てられていた。城は、そそり立つような急な斜面である標高390メートルの郡山の四方に伸びた屋根頂に築かれている。城の構造は、中央部の山頂に本丸と二ノ丸

  • 第27話【郡山と吉田盆地】

    【郡山と吉田盆地】 毛利家の本城郡山城は標高390メートル、比高100メートル(約190メートルの郡山に築かれている説あり)の郡山に築かれた大規模な山城で、吉田盆地を南に見下ろすことができる。 郡山は前面南を多治比川が流れ、側東を可愛川(江の川)が流

  • 第26話【父の側室「家女房」】

    【父の側室「家女房」】 松寿丸の母が亡くなったころ、弘元にはもう一人側室がいた。それが家女房、通称御袋様である。難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。父は難破勘兵衛元房、佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男相合元綱、次女八幡の上様、

  • 第25話【生母・福原氏の死】】

    【生母・福原氏の死】元就の生母は父弘元の正室・福原氏である。福原氏は毛利家と先祖を同じくする長井氏の後裔で、安芸の内部荘福原村に居住したので、この名がある。福原氏の系譜には広俊、貞俊の名が交互に続いているが、元就の母は、鈴尾城主・福原武部大輔広俊の娘で

  • 第24話【苦肉の策】

    【苦肉の策】 文亀元年(1501)1月、毛利弘元は幕府に一書を呈した。幕命を謹んで受けるという内容の物で、幕府は喜んで次の指令を出した。大友親治らと協議して、早々に義稙や大内義興を討つようにと。追っかけるように、僧の慧通らの幕府からの使者が安芸に下向し、

  • 第23話【猿掛城の歴史】

    【猿掛城の歴史】郡山城の北西およそ4キロほどの多治比にあったので、多治比城ともいわれ、元就も多治比殿と呼ばれていた。弘元の子幸松丸がそのまま何事もなく成長していれば、元就は当主の叔父という立場で、そのまま一生をこの猿掛城で送っていたものと思われる。

  • 第22話【猿掛城の構造】

    【猿掛城の構造】 猿掛城の遺構は山上の中心部郭群・寺屋敷郭群・物見丸と山麓の出丸・悦叟院跡からなる。 山上の中心部郭群は、屋根続きの南側背後を深さ10メートル以上の堀切で区切り他の三方は急峻な崖にそれぞれ小郭をつけたもので、約5000平方メートルの広

  • 第21話【猿掛城について】

    【猿掛城について】 前面を多治比川が流れ、本丸の南側には土塁や堀切。出丸や物見丸、山麓には館を配した典型的な中世の山城である。元就が青少年期を過ごした城として知られ、麓の悦叟院の森には、父弘元と母福原夫人の墓が並んでいる。 猿掛城は吉田盆地の北西方に

  • 第20話【猿掛城へ隠居】

    【猿掛城へ隠居】3月29日、幕府と大内家の勢力争いに巻き込まれた父毛利弘元は33歳のとき、隠居を決意。まだ壮年であったが、病を得ていたのかも知れない。弘元は、任を解かれて吉田へ帰ると間もなく、多治比300貫の領地、その他、郡山城をはじめとする毛利氏の本

  • 第19話【家女房】

    【家女房】家女房は弘元の側室で難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。別名に御袋様とも呼ばれる。父は難破勘兵衛元房、或は佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男元綱、次女八幡の上様、三女相合の大方、四女松姫、五女竹姫の一男四女を儲ける。郡

  • 第18話【小領主毛利弘元】

    【小領主毛利弘元】 毛利氏の本拠は、安芸高田郡の吉田の里。中国山脈の山裾に近い平明の地だが、安芸は20を超える土豪が割拠していた。毛利氏の居城郡山城は可愛川を裾に巻く丘陵の一端にあり、もとより小規模である。父弘元は、文明八年(1476)、元就の祖父豊

  • 第17話【古河内守 井上光兼】

    【古河内守 井上光兼】 明応8年(1499)11月、将軍の座を追われた足利義稙が義興を頼って周防山口へ下向するに及び、毛利氏は大内家に従い京へ従軍。そのため父弘元は、ほとんど郡山城にはいなかった。 内政面では、井上惣領家の井上光兼が、この頃に隠居。惣

  • 第16話【安芸国人温科氏の謀反】

    第16話【安芸国人温科氏の謀反】明応8年(1499)2月、明応の政変で幕府から追放された前将軍・足利義尹(義稙)は、大内義興を頼って周防へ逃亡。毛利弘元は、義興や義稙自身からも、京都で復権できるための援助を依頼され、幕府からも義稙討伐に力を尽くすよう命

  • 第15話【毛利家の軍学】

    【毛利家の軍学】 元就は多治比での不遇時代、勉学に勤しみ、家伝の大江流兵法を会得した。毛利家の本姓は大江氏であり、この大江氏は代々、学問をもって朝廷に仕えた家柄である。学問とは文章道と兵法である。大江氏の始祖である音人は詩文に優れ、その子孫は菅原氏と並

  • 第14話【元就の軍配・陣旗(軍幟)・馬印】

    【元就の軍配・陣旗(軍幟)・馬印】 元就所用の伝えのある軍配(毛利博物館蔵)は、金箔地の面に黒漆で縁を塗り、頭金具は銀製唐草文を毛彫りしてある。軍配の握りは鹿革で紅緒を付けている、豪華なものであることが分かる。 部隊や個人の識標である旗・指物・馬印は

  • 第13話【大内義興】

    【大内義興】政弘は歌人としても優れ、大々名でありながら一流の文化人であった。政弘の政は、8代将軍義政から賜った偏諱である。その政弘から、弘の字を、毛利弘元が賜っている。こうした関係の深さを見ると、なぜ弘元が、尼子家に気兼ねしたのかわからない。大内家の

  • 第12話【山口の繁栄】

    【山口の繁栄】 大内家の所領は本拠の周防を中心にして、西は長門、豊前・豊後の一部に及び、石見から安芸、備後と東方に広がり「六分一ノ殿」とさえ呼ばれていた。日本全国の六分の一を領する殿、というわけだ。 大内家はすでに150年以上も、中国の覇者として君

  • 第11話【守護大名支配の崩壊と国人領主の台頭】

    【守護大名支配の崩壊と国人領主の台頭】文明四年(1472)1月、応仁の乱も開戦以来、すでに5年が経過し、ついに山名持豊から細川勝元に和平を申し入れる。事実上の停戦である。 というのは、京で戦う守護大名らの領国で、守護代や国人大名などの在地領主が地侍を

  • 第10話【誕生地説と風貌について】

    【誕生地説と風貌について】 松寿丸の誕生地については、両説がある。一つは吉田の旧郡山城の御土居説。もう一つは、福原の鈴尾城内説。どちらが正しいか。 旧郡山城というのは、現在の郡山の東南へ突出した尾根にあった山城で、その城跡は大江峠親城跡と呼ばれている

  • 第9話【松寿丸の誕生】

    【松寿丸の誕生】3月14日 安芸吉田郡山城を本拠とした吉田荘の地頭で、安芸毛利家9代毛利弘元と正室祥妙(福原広俊の娘)との間に次男として安芸吉田に産まれた。幼名は松寿丸、仮名は少輔次郎。 母の祥妙の父は福原家三代当主広俊で、兄には四代当主貞俊が居る

  • 第8話【板ばさみの状況に置かれた毛利弘元】

    【板ばさみの状況に置かれた毛利弘元】父・豊元死去にともない、わずか9歳で家督を継ぐ。しかし、父・豊元の時から家宰を務めていた坂広秋、広明父子が、幼少時代の弘元を支え、先代からの遺領を大過なく守った。文明十年(1478)、幼名を千代寿丸といったが元服し

  • 【半独立勢力の井上氏】

    【半独立勢力の井上氏】元兼は主に財政面において活躍し、元就の補佐を努めて大いに功績を上げ、毛利家の創業を補佐した。しかし、もともと、井上氏は毛利氏とは同じ独立した国人領主であり、井上氏の経済力、元兼(井上総領家)の初期の経済基盤は、毛利氏によって与えら

  • 第7話【応仁の乱と毛利豊元】

    【応仁の乱と毛利豊元】 毛利豊元は室町時代の安芸国の国人で毛利家第48代当主、8代の郡山城主。備後守護・山名是豊の麾下として、河内・紀伊を転戦。「豊」の字も山名是豊から偏諱を受けて名乗った。 17歳から18歳にかけ、豊元は、畠山義就軍を河内、紀伊で

  • 【天文19年10月23日付隆景宛の手紙】

    井上党粛清直後の10月23日付隆景宛の手紙には、「われわれなどは井上の者と共に興元死去以来40年、悉皆の者共を主人に仕り候てこらへ候。そのうちの口惜しさなとは、いかばかりとおぼしめし候や。既に40年の事に候間、長々敷かんにん、申すもおろかに候」 とある

  • 【井上党の祖先】

    【井上党の祖先】 井上党の祖先は、源頼信の次子・頼季と伝え、頼季が信濃高井郡井上に住んで井上を称したのに始まるが、南北朝時代にその子孫が安芸吉田に移住し、元就の曾祖父・熙元の時代に、毛利氏の姻戚となった。 元就の父・弘元の時代に、井上光兼が毛利家の家

  • 第6話【驍将・毛利煕元】

    【驍将・毛利煕元】 毛利煕元は、室町時代の武将で、父は毛利光房。幼名は少輔太郎。戦いに明け暮れた驍将である。初めは父の一字を受けて煕房と名乗り、のち煕元に改名。「元」は祖先の大江広元や曽祖父・元春の偏諱に由来するもので、煕元以降の当主も代々通字として

  • 【ザビエル来日】

    【ザビエル来日】山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによっ

  • 第5話【毛利氏中興の祖・毛利元春】

    【毛利氏中興の祖・毛利元春】 毛利元春は、13歳で元服し、曽祖父・時親の代官として足利尊氏に一貫して従った。その忠勤により足利家執事高師直の兄弟・師泰から一字拝領し師親を名乗る。後に元春と改名。暦応四年(1341)、元春の後見役の曾祖父・時親が死去。

  • 第4話【安芸毛利氏の始祖・初代郡山城主の毛利時親】

    【安芸毛利氏の始祖・初代郡山城主の毛利時親】 安芸毛利氏の基盤を固めたとされる時親は、鎌倉、南北朝時代の武将で経光の四男である。 文永七年(1270)、父・経光は、越後佐橋荘を南北二つに分け、長鳥川より以南を南条荘、長鳥川以北を北条荘という様に呼び、

  • 第3話【毛利氏発祥の毛利季光】

    【毛利氏発祥の毛利季光】毛利季光は、建保六年(1218)から承久三年(1221)の間に長楽寺の隆寛に帰依して出家し、法名を西阿といった(『神奈川県史』通史編1原始・古代・中世)。その関係で隆寛は季光の所領である毛利荘に招かれ、晩年をそこで過ごし、毛利荘

  • 第2話【毛利家の家紋「一文字三つ星紋」】

    【毛利家の家紋「一文字三つ星紋」】 室町幕府を経て戦国時代を迎えるまでの間に、公家は名誉のみを残して勢力を弱め、代わって武家が政治の中枢を握ようになり、家紋の担い手も武家の手に移っていった。武家政権が維持される中、家紋が「地位の象徴」として位置付けられ

  • 第1話【毛利家の系譜と毛利姓の由来】

    毛利氏の系譜は、その祖を天穂日命という神別系図に繋がり、途中、大江音人などを経て、季光にいきついている。つまり大江氏の末裔であった。しかし、江戸時代の初期に毛利氏が徳川幕府に提出した『寛永家譜』では毛利氏の祖は平城天皇とし、皇別系譜に属していることにな

  • 【家女房】

    【家女房】家女房は弘元の側室で難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。別名に御袋様とも呼ばれる。父は難破勘兵衛元房、或は佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男元綱、次女八幡の上様、三女相合の大方、四女松姫、五女竹姫の一男四女を儲ける。郡

  • 【美作について】

    【美作について】 美作は古くから「境目の地域」と言われ、尼子家、毛利家、織田家等の大勢力の侵攻を度々受けていた。そして、何よりも美作には、強大な領主権力が存在しなかった事が知られている。南北朝以降、主に山名氏や赤松氏が守護として任命されたが、その関連史

  • 『吉田物語』

    【吉田物語】 『吉田物語』11巻は、『吉田記』ともいわれ、萩藩士の杉岡元就房が元就・隆元・輝元三代の事蹟を記した書物であり、筆者の就房は毛利家の宝庫預役で、毛利家の古文書・諸記録を閲覧することができたから、この書物も毛利家および古社寺の旧記や古文書を引用

  • 【吉川氏の歴史】

    【吉川氏】 もともと吉川氏の本貫の地は、駿河だ。駿河入江荘に吉川邑。 大朝の地名もあり、小倉城、小倉山城、大朝城とも呼ばれる。 吉川国経の城は、甲立の吉田からは、じっと周防に近い。したがって、それだけ大内派勢力の影響が大きいが、尼子家が吉川氏に手を

  • 【愛妻家伝説】

    【愛妻家伝説】 元就の愛妻伝説が生まれ、一人歩きするようになったのは妙玖が亡くなってから後のことだという事実に注目すると、これには注意しておく必要がある。わかりやすくいうと、元就の愛妻伝説は「亡妻追慕」のタイプだった。 亡妻追慕もまた愛妻なのには間違

  • 【小早川家略史】

    【小早川家略史】「瀬戸内海を制する者は中国を制す」という。小早川家は水軍の家柄で、この小早川家がもつ水軍の力は魅力であった。元就は早くからこの家に目をつけていた。小早川家には兄・興元の娘が嫁いでいる。 小早川隆景は、毛利元就の三男である。小早川家に養

  • 福井元信

    福井元信(ふくい もとのぶ)(?~1578)【列伝】武田家外様衆。川の内警固衆。通称十郎兵衛尉。官位出雲守。武田一族といわれる。武田水軍の指揮官の一人だったが、安芸武田家滅亡後、毛利家に移り、山県就相らと共に、川の内警固衆の一員として瀬戸内で活躍。天

  • 【厳島神主家】

    【厳島神主家】 安芸国を中心に中国地方、瀬戸内海に大きな権威を持つ厳島神社の神主家。同時に、安芸国西部を中心とした広大な社領(厳島神領)とその在地支配を担う家臣団(厳島神領衆)を支配する有力な国人領主でもあった。元来、厳島神主家は安芸国造の系譜をひく

  • 【毛利水軍の発足】

    【毛利水軍の発足】 天文十年(1541)7月23日、元就は、大内義隆から佐東銀山城攻略の恩賞として、武田氏の旧領の一部で、佐東川(太田川)の川の内に位置する佐東郡緑井(400貫)・温井(300貫)・原郷の内(190貫)・矢賀(35貫)・中山(75貫)と

  • 【郡山籠城戦の総評】

    【郡山籠城戦の総評】 郡山合戦における毛利方の勝因もしくは、尼子方の敗因の第一は、大内家の援軍の力である。後詰の援軍のない籠城戦には、勝利の見込みはほとんどないのである。大内家の援軍の第一陣は西条にいた杉隆宣と竹原の小早川興景であり、九月二十六日以前に

  • 毛利弘元

    毛利弘元(もうり ひろもと)(1466~1506)【身分】安芸国人領主、安芸吉田荘地頭、毛利氏当主【役職】大内氏の被官【父母】毛利豊元嫡男【幼名】千代寿丸【官位】治部少輔【兄弟】毛利元鎮(弟)【妻】福原広俊の娘(正室)、杉大方(継室)、家女房(側室)、【

  • 【国人一揆と元就】

    【国人一揆と元就】 安芸国の守護大名は甲斐武田氏の分かれの武田氏だった。しかし、この武田氏の力はそう強いものではなく、むしろ、毛利氏と同じくらいの力をもった国人領主たちが群雄割拠する状態が続いていたのである。 しかし、国人領主も、一人一人では弱いので

  • 【奥出雲の鉄】

    【奥出雲の鉄】 奥出雲地方は、『出雲国風土記』仁多郡の条に「諸々(もろもろ)の郷(さと)より出す所の鉄(まがね)、堅くして、尤も雑具(くさぐさのもの)を造るに堪(た)ふ」とあるように、古代から優秀な砂鉄生産地であった。 奥出雲の砂鉄生産と販売権を奪取すれば、尼

  • 【元就の評価】

    【元就の評価】 後年、毛利秀元は、その著『元就伝』の巻末に、「軍旅政務の内、神をうやまひ、民を愛するのみならず、暇あれば和歌・連歌の興に乗じて、此の道のたすけとす、まことにめでたき良将なり」 と記している。『名将言行録』の中で岡谷繁実は、部将とし

  • 【大内氏と厳島神主家の関係】

    【大内氏と厳島神主家の関係】 中国の王、山口の大内氏は、数ヵ国の守護職に補任された有力大名である。特に、国際港の博多を掌握して、日明貿易の巨富による城下山口の繁栄は、西の京都と称されるに相応しかった。大内弘世は、南朝勢力を攻略すべく安芸に侵攻した。国

  • 【国人衆と元就】

    【国人衆と元就】 決して天下を望んではならない。父の時代に領有した領地の保全だけ努めよと命ずる。この考え方の底には、「地侍連合による、地域自治」の理念があった。 元就は、つねに国人衆の動向に目を付けていた。動向というよりも、その実力に対してである。元就

  • 【水軍兵力を持つ海上の豪族「海賊」】

    【水軍兵力を持つ海上の豪族「海賊」】 海賊というと悪いイメージで理解されるが、中世では水軍兵力を持つ海上の豪族という意味合いで使われていた。 例えば、古代以来の名族宗像氏や松浦氏は海賊大将であり瀬戸内海でも忽那、河野、多賀谷、小早川などの有力豪族(国

  • 『毛利元就郡山籠城日記』

    【籠城日記の虚実】 籠城戦のイメージは、江戸時代以降に記された軍記物によって作られたものである。元就は、合戦終了後まもない二月十六日にこの合戦の経緯をつぶさまにまとめた。『毛利元就郡山籠城日記』と呼ばれる文書は、郡山合戦を戦った当事者の記録として貴重な

  • 【戦国の軍船・安宅船の誕生】

    【戦国の軍船・安宅船の誕生】 水軍というと日本人は勇壮なロマンを感じるようだが、上代から中世を通じて海上戦闘を目的とした近代海軍のような常備軍はなかった。実態はいざという時に平時の輸送船を楫(かん)取(とり)・水手(かこ)諸共徴発し、これに武士が乗ったもので

  • 吉田郡山城の拡張

    【吉田郡山城の拡張】 標高400メートルの山頂には本丸、二の丸などの中枢部が並び、その周囲を輪状に内郭部が囲んでいる。 山頂の本丸は、比高190メートル、その北端はさらに5メートル高い物見台となる。本丸とその南方の二の丸、さらにその東南に続く三ノ丸や

  • 【隆景に期待する元就】

    【隆景に期待する元就】 毛利元就が、隆元・元春・隆景の三子にあてて、三人が協力して毛利氏を守りたてるべきことを切々と訴える、三子への教訓状の中で、元春・隆景の順で書くべきところを、故意か無意識にか、嫡男隆元の次に三男隆景の名を書き、次男元春を最下位におい

  • 【陶興房について】

    【陶興房について】 大永元年生まれだが、年齢は定かではない。隆房ほどの人物が、不詳だというのは、父親の興房との関係もはっきりしないのが原因だ。説が二つある。 興房の次男説と養子説だ。興房の妹婿・問田紀伊守の子が、利発聡明だったので、養子にしたという。 ど

  • 【木津川口の合戦】

    【木津川口の合戦】石山本願寺・一向一揆と織田信長との十一年にわたる戦争。上洛した信長から銭五千貫と大坂退去を要求された本願寺法主顕如は、元亀元年(1570)諸国の坊主・門徒へ法敵打倒の蜂起を命じた。一揆は各地で信長軍と激戦するが、天正二年(1574)伊勢

  • 隆景について

    【隆景の「大内家の滅亡」を予言した先見の明】 小早川隆景の少年時代について、興味深い物語が伝えられている。 その頃、毛利氏はまだ大内義隆に属していた。毛利氏の様な国人領主は、大内義隆に属している証として、子供等を人質として差し出していた。元就の嫡男隆元が

  • 小早川氏の歴史

    【小早川氏の略史】桓武平氏土肥実平の後裔といわれ、嫡流筋の沼田小早川氏は”平”の字を通字としていた。つまり相模国早河庄土肥郷の土居実平の子弥太郎遠平が小早川氏を称しており、実平・遠平父子が頼朝の伊豆旗揚げ以来従って功を挙げ、実平が備前・備中・備後の守護と

  • 鵜飼元辰

    鵜飼元辰(うがい もととき)(?~1599)【列伝】小早川家臣。父岩内長明。兄岩内長辰。妻田坂全慶の女(正室)。子景一、元益、就一、徳岩、女(児玉景唯室)、女(高山盛聡室)。新右衛門尉、鵜新右。法名紹達。近江の猿楽師出身(父が猿楽師とも)。はじめ毛利元就・

  • 【尼子家臣団の地位】

    【尼子家臣団の地位】 近江琵琶湖竹生島宝厳寺造営に際して尼子詮久が奉加を命じた、同年八月十九日付奉加帳『自尊上人江御奉加目録』による尼子家臣団の構成をみると、 尼子久幸「一門第三位」尼子豊久「一門第四位」尼子晴久「一門第五位」 尼子敬久「一門第七位」 尼

  • 【村上水軍について】

    【村上水軍の祖】 村上水軍の祖、村上筑前守仲宗は源頼義の弟・村上頼清の子で、頼義が伊予守のとき、海上交通の要地で風早の鳴門と呼ばれた大島に城を築き、瀬戸内海支配の基を作った。 平治の乱で源義朝は没落し、そのとき塩飽島にいた村上讃岐守源清長は身の危険を感じ

  • 立原久綱

    立原久綱 (1531~1613) 尼子重臣。源太兵衛尉、山中幸盛の叔父。晴久の時代から尼子に仕えた重臣。山中鹿之介の叔父にあたり参謀的な存在であった。義久の近習衆として月山富田城の籠城戦に活躍し、鹿之助が富田川の中洲で品川大膳と一騎討ちをした時、危ういとこ

  • 【少年の大志】

    【少年の大志】 初めて厳島神社へ参詣した。参拝を終えて境内を出た時、少輔次郎が従者に向かって、「お前達は今日、何を祈ったか」と聞いた。すると家来達は、みんな若殿の気に入るように答えたが、その中の一人が、「私達は、ただ若殿が安芸、備後など中国を治める主にな

  • 亀井茲矩

    亀井茲矩 (1557~1612)【列伝】尼子、豊臣家臣。多胡辰敬の孫。初名は真矩(亀井文書)新十郎、武蔵守、琉球守、台州守。因幡気多郡鹿野城主。最初尼子家に仕えたが、尼子家滅亡後、流浪の身となる。後山中幸盛等と共に尼子家再興をはかり、尼子家の旧臣亀井姓を名

  • 【逸話の小話集】

    【狐の罪も許さず】松寿丸は、7歳の頃、白鶏を可愛がって城内の一部に飼っておいたが、ある夜、どこかに姿を消した。松寿丸はやっきとなって捜し歩き、丘の根元にその羽根が散らばっているのを発見した。さらに注意深く見てまわると、近くに小さな穴がある。その穴に棲んで

  • 『雲陽軍実記』

    『雲陽軍実記』(うんようぐんじっき)河本大八 著 尼子晴久の家臣に、河本隆政という男がいた。戦いで怪我をし、侍を辞して寺に籠り、尼子と毛利の合戦を書き綴った。それが『雲陽軍実記』である。その中に、毛利、大内、尼子の盛衰論評がある。 隆政は、尼子にはじつに

  • 【元就死後の両川体制の解体】

    【元就死後の両川体制の解体】 元亀二年(1571)、余命を使い果たしたように元就は病死。両川として毛利氏の飛躍に力を添えてきた吉川元春・小早川隆景兄弟の明暗を分ける瞬間であり、若い輝元を領主とする毛利の新しい時代が始まるときでもあった。 元就は新たな脅威

  • 【『春霞集』について】

    【『春霞集』について】 元就の文才を示す物に『春霞集』という物がある。『春霞集』は、歌集と連歌集とを束ねたもの。『春霞集』所収の和歌に三条西実澄、連歌に里村紹巴と、京に名だたる人物が評語と跋文を寄せている。 毛利家の本姓、大江家は代々、文字をもって朝廷に

  • 【元旦】

    「元旦」ある年の元日の朝。安芸の毛利元就は早朝に起き、手水でうがいをし、東方に向かってしばらく黙座していた。そこに近習の粟屋弥次郎がやってきた。「元三(年・月・日の三つのはじめ=元旦)のお祝いをお召し上がり下さいませ」しかし元就の返事はない。また声をかけ

  • 安芸と書違

    【書違とは】 室町・戦国時代の境目の安芸や石見国内の国人領主間契約に用いられ、刺し違えて死ぬなどと同じ用語法であり、当事者同士が同年月日(多少ずれる場合もある)に契約内容を書きあげた起請文(誓約書)を交換して盟約した契状をさす。二通セットである。 南北朝

  • 足利義昭

    足利義昭(あしかが よしあき)(1537~1597)【列伝】室町幕府十五代将軍【役職】御咄衆【父母】足利義晴【官位】左馬頭、大納言、准三宮、従三位、昌山、霊陽院【列伝】室町幕府第十五代将軍。父は十二代将軍義晴、足利義輝の弟。前身は南都一乗院門跡覚慶、還俗し

  • 【尼子家の初期栄華】

    【尼子家の初期栄華】尼子経久が64歳のときには、全盛期を迎えた。山陰五ヵ国に加え、山陽の安芸、備前、備中、備後、播磨、美作の6ヵ国を従え、じつに山陰山陽11ヵ国を勢力圏内に置いたのである。当時、尼子氏の当主は少年期の晴久だったが、経久が実権を握っていた。

  • 【幸松丸に対しての感情】

    【幸松丸に対しての感情】乱世における大名家の内紛は全て、この家督争いだ。いうなれば、御家乗っ取りの陰謀と、疑心暗鬼が、骨肉相食む悲惨な結果を招く。元就が若くして冷静沈着だったのは、諸国の事情や、歴史に耳を傾けることが多かったからだ。部屋住みという生まれと

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