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2017/07/02

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  • 【新潟県村上市】光浄寺

    【新潟県村上市】光浄寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用弘治2年玄徹禅師が郷清水の水底から光を発して現れた十一面観世音を本尊として安置したのが、寺の始まりという。その後、万治元年この観世音を信仰していた村人が西国巡礼に旅立った。ところが道中持病が起きて大変苦しんだ。そこで、一心に観音の御加護を念じていると、1人の老僧が現われて「汝の信心浅からざるによって、その苦しみを救うべし」と持っていた瓶の水を注いだかと思うと、病はすっかり治ってしまった。そして老僧が、自ら杖を作って与え消え失せた。老僧が杖を作るとき、小指を傷つけたが、今も観音の小指に傷跡が残っている。光浄寺(こうじょうじ)(越後三十三観音霊場第二十七番)新潟県村上市有明713【新潟県村上市】光浄寺

  • 【新潟県西蒲原郡】観音寺

    【新潟県西蒲原郡】観音寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用御本尊聖観世音は、聖徳太子御作と伝えられる。その昔、安倍貞任の残党、黒鳥兵衛征伐の為、京都より当地に下った、北畠中納言時定公の守り本尊であった。時定公は、戦いの途中武運つたなく戦死してしまったので、守り本尊の観世音は、この地に庵を建て、安置したのである。この観世音を「このめ沢の観世音」という。今はこのめ沢の地名は、どこか不明であるが、以前観音堂は七曲りに有った。この七曲りを、昔は、「このめ沢」と言ったことからきているらしい。平成15年(2003年)に再建。観音寺(かんのんじ)(越後三十三観音霊場第二十三番)新潟県西蒲原郡弥彦村観音寺453【新潟県西蒲原郡】観音寺

  • 【新潟県燕市】国上寺

    【新潟県燕市】国上寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用国上寺の開山は遠く元明天皇、和銅2年、越後一の宮弥彦大神の詫宣により、建立された越後最古のお寺であります。孝謙天皇の御宇に当山は、国中上一寺の勅宣あり、中略して国上寺という。開山当時(709年)は、修験道であったが、時代の権力者に改宗され、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派、真言宗豊山派へと現在に至る。住時には、上杉謙信公より十万石の格式を賜り、国上山の中に二十一ヶ寺、他県内外あわせると百三十有余ヶ寺の末寺があったが、時代の流れにより、現在数ヶ寺の末寺だけである。千手観世音菩薩は、聖徳太子が北陸御巡行の折、お登りになり、お作りになった仏様であります。国上寺(こくじょうじ)(越後三十三観音霊場第二十二番)新潟県燕市国上1407【新潟県燕市】国上寺

  • 【新潟県西蒲原郡】弥彦神社

    【新潟県西蒲原郡】弥彦神社

    昨日に続き令和六年度の年度初めにあたり、弥彦神社を参拝しました。平日だったり、さくらの開花ももう少しということで、境内は閑散としていました。弥彦神社(やひこじんじゃ)新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦971-4【新潟県西蒲原郡】弥彦神社

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    令和六年度の年度初め、白山神社崇敬会一日祈願に行ってきました。神前でおはらいをうけ、お神酒をいただいてきました。崇敬会には昨年度入会しましたが、今回初めて参列させていただきました。これからはできる限り毎月参列させていただきたいと思います。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    令和六年元旦、新しい年が始まりました。我が家では恒例となっている白山さまへ初詣に行ってきました。いつものように昇殿参拝をしてお守りと御朱印をいただいてきました。天候のせいか思ったよりも人出が少なかったです。いただいた御朱印は、御朱印帳に直書きされた初詣の金の御朱印と、辰のホログラム御朱印、そして同じく辰のホログラムの冬詣御朱印です。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    白山神社で十二月の月詣御朱印をいただきました。図柄は、雪の結晶です。これで、令和五年一月から十二月までの月詣御朱印をコンプリートしました。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県十日町市】長徳寺

    【新潟県十日町市】長徳寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村磨の開創で、僧延鎮作と伝えられる御丈四尺二寸の千手観音は、京都清水寺の観世音と同木といわれている。田村磨は、奥州に勢力を持つ高丸という逆賊を退治して帰京するおり、この地に休息をし、再び出発しようとすると、不思議にも観世音は盤石のごとく動かなかった。田村磨将軍は、ここに一宇を建て、観世音を奉安し、家来の伊勢ノ平氏、友重等を守り役として残し、帰京した。その名残りで、この周辺の地名は伊勢平治、友重となったと伝えられている。長徳寺(ちょうとくじ)(越後三十三観音霊場第十番)新潟県十日町市友重170-1【新潟県十日町市】長徳寺

  • 【新潟県新潟市】普談寺

    【新潟県新潟市】普談寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用創立年代は不詳、長い間、寺運衰微のところ承応2年(1653)僧良快の中興に依って寺運を挽回するを得た。観音堂に安置する十一面観世音菩薩の木像(一尺三寸の白色座像)は聖徳太子の御作と伝えられている。上杉謙信・景勝公、当国を領せし折、その家臣本庄重長此の郷の守となりてあつくこの尊像を信仰したが、その後新津城主丹波守勝資、以降代々城主が帰依渇仰した。観音堂の在る地を光明山、また五明山と名づけ祈願所となっている。普談寺(ふだんじ)(越後三十三観音霊場第三十番)新潟県新潟市秋葉区朝日2503【新潟県新潟市】普談寺

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    白山神社で十一の月詣御朱印をいただきました。図柄は、紅葉です。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県胎内市】乙宝寺

    【新潟県胎内市】乙宝寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用奈良時代天平8年創建。聖武天皇の勅令により行基婆羅門両高僧建立。行基は大日三尊を刻み、婆羅門は釈尊左眼舎利を安置した。右眼を納めた寺を甲寺と呼ぶのに対して、左眼を納めた寺を乙寺と名づけたという。往古は乙きのと寺と称した。きのとの大日様とも呼ぶ。十万石の格式と一山に千の僧坊をかまえた霊場寺院として知られた。七堂伽藍が完備し、文化財の宝庫と共に天平の風情を今にとどめている。観音堂は江戸中期境内地桜園にあった。松尾芭蕉も奥の細道で参拝し、観音堂登り口に句碑がある。うらやまし浮世の北の山桜。乙宝寺(おっぽうじ)(越後三十三観音霊場第二十八番)新潟県胎内市乙1112【新潟県胎内市】乙宝寺

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    白山神社で十月の月詣御朱印をいただきました。図柄は、稲穂です。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県新発田市】白蓮寺

    【新潟県新発田市】白蓮寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用人皇51代平城天皇の御代、大同2年、慈覚大師が仏教弘道の使命を帯びて聖徳太子御作の十一面観世音菩薩の尊像を捧持して当国へ御来錫された。その時大師は奇巌怪石重畳たる岩井戸山に登り、恭しく尊像を奉安して護摩迦行をされ観音夢想に依り当地を開闢された。或る夜白衣の乙女が白蓮を慈覚大師に授け、消えるが如く飛び去ったので大師は岩井戸山を観音霊地と定め、四十間四方の浄地を境内となし、大悲十一面観世音菩薩の尊像を安置して岩井山白蓮寺の草創としたのである。白蓮寺(びゃくれんじ)(越後三十三観音霊場第二十八番)新潟県新発田市五十公野1856【新潟県新発田市】白蓮寺

  • 【新潟県新潟市】真城院

    【新潟県新潟市】真城院

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用当寺は、鎌倉時代鑁照阿闍梨によって開創され、その後、新潟城主寄居土佐守の祈願所となった。境内には、本堂、観音堂、地蔵堂、金毘羅堂などが在ったが、明治初期の災火で諸堂全てを焼失してしまった。現在は、本堂内陣中央に大日如来、向って左に地蔵尊、右に礼所本尊の千手観音、摩利支天、歓喜天が祀られている。千手観音は、弘法大師作と伝えられ、一寸八分の木像であるが、昭和53年新たに等身大の檜造千手観音を造顕し、その頭部に納めた。(越後三十三観音霊場第二十五番)真城院(しんじょうしん)(越後三十三観音霊場第二十五番)新潟市中央区西堀通8番地1583【新潟県新潟市】真城院

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    白山神社で九月の月詣御朱印をいただきました。図柄は、十五夜です。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県新潟市】白山神社

    【新潟県新潟市】白山神社

    白山神社で八月の月詣御朱印をいただきました。図柄は、花火です。四~六日は新潟まつりが開催され、六日には花火大会が開催されます。白山神社(はくさんじんじゃ)新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1【新潟県新潟市】白山神社

  • 【新潟県北蒲原郡】宝積院

    【新潟県北蒲原郡】宝積院

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用天智天皇の頃、百合若大臣と言われる武勇に勝れた壮士がいた。この壮士は当山の洞より名鷹を得て、緑丸と名付けて可愛がり、鷹も忠を尽した。聖武天皇の天平9年、泰澄大徳が当地に来て、緑丸の追善供養の為、十一面観世音菩薩と仁王尊を彫刻した。平城天皇の大同元年、何処からともなく異人が来て堂舎を建て、この聖者が籠ったことから、聖籠山と名付けられた。慶長13年、新発田藩主溝口秀勝公は観世音菩薩への信仰が篤く、観音堂ならびに仁王門を再建し、永く国家鎮護、心願成就の道場とした。宝積院(ほうしゃくいん)(越後三十三観音霊場第二十九番)北蒲原郡聖籠町諏訪山578【新潟県北蒲原郡】宝積院

  • 【新潟県長岡市】照明寺

    【新潟県長岡市】照明寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用照明寺観音堂の御本尊聖観世音菩薩は、弘法大師入唐の祈願仏として、大師住房の高野山龍光院(中院御房)に安置してあったが、永承2年(1047)栄秀阿闍梨が霊夢に依り、尊像を背負って諸国を巡行中、当所が景勝の地であったため、一庵を結び、本尊を安置し、如意山宝光院照明寺を開創した。寺伝に依れば源義経や上杉謙信も武運長久を祈念し、また、元禄8年(1695)5代将軍綱吉公の息女が眼病平癒の霊験を受けた折、幕命に依り村上城主榊原政倫が、新しい観音堂を建立寄進したと云う。其の後曲折があり、大正15年現本堂を再建した。照明寺(しょうみょうじ)(越後三十三観音霊場第二十番)長岡市寺泊片町2408【新潟県長岡市】照明寺

  • 【新潟県燕市】吉田寺

    【新潟県燕市】吉田寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用吉田寺のご本尊は、古来より黒滝城の守り本尊としてまつられた聖観世音(行基菩薩御作)であります。たまたま、戦国時代の城主照田越前守日下部吉傳は深く仏法に帰依し、自ら出家し、石瀬種月寺第七世樂崇文詔禅師の弟子となり、永正年間(約480年前)城内に寺を建立して吉傳寺と称した。1578年御お館の乱おこり、黒滝城落城とともに数名の武士が、命がけで当時砦であった現在の地に移して寺を建てた(吉傳寺→吉田寺となる)。その後、何度かの火災にあい、特に大正14年11月に不慮の火災で伽藍悉く焼失し、昭和3年、現在の伽藍が完成して今日に至っている。吉田寺(きちでんじ)(越後三十三観音霊場第二十一番)新潟県燕市渡部1195【新潟県燕市】吉田寺

  • 【新潟県新潟市】景清寺

    【新潟県新潟市】景清寺

    御縁起:越後三十三観音霊場公式ホームページより引用昔景清という人がいた。源氏の家に生れたが故あって平家の一族となった。幼い頃母と同じ観世音の霊夢を見て作られたのが一寸八分の紫金の観世音である。この観世音の背後には景清の2字が刻まれている。源平の戦いで平家は亡び景清は悲運な運命をたどったが、常に観世音を念じ救われた。建保2年(1214)8月15日九州宮崎で景清は48才で亡くなった。景清の忠臣景門という人は、奥州飯田山の麓平沢村の出身であったが、景清の遺言によって観世音を守って故郷へ帰る途中この地を通り、故郷と同じ平沢村というのでここに観世音を安置して生涯をとじた。景清寺(けいしょうじ)(越後三十三観音霊場第二十四番)新潟市西蒲区平沢455【新潟県新潟市】景清寺

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