名古屋市瑞穂区に織田信長の弟の織田信照ゆかりの城が3つあります。それが中根南城、中根中ノ城、中根北城です。信照は織田信秀の十男もしくは九男といわれており、戦国時代に現在の名古屋市瑞穂区周辺に勢力を持っていた中根忠貞の養子となり中根姓を名乗り
歴史初心者向けの分かりやすい愛知の戦国史跡と城巡り講座です
愛知県の戦国史跡や城を歴史初心者向けに詳しく解説したブログです。現地レビューや私の感想など、愛知県内の戦国史好きの方げ向けて情報発信しています。
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名古屋市瑞穂区に残る織田信照ゆかりの中根南城、中根中ノ城、中根北城
名古屋市瑞穂区に織田信長の弟の織田信照ゆかりの城が3つあります。それが中根南城、中根中ノ城、中根北城です。信照は織田信秀の十男もしくは九男といわれており、戦国時代に現在の名古屋市瑞穂区周辺に勢力を持っていた中根忠貞の養子となり中根姓を名乗り
名古屋市北区安井城址は浅野長政と北政所(おね)の養父である浅野長勝の居城
名古屋市北区安井1丁目に残る安井城址は豊臣家五奉行筆頭の浅野長政と豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ:おね)の養父だった浅野長勝の居城跡です。今回のレビュー記事は少し混乱気味なので整理しておきます。まず名古屋市北区安井1丁目にある、お福
名古屋市北区にある名古屋市立金城小学校は田幡城跡に建っています。田幡城とは織田信長の織田家に仕えた家老・林秀貞(林道勝)の一族の城です。>>田幡城址の場所の地図美濃の斎藤軍も来た城桶狭間合戦の6年前の天文二十三年(1554)、知多半島に進出
大府市の市名の発祥は湧き水だった?!七津太夫ゆかりの桃山町大清水館跡
大府市桃山町1丁目の大清水館は、大府市の市名の由来となる七津太夫の屋敷があった場所です。現在では大清水地蔵という延命地蔵尊が建立されています。>>大清水館の場所の地図どんな由来?現地案内看板には以下の様に書かれています。 大清水地蔵様の由来
豊田市則定(のりさだ)町に残る則定椎(のりさだ しい)城は戦国時代にこの地に勢力を持っていた鈴木氏の居城です。三河国二葉松には鈴木十内という人物が城主として記されています。私的にはこの則定椎城は山城好きの方におすすめです。その理由は遺構が分
城巡りが好きな人が街道と城下町を知るとなぜもっと楽しめるのか?
城が好きになり城巡りをしたいな!と思ったら、城についていろんな事を勉強したり、調べたりします。私が思うのは城を巡る時に街道と城下町の知識があれば、同じ城でももっと楽しむことができると思います。その理由は街道と城下町のウンチクは城に直接関わる
緒川城、刈谷城主・水野家の家紋が沢瀉紋を使う理由が残る東浦町地蔵院
知多郡東浦町の地蔵院はかつての緒川城の近くにある寺院。水野家が沢瀉紋(おもだかもん)を家紋として使う由来が残る寺です。地蔵院は緒川城ふもとを通る師崎街道すぐの場所にあります。戦国時代に活躍した水野信元や水野勝成、そして徳川家康の生母も水野氏
なぜ城巡り歴史史跡探訪は車より歩くのがオススなのか?健康にも関わる3つの理由
私は20年以上、趣味の城巡り歴史史跡を訪ね歩いています。そこで思うのが城や史跡に行くとき、できるだけ歩くようにしてるのです。これは私が所属する愛知県の歴史の会や城巡りウォークでも同じこと。なぜ車でどんどん巡るよりも歩くほうが良いのか?そのメ
なぜ犬山城は城下町に稲置街道を通したのか?考えられる2つの理由
私が講師を務める栄中日文化センターの城巡り講座で犬山市の犬山城へ行ってきました。犬山城といえば天守が国宝に指定されており、日本100名城にも認定されている城ですが、城下町もたくさんの見どころがあります。さて、城巡りをしていて城下町に街道が通
名古屋市熱田区の熱田村砦は源平合戦の頃、源行家(新宮十郎)が築いた砦といわれています。現在では遺構は残っておらず沢上2丁目の神明社付近が砦跡とのこと。>>熱田村砦の地図【Q】源行家とは 本名は義盛。甥の源頼朝に平家打倒の決起を促した。その後
刈谷市半城土町に残る半城土古城跡は高低差と土塁が残っていた!
刈谷市半城土(はじょうど)町に残る半城土城跡は稲垣雅楽助(うたのすけ)という城主の城です。現在は真宗大谷派の寺院・勝宝寺になっています。半城土城については、いつの頃の城なのか?また詳細な歴史も分かっていません。>>半城土城の場所の地図現地看
織田信長が桶狭間合戦で戦勝祈願をした名古屋市天白区秋葉山慈眼寺
名古屋市天白区の秋葉山慈眼寺は永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、織田信長が戦勝祈願をした寺といわれています。>>秋葉山慈眼寺の場所の地図名古屋市教育委員会の看板秋葉山慈眼寺 曹洞宗。当寺縁起によれば、大同四年(809)京都御所炎上の折鎮火
松平氏初代の松平親氏が築いたといわれる豊田市松平城址の見どころ
豊田市松平町の松平城址は徳川の前身・松平氏の初代当主である松平親氏が松平郷に築いた城です。別名を郷敷城といい、松平郷を守る入口にある松平太郎左衛門家の居城です。駐車場松平城は車で訪れるのが便利です。国道301号線沿いに駐車場があります。松平
岡崎市井ノ口砦跡は額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)において一揆方の拠点になった場所です。現在は岡崎市消防本部 中消防署北分署近くの稲荷神社になっています。>>井ノ口砦跡の場所の地図額田郡一揆とは額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)とは室町時
新城市作手の川尻城は関東から来た奥平貞俊がこの地で始めて築いた城
新城市作手の川尻城址は関東からこの地へとやってきた奥平貞俊が奥平氏の城として始めて築いた拠点です。応永31年(1424)頃なので応仁の乱前の城です。>>川尻城址の地図看板川尻城址 天授年間(1375~81)、奥平貞俊は母方の親戚で新城市作手
2026年大河・豊臣兄弟!の主役豊臣秀長生誕地の中村公園へ電車でアクセス方法
令和八年(2026)NHK大河ドラマ・豊臣兄弟!の主役である豊臣秀長と兄の豊臣秀吉の生誕地は現在の名古屋市中村区にあった尾張中村といわれています。現在では中村公園として整備され、その中に豊臣秀吉を祀る豊国神社があります。この記事では電車で豊
小牧市内久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでの羽柴軍の砦のひとつで蜂屋頼隆、金森長近らが3,000人の兵で守ったといわれています。現在は三明神社になっており、犬山市の内久保砦の旗が立っています。>>内久保砦の場所の地図内久
新城市作手の三河亀山城の近くに城主と妻の墓といわれる塚が残っています。>>姫塚の地図姫塚 亀山城二代城主奥平貞久の夫人の墳墓。夫人についての詳細は不明であるが嫡男・貞昌以下六男の母として奥平氏後半の基礎を築いた名夫人である。村人はその徳を偲
岩倉市下本町の誓願寺は岩倉城主だった織田信安と妻の墓がある寺院です。信安は織田信長に抵抗していた同族ですが、後継者問題で息子・信賢に追放されてしまいます。その信賢も浮野合戦で信長に敗れ、その後岩倉城も落城。伊勢守家岩倉織田氏は滅亡しました。
新城市作手の塞之神城を築いたのは米福長者か奥平氏か?現地に行ってみた感想
新城市作手清岳の塞之神(さいのかみ)城址は伝説の三長者のひとり・米福長者が築いたともその後の土豪・奥平氏が築いたともいわれる城跡です。>>塞之神城址の地図現地看板塞之神城址所在地 新城市作手清岳字本城立 地 山頂・標高628m(比高80m)
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名古屋市瑞穂区に織田信長の弟の織田信照ゆかりの城が3つあります。それが中根南城、中根中ノ城、中根北城です。信照は織田信秀の十男もしくは九男といわれており、戦国時代に現在の名古屋市瑞穂区周辺に勢力を持っていた中根忠貞の養子となり中根姓を名乗り
名古屋市北区安井1丁目に残る安井城址は豊臣家五奉行筆頭の浅野長政と豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ:おね)の養父だった浅野長勝の居城跡です。今回のレビュー記事は少し混乱気味なので整理しておきます。まず名古屋市北区安井1丁目にある、お福
名古屋市北区にある名古屋市立金城小学校は田幡城跡に建っています。田幡城とは織田信長の織田家に仕えた家老・林秀貞(林道勝)の一族の城です。>>田幡城址の場所の地図美濃の斎藤軍も来た城桶狭間合戦の6年前の天文二十三年(1554)、知多半島に進出
大府市桃山町1丁目の大清水館は、大府市の市名の由来となる七津太夫の屋敷があった場所です。現在では大清水地蔵という延命地蔵尊が建立されています。>>大清水館の場所の地図どんな由来?現地案内看板には以下の様に書かれています。 大清水地蔵様の由来
豊田市則定(のりさだ)町に残る則定椎(のりさだ しい)城は戦国時代にこの地に勢力を持っていた鈴木氏の居城です。三河国二葉松には鈴木十内という人物が城主として記されています。私的にはこの則定椎城は山城好きの方におすすめです。その理由は遺構が分
城が好きになり城巡りをしたいな!と思ったら、城についていろんな事を勉強したり、調べたりします。私が思うのは城を巡る時に街道と城下町の知識があれば、同じ城でももっと楽しむことができると思います。その理由は街道と城下町のウンチクは城に直接関わる
知多郡東浦町の地蔵院はかつての緒川城の近くにある寺院。水野家が沢瀉紋(おもだかもん)を家紋として使う由来が残る寺です。地蔵院は緒川城ふもとを通る師崎街道すぐの場所にあります。戦国時代に活躍した水野信元や水野勝成、そして徳川家康の生母も水野氏
私は20年以上、趣味の城巡り歴史史跡を訪ね歩いています。そこで思うのが城や史跡に行くとき、できるだけ歩くようにしてるのです。これは私が所属する愛知県の歴史の会や城巡りウォークでも同じこと。なぜ車でどんどん巡るよりも歩くほうが良いのか?そのメ
私が講師を務める栄中日文化センターの城巡り講座で犬山市の犬山城へ行ってきました。犬山城といえば天守が国宝に指定されており、日本100名城にも認定されている城ですが、城下町もたくさんの見どころがあります。さて、城巡りをしていて城下町に街道が通
名古屋市熱田区の熱田村砦は源平合戦の頃、源行家(新宮十郎)が築いた砦といわれています。現在では遺構は残っておらず沢上2丁目の神明社付近が砦跡とのこと。>>熱田村砦の地図【Q】源行家とは 本名は義盛。甥の源頼朝に平家打倒の決起を促した。その後
刈谷市半城土(はじょうど)町に残る半城土城跡は稲垣雅楽助(うたのすけ)という城主の城です。現在は真宗大谷派の寺院・勝宝寺になっています。半城土城については、いつの頃の城なのか?また詳細な歴史も分かっていません。>>半城土城の場所の地図現地看
名古屋市天白区の秋葉山慈眼寺は永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、織田信長が戦勝祈願をした寺といわれています。>>秋葉山慈眼寺の場所の地図名古屋市教育委員会の看板秋葉山慈眼寺 曹洞宗。当寺縁起によれば、大同四年(809)京都御所炎上の折鎮火
豊田市松平町の松平城址は徳川の前身・松平氏の初代当主である松平親氏が松平郷に築いた城です。別名を郷敷城といい、松平郷を守る入口にある松平太郎左衛門家の居城です。駐車場松平城は車で訪れるのが便利です。国道301号線沿いに駐車場があります。松平
岡崎市井ノ口砦跡は額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)において一揆方の拠点になった場所です。現在は岡崎市消防本部 中消防署北分署近くの稲荷神社になっています。>>井ノ口砦跡の場所の地図額田郡一揆とは額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)とは室町時
新城市作手の川尻城址は関東からこの地へとやってきた奥平貞俊が奥平氏の城として始めて築いた拠点です。応永31年(1424)頃なので応仁の乱前の城です。>>川尻城址の地図看板川尻城址 天授年間(1375~81)、奥平貞俊は母方の親戚で新城市作手
令和八年(2026)NHK大河ドラマ・豊臣兄弟!の主役である豊臣秀長と兄の豊臣秀吉の生誕地は現在の名古屋市中村区にあった尾張中村といわれています。現在では中村公園として整備され、その中に豊臣秀吉を祀る豊国神社があります。この記事では電車で豊
小牧市内久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでの羽柴軍の砦のひとつで蜂屋頼隆、金森長近らが3,000人の兵で守ったといわれています。現在は三明神社になっており、犬山市の内久保砦の旗が立っています。>>内久保砦の場所の地図内久
新城市作手の三河亀山城の近くに城主と妻の墓といわれる塚が残っています。>>姫塚の地図姫塚 亀山城二代城主奥平貞久の夫人の墳墓。夫人についての詳細は不明であるが嫡男・貞昌以下六男の母として奥平氏後半の基礎を築いた名夫人である。村人はその徳を偲
岩倉市下本町の誓願寺は岩倉城主だった織田信安と妻の墓がある寺院です。信安は織田信長に抵抗していた同族ですが、後継者問題で息子・信賢に追放されてしまいます。その信賢も浮野合戦で信長に敗れ、その後岩倉城も落城。伊勢守家岩倉織田氏は滅亡しました。
新城市作手清岳の塞之神(さいのかみ)城址は伝説の三長者のひとり・米福長者が築いたともその後の土豪・奥平氏が築いたともいわれる城跡です。>>塞之神城址の地図現地看板塞之神城址所在地 新城市作手清岳字本城立 地 山頂・標高628m(比高80m)
刈谷市銀座4丁目の三菱UFJ銀行刈谷支店の前に札の辻(ふだのつじ)という石碑があります。この札の辻とは何かというと、江戸時代に高札場(こうさつば)があった場所です。高札場とは何なのか?なぜここにあったのか?分かりやすく説明します。江戸時代の
トヨタ自動車本社がある愛知県豊田市に寺部町(てらべちょう)という地区があります。ここは徳川家康の家臣・渡辺半蔵守綱が顕彰されている土地なのです。※寺部の読みは てらべなぜ顕彰されているのか?その理由は渡辺守綱が江戸時代初期の慶長十五年(16
現在の愛知県豊田市に江戸時代に7つの国が見えたといわれる城がありました。それが七州城(しちしゅうじょう)という通称をもった挙母城(ころもじょう)です。なぜここから7つの国が見えたのか?そしてその見えた国はどこ?またなぜここに城があるのか?実
豊田市役所のすぐ東側に元城町(もとしろちょう)という地名があります。豊田信用金庫本店や愛知県豊田加茂福祉相談センターがある辺りです。元城というくらいなので、『もともとお城があったのかな?』と思いますが、じつはその通り、もともとお城があったの
愛知県の戦国史跡や城址を紹介しているフリーペーパーがあります。それが月刊・愛知の城。この月刊・愛知の城は愛知県の城歩きをしている愛知ウォーキング城巡りクラブの機関紙です。発行の時期はいつ?ということですが奇数月上旬です。例えば令和五年(20
一宮市萩原町、西萩原町の天神社はかつて川の渡し舟の発着場でした。現在の日光川はかつて木曽川の本流で、天正十四年(1586)の大洪水で川筋や川幅も変わり、現在の様になったといわれます。■天神の渡し跡の住所■一宮市西萩原2252>>天神の渡し跡
西尾市行用町に徳川家康が鷹狩りの時、休憩したといわれる石があります。それが石橋山福泉寺です。なぜ家康は現在の西尾市で鷹狩りをしていたのか?その理由と実際の現場を訪れてみました。■石橋山福泉寺の住所■西尾市行用町西屋敷53−1>>石橋山福泉寺
安城市三河岩根城は豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられる加藤嘉明が生まれた城と言われています。加藤嘉明といえば日本100名城にも認定されている愛媛県の伊予松山城を築いた人物です。そんな安城市三河岩根城の現状をレビューしてみました。
安城市藤井町北山に藤井戸跡という史跡がります。じつはこれ、安城市藤井町の地名の由来になった井戸なのです。一体どんな由来なのか?この記事でチェックしてみましょう。読めない看板現地にはこの井戸の由来となった藤井戸について、安城市教育委員会の看板
碧南市久沓町の白山神社は天正十年(1582)に起こった本能寺の変の時、伊賀越えで岡崎へ向かっていた徳川家康の歯痛を治したといわれる神社です。■白山神社の住所■碧南市久沓町1丁目5>>白山神社の場所の地図徳川家康にゆかりがある寺社は多いですが
半田市岩滑西橋(通称:お殿橋)は、桶狭間の戦いの後、松平元康(徳川家康)が渡った橋といわています。この事から江戸時代には尾張藩が資材を提供して修復し、欄干の付いた立派な橋が作られました。■岩滑西橋の場所の住所■半田市岩滑高山町一丁目地内>>
豊田市幸町隣松寺(りんしょうじ)は徳川家康や鴛鴨松平氏にゆかりが深い寺院です。徳川家康や松平氏に縁の深い寺院はたくさんありますが、隣松寺は関連する墓が多いです。それではこの記事で隣松寺の見どころをチェックしてみましょう。■隣松寺の場所の住所