続日本100名城に認定されている愛知県小牧市の小牧山城。道路を挟んだ向かいの小牧市役所のレストランから小牧山城を眺めながら食事ができるんです。早速、行ってみました。>>小牧市役所の地図>>小牧市役所ジェイズキッチンの詳細まずはアクセス小牧市
歴史初心者向けの分かりやすい愛知の戦国史跡と城巡り講座です
愛知県の戦国史跡や城を歴史初心者向けに詳しく解説したブログです。現地レビューや私の感想など、愛知県内の戦国史好きの方げ向けて情報発信しています。
永井直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠が残る大河内松平氏の安城市根崎陣屋跡
安城市根崎町の根崎陣屋は、江戸時代に現在の安城市南部を治めるために築かれた陣屋跡。現在は地元で遺跡の丘と呼ばれ、永井伝八郎直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠があります。>>根崎陣屋の場所の地図現地説明看板 根崎陣屋跡 慶安三年(1650)、時
小牧長久手合戦で羽柴方の堀秀政、蒲生氏郷らが守った小牧市田中砦跡
小牧市東田中に三ツ山(みつやま)古墳という古代の古墳がありますが、ここは天正十一年(1583)の小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉軍の田中砦となった歴史があります。■田中砦の住所■小牧市東田中>>田中砦の場所の地図前線近くの砦田中砦の場所を見てみ
福釜松平家の拠点・安城市福釜城址と菩提寺の芳泉寺そして地名の由来の釜ヶ淵
安城市福釜(ふかま)町は、福釜松平家が城を築いて拠点にした地です。福釜松平家は松平五代当主・松平長親の次男・親盛を祖とした家で松平家一族でも創立は後のほうです。福釜城址福釜松平氏の拠点だった福釜城は現在の安城市福釜町蔵前あたりにあったといわ
小牧・長久手合戦で日根野備中守弘就が守った羽柴軍の二重堀砦跡
小牧市二重堀町の二重堀砦は天正十一年(1583)の小牧・長久手の戦いの時、羽柴軍の日根野弘就(ひねの ひろなり)が兵力約2,000で守備した砦です。砦の規模は東西約100m、南北約70mほど。羽柴軍が長久手敗戦後、撤退命令が下され、それに対
西尾市寺津町の寺津城址は戦国時代に吉良氏、徳川氏に仕えた大河内(おおこうち)氏の拠点だった城です。また「知恵伊豆」こと老中・松平信綱の大河内松平家は寺津城の大河内氏から分かれた一族です。◆徳川家康の祖母も大河内氏?絶世の美女で知られる徳川家
私が愛知や名古屋の戦国史,城の講座で講師をする時に気をつけている3つとは
これは令和五年(2023)に愛知県常滑市で開催された、にっぽん城まつりの城熱ワークショップで、私が愛知県の徳川家康ゆかりの城や史跡に関する講座を行った時の画像。この時は席の数も限られており、立ち見の方も多かったです。さて、私が愛知県や名古屋
刈谷市小垣江町には3つの城があった!地内城、須賀城、新庄城の場所と感想
刈谷市小垣江町の3つの城址レビューです。まずは小垣江地内(ちない)城。>>小垣江地内城の場所の地図 誓満寺 むかし、『荒井』に2つの堂が向かい合って建っていて、『どうむけ』(堂向い)と呼ばれていた。永正年中(1504~20)、戦いに敗れた長
安城市丈山苑は城跡だった!石川丈山邸の遺構と城址ポイントはここ!
安城市和泉町の丈山苑(じょうざんえん)は、戦国武将で文人である石川丈山(いしかわ じょうざん)の生誕地です。現在は提案で有名な丈山苑ですが松平家、徳川家に仕えた譜代家臣・石川氏の館跡なのです。つまり土豪の館城です。この記事では残る遺構や城巡
安城市東端町に残る東端城址は小牧・長久手の戦いで池田恒興を討った永井伝八郎直勝の居城跡です。現在は城山稲荷大明神という神社になっています。>>東端城址の地図現地の石碑 東端城と城主永井伝八郎直勝 東端城は天正八年(1580)大浜郷にて羽城(
新城市石橋城址は奥平貞勝への謀反で成敗された奥平弾正繁昌の館城の跡
新城市の道の駅・つくで手づくり村の道路を挟んだところにある慈昌院は、戦国時代に作手一帯を治めていた奥平氏の一族・奥平繁昌(しげまさ)の石橋城の跡です。>>石橋城址の地図現地案内看板 石橋城址(弾正屋敷) 石橋城は、奥平二代貞久の二男、弾正久
松平親氏が領民のために架けたといわれる豊田市林添町の伝親氏石橋の場所と感想
豊田市林添(はやしぞれ)町の伝親氏石橋(でん ちかうじ いしばし)は、徳川家康の先祖である松平親氏が領民のために架けた橋といわれています。松平親氏とは誰?松平親氏(まつだいら ちかうじ)とは、現在の豊田市松平郷で発祥した松平家の初代当主。も
松平親氏が討った林添の土豪・薮田源吾忠元の林添城址と供養塔が残る晴暗寺
僧から還俗して武士になった松平氏初代当主・松平親氏は、松平郷近隣の土豪を切り従えるために勢力を拡大しますが、まず最初に戦うことになったのが林添(はやしぞれ)城主の薮田源吾忠元(やぶたげんご ただもと)です。林添城址その薮田源吾忠元の居城だっ
名古屋市南区鳥栖城址はこの地の土豪だった成田久左衛門義次の居城跡
名古屋市南区の鳥栖城址は戦国時代に名古屋の東南部に勢力を持っていた山口氏の重臣・成田義次の居城と伝わる城跡です。現在は成道寺になっています。■鳥栖城址の住所■名古屋市南区鳥栖2丁目>>鳥栖城址の地図記録に残る成田氏成田氏の記録として次の様な
常滑市大野町の巌松山 東龍寺は戦国時代に徳川家康を2度助けた寺です。家康のピンチを語るうえでも重要な東龍寺。その詳細をチェックしてみます。■東龍寺の住所■常滑市大野町8丁目>>東龍寺の場所の地図現地説明看板 徳川家康と東龍寺 東龍寺の歴史は
日置城址は平安時代の日置荘の拠点で戦国時代は織田寛定、織田忠寛の居城
名古屋市中区松原1丁目の日置城址は平安時代から続く城で戦国時代には織田寛定、織田忠寛の居城となりました。現在は松原緑地になっています。■日置城址の住所■名古屋市中区松原1丁目>>日置城址の場所の地図現地看板 松原緑地 この場所は古くから人々
名古屋市緑区大高町の鷲津砦は桶狭間合戦での織田軍の砦です。中古日本治乱記によれば守将は織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子。兵数は520騎という記載があります。朝比奈泰朝率いる2,000の軍勢に攻められ陥落しました。>>鷲津砦の詳細 ウィキペデ
額田郡幸田町深溝(ふこうず)西向野にある向野墓所(むかいのぼしょ:向野首塚とも)は、深溝松平家の菩提寺である本光寺がもとあった場所。深溝松平家初代・松平忠定と二代・松平好景の墓があります。■向野墓所の住所■額田郡幸田町深溝西向野>>向野墓所
名古屋市南区の笠寺台地北端に織田信長に仕えた佐久間信盛が築いた城と砦があります。それが山崎城址と山崎砦跡です。まず山崎城址は安泰寺になっています。>>安泰寺の地図城を偲ばせるもの安泰寺をぐるっと周ると城跡の雰囲気が残っています。まず東側の道
松平氏の分家でも古い竹谷松平家の居城・蒲郡竹谷城(竹ノ谷城)
蒲郡市竹谷城(竹ノ谷城)は、徳川家の前身・松平家の分家である竹谷松平家(竹ノ谷松平家)の居城跡です。■竹谷城址の住所■蒲郡市竹谷町泉17−3>>竹谷城址の場所の地図分家筆頭といわれる理由竹谷松平氏は数ある松平家の分家の中でも筆頭といわれる事
なぜ慧可断臂図は常滑市斎年寺に伝わったのか?知多大野城主佐治氏とのつながり
常滑市大野町の斎年寺(さいねんじ)は、知多大野城主・佐治氏の菩提寺です。ここには雪舟の水墨画・慧可断臂図(えかだんぴず)が伝わり、それが現在では国宝になって、京都国立博物館に移されています。※斎年寺に慧可断臂図はなく、写真パネルの展示です。
田口成富が築き牧野成時(古白)の居城にもなった豊川市牧野城址
豊川市牧野城址は戦国時代初期に東三河に勢力を広げた牧野成時(牧野古白)が拠点にするために築いた城のひとつです。■牧野城址の住所■豊川市牧野町丁畑>>牧野城址の場所の地図現地看板 牧野城跡 豊川市指定文化財 平成七年二月十三日指定 牧野城は、
織田信長の生母・土田御前の出身地といわれる清須市土田レビュー
織田信長の生母は土田御前(つちだごぜん)という女性。この人は織田信秀の正室なのですが、詳細がよく分かっていません。戦国時代の女性は記録が残っていないことが多いのですが、あの織田信長の母でも例外ではないのです。そこで今回、信長の母・土田御前の
三河国宝飯郡を領し深溝松平家の祖となった五井松平家の居城・蒲郡市五井城址
蒲郡市五井町の五井城址は松平元康(徳川家康)を支えた五井松平氏の居城跡です。また深溝松平氏は五井松平氏から分かれた家です。■五井城址の住所■蒲郡市五井町中郷>>五井城址の場所の地図三代・信光の息子が始祖五井松平家の始まりは松平家三代目当主・
豊川市瀬木城址は牧野成時(牧野古白)が牧野城につぐ居城として築いた城
豊川市瀬木町の瀬木城址は牧野成時(しげとき:牧野古白)が牧野城につぐ居城として築いた牧野氏の城跡です。現在では神明社になっています。■瀬木城址の住所■豊川市瀬木町郷中>>瀬木城址の場所の地図まずは看板 瀬木城跡 瀬木城は、明応二年(1493
愛知の城や戦国史跡を歩くサークルで常滑市の斎年寺(さいねんじ)に行って来ました。斎年寺には同じ常滑市の知多大野城の山門と惣門が移築されています。なぜこの場所に移されたのか?それには理由があったのです。■斎年寺の住所■常滑市大野町9丁目>>斎
豊橋市仁連木町の二連木城址は戦国時代初期に渥美半島に勢力を広げた戸田宗光が築いた城です。東三河侵出を目論む今川、武田にも攻められた歴史があります。二連木城址は現在、大口公園と豊橋市仁連木老人福祉センターになっていますが、高低差をはじめ曲輪、
JR尾頭橋駅の由来は武将と城だった!尾頭義次(源義次)と尾頭城址
名古屋市熱田区新尾頭1丁目の住吉神社は平安時代の武将・尾頭義次(源義次)の城があった場所といわれています。この人物はこの周辺の尾頭(おとう)という地名の由来にもなっているのです。尾頭義次(源義次)とは保元元年(1156)に朝廷で後白河天皇(
永正年間に築かれた伊庭氏の居城で戸田宗光が奪った豊橋市大崎城址
豊橋市大崎城址は伊庭氏が永正年間(1504~21)に築き、その後、渥美半島に勢力を伸ばした戸田宗光の居城です。現在は海雲山龍源寺と幸福稲荷社一帯が城跡になっています。■大崎城址の住所■豊橋市船渡町城戸中>>大崎城址の場所の地図今川と戸田大崎
名古屋市昭和区の伊勝城址は天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家とともに羽柴軍と戦った佐久間盛政の居城跡です。佐久間盛政の通称は玄蕃允(げんばのじょう)で、小説などでは佐久間玄蕃(さくまげんば)の名で出てくることも多いです。盛政の母
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続日本100名城に認定されている愛知県小牧市の小牧山城。道路を挟んだ向かいの小牧市役所のレストランから小牧山城を眺めながら食事ができるんです。早速、行ってみました。>>小牧市役所の地図>>小牧市役所ジェイズキッチンの詳細まずはアクセス小牧市
西尾市西浅井町にあった浅井西城は徳川家康の祖父・松平清康の弟・松平康孝の居城跡です。現在は民家になっていますが、濠(堀)や土塁、また詰城址が残っています。>>西浅井城の地図土豪屋敷跡土塁西浅井の丘陵には東西二つの城があり、西古城を『清康御弟
江南市布袋駅の東側(マックスバリュ江南布袋店)向かいに織田信長と側室の吉乃(きつの)、そして子どもたちの銅像が建っています。>>銅像の場所の地図説明板にはなんて書いてある?信長と生駒の息女吉乃とこどもたち戦国時代信長は清洲城から馬で生駒屋敷
名古屋市中川区の助光(すけみつ)城址は、織田信長に仕えた福留将監の居城跡といわれています。現在は土之宮神明社に石碑があります。>>土之宮神明社(助光城址)の地図土之宮神明社は天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る神明社と埴安姫神(はにやすひ
豊田市広幡町の広見城址は戦国時代に織田信長に仕えた中条秀正(ちゅうじょう ひでまさ)の居城です。この地は三河国ですが中条氏は尾張の織田氏に仕えていました。その中条氏の居城だった広見城址は山城ですが、地元保存会の方々によって整備されています。
生田城(しょうだじょう)について。三河国二葉松には城主について酒井彦四郎、石川又四郎、生田六左衛門と記述があります。浅野文庫蔵・諸国古城之図にも記載がある城で、出入口二ヶ所に枡形が用いられ、性格的にはどこかのお城の出城的なものだったそうです
織田信長の優れたところはいくつもありますが、心理作戦、つまり心理テクニックにも長けた人物でした。以下は信長の一代記・信長公記にある信長のカケヒキのエピソード。居城の引っ越し永禄三年(1560)駿河・遠江(するが:とおとうみ)(静岡県)の戦国
蒲郡市上中島の中島城址は今川氏に仕えた土豪・岩瀬氏の居城跡です。>>中島城址の地図中島城址永享十二年(1440)、岩瀬治部左衛門尉忠家が築城した館城。石垣・城跡は見当たらないが、上中島交差点周辺より北側の一段高い平地を今も屋敷跡と呼んでいる
織田信長に仕えた4人の家臣の評価に次のようなものがあります。『木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間』(もめんとうきち こめごろうざ かかれしばたに のきさくま)これは江戸時代の翁草(おきなぐさ)に収録された羽柴秀吉(後の太閤・豊臣秀
豊田市博物館は豊田市の歴史をまとめた博物館です。豊田市といえばトヨタ自動車の本社があることで有名でクルマの街というイメージが強いです。でも徳川氏の前身である松平氏の発祥の地でもあり、戦国時代の城跡や江戸時代の史跡も点在しています。今回は私が
豊田市神殿町の大桑城址はこの地の土豪・河合弥十郎の居城跡です。歴史を振り返ると徳川家康や甲斐の武田軍も攻め落としています。>>大桑城址の場所の地図現地看板より豊田市史跡 大桑城跡大桑城は、巴川と大桑川の合流地点南方の高所に築かれた中世の山城
設楽原古戦場には深溝城主・松平伊忠(まつだいら これただ)の戦死地といわれる場所があります。>>松平伊忠戦死地看板の説明松平伊忠戦死の地鳶ヶ巣山砦の奇襲に勝利すると、豊川(大川)を渡り武田軍を追撃中に逆に武田軍に挟まれ討ち死にした。この近く
新城市八束穂(やつかほ)の清井田武田勝頼本陣跡は、天正三年(1575)に長篠城を包囲していた武田勝頼が織田の・徳川連合軍との戦いに備えて設楽原に移動する時、最初に陣を置いた場所です。>>清井田武田勝頼陣跡の地図武田軍の本陣を移動医王寺山に本
新城市寒狭峡は天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで、退却する武田勝頼を追う敵を食い止めた笠井肥後守満秀が、瀧川助義と一騎打ちした場所といわれています。>>寒狭橋跡の場所の地図笠井満秀とは南部宗秀の子として生まれた満秀は河西氏、笠井氏を名
新城市出沢には武田四天王のひとり馬場信房が討ち取られたと伝わる場所があります。この周辺は武田軍の敗走ルートといわれ、多くの兵士が討ち取られた場所でもあります。>>馬場信房の塚の地図馬場信房の塚馬場美濃守信房(信春)は武田三代に仕えた智謀の老
天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで戦場の一番南端と考えられる場所が、徳川家臣の大久保忠世、忠佐兄弟の陣がある新城市川路です。>>大久保兄弟陣跡の地図屏風と違う南端勝楽寺前激戦地の場所はどこにあるのかお伝えします。現在の設楽原古戦場の再
新城市則本の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)は、天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで長篠城を包囲していた武田軍の5つの砦の中心だった場所です。>>鳶ヶ巣山砦の場所の地図5つの砦とは天正三年(1575)500人が籠もる長篠城を武田勝頼は1
新城市川路には天正三年(1575)の長篠設楽原合戦で、川から長篠城を脱出した鳥居強右衛門が上陸したと考えられる場所があります。>>鳥居強右衛門上陸地強右衛門の脱出ルート兵500人が籠もる長篠城は1万5千人の武田軍に包囲され兵糧庫まで落とされ
新城市川路には天正三年(1575)の設楽原の戦いで亡くなった高坂昌澄の墓があります。高坂昌澄の墓昌澄は武田四天王といわれた高坂弾正忠昌寅(高坂昌信)の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには二十五才の若さで、兵二千を率いる武将として戦っ
新城市設楽原古戦場には、かつて武田信玄に仕えた軍師といわれる山本勘助晴幸の息子・山本勘蔵信供の墓があります。>>山本勘蔵信供の墓の地図山本勘助晴幸とは武田信玄に軍師として仕えたといわれる山本勘助晴幸は静岡県、または愛知県三河地方の生誕といわ
徳島県の阿波踊りは戦国武将・蜂須賀家政がキッカケで生まれた踊りという説があります。なぜ戦国時代の人物がキッカケなのか?蜂須賀家政にまつわる話をまとめてみました。阿波踊りの始まりとは蜂須賀家政の父は豊臣秀吉の腹心として有名な蜂須賀小六正勝。そ
田原市山田町の吉祥山泉福寺は天正十年(1582)の本能寺の変後、伊賀越えで三河に着いた徳川家康が埋蔵金を埋めたという伝説があります。天台宗の寺院。>>泉福寺の地図自然すぎる参道泉福寺への参道は三河湾国定公園になっています。そう言えば聞こえは
岡崎市梅園町虎石にある誓願寺は徳川家康や松平氏にゆかりが深い神社です。城巡りや史跡巡りで訪れる時のポイントを3つあげてみます。松平信貞が勧請した諏訪神社境内にある諏訪神社は大永三年(1523)に当時の岡崎城主だった松平信貞が勧請したものとい
戦国時代に現在の蒲郡市に勢力を持っていた鵜殿氏一族の菩提寺を調べてみました。鵜殿氏には本家・上ノ郷鵜殿家といくつかの分家があります。まずは本家・上ノ郷鵜殿家の菩提寺は長応寺でしたが、上ノ郷城が落城した時に燃えてしまいました。その跡に建つのが
愛知県蒲郡市の市章は江戸時代にこの地を治めていた竹谷(たけのや)松平家の家紋・丸に一つ引き両がモデルになっています。その竹谷松平氏が江戸時代に政治を行っていた場所が蒲形陣屋です。この記事では戦国時代から幕末まで蒲郡市を治めた城や陣屋の歴史を
常滑市正住院は天正十年(1582)の本能寺の変が起こった時、徳川家康一行が伊賀越えで上陸した場所といわれている寺院です。>>正住院の地図【現地案内看板】徳川家康公腰掛けの石 天正十年(1582)六月二日、徳川家康公は酒井への遊覧を終え、織田
津島市津島神社の創建は古く、伝承によればでは欽明天皇元年(540年)といわれています。戦国時代も尾張国内ではもちろん、近隣諸国にも影響があった神社のひとつです。>>津島神社公式サイト津島神社は寄進された建物も多く、戦国時代や江戸時代に興味が
東海市荒尾町金山にあつた平島城址は、水野成政と池田恒興ゆかりの城です。>>平島城址の地図【現地看板より】平島城跡(荒尾町金山)平島城は『尾張志』、『張州府志』によれば、「水野藤助之(これ)に居る」とあるが、何時、誰によって築城されたのかは定
常滑(とこなめ)市に残る常滑城址は緒川城(東浦町)の水野氏の一族である常滑水野氏の居城跡です。>>常滑城の地図【現地案内看板より】 戦国時代の初め小河地方(東浦町緒川)の豪族、水野氏が常滑に進出し、此の地に城を築いた。その規模は徳川時代の古
東海市大田町城山の木田城址はこの地の土豪・荒尾氏と池田恒興、池田輝政が城主となった城跡です。現在では住宅地になっています。>>木田城址の地図池田恒興の尾張時代の城跡だった木田城。宅地開発が進んで限られた遺構しか残っていませんが、城巡りとして
豊川市西豊町に残る豊川城址は、鎌倉時代、大江入道定厳の屋敷があった場所で江戸時代には水野忠直の領地となりました。>>豊川城址の地図三河国二葉松に記載がある城跡で、鎌倉時代に大江入道定厳の屋敷がこの地にありました。大江定厳は鎌倉街道豊川宿があ
豊川市小坂井町にある龍徳院は徳川家康(当時は徳川家康)が吉田城を攻めるための居転とした砦跡です。>>糟塚砦跡の地図糟塚砦現在の龍徳院の境内全部がこの砦の跡であり、堀の内部の面積は約三五アールある。堤や堀はその当時のものであるこの砦は徳川家康
愛知県あま市の萱津(かやづ)古戦場は、織田信長が清洲城主になる前、敵だった清洲城の坂井大膳との萱津の戦いがあった現場です。現在では石碑が建立されています。>>萱津古戦場の石碑の地図現地の解説天文二十年(1551)八月十六日当時、主人筋の斯波
名古屋市中村区岩塚町に残る岩塚城址は戦国時代に尾張国の守護だった斯波氏の一族・吉田重氏の居城跡です。現在は遍慶寺になっており門前に岩塚城趾の石碑が建っています。>>岩塚城趾の地図岩塚城の歴史岩塚城跡足利の頃、斯波氏の一族吉田治郎左衛門重氏こ
名古屋市西区の大野木城址は赤母衣衆として織田信長に仕えた塙直政(原田直政)の尾張時代に居城跡です。現在は福昌寺になっています。>>大野木城址の地図原田直政とはもとは塙直政。大野木城主で織田軍の赤母衣衆として各地を点線。信長から九州の名族・原
名古屋市名東区一社の貴船神社と神蔵寺は柴田勝家の祖父である柴田勝重の居城跡といわれている場所です。>>一色城址の地図柴田氏は越後国蒲原郡新発田(かんばらぐん しばた)の発祥といわれる柴田氏は、尾張にやってきて斯波氏に仕え、明応三年(1494
名古屋市瑞穂区に織田信長の弟の織田信照ゆかりの城が3つあります。それが中根南城、中根中ノ城、中根北城です。信照は織田信秀の十男もしくは九男といわれており、戦国時代に現在の名古屋市瑞穂区周辺に勢力を持っていた中根忠貞の養子となり中根姓を名乗り
名古屋市北区安井1丁目に残る安井城址は豊臣家五奉行筆頭の浅野長政と豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ:おね)の養父だった浅野長勝の居城跡です。今回のレビュー記事は少し混乱気味なので整理しておきます。まず名古屋市北区安井1丁目にある、お福
名古屋市北区にある名古屋市立金城小学校は田幡城跡に建っています。田幡城とは織田信長の織田家に仕えた家老・林秀貞(林道勝)の一族の城です。>>田幡城址の場所の地図美濃の斎藤軍も来た城桶狭間合戦の6年前の天文二十三年(1554)、知多半島に進出
大府市桃山町1丁目の大清水館は、大府市の市名の由来となる七津太夫の屋敷があった場所です。現在では大清水地蔵という延命地蔵尊が建立されています。>>大清水館の場所の地図どんな由来?現地案内看板には以下の様に書かれています。 大清水地蔵様の由来