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永井直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠が残る大河内松平氏の安城市根崎陣屋跡
安城市根崎町の根崎陣屋は、江戸時代に現在の安城市南部を治めるために築かれた陣屋跡。現在は地元で遺跡の丘と呼ばれ、永井伝八郎直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠があります。>>根崎陣屋の場所の地図現地説明看板 根崎陣屋跡 慶安三年(1650)、時
2024/02/29 05:11
小牧長久手合戦で羽柴方の堀秀政、蒲生氏郷らが守った小牧市田中砦跡
小牧市東田中に三ツ山(みつやま)古墳という古代の古墳がありますが、ここは天正十一年(1583)の小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉軍の田中砦となった歴史があります。■田中砦の住所■小牧市東田中>>田中砦の場所の地図前線近くの砦田中砦の場所を見てみ
2024/02/28 00:31
福釜松平家の拠点・安城市福釜城址と菩提寺の芳泉寺そして地名の由来の釜ヶ淵
安城市福釜(ふかま)町は、福釜松平家が城を築いて拠点にした地です。福釜松平家は松平五代当主・松平長親の次男・親盛を祖とした家で松平家一族でも創立は後のほうです。福釜城址福釜松平氏の拠点だった福釜城は現在の安城市福釜町蔵前あたりにあったといわ
2024/02/27 19:10
小牧・長久手合戦で日根野備中守弘就が守った羽柴軍の二重堀砦跡
小牧市二重堀町の二重堀砦は天正十一年(1583)の小牧・長久手の戦いの時、羽柴軍の日根野弘就(ひねの ひろなり)が兵力約2,000で守備した砦です。砦の規模は東西約100m、南北約70mほど。羽柴軍が長久手敗戦後、撤退命令が下され、それに対
2024/02/26 19:08
西尾市寺津城址は吉良氏、徳川氏に仕えた大河内氏の拠点の城
西尾市寺津町の寺津城址は戦国時代に吉良氏、徳川氏に仕えた大河内(おおこうち)氏の拠点だった城です。また「知恵伊豆」こと老中・松平信綱の大河内松平家は寺津城の大河内氏から分かれた一族です。◆徳川家康の祖母も大河内氏?絶世の美女で知られる徳川家
2024/02/25 08:53
私が愛知や名古屋の戦国史,城の講座で講師をする時に気をつけている3つとは
これは令和五年(2023)に愛知県常滑市で開催された、にっぽん城まつりの城熱ワークショップで、私が愛知県の徳川家康ゆかりの城や史跡に関する講座を行った時の画像。この時は席の数も限られており、立ち見の方も多かったです。さて、私が愛知県や名古屋
2024/02/24 09:39
刈谷市小垣江町には3つの城があった!地内城、須賀城、新庄城の場所と感想
刈谷市小垣江町の3つの城址レビューです。まずは小垣江地内(ちない)城。>>小垣江地内城の場所の地図 誓満寺 むかし、『荒井』に2つの堂が向かい合って建っていて、『どうむけ』(堂向い)と呼ばれていた。永正年中(1504~20)、戦いに敗れた長
2024/02/23 05:09
安城市丈山苑は城跡だった!石川丈山邸の遺構と城址ポイントはここ!
安城市和泉町の丈山苑(じょうざんえん)は、戦国武将で文人である石川丈山(いしかわ じょうざん)の生誕地です。現在は提案で有名な丈山苑ですが松平家、徳川家に仕えた譜代家臣・石川氏の館跡なのです。つまり土豪の館城です。この記事では残る遺構や城巡
2024/02/22 08:15
長久手合戦で池田恒興を討った永井伝八郎直勝の東端城址
安城市東端町に残る東端城址は小牧・長久手の戦いで池田恒興を討った永井伝八郎直勝の居城跡です。現在は城山稲荷大明神という神社になっています。>>東端城址の地図現地の石碑 東端城と城主永井伝八郎直勝 東端城は天正八年(1580)大浜郷にて羽城(
2024/02/21 06:03
新城市石橋城址は奥平貞勝への謀反で成敗された奥平弾正繁昌の館城の跡
新城市の道の駅・つくで手づくり村の道路を挟んだところにある慈昌院は、戦国時代に作手一帯を治めていた奥平氏の一族・奥平繁昌(しげまさ)の石橋城の跡です。>>石橋城址の地図現地案内看板 石橋城址(弾正屋敷) 石橋城は、奥平二代貞久の二男、弾正久
2024/02/20 08:57
松平親氏が領民のために架けたといわれる豊田市林添町の伝親氏石橋の場所と感想
豊田市林添(はやしぞれ)町の伝親氏石橋(でん ちかうじ いしばし)は、徳川家康の先祖である松平親氏が領民のために架けた橋といわれています。松平親氏とは誰?松平親氏(まつだいら ちかうじ)とは、現在の豊田市松平郷で発祥した松平家の初代当主。も
2024/02/19 13:25
松平親氏が討った林添の土豪・薮田源吾忠元の林添城址と供養塔が残る晴暗寺
僧から還俗して武士になった松平氏初代当主・松平親氏は、松平郷近隣の土豪を切り従えるために勢力を拡大しますが、まず最初に戦うことになったのが林添(はやしぞれ)城主の薮田源吾忠元(やぶたげんご ただもと)です。林添城址その薮田源吾忠元の居城だっ
2024/02/18 04:52
名古屋市南区鳥栖城址はこの地の土豪だった成田久左衛門義次の居城跡
名古屋市南区の鳥栖城址は戦国時代に名古屋の東南部に勢力を持っていた山口氏の重臣・成田義次の居城と伝わる城跡です。現在は成道寺になっています。■鳥栖城址の住所■名古屋市南区鳥栖2丁目>>鳥栖城址の地図記録に残る成田氏成田氏の記録として次の様な
2024/02/17 09:04
徳川家康を桶狭間合戦と伊賀越えで助けた常滑市大野町の東龍寺
常滑市大野町の巌松山 東龍寺は戦国時代に徳川家康を2度助けた寺です。家康のピンチを語るうえでも重要な東龍寺。その詳細をチェックしてみます。■東龍寺の住所■常滑市大野町8丁目>>東龍寺の場所の地図現地説明看板 徳川家康と東龍寺 東龍寺の歴史は
2024/02/16 05:59
日置城址は平安時代の日置荘の拠点で戦国時代は織田寛定、織田忠寛の居城
名古屋市中区松原1丁目の日置城址は平安時代から続く城で戦国時代には織田寛定、織田忠寛の居城となりました。現在は松原緑地になっています。■日置城址の住所■名古屋市中区松原1丁目>>日置城址の場所の地図現地看板 松原緑地 この場所は古くから人々
2024/02/15 10:36
桶狭間合戦で落城した名古屋市緑区鷲津砦跡の散策レビュー
名古屋市緑区大高町の鷲津砦は桶狭間合戦での織田軍の砦です。中古日本治乱記によれば守将は織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子。兵数は520騎という記載があります。朝比奈泰朝率いる2,000の軍勢に攻められ陥落しました。>>鷲津砦の詳細 ウィキペデ
2024/02/14 08:20
本光寺はもとこの場所にあった!幸田町向野首塚(墓所)
額田郡幸田町深溝(ふこうず)西向野にある向野墓所(むかいのぼしょ:向野首塚とも)は、深溝松平家の菩提寺である本光寺がもとあった場所。深溝松平家初代・松平忠定と二代・松平好景の墓があります。■向野墓所の住所■額田郡幸田町深溝西向野>>向野墓所
2024/02/13 05:46
佐久間信盛が笠寺台地北端に築いた名古屋市南区山崎城と山崎砦
名古屋市南区の笠寺台地北端に織田信長に仕えた佐久間信盛が築いた城と砦があります。それが山崎城址と山崎砦跡です。まず山崎城址は安泰寺になっています。>>安泰寺の地図城を偲ばせるもの安泰寺をぐるっと周ると城跡の雰囲気が残っています。まず東側の道
2024/02/12 10:32
松平氏の分家でも古い竹谷松平家の居城・蒲郡竹谷城(竹ノ谷城)
蒲郡市竹谷城(竹ノ谷城)は、徳川家の前身・松平家の分家である竹谷松平家(竹ノ谷松平家)の居城跡です。■竹谷城址の住所■蒲郡市竹谷町泉17−3>>竹谷城址の場所の地図分家筆頭といわれる理由竹谷松平氏は数ある松平家の分家の中でも筆頭といわれる事
2024/02/11 06:11
なぜ慧可断臂図は常滑市斎年寺に伝わったのか?知多大野城主佐治氏とのつながり
常滑市大野町の斎年寺(さいねんじ)は、知多大野城主・佐治氏の菩提寺です。ここには雪舟の水墨画・慧可断臂図(えかだんぴず)が伝わり、それが現在では国宝になって、京都国立博物館に移されています。※斎年寺に慧可断臂図はなく、写真パネルの展示です。
2024/02/10 08:22
田口成富が築き牧野成時(古白)の居城にもなった豊川市牧野城址
豊川市牧野城址は戦国時代初期に東三河に勢力を広げた牧野成時(牧野古白)が拠点にするために築いた城のひとつです。■牧野城址の住所■豊川市牧野町丁畑>>牧野城址の場所の地図現地看板 牧野城跡 豊川市指定文化財 平成七年二月十三日指定 牧野城は、
2024/02/09 07:34
織田信長の生母・土田御前の出身地といわれる清須市土田レビュー
織田信長の生母は土田御前(つちだごぜん)という女性。この人は織田信秀の正室なのですが、詳細がよく分かっていません。戦国時代の女性は記録が残っていないことが多いのですが、あの織田信長の母でも例外ではないのです。そこで今回、信長の母・土田御前の
2024/02/08 06:22
三河国宝飯郡を領し深溝松平家の祖となった五井松平家の居城・蒲郡市五井城址
蒲郡市五井町の五井城址は松平元康(徳川家康)を支えた五井松平氏の居城跡です。また深溝松平氏は五井松平氏から分かれた家です。■五井城址の住所■蒲郡市五井町中郷>>五井城址の場所の地図三代・信光の息子が始祖五井松平家の始まりは松平家三代目当主・
2024/02/07 08:36
豊川市瀬木城址は牧野成時(牧野古白)が牧野城につぐ居城として築いた城
豊川市瀬木町の瀬木城址は牧野成時(しげとき:牧野古白)が牧野城につぐ居城として築いた牧野氏の城跡です。現在では神明社になっています。■瀬木城址の住所■豊川市瀬木町郷中>>瀬木城址の場所の地図まずは看板 瀬木城跡 瀬木城は、明応二年(1493
2024/02/06 05:11
知多大野城から移転した山門と惣門が残る常滑市斎年寺
愛知の城や戦国史跡を歩くサークルで常滑市の斎年寺(さいねんじ)に行って来ました。斎年寺には同じ常滑市の知多大野城の山門と惣門が移築されています。なぜこの場所に移されたのか?それには理由があったのです。■斎年寺の住所■常滑市大野町9丁目>>斎
2024/02/05 08:45
戸田宗光が築き今川、武田にも攻められた豊橋市二連木城址
豊橋市仁連木町の二連木城址は戦国時代初期に渥美半島に勢力を広げた戸田宗光が築いた城です。東三河侵出を目論む今川、武田にも攻められた歴史があります。二連木城址は現在、大口公園と豊橋市仁連木老人福祉センターになっていますが、高低差をはじめ曲輪、
2024/02/04 06:44
JR尾頭橋駅の由来は武将と城だった!尾頭義次(源義次)と尾頭城址
名古屋市熱田区新尾頭1丁目の住吉神社は平安時代の武将・尾頭義次(源義次)の城があった場所といわれています。この人物はこの周辺の尾頭(おとう)という地名の由来にもなっているのです。尾頭義次(源義次)とは保元元年(1156)に朝廷で後白河天皇(
2024/02/03 16:52
永正年間に築かれた伊庭氏の居城で戸田宗光が奪った豊橋市大崎城址
豊橋市大崎城址は伊庭氏が永正年間(1504~21)に築き、その後、渥美半島に勢力を伸ばした戸田宗光の居城です。現在は海雲山龍源寺と幸福稲荷社一帯が城跡になっています。■大崎城址の住所■豊橋市船渡町城戸中>>大崎城址の場所の地図今川と戸田大崎
2024/02/02 04:42
高低差が楽しめる佐久間盛政の居城跡の名古屋市昭和区伊勝城址
名古屋市昭和区の伊勝城址は天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家とともに羽柴軍と戦った佐久間盛政の居城跡です。佐久間盛政の通称は玄蕃允(げんばのじょう)で、小説などでは佐久間玄蕃(さくまげんば)の名で出てくることも多いです。盛政の母
2024/02/01 07:01
2024年2月 (1件〜100件)
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