筑後川を見渡す草庵。河畔の木々に野鳥飛び交い、鳴き声に目覚めては流水を眺めて暮らす。日々の想念、里の
斎藤茂吉(1882-1953)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》より(30)
100年前のスペイン風邪の犠牲者は地球上で5000万人におよんだ。疫病の猛威は日本も例外ではなく、歌人の斎藤茂吉は長崎医専教授として赴任した長崎時代に感染して生死の境をさまよったという。歌人で細胞生物学者の永田和弘氏に学んだ(4月25日・読売新聞)。感染前と感染後に詠んだ歌が紹介されていました。前作のゆとりと切迫感の漂う後作が感染症の恐怖を伝えています。寒き雨まれまれに降りはやりかぜおとろえぬ長崎の年暮れむとすはやりかぜ一年(ひととせ)過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現ともなし医業トノ兼務長崎ト港ト鐘ト歌ゴコロ。長崎の鐘の永井隆博士が学んだ昭和初期の長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)は短歌文芸の活動がことのほか盛んであった。大浦のすらんす寺の頂(むね)高く黄金の(こがね)の十字架ひかりけるかも日本のキリスト教史を...斎藤茂吉(1882-1953)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》より(30)
朝から雲に覆われた福岡県南東部のこの里。晩春には少々過ぎていると思われる冷気でしたが、わが友、カワセミ殿下はにぎやかにお出ましでした。個体の識別はできませんが、同伴で現れることが多い2羽とは別に、マイペース王子の1羽も時間差でご機嫌伺いに来てくれました。いつものように窓ガラスに向ってヒット&アウエーのお遊び競演でした。本日はその姿を中心に。閑話休題日本の新型コロナウイルスも情況は深刻さを増しています。国民同士のいがみ合いが不安と鬱積の世間を一層うっとうしく、暗くしているように思います。自粛の呼びかけが始まって半月余りだというのに。マスメディアやテレビのコメンテーターはひたすら政権リーダーの上げ足を取り、感情的な批判を繰り返して留飲を下げます。庶民は庶民で感染者を非難してその対象に医療労働者まで巻き込みます。これ...拾遺集カワセミ殿下本日はヒット&ヒット&アウェイ
川上音二郎(1864-1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』》より(28)
近代演劇ノ開拓者(臨終ノ床ニアリ)「イザ、我ガ劇場ノ舞台」ヘマダム貞奴は日本橋の両替商・越後屋の娘として生まれた。生家の没落で神田葭町(よしちょう)の芸妓置屋の養女となった。「貞奴」は、本名の「貞」と芸妓の世界では伝統ある「奴」の名をもらっての襲名である。才色を兼ね備えて芸にすぐれ、伊藤博文ら名だたる政治家や著名人の贔屓(ひいき)を得て日本一の芸妓となった。川上音二郎夫人にして日本初の女優。こんな言葉を残している。「役者になるとわかっていたら川上と結婚はしなかった。本人も政治家として立つ決心で、立派な政治家にしてやりたいと、わたしの方こそ一心でしたよ。代議士選挙で2回も負けて、そのための手段だった芝居が本筋になってしまった」。夫唱婦随で近代演劇のパイオニアとなった実人生の波乱と豊かさとは別に本懐は芝居より政治だ...川上音二郎(1864-1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』》より(28)
雨上がりもさわやかな本日は早朝からのお出ましでした。それも珍しく3羽の名優のそろい踏み。ときにケンカもにぎやかなパフォーマンス。拙宅居間の窓ガラスをお相手に激突ショーの競い合いでした。<img<img拾遺集カワセミ殿下本日のお姿
わが草庵の居間と川の則面(のり面)の崖にせり出したバルコニーを挟んで川岸から立ち上がった大樹との間の幅4メートルほどの空間が野鳥の遊園地です。ヤマセミの最近の振る舞いがはわがもの顔で、そればまた我が家にとっての癒しの見世物です。遊園地というより体力増強と飛飛翔のトレーニング・センターの趣き。木の枝からの発進、あるいはいったんバルコニーの鉄柵にとまって態勢を整えて居間のガラス窓を相手にぶつかり稽古が始まるのです。最初は透明なガラスを識別できないのではないかと夫婦で話し合っていたのですが、どうやらガラス窓を相手の体当たりに快感を感じているふしがあります。個体の識別はできていませんが、最低3羽が‶メンバー〟。数年前から頻繁に来訪するようになって最初は相当に神経質に見えましたが、最近は相当に大胆になりました。この場所が...拾遺集ヤマセミ自由自在
梅ケ谷藤太郎(1845-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》(28)
大相撲近代化の立役者〈横綱ハ不敗タルベシ〉朝青龍、白鳳、日馬富士と、長くモンゴル出身力士に席巻されてきた日本の大相撲。「日本出身力士として10年ぶりの優勝」を刻印して大関琴奨菊が大相撲初場所の賜杯を手にした。福岡県柳川市出身の大関としてさらなる頂点の綱取りを目指す大願は同じ福岡県出身横綱の古い記憶をよみがえらせた。15代横綱として明治前期の土俵に9割9分1厘という歴代横綱で最高勝率を残した梅ケ谷藤太郎である。筑前国志波村。筑後川中流域、現在の朝倉市杷木町に生まれた。四股名の「梅ケ谷」は立身を追いかけるようにこの地に根付いた特産富有柿「志波柿」に名を残す旧村の、山里の地名に由来する。生まれた赤ん坊の体重を計量する習慣が幕末の農村にあったのかどうか。現在の度量衡で5,000グラムはあったと伝えられる。這いまわるよう...梅ケ谷藤太郎(1845-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》(28)
上野彦馬(1838-1904)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(27)
日本写真技術の開拓者〈写真ハ歴史ノ証人ナリ〉右手をふところに海の彼方を見つめる坂本龍馬、愛犬をお伴にして着流し姿の西郷隆盛。高知・桂浜と東京・上野公園に建つ二つの立像は幕末・維新を代表する傑物の面立ち、その容貌の真実を伝えるという意味では大いに違いがある。坂本像が日本初の職業写真家・上野彦馬による写真の再現なのに対して、西郷には確証を伴う写真は一枚も残っていない。西郷の像は実弟の従道(つぐみち)の顔を下地としてがっしりした容姿の父方の従弟・大山巌を参考に合成した肖像画がモデルの苦肉だったからである。西郷は明治天皇に請われても断ったほどのっ写真嫌いだった。刺客対策だったともいわれている。彦馬は銀細工の職人が居住してその名がある長崎の銀屋町に生まれ育った。父・俊之丞は天文学に通じた奉行所の御用時計師でオランダ人相手...上野彦馬(1838-1904)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(27)
「バックシャン」という怪しげなカタカナ語が現代の若い世代にに通じるかどうか心もとないのですが。後姿の美しい女性のことをかつてこのように表現しました。おおむね旧制高校や帝大の生徒・学生、あるいは若いインテリ層を中心に使われたという印象が、ぎりぎり戦中派で戦後に少年時代を過ごした世代にはあります。国語辞典を開くと、英語のBACKとドイツ語のSCHÖN(美しい)で合成した造語で昭和初期に流行り始めたとありました。多く、「前から見るとさほどでもなかった・・・」という皮肉と失望感を含意していたともありました。エリートたちのじゃれ言葉?いかにもという時代の雰囲気を感じます。正面からジロジロ品定めするのは失礼になりますが、魅惑的な後姿から顔かたちや容貌をあれこれ妄想してもそれだけでは罪にはなりませんものね。というわけで、わた...ヤマセミ幽玄のバックシャン
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