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平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)さんのプロフィール

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ブログタイトル
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/hasami18
ブログ紹介文
筑後川を見渡す草庵。河畔の木々に野鳥飛び交い、鳴き声に目覚めては流水を眺めて暮らす。日々の想念、里の
更新頻度(1年)

51回 / 365日(平均1.0回/週)

ブログ村参加:2016/07/23

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ハンドル名
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)さん
ブログタイトル
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)
更新頻度
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平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)

平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)さんの新着記事

1件〜30件

  •  拾遺集 こっちの水はあまいぞ!甲虫類大集合

    ヤマセミの楽園としてご紹介したわが家の‶自然公園〟です。長い梅雨の期間を経て夏場に入って訪問回数が減り、寂しく思っていました。ときおり、他の鳥たちの鳴き声に交じって「チッチー」の美声を聞くこともありますが、繁みの陰で姿が見えないのが残念です。しからば、甘い水ではなく、甘いエサで誘惑してみようとメロンの皮を置いてみました。ときを経ず現れたのはなんと・・・。甲虫類の仲間たちでした。これまでもカブトムシの数種類が現れることがありました。主役の出現を期待したのですが、1時間もすると驚くほどの光景でした。甲虫類大集合です。よほど甘いものが好物と見えます。肝心の主役のお出ましはまだですが、高貴な方は好みも違うのかしら・・・。代わりにと言ったら失礼にあたりますね。モンシロチョウをはじめ、優美な蝶の仲間たちも入れ替わり立ち代わ...拾遺集こっちの水はあまいぞ!甲虫類大集合

  • 拾遺集~ツバメの巣立ち間近

    筑後川に面した拙宅は対岸から眺めると、あたかもコンクリート要塞の上に建っていかの如しです。川が増水すると、川にせり出した形でのり面を覆うコンクリート壁面は増水するとそのまま堤防、その内側が地下室です。90㎡余の広い地下室の一角の巣にツバメの抱卵を確認したのは6月26日のことでした。ツバメの生態はこれが普通なのか3羽の親が交代で餌を運んでⅠか月余りこんなになりました。</span>拾遺集~ツバメの巣立ち間近

  •       拾遺集 ウイルス禍に思う。日本人の品性は本物か

    人間の品性の本質は、自身の危機を実感したときにのみ表れます。新型コロナウイルス禍にある現在の世界はその情況です。感染者に対する誹謗、あまつさえ過酷な状況の中で未知の感染症と日々、戦っている医療従事者に対する差別や中傷がニュース報道に絶えない現実。残念なことに日本人の品性に対するリトマス試験紙の適格な判断と筆者には思えます。新型コロナウイルス感染は本人が悪いのか―このような問いかけに対する意識、国際調査の結果が過日の読売新聞に報道されていました。「感染者悪人」を意識として持っている人が日本人は欧米人に比べて圧倒的に多いという結論でした。日本などよりも一層過酷な状況にある中、欧米でいちはやく医療従事者に心よりの感謝とエールを送ったかの国の人たち行いが報道される一方で、この国では前記したとおりの感染者差別・非難がごく...拾遺集ウイルス禍に思う。日本人の品性は本物か

  • 広瀬淡窓(1782ー1856)《『西方の風~九州ひと図鑑』より》(38)

    学問ヲ授クルハ天命ナリ。九州の地図を開いて日田盆地(大分県)を中心に同心円を描き、この地が筑後川の本・支流を集めて九州の中部、北部を地域を包み込む‶同心軸〟であることを確認する。俯瞰すると瀬戸内海、玄界灘、有明海の水運との連携が可能であることを想像できる。山地に孤立しているように見えながら、街道や舟運が発達した江戸中期以降、交通の要衝となる地勢にあった。九州の幕府直轄地あわせて15万石を管轄して祖税の徴収や訴訟など民治を司る西国郡代として繁栄した。天領・日田。外圧と変革の予兆を背にする俊秀に時勢を超える真理を説いた広瀬淡窓(ひろせたんそう)と私塾・咸宜園(かんぎえん)の奇跡の舞台であった。淡窓は甲斐の武田武士を遠祖とし、代官所や諸藩の経済活動に深くかかわる日田広瀬家の長男に生まれた。幼児期より求馬(もとめ)など...広瀬淡窓(1782ー1856)《『西方の風~九州ひと図鑑』より》(38)

  • 拾遺集 ~ ヒヨドリ 親子の愛情

    鳥籠の中にヒヨドリのヒナがいます。9日の朝、ヨチヨチ歩きもままならい様子で庭木の下で途方に暮れていました。巣立ちにはまだ早い。木の上の巣から誤って落ちたらしい。カエデ、ウメ、マツ、サザンカ・・・周りのめぼしい木に巣を探しましたが見つかりません。野良猫が徘徊します。籠に保護したところです。ヒヨドリ。羽毛の色彩がひどく地味、おまけに大食漢です。小鳥のために設けた餌箱のミカンなども、先客のメジロなどを蹴散らしてあっという間に平らげてしまいます。要するにわが家では歓迎されていません。容姿のアピール係数のランクは幼いヒヨッ子とて同じですが、鳴き声のチィー、チィーは赤ん坊です。かわいい!。気づくと、庭木のあたりが騒々しい。この子の親でしょう、つがいのようです。縁側から外に出して親子の面会、差し入れの便宜を図りました。赤ん坊...拾遺集~ヒヨドリ親子の愛情

  • 若山牧水(1885-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(36)

    「長崎の鐘」をはじめ、数々の名曲を残した作曲家・古関裕而の生涯を描くNHKテレビ朝のドラマ(2020年)が好評です。同じ九州とかかわりの深い「白鳥の歌」は、この才能豊かな作曲家が牧水の3首に旋律をつけて藤山一郎&松田トシにより歌われました。美しき抒情の極みは日本を代表する歌曲です。本記冒頭の「幾山河越えさり行かば・・・」は3節目の歌詞として使われています。我ハ即、詩歌ナリ幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく酒を愛し旅に憑(つ)かれ、一抹のかなしみを裡(うち)に魂は漂泊する。22歳の若山牧水が中国地方山地の峠道で詠んだ。第一歌集『海の声』に収められ、永眠の地・静岡県沼津市に建立された第1号歌碑に刻まれた。「かなし」「さびし」を主調として生涯に詠んだ8700余の歌の一つである。以来、牧水歌碑は全国3...若山牧水(1885-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(36)

  • 野村望東尼(1806-1867)《『西方の風~九州ひと図鑑》』(34)

    一級の女性文人、勤王歌人に非ずー面白キ事モ無キ世ヲ。郷土の歴史上の人物について問われて、野村望東尼(のむらもとに)は福岡市民があげる名前の、おそらくは十指にはいる。しかし、大方の人が想像できる人物像は、「平尾山荘の勤労歌人」という輪郭にとどまる。高杉晋作や平野國臣らとの親交、さらには福岡藩による勤王攘夷派の粛清のあおりで姫島(福岡県糸島市)に流罪になった事情を説明できれば相当の知性であろう。望東尼の遺稿、残された文書をよみとく地道な手法でより維新史観で強調された「勤王歌人」を矯正し、「時世の記録者」「一級の文人」としての実像を彫出する作業が進行中であることを小河扶希子氏の著書『野村望東尼』で知った。福岡藩士・浦野重右衛門の二女に生まれて幼名は本(もと)、あるいは元(もと)といった。後年、得度して「望東(もと)」...野村望東尼(1806-1867)《『西方の風~九州ひと図鑑》』(34)

  • *拾遺集* コロナウイルスは猫同士で感染する。猫から人へも?

    新型コロナウイルスに関連し、昨日の夕刊を広げてとても気になる記事が目に留まりました。コロナウイルスの感染が猫の間で広がる可能性があるという、東京大学医科学研究所などのチームの研究成果の論文です。アメリカの医学誌に掲載されて、研究成果の確かさに疑いの余地はなさそうです。実験は、新型ウイルスを鼻などから感染させた猫と未感染の猫とで3組のペア―を作り、それぞれを同じケージで飼育する方法で行われました。その結果、どうなったか。2日~5日後には3組とも未感染だった猫の鼻からウイルスが検出され、感染が確認されました。そもそも人類のウイルス禍は人が動物を身近に飼うようになって始まったと言われます。そして、人と愛玩動物との「濃厚接触」は核家族化や高齢化が進んでいる現在、日本に限らず世界中で歴史上最も心配される状況にあります。わ...*拾遺集*コロナウイルスは猫同士で感染する。猫から人へも?

  • 拾遺集*スーパー・ボランティアとコロナ

    コロナ禍で国民ひとしく呻吟するなか、尾畠春夫さん(80)の暮らしぶりと前向きな心の持ちようが、きょう5月13日の読売新聞(西部本社版)に紹介されていました。「コロナに思う」というインタビュー記事です。全国の被災地に出向いて復興支援の活動を行い、献身的な働きぶりから「スーパー・ボランティア」と、メディアで評判になったあの方ですが、居ずまいを正してマスメディアの取材に応じることはめったにありません。購読者だけで独占するにはもったいないと思い、ご紹介することにしました。コロナ禍のご自身の活動への影響について述べておられます。長年の願いとして4月にも始めるつもりだった沖縄県の戦没者遺骨収集。今年は断念せざるを得なかったことを第一に挙げ、最近は人の少ない地元の海岸で以前から取り組んでいるペットボトルの収集を続けているそう...拾遺集*スーパー・ボランティアとコロナ

  • 杉田久女(1890-1946)《『西方の風~九州ひとずかん』(山﨑潔著)》より(35

    女流の俳句を切り拓く格調高キ心ノ叫ビ困難と激動を経験した明治、昭和にはさまれて大正時代は自由主義的な風潮の中で新しい文化が花開いた季節であった。大正デモクラシー、大正ロマン・・・鈴木三重吉によって児童文芸誌『赤い鳥』が創刊され、文部省唱歌とは趣を異にした民間芸術家による新しい子供の歌曲「童謡」が誕生した。詩人の北原白秋、西条八十、野口雨情たち、作曲家では山田耕筰、中山晋平、本居長世たちの活躍である。15年の短い期間ながら陽だまりの情調を想像して特別の憧れがある。女流俳句を近代文芸に刻んで先駆となった杉田久女が句作を始めたのこの季節、大正5年(1916)であった。平成28年(2016)はそれからちょうど100年、波乱の生涯を閉じて70年の年だった。杉田久女は「ホトトギス」の高浜虚子を師としてその長寿を願い、菊の花...杉田久女(1890-1946)《『西方の風~九州ひとずかん』(山﨑潔著)》より(35

  • 中村天風(1876-1968)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(34)

    積極思考の勧めイツモ心ニ太陽ヲ。どれほどの人が知っているのか。あるいは知らないのか。「心身統一法」と、創案者の中村天風(なかむらてんぷう)のことである。大正、昭和と政財界はじめかくかいの著名人に信奉する人が少なからず、名前を挙げれば東郷平八郎、原敬、双葉山、松下幸之助・・・などなどである。現代の‶信者〟も絶えないという。宇宙のいとなみに調和することで生命力を養い、心と体の健康を実現する実践の哲学と説明されても凡夫には理解を超える。「ヨガの修業から得た心身鍛錬の体系」と、注釈なしに言ってしまえば、世に氾濫する通俗的な健康法と並べて想像されよう。とりあえず言えることは、日本では明治から大正に移り変わる時代にヒマラヤの第3高峰のカンチェンジュンガの麓の村でインド人の行者のもとで徹底したヨガ修業に心身を置いたこと、3年...中村天風(1876-1968)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(34)

  • 徳冨蘆花(1868-1927)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(33)

    蘆花(あしばな)ノ見所ナキヲ愛ス。「紅涙を絞る」ということばがある。用例は明治期に多い。悲しみのあまり涙が血に染まるという比喩は過激でも、「美しい女性の涙」というもう一つの意味を含め、時代の気分をまとって語感が美しい。小説を書く動機を「読者の涙を誘うこと」と公言したのは『金色夜叉』の尾崎紅葉だが、徳富蘆花は『不如帰(ほととぎす)』で満天下の婦女子の紅涙をしぼらせてベストセラー作家になった。明治30年代のはじめである。蘆花が五つ違いの兄・蘇峰とともにふるさとが近代日本に送り出した偉人であることを肥後人で知らない人はいないと思う。水俣の大庄屋・代官を務めた家系で、父・一敬は横井小楠の高弟。兄弟で学んだ熊本洋学校、同志社英学校(同志社大学の前身)で欧米文化やキリスト教に感化されるのに、小楠に通じる開明思想の下地が少な...徳冨蘆花(1868-1927)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(33)

  • 辰野金吾(1854ー1919)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(32)

    東京駅の設計者建築ハ美術ナリ。赤レンガの巨大なパノラマに白いストライプ。東京駅は近代日本を象徴するモニュメントであり首都の顔である。西洋のモダンとロマン、そして郷愁と懐かしさ。中央塔を中心に全長335メートルの両翼にドームを配した意匠は、翼を広げて皇居を拝する鳳凰である。昭和の戦争の傷跡を応急補修したままの仮装でときを過ごして2年前に復元され、失われた容姿がよみがえった。今年は折りしも壮健100周年になる。全国の都市に記念碑となる建物を残した辰野金吾の晩年、大正年の作である。安政元年。欧米という別世界の存在やその圧力を不安に感じ、確固として自明と思っていた社会のゆらぎが庶民にも自覚されるようになった幕末。佐賀・唐津藩士でも足軽よりも低い家格に生まれている。未知への雄飛を決意したのは藩の英学校に招かれていた高橋是...辰野金吾(1854ー1919)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(32)

  • 種田山頭火(1882ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より

    鐵鉢(てっぱつ)ノ中ニモ霰(あられ)行乞、漂泊を想念することなしに棚田山頭火を想像することは難しい。法衣をまとって一笠一鉢(いちりゅういっぱつ)。昭和15年に没した俳人が共感をもって振り替えられるようになるのは戦争と敗戦、戦後復興を経て昭和も40年代に入ってからであった。高度成長の歪(ひずみ)に対して感じる漠然とした現代人の違和と表裏し、近代と文明への疑いを携えて規範や秩序を凌駕して生きた俳人の生は新たな生命(いのち)となった。「水の流れるやうな自然さ、風の吹くやうな自由さ」(『行乞記』)。無機の色合いを濃くする人間社会の心の孤影に共振して句の味わいはいよいよ深まる。分け入っても分け入っても青い山行乞とは仏僧にいう托鉢(たくはつ)、つまり物乞いのことである。家が立ち行かなくなって妻子を捨て、出家得度した禅寺。山...種田山頭火(1882ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より

  • 斎藤茂吉(1882-1953)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》より(30)

    100年前のスペイン風邪の犠牲者は地球上で5000万人におよんだ。疫病の猛威は日本も例外ではなく、歌人の斎藤茂吉は長崎医専教授として赴任した長崎時代に感染して生死の境をさまよったという。歌人で細胞生物学者の永田和弘氏に学んだ(4月25日・読売新聞)。感染前と感染後に詠んだ歌が紹介されていました。前作のゆとりと切迫感の漂う後作が感染症の恐怖を伝えています。寒き雨まれまれに降りはやりかぜおとろえぬ長崎の年暮れむとすはやりかぜ一年(ひととせ)過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現ともなし医業トノ兼務長崎ト港ト鐘ト歌ゴコロ。長崎の鐘の永井隆博士が学んだ昭和初期の長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)は短歌文芸の活動がことのほか盛んであった。大浦のすらんす寺の頂(むね)高く黄金の(こがね)の十字架ひかりけるかも日本のキリスト教史を...斎藤茂吉(1882-1953)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》より(30)

  • 拾遺集 カワセミ殿下 本日はヒット&ヒット&アウェイ

    朝から雲に覆われた福岡県南東部のこの里。晩春には少々過ぎていると思われる冷気でしたが、わが友、カワセミ殿下はにぎやかにお出ましでした。個体の識別はできませんが、同伴で現れることが多い2羽とは別に、マイペース王子の1羽も時間差でご機嫌伺いに来てくれました。いつものように窓ガラスに向ってヒット&アウエーのお遊び競演でした。本日はその姿を中心に。閑話休題日本の新型コロナウイルスも情況は深刻さを増しています。国民同士のいがみ合いが不安と鬱積の世間を一層うっとうしく、暗くしているように思います。自粛の呼びかけが始まって半月余りだというのに。マスメディアやテレビのコメンテーターはひたすら政権リーダーの上げ足を取り、感情的な批判を繰り返して留飲を下げます。庶民は庶民で感染者を非難してその対象に医療労働者まで巻き込みます。これ...拾遺集カワセミ殿下本日はヒット&ヒット&アウェイ

  • 川上音二郎(1864-1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』》より(28)

    近代演劇ノ開拓者(臨終ノ床ニアリ)「イザ、我ガ劇場ノ舞台」ヘマダム貞奴は日本橋の両替商・越後屋の娘として生まれた。生家の没落で神田葭町(よしちょう)の芸妓置屋の養女となった。「貞奴」は、本名の「貞」と芸妓の世界では伝統ある「奴」の名をもらっての襲名である。才色を兼ね備えて芸にすぐれ、伊藤博文ら名だたる政治家や著名人の贔屓(ひいき)を得て日本一の芸妓となった。川上音二郎夫人にして日本初の女優。こんな言葉を残している。「役者になるとわかっていたら川上と結婚はしなかった。本人も政治家として立つ決心で、立派な政治家にしてやりたいと、わたしの方こそ一心でしたよ。代議士選挙で2回も負けて、そのための手段だった芝居が本筋になってしまった」。夫唱婦随で近代演劇のパイオニアとなった実人生の波乱と豊かさとは別に本懐は芝居より政治だ...川上音二郎(1864-1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』》より(28)

  • 拾遺集 カワセミ殿下本日のお姿

    雨上がりもさわやかな本日は早朝からのお出ましでした。それも珍しく3羽の名優のそろい踏み。ときにケンカもにぎやかなパフォーマンス。拙宅居間の窓ガラスをお相手に激突ショーの競い合いでした。<img<img拾遺集カワセミ殿下本日のお姿

  • 拾遺集 ヤマセミ自由自在

    わが草庵の居間と川の則面(のり面)の崖にせり出したバルコニーを挟んで川岸から立ち上がった大樹との間の幅4メートルほどの空間が野鳥の遊園地です。ヤマセミの最近の振る舞いがはわがもの顔で、そればまた我が家にとっての癒しの見世物です。遊園地というより体力増強と飛飛翔のトレーニング・センターの趣き。木の枝からの発進、あるいはいったんバルコニーの鉄柵にとまって態勢を整えて居間のガラス窓を相手にぶつかり稽古が始まるのです。最初は透明なガラスを識別できないのではないかと夫婦で話し合っていたのですが、どうやらガラス窓を相手の体当たりに快感を感じているふしがあります。個体の識別はできていませんが、最低3羽が‶メンバー〟。数年前から頻繁に来訪するようになって最初は相当に神経質に見えましたが、最近は相当に大胆になりました。この場所が...拾遺集ヤマセミ自由自在

  • 梅ケ谷藤太郎(1845-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》(28)

    大相撲近代化の立役者〈横綱ハ不敗タルベシ〉朝青龍、白鳳、日馬富士と、長くモンゴル出身力士に席巻されてきた日本の大相撲。「日本出身力士として10年ぶりの優勝」を刻印して大関琴奨菊が大相撲初場所の賜杯を手にした。福岡県柳川市出身の大関としてさらなる頂点の綱取りを目指す大願は同じ福岡県出身横綱の古い記憶をよみがえらせた。15代横綱として明治前期の土俵に9割9分1厘という歴代横綱で最高勝率を残した梅ケ谷藤太郎である。筑前国志波村。筑後川中流域、現在の朝倉市杷木町に生まれた。四股名の「梅ケ谷」は立身を追いかけるようにこの地に根付いた特産富有柿「志波柿」に名を残す旧村の、山里の地名に由来する。生まれた赤ん坊の体重を計量する習慣が幕末の農村にあったのかどうか。現在の度量衡で5,000グラムはあったと伝えられる。這いまわるよう...梅ケ谷藤太郎(1845-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》(28)

  • 上野彦馬(1838-1904)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(27)

    日本写真技術の開拓者〈写真ハ歴史ノ証人ナリ〉右手をふところに海の彼方を見つめる坂本龍馬、愛犬をお伴にして着流し姿の西郷隆盛。高知・桂浜と東京・上野公園に建つ二つの立像は幕末・維新を代表する傑物の面立ち、その容貌の真実を伝えるという意味では大いに違いがある。坂本像が日本初の職業写真家・上野彦馬による写真の再現なのに対して、西郷には確証を伴う写真は一枚も残っていない。西郷の像は実弟の従道(つぐみち)の顔を下地としてがっしりした容姿の父方の従弟・大山巌を参考に合成した肖像画がモデルの苦肉だったからである。西郷は明治天皇に請われても断ったほどのっ写真嫌いだった。刺客対策だったともいわれている。彦馬は銀細工の職人が居住してその名がある長崎の銀屋町に生まれ育った。父・俊之丞は天文学に通じた奉行所の御用時計師でオランダ人相手...上野彦馬(1838-1904)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(27)

  • ヤマセミ 幽玄のバックシャン

    「バックシャン」という怪しげなカタカナ語が現代の若い世代にに通じるかどうか心もとないのですが。後姿の美しい女性のことをかつてこのように表現しました。おおむね旧制高校や帝大の生徒・学生、あるいは若いインテリ層を中心に使われたという印象が、ぎりぎり戦中派で戦後に少年時代を過ごした世代にはあります。国語辞典を開くと、英語のBACKとドイツ語のSCHÖN(美しい)で合成した造語で昭和初期に流行り始めたとありました。多く、「前から見るとさほどでもなかった・・・」という皮肉と失望感を含意していたともありました。エリートたちのじゃれ言葉?いかにもという時代の雰囲気を感じます。正面からジロジロ品定めするのは失礼になりますが、魅惑的な後姿から顔かたちや容貌をあれこれ妄想してもそれだけでは罪にはなりませんものね。というわけで、わた...ヤマセミ幽玄のバックシャン

  • 拾遺集 ヤマセミ道楽

    福岡県の南東部、大分県日田市に接する筑後川流域のこの地。上流と言うには無理がありますから中流域が始まる筑紫平野の東端と説明しておきましょう。九州北西部から九州山地に向かう入り口にあたります。天ケ瀬、杖立、黒川などの著名な温泉、久住、阿蘇の名勝をひかえながらにぎわいには縁遠い老生にとってカワセミのご機嫌うかがいが川辺の暮らしというわけです。日々、応対しきれないくらいの来訪。個体として識別するのは困難ですが、最低3羽はいると推測します。本日はこのショット。つがい?親子?友だち?・・・とりあえず、「チャットの時間」と、しておきます。拾遺集ヤマセミ道楽

  • 犬童球渓(1879-1943)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(26)

    故郷ノ廃家愛郷ハ詩トナリ歌トナリ。strong>関門海峡を前にして生まれて宿命の放浪者を自称した林芙美子の『放浪記』は、唱歌の「旅愁」の歌詞を筆はじめとして、「小学校でこんな歌を習った」と、一家で転々した幼い日を回想して始まる。♬更けゆく秋の夜旅の空のわびしき思ひにひとりなやむ・・・女流作家が貧しかった少女時代の切ない思いを重ねた歌、そして、♬幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば咲く花鳴く鳥そよぐ風・・・と、ふるさとを哀唱して郷愁の詩情で対をなす「故郷の廃家」。明治以来、100年にわたって日本人に愛されたうたの詩人こそ犬童球渓(いんどうきゅうけい)である。明治35年(1902)に志を抱いて郷関を出た青年の旅路の孤独が織りなす真情であった。本名・信蔵。球渓はふるさとを貫く球磨川にちなむ筆名である。熊本県藍田村(現・...犬童球渓(1879-1943)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(26)

  • 拾遺集 ヤマセミ三昧

    世界はコロナウイルスで沈鬱ですが、自然のめぐりは春たけなわです。春なのにやり場のない不安感に押しつぶされそうな人間たちを知らぬ気に鳥たち春色を堪能してうきうきと気分を高ぶらせます。ヤマセミの活動が盛んです。かまってくれと、ひっきりなしのパフォーマンス。にわかカメラマンも付き合いにあわだたしい。すこしずつご紹介しましょう。居間から窓越しにツー・ショット美しいでしょう、と言いたいところですが。このままこの家のあるじの居間の窓に突進!窓ガラスを相手のぶつかり稽古。スッキリした気分で拾遺集ヤマセミ三昧

  • 岩崎弥太郎(1834-1885)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》(26)

    三菱グループ創始者有事ニ私利ヲ望マズ。赤レンガ造りのレトロなその建物は長崎港に沿って稲佐山の麓に展開する三菱重工業長崎造船所の奥まった空間にある。三菱の発祥と近代日本を牽引(けんいん)した歴史を伝える史料館。入館者を迎える岩崎弥太郎像は港口に浮かんでグループの炭鉱として栄えた高島に建つ巨大像の原型で、3年前にこの場所に納まった。土佐(高知県)の最下層の藩士に生まれながら幕末・維新の息吹と西欧文明をこの街で吸収し、一代にして三菱財閥を築いた男の威風は、明治の起業家の比類なき雄姿と熱情を伝える。長崎が舞台として登場し、この街出身の福山雅治が坂本龍馬を演じたNHK大河ドラマ(2010年)。香川照之の岩崎弥太郎が準主役で配されたこともあり、期待してテレビに向かった市民にとって鳥かごを背負って汚れ役の極まった「香川弥太郎...岩崎弥太郎(1834-1885)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》(26)

  • 拾遺集「大相撲、天皇賜杯とユダヤ民族の凱旋曲」

    コロナウイルスの脅威を克服して史上初の15日間の無観客場所を全うした大相撲の春場所。「過酷な状況のもとで立派に土俵を務めあげてくれた全力士、そして全協会員を誇りに思う」という協会理事長の感慨と、次の決意のことばに尽きます。「元来、相撲は世の平安を祈願するために行われてきた。健康の象徴とされる力士の身体で四股を踏み、相撲を取る。その所作は1500年前から脈々と受け継がれ、大相撲はこれからもその伝統を受け継いでいく」。神社みたいな神聖な場所に感じた――理事長の言葉以上に私が感銘を受けtたのは千秋楽を終えて力士たちの感想が新聞でさまざま報じられていた中で、静寂極まった会場に一歩足を踏み入れた初日の厳粛な気持ちを表した琴奨菊のこの言葉でした。大相撲は極限まで体を鍛え上げ、丸い土俵の上で技と力を競うだけの単なる〝スポーツ...拾遺集「大相撲、天皇賜杯とユダヤ民族の凱旋曲」

  • 井上伝(1788~1869)《『西方の風ー九州ひと図鑑』(山﨑潔著)より》(24)

    久留米絣の祖藍ト白ノ美ニ魅セラレ。かすりとは、掠(かす)りの義なり。処々掠りたる如(ごと)く模様を織り出せるを以て名つく。絣の由緒を説明するこの文章。明治36年に発行された久留米商業学校同窓会編の『久留米絣』にある。〈掠〉を音読みして、「掠奪」という熟語を持ち出せば不穏当だし、訓読みして「絣(かすり)は‶かすり傷〟のことです」といってももとより説明にならない。この場合は布地の藍色が掠(かす)め取られたように白い文様になっている状態、制作の様子を表現するのに使われた。天明年間(1788)に久留米藩生まれ、江戸時代の末期を明治2年まで生きた井上伝(旧姓・平山)が久留米絣の創始者である。その昔、織物の一反を一日で織ることを「日ばた」といった。藍の産地だった福岡県久留米地方では娘たちは10歳を待たずに織物を習い、織り方...井上伝(1788~1869)《『西方の風ー九州ひと図鑑』(山﨑潔著)より》(24)

  • 稲尾和久(1937-2007)《『西方の風~九州ひと図鑑新装版』より》(23)

    神サマ仏サマ稲尾サマ「投ゲラルレバ満足」。博多湾を遠望して発掘調査が進む大宰府政庁の古代迎賓館。鴻臚館遺跡のこの地にあった平和台球場は野性味あふれるプレーで福博の青少年、野球ファンを熱狂させたプロ野球西鉄ライオンズの本拠地であった。</span>稲尾和久(1937-2007)《『西方の風~九州ひと図鑑新装版』より》(23)

  •   伊東玄朴(1800-1871)《九州ひと物語(22)》

    天然痘ウイルス撃滅スベシ。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』より天然痘と、いつから言い慣わすようになったのだろう。ウイルスによる感染症。この病気で死亡したと確認されている最古の例として紀元前1100年代にエジプト王ラムセス五世がある。医学用語でいう痘瘡(とうそう)は最も致死率の高い感染症として20世紀に至るまで恐れられた。佐賀藩・神埼の貧農から将軍主治医に上り詰め、種痘を普及させて天然痘予防に貢献した幕末の医師である。仲間の蘭方医を結集して開設された江戸は神田のお玉ケ池種痘所。将軍、藩主も埒外ではいられなかった不治の病の総合診療所。西洋近代医学への道を切り拓く拠点として創設を主導したのが伊東玄朴(幼名・勘蔵)である。新時代の予兆、西洋文明が往来する長崎街道の胎動に触発された立志の思い・・・農家では求め得な...伊東玄朴(1800-1871)《九州ひと物語(22)》

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