月 ほっかりと 月がでた 丘の上をのっそりのっそり だれだらう、あるいてゐるぞ (『雲』より) 山村暮鳥といえば『雲』というように、我々はおのがじし身勝手な親近感を胸に秘めて、山村暮鳥の研究に着手したわけであるが、まず第一印象として、誰もが感じたことは、彼のあののんびりと...
月 ほっかりと 月がでた 丘の上をのっそりのっそり だれだらう、あるいてゐるぞ (『雲』より) 山村暮鳥といえば『雲』というように、我々はおのがじし身勝手な親近感を胸に秘めて、山村暮鳥の研究に着手したわけであるが、まず第一印象として、誰もが感じたことは、彼のあののんびりと...
〇『昭和史』(遠山茂樹・他)・岩波新書 〇『日本資本主義講座』・第一巻・岩波書店 「資本主義の全般的危機と第二次世界戦争」(小椋広勝) 「太平洋戦争とアジアの民族革命」(小椋広勝) 「占領をめぐる内外の情勢」(陸井三郎) 〇『日本資本主義講座』・第三巻・岩...
「庶民」とは「広辞苑」によればもろもろの民、人民あるいは貴族などに対し、なみの人々平民といほどの意である。だがしかしこれでは満足できない。その満足できない部分すなわち日本の大衆の内在的さりかた、内在的な意識構造を深沢は表現した。しからばその「庶民」という言葉のもつ内容とは何...
「日本人」というものの社会的存在形態、あるいはパーソナリティをこれほどまでにその内部からとらえている小説はないだろう。 私達がこの小説を読む過程の中でもつある「親近感」とはいったいどういうものであろうか。おそらく井伏鱒二は原子爆弾の恐ろしさ、あるいは戦争はまだ終わっていな...
そのようなことがもし吉本にとって自明のことであるとすれば、彼の「芸術論」には明らかに、「芸術はどのようにして創られるか」という視点が欠けている。それは同時に、芸術創造の過程における、芸術家と生のままの現実とのダイナミックな関係を見落としていることでもある。 私はそこに吉本...
ここで吉本はどのようなことをいっているのであろうか。 例えば、一人の画家が一つの風景を前にして絵を画き始めたとする。このときその画家の芸術創造の原動力となるものは、一つの風景とそれを画きたいという彼の衝動(内部意識)である。吉本はその「風景」(現実)と内部意識の関係を循...
私はこの要約における、吉本の蔵原に対する批判には全面的に同意する。 すなわち、まず階級闘争を主要主題としなければならない、といった「主題の積極性」理論、それはひとたび転向によってその思想体系を百八十度転換するや否や、まず帝国主義的侵略(「聖戦」)をその主要主題としなけれ...
さて、その第二の部分は、いわゆる二段階転向論である。それはプロレタリア文学並びに文学運動批判としてあり、同時にまた吉本隆明の提起する芸術論、芸術運動論の問題でもある。 彼のいう二段階転向論とはいかなるものであるか。 〈わたしのかんがえでは、(略)プロレタリア文学運動の...
さて吉本は「転向」ということを次のように規定する。 〈それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかめそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思想変換をさしている。〉(「転向論」・『芸術的抵抗と挫折』・未来社・169頁) すなわち、吉本にとって転向...
・・・泣いてゐるものが一番悲しんでゐるわけではないのだ・・・(「中毒」織田作之助) この論文をしめくくるに当たって、吉本隆明をとりあげようとするのは、他でもない、けだしこれまでの私の戦後文学に対する言及の論拠が、吉本のそれに負うところきわめて大だと考えるからである。とは...
だがしかし私は一方でそうした精神主義的限界をみながら、坂口安吾を次の二点において評価しなければならない。 その一は、「堕落論」における《醇風美俗》意識に対する闘いであり、その二は「オモチャ箱」における、新しい芸術論の提起においてである。 〈彼の小説の主人公はいつも彼自...
〈人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。〉(「教祖の文学」・前出・Ⅱ・32頁) はたして、この花とは桜の花びらのことであったろうか。 《桜の森の満開の下》とは何か。それは芸術という一つの空間であり、人間が「真実」を垣間見る、一瞬の世界ではあ...
私は「木枯の酒倉から」「風博士」「母」といった小説が、「海の霧」や「竹藪の家」とたとえ同時期に書かれたとはいえ、はっきりとその両者に区別をつけなければならないと思うのだ。すなわち、坂口安吾は前者において、人間の不可解さを見つめ、それによって得た一つの「観念」によって、後者...
だがそれではいったい、そうした坂口安吾の姿勢とは、いいかえればどういうものなのであろうか。私はそうした姿勢に、必ずしも坂口安吾のオリジナリティ、あるいは可能性を求めようとしないにである。 母の憎しみによって与えられ、育てられた坂口安吾の観念、それは人間はあくまで不可解な...
〈母。…得体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる、 私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だってありはしない。ひとへに憎み通してきたのだ「あの女」を、母は「あの女」でしかなかった。〉(「をみな」・前出・Ⅵ・29頁) 坂...
坂口安吾の思想とは何か。だがその前に私は、坂口の次のような言い方に注意しなければならない。 〈思ふに文学の魅力は、思想家がその思想を伝へるために物語の形式をかりてくるのではなしに、物語の形式でしかその思想を述べ得ない資質的な芸人の特技に属するものであらう。〉(「大阪の反...
「FARCEに就て」の骨子はいうまでもなく文学方法論であるが、福田が「文学について語ったことばのはうが、ずっと深く人生の真実を突いてゐる」と指摘しているように、ここで坂口は文学のレーゾン・デートルを人間のレーゾン・デートルとして語っているのである。つまり先の私の同意し得な...
さて私は、坂口と私の関係を必然化せしめるものが、坂口と私が共に生きるとはどういうことなのかという問いかけを、おのれに向かって発している人間であるという、芸術的事実であると言った。そしてそれは、実生活において坂口が書こうとすることによって、また私が読もうとすることによって、...
さて、それではいったい福田恒存のいう、「作品を通じてつかみ得た」坂口安吾のすがたは、どこにおいて存在し、またいかなる方法において捉え得るのであろうか。この問題について、私は坂口安吾と必ずしも同意見ではない。私は次のように考える。私がまず「作品を通じて」坂口安吾の姿をつかも...
もし、生活とは何か、生きるとはどういうことかという問いに、答える方法それが、他ならぬ生きることだといったら、それは同義反復だろうか。ともかくも坂口安吾は、そのような同義反復におのれの芸術を賭けているのだ。 〈私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いはゆ...
坂口安吾は、おのれに向かって生活とは何か、生きることはどういうことか、という問いかけを、その生涯にわたって発しつづけた人間であった。とはいえ私は、坂口安吾に会って彼の口からそれを聞き正したわけではない。何故そのようなことがいえるのであろうか。ただそう言ってみただけのことで...
さて、生活とはいったい何であろうか。私は『広辞苑』のいう二つの意味それ自体というよりはむしろ、その二つの意味の差異に、注目しなければならない。なぜなら、その差異の関係をもたらすそのもの、もしくは要因こそが正に生活であると思うからである。 ちなみにその二つの意味の差異とは...
・・・私はつまり天来の退屈男なのだから、生活を芸術と見る。・・・(「金銭無情」昭和22年) いったい、生活とは何であろうか。『広辞苑』(岩波書店)によれば〈①いきていること。いかすこと。生存して活動すること。生存して働くこと。②活計。くらし。くちつぎ。すぎわい。〉である。...
「わたし」は、胸膜炎と「精神の運動」によって自己の生活と「観念」を、いくさ仕掛の世界とその生活意識に対立させた。だがそのことによって正に「わたし」は、色仕掛の世界において文字通り自己の闘いを闘わねばならなくなる。すなわち弓子との闘いである。「わたし」と、弓子とをその色仕掛...
「無尽燈」(昭和21年)、それは一見すると「焼跡のイエス」に比べて戦後的な作品とはみえないかもしれない。だがそれは明らかに石川淳における《戦後》の文学的表現なのである。いうまでもなく「無人燈」は、石川淳のこれまでの生活に対する回想録では決してない。 〈あひにく、わたしは...
石川淳は「死」を一つの「現実」として受け止めた先の登場人物たちに次のような会話をさせている。 〈「帯子にも判らない、何だかとてもいい気持ち。でも三治ったら、ずいぶんはらはらさせるの。沖で、いきなり泳ぐんだって冷たい水の中に飛びこみさうにするの。自動車に乗ったら、きっと崖...
ところで石川淳において、自己の「観念」を表現することが小説であるとすれば、彼の闘いは、より厳密にいえば彼自身の内部意識における生活意識(地上的感情)と精神生活者として追求する理想観念(それは世界観もしくは世界像といいかえることができるだろう)との闘いとしてあるだろう。とす...
〈わたしは元来飛行家の弟子なのだ。雲をも風をも低しと見て過ぎつつ厚みも重みもない世界へ入らうとする離れ業はさることながら、わたしのもくろむのは低空飛行で、直下に現ずる此世の相をはためく翔に掠め取って空に曼荼羅を織り成さうと云ふ野心を蔵してゐるのだが、さて梅子とか仙吉とか雑...
ところで「佳人」は、佳人についての叙述ではない。「わたし」にとって佳人とはミサのことであるが、石川淳にとってそのようなことはどうでもよかったはずだ。にもかかわらず、石川淳はこの叙述を「佳人」と題した。そのことは彼がこの叙述においてことさら「わたし」という登場人物を設定した...
「わたし」は、かくて臍からではなく、死もしくは死の意識から自己の生活を再出発させようとする。 〈その間にしたことといへば、これまでし来った些かな習慣をさへ削除することであった。まづ例の手帖(注・・ユラとの愛について考えるための手帖)など焚き捨てること、つまらぬ歌や句をひ...
「わたし」は、ユラ、ミサたちとの生活を「魚のような漠然たる生存」と名づける。同時にまた、それは「わたし」の生活に絶望する生活の表現でもある。そして「わたし」はというより石川淳はそうした「魚のような漠然たる生存」に一つの決着をつけようとする。すなわち書き手としての「わたし」は...
さてそれでは石川淳にとって「佳人」が意味するもう一つの意味、すなわち新しい「生活」への出発とはどのようなものであったのか。厳密にいえば、それは新しい「生活」への出発という形を、生活的な意味においてとるものではない。むしろ認識者から表現者へ飛躍するときの一つの契機、そういう...
〈ここでわたしのペンはちょっと停止する。もしわたしがこの叙述を小説に掏りかえようとする野心をもってゐたとしたらば、別にできない相談ではあるまい。〉(前出・51頁) これは「佳人」のおわりの部分の書き出しであるが、石川淳は、斜面をずり落ちてゐった「わたし」について書いてい...
・・・春とはいへ、夜更の風酔ざめの襟に沁み、はっと夢破れて起きあがった曽呂利が大きな嚏一つ、ほい、まだ地上に生きてゐたか。・・・(『曽呂利噺』) 人は石川淳について語るとき、何故石川淳的にならざるを得ないのであろうか。いいかえれば、何故石川淳の言葉で石川淳を語らざる...
さてそれでは、織田がめざした方法上の転換とはそのようなものであったのだろうか。 織田は「郷愁」において、自己の小説方法論をあからさまに述べている。そこにおいては「世相」と「人間」とが対立的にとらえられ、彼の結論は、人間の郷愁への回帰という形をとる。 〈再び階段を登って...
織田は、戦後間もなく発表した「表彰」(『文芸春秋』昭和20年12月号)という作品で次のように書いている。 〈伊三郎が消防部の副班長に任命された頃、お島は警防団から表彰された。表彰式の日お島は名前を呼ばれると、居並ぶ団員の一人一人にペコペコ頭を下げながら団長の前へ出て行った...
織田は、この作品でも、登場人物の内面に立ち入ることをことごとく避け、かわりに船、海、あらし、動物、その他生活用品等で彼らの「生活」を表現している。だがそれは、もはや人間関係そのものを媒介させうる社会的な「物」としてのそれではなく、自然の一部としての人間に対してきわめて並列...
〈ところがある日、賀来子は電球を手にしてしきりに溜息をついてゐる基作をあやしんで、その電球をどうするつもりですかと訊いた。まさか玩具だとも言へず、古い電球を新しい電球にする法を思案してるねんと答へると、そんなことできるんですか。出来ィでかいな。すると賀来子はさうですかと暫...
さてすでに述べたように、織田作之助の方法意識の中には、ストーリー・テリングに対立するものとしての近代的リアリズムへの志向がふくまれていた。私はそのあらわれを「夫婦善哉」「素顔」「天衣無縫」といった作品にみたわけだが、その中でも「夫婦善哉」「素顔」と「天衣無縫」との間には異...
資本主義社会が発展していく中で、かつての封建中流階級は「庶民」として生き抜くために、他ならぬ「庶民」を徹底的にだましつづける他はなかった。いわゆる日本的なブルジョア合理主義とは、伝統的な仏教・儒教道徳としての「勧善懲悪」思想の裏返しとしてあるのであり、それゆえ両者における...
織田作之助は、いわゆる生活というものを平面的な流れとしてとらえる。そしてその流れは、多かれ少なかれ「運命」とよばれる一つの必然性によって支配されている、という認識がある。織田は「雪の夜」において、坂田というひとりの男が、瞳という娘に惚れるということをきっかけに、どこまでも...
周知のように、井原西鶴は江戸時代の封建社会体制をなし崩し的に崩壊せしめる、変革の可能性を裡に秘めた新興階級(町人)、つまり商業資本家の代表者として登場した。従って、井原西鶴の小説は、新興階級の封建社会に対する自己主張であり、中世的な美意識や、儒教道徳を拠りどころとする当時...
織田作之助におけるストーリー・テリングという方法は、「ストーリーの奇抜な変化に凝ったり」するようなものではなかった。 〈その頃、もう人に感付かれた筈だが、矢張り誰にも知られたくない一つの秘密、脱腸がそれと分かる位醜くたれ下がってゐることに片輪者のやうな負け目を感じ、これ...
織田作之助の「文学」における基本的方法をひとくちでいえば、それはストーリー・テリングという方法である。 〈おれの小説は一気に読める、と彼は豪語していた。いかにも彼の文体はキビキビして、鈍味がなく、素早い頭脳回転に渋滞のあとがなかった。しかし彼の頭脳は素早く回転すればする...
・・・夜を経なくっちゃ、太陽が登らないのだ。・・・(「夜の構図」) 織田作之助、太宰治、坂口安吾、石川淳、この順は彼らの世を去る順であった。そして中島誠は、この順を彼らの文学的資質の順としてみている。 〈必ずしも、淳、安吾、治、作之助の四人は同質の作家ではないだろう。...
さて、もう一度戦後の文学現象をながめてみたい。 1 志賀直哉・永井荷風・正宗白鳥・谷崎潤一郎らの大家の復活 2 上林暁・尾崎一雄・外村繁らによる私小説の復活 3 舟橋聖一・田村泰次郎・石坂洋次郎らの風俗小説 4 川端康成・田宮虎彦・井上靖らの中堅作家 5 織田...
またすぐれた文学を次のように規定している。 〈すぐれた文学とは、われわれを感動させその感動を経験したあとでは、われわれが自分を何か変革されたものとして感ぜずにはおられないような文学作品だといってよい。感動しうるためには、その作品はわれわれにとって再経験しうるものでなければ...
さて、ここで注意すべきは、科学も芸術もそのような対立をいわゆる「実践・・認識・・再実践・・再認識」という形でおこなうが、そのとき科学にとっての実践とは正に認識の実用化であり、芸術にとっての実践とはそのような対立の表現であり、その表現はおおむね非実用的なものであるということ...
ところで芸術がそのような人間の生活活動の意識的生産の中から生まれてきたということははたして自明のことであろうか。 思うに、人間がその生活において意識的生産と物質的生産を《同時に》行うとは、いいかえれば人間の生活は意識的生産と物質的生産との対立として存在するということでは...
ここでいう自己疎外とは、人間が絵を描こうと思って描きはじめるや否や、その描かれた絵が独立して、逆に人間を支配しはじめるというそうした人間と絵との関係、もしくは人間の意識活動の内的構造のことである。だがこうした自己疎外という現象は、単に人間の意識活動の中にあるばかりでなく、...
人間を人間たらしめているものは、その存在を存在たらしめている生産活動・生活活動に他ならないが、マルクスはそれを動物の生産活動と区別して「自由な」生産活動であると規定する。すなわち、動物が直接的な肉体的欲望に支配されて生産するのに対して、人間は肉体的欲望から自由に生産し、し...
【第五章 内閣】 ◎草案(修正該当部分) 第七十二条3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。 ◎修正案 第七十二条3を削除する。 《解説》 ・修正案においては、国防軍は存在しないので、この規定は不要である。 【第九章 緊急事態】 ◎草案 (緊急事態の宣言) ...
【第四章 国会】 ◎草案(修正該当部分) 第四十二条 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。 第四十九条 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。 ◎修正案 第四十二条 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。 2 参議院は非政党議...
【第三章 国民の権利及び義務】 ◎草案・1(修正該当部分) 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び責務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならな...
◎草案 【第二章 安全保障】 (平和主義) 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。 2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。 (国...
《日本国憲法改正草案・自由民主党》修正案・《2》 【第一章 天皇】 ◎草案(修正該当部分) (天皇) 第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。 (国旗及び国家) 第三条 国旗は日章旗とし、国...
【前文】 ◎草案 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めて...
芸術とは何かという問題はだがしかし、決して主観的な解釈ですませてはならない。つまりそれは芸術をいかに認識するかという問題であり、その限りにおいて認識は正に《科学的》でなければならない。なぜというのに、芸術という言葉が指す対象が具体的に私たちの前に存在しているわけではないの...
・・「歌わぬ詩人ということはありえない」(ヘーゲル)・・ 私は、戦後文学を規定しようとするとき、戦後の文学現象に登場した個々の文学者たちが、「戦前」から「戦後」へという歴史的転換を一つの「状況」としてどのように認識したかということと、個々の文学者たちが自己のありかたを表現...
それでは「民主主義文学」についてはどうか。 まず、それがアメリカ占領軍を解放軍と見あやまった日本共産党の文化政策の一環として存在していることはいうまでもない。そして彼らの文学運動理論が、その「政治の優位性」理論によって、かつての文学報国会のそれと表裏一体のものであること...
私の『近代文学』派に対する評価を要約すると次のようになる。 彼らは戦後、日本の社会に残存している前近代性に注目し、それを近代化しようとした。それは多分に彼らの戦争体験にもとづいた発想である。彼らの戦争体験とは、厳密には戦時体験もしくは転向体験であり、彼らの思想の拠りどこ...
だが、『近代文学』派が主張した文学論上における前近代性の克服、それはすでにみたように私小説リアリズムの否定ということであった。そしてそのことはいかなる文学論(芸術論)にもとづいて主張されたのであろうか。つまり『近代文学』派は、いかなる文学的視点から私小説リアリズムを否定し...
マルクスは、インテリゲンチャが何故にプチ・ブルジョアジーであり労働者と敵対するものであるかを、ここにおいて明確に語っている。ここで重要なことは、インテリゲンチャの主観にかかわらず、まず彼らの「存在」こそが近代的な生産関係によって決定的に基礎づけられ、同時にその「存在」は、...
それでは両者の欠落させていたものとは何か。それをひとくちでいえば、「戦後状況」の正当な認識と、文学上の方法論という二つの問題である。それは同時に、彼らが共に小市民的インテリゲンチャの意識で、いわゆる一般大衆の意識をとらえようとしたことを意味する。佐々木基一の言葉を思い出し...
さて、私はこれまでひととおり、戦後文学がどのように規定されているかということについてみてきたわけだが、はたしてそういう規定は適当であるか否か、という問題に私なりの検討を加えたいと思う。 私には、いわゆる様々な戦後文学の論争上の混乱は、正にそれを規定する段階での混乱に起因...
ところで、このような「戦後文学」観に否定的な考えもある。 〈こういうことはないだろうか。「戦後文学」あるいは「戦後の文学」といった用語・・両者の間には用法によってそれ相応のひらきが在るわけだが・・には敗戦という契機が当然そこに含まれているはずである。ある意味からは戦後の...
〈「戦後文学」或いは「近代主義」といわれるこの一派に属する人々は、すべdて小市民的インテリゲンチャであった。(勤労者出身の椎名麟三もその観念においてはインテリゲンチャである。)また、多かれ少なかれ戦争の被害者であった。戦争に積極的に協力した者は一人もいない。しかしまた、戦争...
佐々木基一はそれについて次のように書いている。 〈文学史の任務は、ある文学現象がどのような社会的背景をもって生まれてきたかを解明すると同時に、文学に描かれた世界は社会と文学の発展の見地からどのような意味をもつか、またこの発展の特定の段階を文学者は如何に描きだしているかを...
瀬沼茂樹は次のように述べている。 〈戦後文学史とは何をいうのか。普通に、昭和20年以後の文学を漠然と「戦後」の文学と呼び、その歴史的叙述について、便宜のために「戦後文学史」というのである。〉(「戦後文学史論」(瀬沼茂樹)・『国文学』・学燈社・第10巻13号・8頁) 〈...
1 文学通史的にみれば「戦後の文学」はそれ以前の文学に対するものとして明確に存在する。そしてそれが新しい意味と内容をもつこともまた自明である。ただ問題は、いわゆる「戦後派文学」が内容的に質的に「戦後の文学」を代表しうるものであり、それに新しい意味を与えているか否かというこ...
・・・戦後文学は、わたし流のことば遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である。・・・(「戦後文学は何処へ行ったか」(吉本隆明) 戦後文学とは何か、という問いかけに答えようとするとき、それによって明らかになることはいったい何なのであろうか。思...
さてそれでは、いわゆる大衆の社会意識、生活意識を原点とするとはどういうことなのであろうか。もとより大衆もしくは大衆意識などというものがア・プリオリに存在するわけがない。それは私たちひとりひとりが自己の生活を見つめ、そのことによってひとつの意識を思想まで高めるという、きわめ...
これまで述べてきたことを要約すれば次のようになるであろう。 戦前における日本人の意識は、《醇風美俗》を基礎にして、その上に《国体観念》を構築し、またはさせられていたが、それが敗戦によって天皇制権力機構が崩壊するとともに、《国体観念》は人々の意識から忘れ去られ消滅した。し...
それでは。《醇風美俗》の方はどうであったか。 〈いうまでもなく《醇風美俗》の故郷は農村にあった。戦後の農地改革によっても旧地主あるいは新興ボスによる村秩序の支配がほとんど打ち破られなかったところに、醇風美俗の実質的な社会的・経済的基盤があった。(略)さらに注意すべきこと...
村上一郎はそのことを裏づけるかのように次のように書いている。 〈ラジオが詔勅の声を流したとき、泣くものが多かった。が、泣いたのは、実は敗けてもよいと思ったものであった。ぼくらは泣かなかった。天皇そのもののことは別に考えていなかった。天皇には政治はないように思っていた。天皇...
一方、アメリカ占領軍の戦後支配の目的は、すでにみたように、「二つの世界」の出現という世界的な経済的矛盾に対処するために日本を極東における反共の砦として利用することにあった。そしてその基本的な方法をひとくちでいえば、要するに戦前の日本における社会構成(支配・被支配の関係)を...
ここではそうした意識の違いが、戦前派知識人と一般大衆の違いとして述べられている。だが「8月15日」意識の違いは、単にそうしたいい方では説明でき得るものではなく、むしろその内容において千差万別であったのだ。なぜというのに、「8月15日」意識とは、今述べたような、それ以前の戦...
また日高は、戦前社会における《国体観念》と《醇風美俗》の関係について次のように述べている。 〈人間関係は身分的秩序の枠のなかでとらえられ、恩恵と奉仕、分の自覚、和と忍従が主要な徳目となる。しかもそれらの徳目をささえる社会的単位は、家秩、同族団秩序、部落(村)秩序など順次...
五味川純平は、それを裏打ちするものとして、マルサス主義と「大アジア主義」をあげている。 〈日本の国土は狭く資源は貧しい。しかも人口は多い。このまま進んだら日本民族はほろんでしまう。滅亡がいやなら外に向かって進出するほかはない。(略)満州を中国から取りあげて日本将来の発展...
【ぼくはこんど戦争があったら、やはり戦争にゆくであろう。そしてきれいに死のうとするであろう。》(「戦中派の条理と不条理」・村上一郎)】 私は前の章において、「戦前」から「戦後」への歴史的転換を、政治・経済的」な視点からながめた。いったい1945年8月15日を境として、日本...
〈第一。生産過程以外からの収奪。最大限利潤(注・資本主義の基本的経済法則)は、まず「その国の住民の大多数」を搾取することである。これは直接的な生産過程における労働者にたいする搾取以外に、農民、小生産者、商人および一部の資本家・・アメリカ独占資本と直接に関係がなく、国家機構を...
さて、8月15日以後、日本の戦後は出発する。それはひとくちにいってアメリカと民主主義への出発であった。そして前者は、それがアジアにおける植民地支配競争の勝利者としてあった以上、日本資本主義にとっていわば必然的な帰結ではあったが、後者はいわばひとつの偶然であったといっても過...
次にその戦後過程を見てみたいと思う。 〈戦争と戦争経済とは、日本資本主義に内在する諸矛盾を発展させ、敗戦によって日本資本主義の国家制度、社会制度が打撃をうけたたときに、もはや何らかの改革なしにすませることができない程度に達していた。戦後の虚脱といわれた状態の底流にあった...
〈日本資本主義の運動は、けっきょく、資本主義の世界的体制の生成、発展、衰退、死滅の過程に組みこまれてゆかざるをえない。〉(『日本資本主義講座』・Ⅳ・前出・3頁) 〈この場合(注・世界における戦後過程)直接的に世界資本主義体制の危機をいっそう深めることになった事情として注...
井上清は、日本の敗北について次のように規定している。 〈その第一は日本帝国主義は中国およびそのほかのアジアの反帝国民族独立勢力に敗北したということである。そしてそれはたんに日本帝国主義の敗北だけではなく、東アジアにおけるすべての帝国主義の敗北のはじまりとなった。(略) ...
ところで、一般に私たちは、「戦前」「戦中」「戦後」などという言葉を使うが、そのときの「戦」とはいったいどの戦争を指すのであろうか。 〈わたしたちが日ごろ「戦争」というとき、それはほとんど太平洋戦争をさしており、太平洋戦争は対米英戦争にほかならないとされている。そのような...
日本の天皇制は、古典的絶対主義とはおのずから性質を異にしていた。すでに世界の資本主義が帝国主義段階に移行しつつある中で日本の資本主義が自立するためには、帝国主義と絶対主義が奇妙な形で混合せざるを得なかった。 〈「日本において支配している層は帝国主義者である。がしかし特殊な...
いうまでもなく、日本の近代は明治維新にはじまる。そしてそれは同時に絶対主義的天皇制の出発点でもあった。 〈古典的な絶対主義は、封建社会の胎内に資本主義が成長してきて、封建性は不安定になり地主階級はよろめいているが、しかもブルジョアジーもまだ地主階級を圧倒することができず...
私たちは1945年8月15日以前を、ひとくちに「戦前」とよぶことになれている。だが「戦前」という言葉の中には、様々な生活意識から発した、生活史、個人史的なエレメントが多分に含まれており、それをただ論理的に解明しようとすることは不可能である。だがともかくも、「戦前」という言...
いったい日本の社会は、1945年8月15日を一つの軸として、どのような歴史的転換をみたのであろうか。それを境として変わったものは何であり、変わらなかったものは何なのか。私にとっての戦後の状況とは、そういった問題に答えようとすることによって、はじめて明らかになるのだと思われ...
この世の崩壊を目撃し、なおかつ不幸にも生きのびた者の、とるべき道は三つある。 その一つは、崩壊したそれゆえに再建不能なそれを土台とした、いかにももっともらしく、健康な生命力の象徴ででもあるかのようないつわりの復興を、徹底的に憎悪をこめて破壊せんとすること。「いっさいはま...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・40
3 国語教育と言語理論 【要約】 中学校、高等学校で文法を教えるという、教育の現場からいくつかの問題が提出されている。その一つ二つについて考えてみる。 その一つは、文法の教育ということをどう理解しどう実践するかという問題である。文法が法則的な学問であり、文法を習うことは...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・39
2 日本語改革の問題 【要約】 これまで、漢字の制限、かなづかいの改正、むずかしい語をやさしい語に変えること、標準語の確立、敬語の整理などについて多くの論議が行われ、改革が実行されてきた。 軽率な改革が全体の混乱を招かないように慎重に考えなければならない。 かなづかい...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・38
第五章 言語と社会 1 言語の社会性 【要約】 言語についての基本的な考え方のちがいは、言語の社会性についての理解に大きな影響をもたらす。頭の中に抽象的にとらえられた表現上の社会的な約束を「言語」あるいは「言語の材料」と考えるなら、言語はどこまでも思想をつたえる道具として...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・37
4 文章に見られる特殊な表現構造 字数を制限された場合は、特殊な文章が使われる。 ● 六ヒユケヌヘンマツタロウ ● 売邸渋谷南平台環良地一一二付建坪二六坪七五瓦水完交通便手入不要即安価面談仲介断48二0六0木村 この電報の「ヘン」は返事、案内広告の「瓦」はガス、「水」は...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・36
3 文章といわれているものの本質 【要約】 (a) ああ。(感嘆) (b) 火事。(呼びかけ) (c)起立。(命令) これらは一語文である。これらのほかに、一語文でありながら、それ自体がぬきさしならぬふさわしい表現と考えられているものがある。それは文章の《題名》である...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・35
2 文章における作者の立場の移行 文章の理論的研究は、これまで主として修辞学の中で行われてきたようである。文章に中に文の法則性を超えた独自の法則性をさぐって体系的な文章論をうちたてるという試みはほとんど行われていない。文法学と修辞学が、文章について全くちがった何の関係もな...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・34
第四章 日本語の文法構造・・その三、語と文と文章の関係 1 語と句と文との関係 【要約】 ● おーい。起立。暖かい。 などは、一語で話し手の一つの思想を表現したものとして《一語文》とよばれている。主語と述語をそなえているというのは、ある種の文の特徴であって、一つのまとま...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・33
3 感動詞・応答詞・接続詞 【要約】 (a) (おい)、君。 (b) (ああ)、うまかった。 (c) (ちぇっ)、ばかにしている。 独立したかたちで使われる、話し手の呼びかけや感情を表現する語を、感動詞あるいは感嘆詞と名づける。この感動詞によって直接表現されている呼びかけ...
「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・32
c 助動詞のいろいろ 【要約】 ○「ある」「だ」 肯定判断、断定の表現に使われる。 ○「ない」「ぬ」 否定判断、打ち消しの表現に使われる。形容詞の「ない」から移行してきた「ない」と、「ぬ」の二つの系列がある。「ない」は形容詞と同じように活用し、「ぬ」は独自の活用をする。...
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月 ほっかりと 月がでた 丘の上をのっそりのっそり だれだらう、あるいてゐるぞ (『雲』より) 山村暮鳥といえば『雲』というように、我々はおのがじし身勝手な親近感を胸に秘めて、山村暮鳥の研究に着手したわけであるが、まず第一印象として、誰もが感じたことは、彼のあののんびりと...
〇『昭和史』(遠山茂樹・他)・岩波新書 〇『日本資本主義講座』・第一巻・岩波書店 「資本主義の全般的危機と第二次世界戦争」(小椋広勝) 「太平洋戦争とアジアの民族革命」(小椋広勝) 「占領をめぐる内外の情勢」(陸井三郎) 〇『日本資本主義講座』・第三巻・岩...
「庶民」とは「広辞苑」によればもろもろの民、人民あるいは貴族などに対し、なみの人々平民といほどの意である。だがしかしこれでは満足できない。その満足できない部分すなわち日本の大衆の内在的さりかた、内在的な意識構造を深沢は表現した。しからばその「庶民」という言葉のもつ内容とは何...
「日本人」というものの社会的存在形態、あるいはパーソナリティをこれほどまでにその内部からとらえている小説はないだろう。 私達がこの小説を読む過程の中でもつある「親近感」とはいったいどういうものであろうか。おそらく井伏鱒二は原子爆弾の恐ろしさ、あるいは戦争はまだ終わっていな...
そのようなことがもし吉本にとって自明のことであるとすれば、彼の「芸術論」には明らかに、「芸術はどのようにして創られるか」という視点が欠けている。それは同時に、芸術創造の過程における、芸術家と生のままの現実とのダイナミックな関係を見落としていることでもある。 私はそこに吉本...
ここで吉本はどのようなことをいっているのであろうか。 例えば、一人の画家が一つの風景を前にして絵を画き始めたとする。このときその画家の芸術創造の原動力となるものは、一つの風景とそれを画きたいという彼の衝動(内部意識)である。吉本はその「風景」(現実)と内部意識の関係を循...
私はこの要約における、吉本の蔵原に対する批判には全面的に同意する。 すなわち、まず階級闘争を主要主題としなければならない、といった「主題の積極性」理論、それはひとたび転向によってその思想体系を百八十度転換するや否や、まず帝国主義的侵略(「聖戦」)をその主要主題としなけれ...
さて、その第二の部分は、いわゆる二段階転向論である。それはプロレタリア文学並びに文学運動批判としてあり、同時にまた吉本隆明の提起する芸術論、芸術運動論の問題でもある。 彼のいう二段階転向論とはいかなるものであるか。 〈わたしのかんがえでは、(略)プロレタリア文学運動の...
さて吉本は「転向」ということを次のように規定する。 〈それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかめそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思想変換をさしている。〉(「転向論」・『芸術的抵抗と挫折』・未来社・169頁) すなわち、吉本にとって転向...
・・・泣いてゐるものが一番悲しんでゐるわけではないのだ・・・(「中毒」織田作之助) この論文をしめくくるに当たって、吉本隆明をとりあげようとするのは、他でもない、けだしこれまでの私の戦後文学に対する言及の論拠が、吉本のそれに負うところきわめて大だと考えるからである。とは...
だがしかし私は一方でそうした精神主義的限界をみながら、坂口安吾を次の二点において評価しなければならない。 その一は、「堕落論」における《醇風美俗》意識に対する闘いであり、その二は「オモチャ箱」における、新しい芸術論の提起においてである。 〈彼の小説の主人公はいつも彼自...
〈人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。〉(「教祖の文学」・前出・Ⅱ・32頁) はたして、この花とは桜の花びらのことであったろうか。 《桜の森の満開の下》とは何か。それは芸術という一つの空間であり、人間が「真実」を垣間見る、一瞬の世界ではあ...
私は「木枯の酒倉から」「風博士」「母」といった小説が、「海の霧」や「竹藪の家」とたとえ同時期に書かれたとはいえ、はっきりとその両者に区別をつけなければならないと思うのだ。すなわち、坂口安吾は前者において、人間の不可解さを見つめ、それによって得た一つの「観念」によって、後者...
だがそれではいったい、そうした坂口安吾の姿勢とは、いいかえればどういうものなのであろうか。私はそうした姿勢に、必ずしも坂口安吾のオリジナリティ、あるいは可能性を求めようとしないにである。 母の憎しみによって与えられ、育てられた坂口安吾の観念、それは人間はあくまで不可解な...
〈母。…得体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる、 私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だってありはしない。ひとへに憎み通してきたのだ「あの女」を、母は「あの女」でしかなかった。〉(「をみな」・前出・Ⅵ・29頁) 坂...
坂口安吾の思想とは何か。だがその前に私は、坂口の次のような言い方に注意しなければならない。 〈思ふに文学の魅力は、思想家がその思想を伝へるために物語の形式をかりてくるのではなしに、物語の形式でしかその思想を述べ得ない資質的な芸人の特技に属するものであらう。〉(「大阪の反...
「FARCEに就て」の骨子はいうまでもなく文学方法論であるが、福田が「文学について語ったことばのはうが、ずっと深く人生の真実を突いてゐる」と指摘しているように、ここで坂口は文学のレーゾン・デートルを人間のレーゾン・デートルとして語っているのである。つまり先の私の同意し得な...
さて私は、坂口と私の関係を必然化せしめるものが、坂口と私が共に生きるとはどういうことなのかという問いかけを、おのれに向かって発している人間であるという、芸術的事実であると言った。そしてそれは、実生活において坂口が書こうとすることによって、また私が読もうとすることによって、...
さて、それではいったい福田恒存のいう、「作品を通じてつかみ得た」坂口安吾のすがたは、どこにおいて存在し、またいかなる方法において捉え得るのであろうか。この問題について、私は坂口安吾と必ずしも同意見ではない。私は次のように考える。私がまず「作品を通じて」坂口安吾の姿をつかも...
もし、生活とは何か、生きるとはどういうことかという問いに、答える方法それが、他ならぬ生きることだといったら、それは同義反復だろうか。ともかくも坂口安吾は、そのような同義反復におのれの芸術を賭けているのだ。 〈私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いはゆ...
■幼児語 【要約】 “かたこと”には2種類がある。一つは、成人語とは系統のまったくちがう“語”であり、もう一つは成人語からの音韻転化によってできている語である。子どもが最初に形成するのは、ほとんどが前者であり、前者をふくまない子どもはないのであるから、発生論的な見地からは...
1966年に静岡県で起きた「袴田事件」の再審判決が9月26日に下りるという。検察側は、被害者遺族の「事実を精査し、真実を明らかにしてほしい」という意見陳述書を読み上げ、袴田巌氏の「死刑」を求刑したそうだが、あくまで袴田氏の有罪を主張するつもりらしい。袴田氏は死刑囚として4...
16 成人語の形成過程 【要約】 少なくとも現代の文明国では、子どもの最初の言語習得がその社会の成人の間で用いられている語形(成人語)を用いることからはじまることはない。はじめ子どもは“かたこと”を用いる。そのなかには、喃語発声、音声模倣に発生的な因果関係をもっているもの...
8 幼児語から成人語へ 【要約】 幼児語が成人語へ変化していく過程は、1歳のある時期に急速に進められる。この期に、ワンワンはイヌとなり、マンマががゴハンとなり、tick-tackがclockになり、miawがcatとなる。この変化が成人の子どもに対する訓練と、子ども自身の...
■機能語(助詞) 《助詞機能の分化》 【要約】 日本語の助詞が、文ないし談話できわめて重要な役割を果たすことはいうまでもない。“山は高い”というとき“山”や“高い”はそれぞれ外延と内包をもっているが、助詞“は”にはそれがない。助詞は、同じ文の中のほかの語を規定したり、文を...
■動作語 【要約】 一定の動作に伴って生じる一定の発声、あるいは“かけ声”は比較的早く慣用型の音声に近づき、よく分節している。これを“動作語”とよぶことにする。 自分の動作に伴う発声として、物を投げるときのパイ、ものを持ち歩くときのヨイヨイ、などが1歳3ヶ月までに生じ、...
■要求語 【要約】 《初期発声》 不快、とくに空腹に連合して生じる最初の音声は[ma ma ma...]というような型であることが古くからいわれている(Jespersen.1922;Gesell and Amatruda,1947;Lewis,1948)。しかし、単母音[...
■状態語 【要約】 “状態”とは、個体の側の内的な状態のことである。特殊な状態に対応する特殊な語が“状態語”であり、イタイ、ウツクシイ、カワイイなどがこれである。個人の内的な事象が表示されなければならないという点で、対象語の形成の過程とはかなり異なる。 “痛い”という状...
7 語の発生と分化(略) 14 初期の品詞分化 《発達論と品詞分類》(略) 《初期の語の性質》(略) 《対象語》 【要約】 1歳児の語彙は、はじめは感嘆詞であり、つぎにそこから名詞が派生し、つぎに動詞、形容詞、副詞がこの順に生じるといわれてきた(Stern u.Stern...
13 場面と談話 【要約】 場面の性質のちがいが同一人物の談話の性質や量を規定すること、場面の変化が談話に変化をもたらすことは、成人にも幼児にも共通した事実である。われわれの言語行動の特徴の一つは、現実場面による拘束からの離脱にあるけれども、それからの全面的な離脱は、(統...
《初期の質問の形式と機能》 子どもに“疑似質問”といえるものが存在する。真の質問と疑似質問との間の判別は容易ではないが、その基準のおもなものはつぎのようである。 ⑴ 子ども自身がその名を知らないものについて質問する。 ⑵ 答えてやると、その答を反芻する。 ⑶ 答えてやると...
《“質問期”》 【要約】 シュテルン(Stern u. Stern,1907)は、1歳6カ月の子どもに、あらゆる椅子を一つ一つ指示しながらその名をたずね、部屋中を駆け回る時期があったと報告し、初期質問は、名をたずねることであり、これは子どもが“すべてのものには名がある”と...
■質問 《質問の機能》 【要約】 質問は“特定の明白な目的と、独自の聴覚的音声形式と、思考交流における重要な役割とをもつ、特殊な言語的伝達”(Reves,1956)である。質問は、質問者が自分の知らない情報を最も有効・迅速に知るためのすぐれた手段である。 質問が子どもの...
■談話的指示 【要約】 対人的な場面での指示行為の機能は、主題の伝達ということである。場面にある特定の刺激事象を場面から分離し選択的にそれを表示することもふくむが、それが完全に行えないということも意味している。一つの指示行為は、主題がその人であることは表示できても、その人...
■拒否と否定 《拒否》 【要約】 拒否態度は0歳2カ月ごろから、一定の形で明確に示される。哺乳瓶の代わりにおしゃぶりを与えると、頭を振り、怒って泣く。拒否は、もともと情動的な排除、あるいは嫌悪の直接の結果生じる行動であり、生得的な傾向である。拒否には、否定の性質である“真...
■応答 《返事》 【要約】 応答の最も単純な型は、相手の呼びかけに対する、ウンとかハイのような返事である。この種の応答は1歳前後で生じるが、特定の相手の特定の談話に対する特定の応答(適応的な反応)が生じているのではなく、紋切り型に反響的に反応が起こっているのみである。 前...
■呼びかけと要求 《呼びかけ》 【要約】 呼びかけは、現前する人、あるいは現れることが期待される人に対して伝達する欲求に動機づけられる発声である。注意をひきつける効果の大小に重点が置かれており、音量あるいは音調が重要な役割をはたしている。レベス(Revesz,1956)は...
■感嘆発声 【要約】 初期の感嘆発声は、主として短母音または長母音の強い発出であり、情動の直接的な表出である。子どもの属する社会の言語音からの影響を受けておらず、生得的なものである。これは“一次感嘆発声”あるいは“自然感嘆発声”とよばれている(Revesz,1956;Le...
12 言語的伝達の諸型 ■サルの発声の型と機能 【要約】 京都大学の霊長類研究グループによる十数年間の研究成果が、最近、伊谷(1965)によってまとめられている。伊谷によると、ニホンザルの音声的伝達は機能的につぎの4種類に分類することができる。 ⑴ 叫び声(crying)...