経済生活が出来れば、な~~んもしたくない人前に出たくない目立ちたくないな~んもしなくていいいつまでも、ひっそりして、居たいのに面相・赤鬼になって、青鬼になってねじり鉢巻き、無い知恵に人手を借りる日に今日も梅雨休暇先取りの延長の報告・・・でありますちょっと、快感・・人を欺いて出かけた相模原公園の薔薇カメラを持って♪~♫~♩~♫~♪雨も降らない梅雨休暇の延長相模原公園薔薇
👇札所32番・般若山・法性寺、31番観音院から徒歩では10キロ3時間ばかり、扁額の上階に梵鐘が吊るされ、そのまま鐘楼になって、👇本堂には薬師如来が安置されて、向拝に般若の面が、法性寺のある地名は、秩父市小鹿野町般若で、御詠歌にも、願わくば般若の舟にのりを得んいかなる罪も浮かぶとぞ聞くと、言葉通り、般若の舟は、般若(智慧)を船にたとえ、迷いの此岸からさとりの彼岸に導くという。👇岩窟に、子育て観音、授からない子に、御婦人方は、地蔵像を持ち帰り、日々祈り、子が授かったら、もう一つの地蔵を造り、収めるという、覆いかぶさるような岩が、落ちかかる怖さの、奥の院、舟の舳先に似た岩には、大日如来の像、岩船観音像が、あり、登るはずでした。老人が写ってるあたり、奥の院への分岐、なのに、老人👇の雰囲気に、釘付けになり、33番、34番...札所32番で巡りの道をはずした、法性寺。秩父。
札所31番、鷲窟山・観音院の建物は、昭和に建立された箱型建造物。65メートルの岩崖は、弘法大師も、まさか1700万年前の岩肌とは、思いもしなかったことでしょう。海の中、波が流れに溝を掘り、滑らかに・・・、歴史の深さに、時を忘れていました。これも、霊場巡りをしなければ、知らないまま・・・でした!弘法大師が指で彫った岩肌の像が、1万数体あったといわれて、今はかすかな形だけが浮かんでいました。第3紀層に、巌窟山・観音院②秩父
札所30番から、18キロ歩けば5時間ほどに、31番、鷲窟山・観音院。車では20分ほど、昔の巡礼では大変な労力、檀家を持たない、小さなお堂に地元民とわずかばかりの援助と納経料で運営された霊場、地元民の札所護持意識の強い秩父では、格式がなく、信仰を原点として、尋ねれば、親切に道案内をし、疲れればお茶も出し、駐車料も拝観料もなく、ひっそりと観光化しない霊場に・・と。👇地元の石で彫られた、仁王尊、一枚岩で作られたものでは、日本で一番大きいものと。石工は長野県伊那郡の藤森吉矢さん、地元、小鹿町日尾村の黒沢三重郎さん、信州伊那は民間信仰が盛んで、石仏造立にと、大工職人よりはるかに給金が高く、農家の跡取り以外の男性は、我もと選んだ職業、その足跡は、全国にも広がって・・。八王子にも、江戸城の石垣を造るために、たくさんの職人がい...覆い被る大岩壁に、鷲窟山・観音院。①秩父
秩父盆地、静けさの山間に、霊場、札所34か所の巡りは神秘的でさえありました。札所29番から、駐車場に向かうとき、茶畑のそばで、農具を片付けながら、声をかけてくださった方がいて、「今日は、30番まで行き、鹿の湯に入って終わりにすればいい・・と。これからの工程は1日2カ所が、目いっぱい、疲れますよ」・・と。札所30番、瑞龍山・法雲寺、幕末の頃、土地の人々が卵の殻に、人形を描いて人形を作り、義太夫の語りに合わせ、一体の人形を二人で操り、人形の手の操作に竹串を使う、白久の串人形の一座があることで知られる、白久・深谷地区。谷津川に沿って急な坂道は、熊倉山へ。途中、寺の石標があって、道は2つ👇👇本尊の如意輪観世音。元応元年(1319年)建長寺の道隠禅師が唐より奉持したものと。手引書には、膝を崩してじっと何かを見ている、優雅...楊貴妃観音、膝を崩して、法雲寺。秩父。
去年は一度も山に登りませんでした。今年もまだ、600メートルほどの、高尾山まで10分ほどの所に住んでるのに、麓までで、山の絵に額をくっつけて・・やま~・・。思いがけず山道を歩きました。札所26番・岩井堂の標高が380mで、次の27番・大渕寺までの尾根には30メートルの、岩場があり小山がありる1キロメートルばかり。30メートルの岩場もあり、こぶもあり、汗をかいて歩く・・・岩井堂から苔むす巌道を登って👇一際別天地のように、神々しい大仏さんに出くわします。ここの地名は「影森」名の通り、立冬から立春までは武甲山の影になり、日野では遠く、上水の便も悪く開発は遅れ、これから訪れる護国観音様までの1キロばかり、修験者は巌道を幾度も武甲山を見ながら、幾度も往復し、邪心の去り行を積み、江戸で観音講を広め、喜拾を受けこの大仏を造り...秩父の祈り、巌道の岩井堂から大渕寺。
昨日、ワクチン接種のだるさを期待していたのに、9時覚めた眼に「言葉袋」から、「杞憂」が飛び出し、胡坐をかいて、歌舞伎役者のように見栄を切った。ハハア~。mairimashita。元気溌剌の、昼から、秩父札所26番円融寺のドジって撮り損ねた、岩井堂までひとっ走りです。熱は無し、だるさも無くなって・・。ブログ記事にしようとしたけど・・見事、スカでした!。円融寺・岩井堂は、本堂👇から700メートルばかり処の、昭和電工さん👇の敷地内にあり、受付で挨拶をし、👇1700年ごろ建てられた「道しるべ」がポツン、右・岩井堂入り口、左・みぎ二十六番道の石碑を頼りに・・・、👇空き地に車を止め、車で乗り入れるべきでなかった・・。👇300段ばかりの石段を登り、👇詣りすんだ、4人、男性の後ろに3人の女性、2度目の34札所を巡った、方たちで...ドジって寄らなかった札所26番の、岩井堂。秩父。
リアルタイムの記事は、ワクチン接種と訪れた公園で、接種2回目を終えて、12時間近く、熱はなく、夜半にせわしく響く、オートバイ音の21時。接種のあと近くの記念公園で、歩いた疲れとは何となく違う、だるさ。ちょっとだるさ、気力が湧きません。こんな時はちょいと、一杯なのですが、食欲もあまり湧きません・・・。ワクチン会場、接種後の待機場所には、38度の熱も2日で解熱する案内していて、だるさも2日間なのでしょう。明日、明後日は出かけない?予定で、コロナとの陣中、まだ接種していない仲間から、好転反応を気にする仲間の、電話に対応するだけ、のんびりと過ごすことに・・。で、今日は久しぶりの散歩の記事にしたくて・・。札所・・・あと5か所ですが、・・・御免!明日以降に!・・。河童、久ぶりの散歩。
札所29番は浦山川沿い、28番から約2キロばかり、参道入り口の、枝垂桜の前に、「篠戸山長泉禪院」の石碑、「二十九番」と彫られた台座に、延命地蔵が待っていました。境内の景観を管理する人たちが、あちらこちらに・・。東国花の寺、100カ寺にも選ばれて・・咲いた花みて喜ぶならば咲かせた根元の恩を知れ心静かにお参りし、自然の恵みと、仏さまの恵みに感謝すれば、心の奥底に芽生えるものがあるはず・・。う~む!根元の恩、畑の野菜には感じたけど、花に・ね・・・!修行が足らんかつた。👇紅葉大権現を祀っている、火伏の神様として・・。長泉院は、野火の類焼に2度、遭われたたといいます。戦中戦後に訪れる人たちは少なく、食糧難、春と秋の、土地の講中の人たちが来る頃になると、34か所4日半日で、歩いて回り、残りの半日は、無事お参りできたお祝いに...花の根元の恩を、長泉院。秩父。
来る日も来る日も坊主、橋立川のヤマメ釣りに尋ねた、二日徹夜しても、元気なころ・・。同行した友が2匹釣っただけでした。近年訪れたのは、足の骨折でギブスが取れた、解放感に、鍾乳洞が見たいとなった時。梯子の昇り降りがあると聞いて断念し、今度いつ来るだろう・・と、忘れてた、札所28番・石龍山・橋立堂。当時は、札所に関心は無かったけど、老人が菅笠をかぶって、お参りして巡礼の、記憶がありました。👆65メートルの切り立った断崖に朱いお堂、👇12万年前は、古代人が住んでいた場所だったと、学生時代の宮沢賢治さんも訪れ、古代の学識を得ていたという。日本百観音霊場で、馬頭観音を本尊にしているのは、西国の29番だけで、珍しい・・と。狭い馬車が通れるだけの道、伐採した木材を運ぶ馬車が、荷崩れして、絶壁の谷に滑り落ち、馬方は雑木につかまり...古代の住処に馬の目、橋立堂。秩父。
ドジつてしまいました。昼についた札所26番・円融寺、👇👇👇来年6月までの工事中、職人の休憩をいいことに、シートの隙間から、どんなとこ、修理するかと、鵜目たかの目。巡礼の本道から外れて・・。別名・岩井堂と呼ばれ観音堂は、近くの工場内を横切って、二百数段、険しい巌に立つ観音堂から、27番の大淵寺までは、山道がいいけど、町中を歩く格好では、まず無理と。と・・・知識を持ってはずなのに・・・自宅に帰って・・またやっちまった・・ドジ!期待してた建築、観音堂見ずに移動してた。円融寺さんの観音堂は後日にいたします。👇札所27番、大渕寺・月影堂。なつやまやしげきがもとのつゆまでもこころへだてぬつきのかげもり👆案内看板にあるように、大正8年の火事は、汽車の煤煙からの類焼だといい。和尚さん、粋な口っぷり、「御朱印帳の隅になあ~、札所...円融寺でドジって、スキップの大渕寺。秩父。
民家は少なく、うっそうと茂る木立の、荒川沿いのルート72号・秩父荒川線。父母親類縁者から疎まれた、身ごもってた娘が一人、業の深さ、鬼よ鬼よと追い立てられ、果てに、村人たちに荒川に沈められはしたが、縛られた縄が解け助かり、逃げて久那の岩洞に住み、子を産む。15年経ち、岩堂で亡骸にすがって泣いてる、鬼と呼ばれた女の、子に修験者が声をかけた。母は子を守るのに、木の実をとって命をつなぎ、里山に知れて危害から守るために、またも鬼と呼ばれるようになった・・と。母の生きてきた一部始終を娘に、語って息絶えた母。手に花を持った火照りのいい顔の女性が、途方に暮れてた、娘の前に現れ、「観音を本尊にし、毎日祈るように・・母は必ず私のような姿形になるであろう・・」修験者は、里山に娘を連れていき、鬼と呼ばれた娘の母の心情を伝え・・・・。娘...鬼婆ぁ~と言わないで、久昌寺。秩父。
札所23番の音楽堂から、24番のここ、法泉寺までは農家が点々と、のどかな景色に、のんびりと歩いてみたいと思わせます。今の東京・国分寺あたりに「恋が窪」と言う地名があり、信号を見るたび、いいねぇ~などと、ほくそ笑んでしまいます。昔、慈悲深い遊女が住んでいて、修行僧に毎朝施しをしてた。秩父の修行僧が来て、口中が痛む病にかかった遊女に、一本の楊の枝を与えて口を注ぐようにと・・。病が治った遊女は、今まで以上に、観世音を信仰するようになったという・・。👇秩父霊場の象徴・武甲山。看板には武州とありますが、「恋が窪」源義経の家来、畠山重忠が足蹴く通った、遊女・夙妻(あさづま)。武士と遊女の熱烈な恋。恋路に嫉妬した男の嘘は、「西国で平家に討ち死にされた・・」と悲しみに松の木を植えて、その松の枝は、西国へどこまでも伸びていったと...口中の病に、恋が窪の遊女、法泉寺。秩父。
音楽の 御声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう 峰の松風・音楽堂。秩父。
日本の文献に音楽という文字が初めて現れるのは,713年に勅撰された『常陸国風土記』だとされてるなら、秩父札所23番「音楽寺」というお寺の名も、頷ける、ウン!慈覚大師が名付けた小鹿野坂の中腹まで、息を切らせば、納経所👇登り切って、手水屋で手を清め、👇清めの水は、近寄れば流れる、近代的。👇観音様に行く前には、梵鐘を鳴らすのが手順、札所巡りで、初めて梵鐘の綱を持った。鐘の下部周囲に、聖観音、不空羅索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に六観音が、鋳造されている。1768年、今の栃木県佐野市の冶工・大川太郎兵衛、藤原宗封さんの銘が・・。年越し除夜の鐘の音とは違う、やさしい響きだった。札所23番・音楽堂、若い世代に、音楽関係の方たちが良く訪れると・・。👇回廊の段差に1枚板を削って・・。音楽の御声なりけり小...音楽の御声なりけり小鹿坂の調べにかよう峰の松風・音楽堂。秩父。
どてっと、枕に飛び込み扇風機ガンガン回し、干乾びる肌に水をがぶ飲み、仕事をシャットアウト。明日もか・・・!風呂上り、白鳥柄の浴衣で立膝の足の爪を、行燈を背に、亭主待つ間のチョキン。江戸下町の夏の日の夕方の情景画。江戸の頃は、今よりはるかに涼しかったのでしょうね、それだけなのに見ていて、涼しい。田園風景が続く、秩父札所22番・童子堂(永福寺)へ着くと、広大な敷地に単層の茅葺の仁王門が、いかめしい仁王様とは程遠く、童子のよな造り、以外この仁王門の姿から、永福寺を童子堂というのだと。👆👇仁王門に比べて、極彩色の彫り物、内部も蓮華唐草模様に施された、1702年に建立した堂宇。かつては子供たちの間に天然痘が流行し、観音を祀って、祈念し岩間の清水をつけたら、病が消えたという900年ごろの伝説。童子堂の名の起源は仁王門に絡め...猫の祈願所?、童子堂。秩父。
昨日、雨模様で札所巡りの人はいないだろぅ~、と、初めての札所巡り経験、甘かった。ぽつぽつ雨粒に濡らすまいと、小袋に納札や御朱印帳を守って・・・。デザイン鮮やかな輪袈裟をかけて・・。いるいる夫婦があちらから、こちらから。語り合いながら・・秩父の巡礼は御開帳がなくても、いっぱい。江戸の頃の開帳には1日300人も訪れ、案内の駄賃もきちんと決められ、決して、雲助みたいなぼったくりは無かったといいます。私は車で巡って、昔は籠に乗れば、350文から400文、約6kmの駄賃。1文25円にして1万円。投宿先の民家への謝礼など、雨が降れば2文の渡しが約3倍になり、やはり、江戸から近距離、信仰と物見遊山、案内書や道中記を見て、当時の巡礼には金がかかる。それでも、明治の廃仏毀釈のあたりまでは、観光を兼ねて、自然に触れ・・・。👇荒川沿...アハハァ~眼を隠して、観音堂。秩父。
小さな十字路、手前の坂道を下れば、荒川の崖の上に建てられた、札所20番、法王山・岩之上堂で、低い蹴上がりに踏み面が低い石段は、花を見ながら下るのに、程よく、納経所の小坊主の案内に、順番を待つ間、椅子で小坊主に声をかけた。手を下げたら・・!と。・・・・・まっ、いいか。秩父札所で一番古い堂宇、1400年代、いよいよ戦国時代の頃。堂宇の名の由来は荒川の崖の上ではなく、苔むし、荒廃しきったこの地に、聖観音が、岩の上に置かれてた、ところからです・・と。観音開き、向拝たたきから、土間になる内部は、格式を超えて何となく、親しみやすい。須美壇の上に、母たちが、夜なべで子供の成長を願って、子猿の姿に似た瓔珞の奥に、荒川の川向うに住む病の母を、見舞う子に大雨の日に舟はなく、途方に暮れた時、小舟。観音様が子の願いを叶えて、母の元へと...岩の上に観音様が、岩之上堂。秩父。
秩父札所巡りをしてを始めて3日、秩父へ着くのに2時間、巡礼は地元の民宿なりに泊まり、開門時刻に合わせて、訪れるのがいい、と思いながら、市内を外れて秩父の古代に触れる、札所19番飛演淵山・龍石寺。巨大に岩に建てられた、堂宇の前の岩盤に、あぶちゃんをかけた、身代わり地蔵さん。👇観音堂が建つ盤石は、約1600万年前に上昇した外秩父山地から、流れ込んできた角礫質砂岩。境内の岩は、かつて荒川の川床だったところ。観音様、千手観世音は室町時代の歴史も、そりの大きい宝形型の建物は、昭和47年、信者が浄財を集めて建立したものです、と。このそりに、相撲の貴乃花さんの土俵入りで、きれいに足を上げ、柏手を打って広げる手の姿に、似てる・・と妙に思ってしまった。👇三途婆堂には「三途の川の川辺で死者の服をはぎとる、奪衣婆(だついば)の座像」...子育て婆さん、龍石寺。秩父。
ゲンチアナ・アルペンブルー👆👇の、目の覚めるような青さを以ってもコロナワクチン接種の好転反応は、眠い、だるい。30日午前に打って、当日の夕刻は爆睡、翌日は輪をかけてのだるさ、眠気。で、昨日は朝からすっきり、シャカリキ。好転反応の短さに晴れた空、ビール、どんぶりに入れ、ぐふふ!結局早めに寝てしまった。歴史ある寺社の資料が、火事で燃えてなくなるというのは、関係者の人たちにとって、どれほどの悔しさであろうか。札所18番、神門寺(ごうど)には、擬宝珠の1858年と、絵画、書道、詩文にも優れた秩父生まれの、森玄黄斎さんの御詠歌の扁額が、時代を知らせるだけ、向拝の彫り物は彫刻にも、たけた森玄黄斎さんと、思うのに、眺めては想像の世界。伝えに、ここは神社とのこと、荒廃で亡くなり、村人たちが惜しんで、神楽を奉納してたら、霊感巫女...巫女のお告げに、白道山・神門寺。秩父。
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経済生活が出来れば、な~~んもしたくない人前に出たくない目立ちたくないな~んもしなくていいいつまでも、ひっそりして、居たいのに面相・赤鬼になって、青鬼になってねじり鉢巻き、無い知恵に人手を借りる日に今日も梅雨休暇先取りの延長の報告・・・でありますちょっと、快感・・人を欺いて出かけた相模原公園の薔薇カメラを持って♪~♫~♩~♫~♪雨も降らない梅雨休暇の延長相模原公園薔薇
時間が取れた日は、投稿しますが5月28日前後まで、ちょいと休みます了承くださいますよう‼雨期休暇の先取りです。
👇今日のメインは図鑑ではなく、時計。久しぶりの缶ビール350㎜、ぐいぐいと・・化け物が出るには、早すぎて、化け物より怖かった、妻の夢時刻は、まだまだ。自宅籠りに飽きが来て・・来てしまった・・・うんカメラの埃をひと吹き、磨いて胸を躍らせた・・19時20分。昨日は、お化けも、妻の一言も、出なくて今朝、8時までぐっすり・・・樫木、椎の木ここが北限と云われる、焼き物の産地、栃木県益子町、獨鈷山・西明寺。山は高館山の中腹に・・独鈷山の由来は、空海が訪れた時、死者の葬式を出さない奈良仏教、法相宗の僧らが、空海の徳を妬んで、岩屋の中に押し込めようとするのを、持っていた独鈷で、難を逃れた謂れ・・その頃は益子寺と呼ばれてたという。👇三重の軒の間反りの強調、軒先の撥ね上がりが、陰影を強めて、写真を撮っている辺りからの拝礼が、...坂東道、室町の建造物一杯、西明寺。栃木県益子町、
石の山の寺院に出逢うと、自然崇拝、全ての物に神として、崇めていた、古代の人たちの姿が浮かんできます。歴代の日光輪王寺の法親王は、上野寛永寺から、日光社参の時には、この寺を宿泊所にしてたという。坂東札所19番大谷寺の宿坊。大谷寺では、内陣は山で、外陣に本尊を祀っているという、社寺建築の歴史上、おそらくここだけかも知れない脇堂からは、釈迦、薬師、阿弥陀の三尊が、大谷石に彫られている。撮影禁止でパンフレットから👇最近の調査で、アフガニスタンのバーミアン石仏に似てることからアフガニスタンの僧侶が彫り日本のシルクロードと考えられる・・とパンフレットにあり早い調査結果が欲しいです‥ね‼大谷町1日あちこちで・・居てしまったそろそろ、帰ろう何処かで、宇都宮餃子♫♬♪うん坂東道日本最古の石像、大谷寺。栃木県宇都宮市。
坂東道、18番中禅寺から19番の大谷観音まで、30キロくらい、1日がかりの巡礼になりますね。車なら1時間も掛からず、行けますが、江戸の頃の乗り物は籠、駄賃もかなりで、巡礼を兼ねた観光は、お金、時間が無いと出かけられなかったでしょうね。通称大谷観音で親しまれている、札所19番大谷寺。巨大な大谷石を切り崩した跡地に、地形を巧く配した観音堂は、巡礼だけでなく、観光でも見たい宇都宮市の大谷町。大谷の歴史は古く、縄文時代には、炉石の囲いに置いたいたなど、昭和の初めには、👇カトリック・松が峰教会や、耐火性と保湿を供えた大谷石は、宇都宮市で多く見られ、倉庫を改良してた店もあります。採石した跡地では、音楽家や、演劇などに利用されていて、テレビ局の車が陣を取ってます。調子こいて、石ばっかし予定紙面がオーバーです大谷観音さん...坂東道、大谷石の大谷観音❶栃木県宇都宮市。
明治4年までの中禅寺湖、男体山は、女性禁制の場所で👆の景色、江戸の女性巡礼者は見られなかった・・・荷を運ぶ馬も禁制・・・ながら馬にすれば、馬返しの大谷川で、つぶらな瞳、キラキラ輝き、しめたと思ったかもしれない・・。巡礼目的の観光する、江戸時代の女性は、今の馬返し辺りから10丁・・1キロばかりの女人堂で、お詣りして、次の宇都宮市の大谷観音に向かうか、日光東照宮あたり日持ちする、甚五郎煎餅を買い、一泊、東照宮でも・・と・・・坂東札所18番・中禅寺。勝道上人は、二荒山・今の男体山・・に、3度挑戦して登頂出来た784年、湖畔の周りを弟子達と歩いて、中禅寺を開山したという。ここは東照宮に隣接する、輪王寺の別院。湖畔、もう少し行けば、イタリアやイギリス大使館の別荘が、ありますが今回はパス。仁王門から👇・・社務所では、...中禅寺立木観音坂東道・日光市
遥かなる峰々、断崖絶壁、豊かな森を目にすると、何か、崇拝的な心地になって、ここへ来て、良かったと思い、今度は、深山・幽谷に分け入ってみたいとも思う。寺院僧侶が、袈裟を着て法螺貝を吹き、説法を解きながら案内する先達・・修験道、理屈よりも実践修行を尊重する入峰修行、修行者は、みだりに未入峰者に、その内容を語ってはならないという、修験道の古法を守っっていて、その神秘性を保っているという。出流山・満願寺の奥の院も、修験者が訪れ、滝行をして、日光に出向くという。その神秘性に見合うように、里村離れた山奥の大御堂、軒を支える升組、壁から柱を支える肘木を置いて、その上に桁を乗せて、三段、三手先工法。社寺の優美をかもす、軒の僅かな反り、その隙間を埋める計算の技、感心するばかりです。更に、龍の彫り物・・・う~ん・・・です‼奥...坂東道満願寺❷-❷の彫刻・・栃木市。
日光東照宮のある栃木県、日光を開山したのは勝道上人で、彼の父母は、今の群馬県高崎市の片岡町辺りから、栃木県芳賀辺りに移り住み、この一帯の国司になった方。子宝に恵まれなかった母は、栃木市の満願寺の奥の院にお参りし、授かったのが勝道上人・・735年に生まれ、幼いころから寺修行、山伏修行の場は、ここ出流山・満願寺・・・のちの坂東札所17番。上人となって、18歳・762年で具足戎を受け、栃木市出流山・満願寺を開創した765年、日光輪王寺を開山したのは、その翌年。今でも、日光の開山が勝道上人ということで、日光の修験者は年中行事の一つとして、必ずここで入峰の修行を行なうという。👇山門は、1700年中ごろのデザインで、茅葺の屋根も、今は修復していて金属板にしてるけど、仁王像は1330年頃の鬼気迫る形相・・蟇股に七福神さ...坂東道出流山・満願寺❷-❶栃木県栃木市。
デルフィニュウム👆👇花咲く背丈が違い、青、紫、白、水色にピンクと、さま様で、原産は、ピレネー山脈、アルプス山脈、中央アジアから、中国西南部の標高1,000m以上の山岳地帯で、雪解け水が流れ込むような冷涼な高地に自生してるという。主治医の、行くなら誰かと一緒にと・・・ということは、これからずっ~とということ?頭の上で思案袋が、わずかな風にふわり、ふわり揺れた。『判りやした』と相槌打って、埼玉県の森林公園まで・・・自宅から高速で1時間、今の体調では手ごろなドライブ。きょうの写真は、ほやほやの撮って出しです。👇今日は母の日・・・こんな慰労、いいですねぇ~森林公園の宣伝、4万本のルピナス👇これを見たかった。森林公園、次の花ポピーを撮る場所まで、1時間以上かかった。痛み始めた両足首、のに、花見たさにぴょこたん、ぴょ...埼玉・森林公園の散歩。
ムラサキサギゴケ水澤寺、1300年の歴史に、再三の災火により焼失、現在の建物は1521年から1528年、に仮堂を建立し、1751年から1781年、途切れて1784年まで、33ヵ年の大改築によって完成させ、装飾は、中国の夫人などを彫り物にし、男性よりも女性の観光客が圧倒的に多かった水澤寺でした。👇迦陵頻伽..かりょうびんが..の浄土を表現していると理解され、美声をもつ、江戸の巷では、手が届かない、花魁の代名詞にもなる、神話の鳥。誰が描いたのでしょう・・・・巡礼、人生の人間形成の修験というけど江戸時代の観光を目的にした人たちここまでの長い坂道車でも長いのにゼイゼイ・ハアハア~このゼイゼイ・ハァハア~が終わった時きっと、体の芯で何かが変わるのでしょうねいまだ、変化に気が付かない河童です来たとき、1回100円での...迦陵頻伽の水澤寺❸-➌群馬県伊香保町。
ジギタリス・狐の手袋👆水澤寺、広い駐車場と参道には、昔から、地場の特産が並んでいて、次の札所の栃木出流山・満願寺までは、有に80キロ、籠か歩くだけの江戸の巡礼・観光、休み処や、宿での食物が欲しい・・・何を買うか物見する、楽しみもあったでしょう・・今だって、観光巡り、私も楽しみで、鉄くずを磨いた作ったオートバイと、車でポイと頬張る👆トマトせんべい・・・🍘美味い‼参拝する前に、水沢うどん街道で、うどん食べるのですが、うどん屋さんも、水澤寺が再建した当時から、400年の歴史が有ったわけで・・・👇六角堂は、1600年代後半に建立された、地蔵尊信仰の代表的建築物で・・地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界の、六道を守る、地蔵尊を祀り、六道輪廻の相を表しております。回転する地蔵尊を左に3回廻して、真心の供養を...六角堂・水澤寺➌-❷群馬県伊香保町。
4日間、自宅で過ごして昨日、休憩室の壁を塗り替える作業で、脚立に乗ったり、降りたり、夜のぐっすり寝まで良かったのに、今日は足がもつれ、こっちでヨタヨタ、あっちでヨタ・・膏薬貼っても地につく足、宙に浮いてケタケタ笑う・・。健脚前の、好転反応・・そう思えれば・・いいけど・・・今は、脚立が怨めしい・・・鬱蒼としている木立に、彩度を落とした朱色の門構えは、自然を崇拝する山岳宗教、浮ついた気分を撥ねつける。群馬県伊香保町、坂東札所16番、五徳山・水澤寺。仁王門の完成は1787年で・・一階の通路の天井には、狩野探雲上野法眼の、洗練された筆使いの龍の絵が・・・中国の彫師が手掛けて、彫ったかと思えた、奇抜なフォルムの木鼻・・・風雨にさらされて、剥がれた塗料のまだら・・時の流れ、成り行きの風情が、またいい‼👇石段、苔を活か...水澤寺❶の山門。坂東道群馬県伊香保町。
リス👆と坂東札所14番、横浜市の弘明寺.ぐみょうじ..とは、まったく関係なく、リスは武蔵野市の井の頭公園のリス園で、チョロチョロパッパしてたリスです。弘明寺町に住む3700人ばかりの人たちの、900人ばかりの人たちが、地元で働いてるという。仕事場に行く途中、帰り、門前で手を合わせる人が、いっぱいいるという・・。鎌倉時代には、源将軍家累代の祈願所で、1766年に再建された本堂は、1044年、光慧上人が瓦葺き本堂が建立した、当時の古材が床板として使われている・・と。廃仏毀釈による公有地化で4万5千㎡は、横浜市へ譲渡...現・弘明寺公園...し、更に京浜急行電鉄が、弘明寺駅が開業し、駅周辺では寺自身が、民有化を進めたことなどにより、寺有地は、過去所有していた約2割になったとという・・・。👇1798年の梵鐘は、川...通勤の前には合掌で・・横浜市・弘明寺。
👇1649年再建立した後東京大空襲で焼失し、昭和33年再建した、坂東札所13番、金龍山・浅草寺。きっちりかっちり、歴史が見えないコンクリート造りでした。当時、焼け野原から再興したばかり、山は無く、伐採も遠くからで、木造で作るには、莫大な費用が掛かったのでしょう・・・初代・本堂の造営に携わった大工たちは、源頼朝さん鶴の人声、ほとんどの人たちが、鶴岡八幡宮の造営に、呼び寄せられたといいます。初詣、三社祭、浅草カーニバル、ほうずき市、羽子板市など、境内はびっしり、年がら年中、奈良時代からの聖観世音菩薩さん・・・息つく暇もない。五重塔・・宗教問わず、誰でも供養が出来き、マザーテレスさん・ダイアナ妃の供養に位牌が、安置されてると・・・👇龍図天人図・川端龍子画伯筆浅草に賑わいの帳が降りて地元の人たちの散歩コース私も、...坂東道浅草・浅草寺❷-❷東京都台東区。
ケチ・ケチ道場の弟子になって、眼を輝かせ、昨日の買い物より、今日は安かったとなれば、初段の段位を貰えると、内心やったと・・・なのに、段位もらえるまで、道のりは遠い・・・関東の観音信仰者には、西国33カ所に訪れる、道程は厳しく、代表者に行ってもらうという方法を取る・・関西から来る人も同じでしょうね‼坂東道、埼玉県からまた東京にもどり、隅田川へ・・・浅草・浅草寺、坂東札所13番。歴史は飛鳥時代、漁師の投網に掛った像を捨てたのに、場所を変えてもかかるので、持ち帰り、調べてもらったら、聖観世音菩薩で、藁で作った堂を造り、祀ったという。観音様が人の姿で姿を見せると、一夜にして千株の松が生え、3日後には、金の鱗の龍が、松林に降りてきたという・・・ながら、史実を記事にする能力袋は、すでに破裂・・今回は、江戸時代、見世物...坂東道浅草、浅草寺❶東京都台東区。
百日紅が咲いてた8月の参拝でした。山門から鐘楼を目安に、咲き終えた藤棚を見上げて人形の町、岩槻市の坂東札所12番・慈恩寺。なんつたって、敷地が広い、以前は13万5千坪もあって、山林、田畑など、関わるところ、一帯、慈恩寺村と呼ばれていたらしい。戦時中、南京駐留の日本軍が土木作業中、三蔵法師の遺骨を発見し、届け出た。南京政府からは、三蔵法師の遺骨を日本に贈り、ここから5分ばかりの、十三重の塔に収められているという。👇1827年に焼失し、845年に再建して、昭和12年に改修した観音堂。右、慈航普渡は、中国では、仏や菩薩は苦海を渡り、それゆえに慈悲の心で、衆生を救ってくださるという・・👇これ以上撮影禁止で・・・昔、824年ごろ、慈覚大師が関東巡錫したとき、日光山から『すもも』を投げたら、この地に落ち、千手観音を彫...すももの実が、日光山から飛んできた、慈恩寺。坂東道・さいたま市。
しのぶれど・・・淡い思いの熱い心が顔に出るなら、冷やかされても、腹も立たないけど、昭和の日、人恋しさに調布の深大寺で見た薔薇👆・・・風に揺れてた、藤青色の名は♫しのぶれど♫しのぶれど色あせて、世を忍び耐え・・・源頼朝の異母弟、武将にして英知に長けた、源範頼、頼朝の信頼関係も、忠誠心を疑われ伊豆に流され、修善寺で討伐される・・・のに、確かな記録は無く、範頼はひっそり、ここ比企郡吉見町で、生きてた伝説・・平安末期の幼少期、範頼はここに身を隠していたという。坂東札所十一番。岩殿山・安楽寺。👇虎の彫刻は、左甚五郎の作と伝えられていますが・・おばあさんに歩調に合わせる、背筋が通った青年👇疲れが飛んだ、いいひと時だった。👇範頼が寄進した三重の塔は、焼失し・・吉見観音周辺は今吉見町大字御所という地名吉見御所と尊称された...坂東道、しのぶれど、世を忍んで・吉見観音。埼玉県比企郡。
昨日古河市からの帰り、どんよりした空は黄砂かと・・今は亡くなった、作家安部公房さんが少年期、奉天で過ごした空も、こんなだったろうかと、ふと思った。赤字は今日、昭和の日、4月29日の追記・・・です。イーハートーブ👇とは、宮沢賢治さんの心象の理想郷だった・・2019年7月16日にこんな👇記事を書いていました。梅雨雲の小窓に、三温糖の香りが、プンと立った。もっぱらの仕事で、私のイーハートーブがかすんで見える。さぼろう、ほんの少しだけ。週刊天気図に晴れマークが点き始めた。まもなく野菜に、米に、蝉にも、いい日撚りが来る。天気図を観ていて、出かけに準備していた、ゆで卵、殻がカタカタ音をたてて、焦げていた。さぼろう、ほんの少しだけ。昭和7年、「児童文学」」に宮沢賢治さんの「グスコーブドリの伝記」が載った。作家安部公房さ...イーハトーブのねりさん...partⅡ
720年からの正法寺、頼朝の庇護のもと、頼朝の没後の1200年、亡き頼朝の志を継いだ、妻政子が堂宇を再建したけど、それも、1600年代、1700年後半には、建て替えられ、更に、明治11年(1871)の火災により観音堂が焼失して現飯能市の長念寺から移築され、その当時の堂宇を見たかった、坂東札所十番、巌殿観音堂。国家神道を国教とする、廃仏毀釈は寺院を弱体化させ、寺領であり、修験山岳修行の場であった、山内社寺、山林も召し上げる。明治以降、この影響は観音巡礼にもおよび、参拝者は減少し、門前町も急激にに衰退の途をたどっていき、巌殿観音も、その煽りを受けていく・・・文明開化がもたらした、凝り固まった観念の、イデオロギーに翻弄されての煽り・・硬い木材の耐用は1000年、建築文化がことごとく壊されて・・・👇彫刻は、明治に...坂東道正法寺❷-❷観音堂ぶらり。埼玉県東松山市。
晴れた日は6月、人間の忍者の姿をした龍が、胡坐をかいて、チチンプイと唱えると、空に雪雲が湧いて、ここ比企地方物見山に、有れよあれよと・・・雪が舞い始めた。里人をいじめる性質の悪い龍。と、蝦夷東征に向かう、鬼退治で有名な坂上田村麻呂が、龍の成敗こそ、我の使命とばかり雪の中、家来達に龍を探させた。物見山に住む、龍の住処は99カ所もあって、里人もどこで寝起きしているのか知らないという。家来たち、灼熱の天候から雪の世界、薄着の肌に凍えてつい、農家の納戸に有った麦を焚いて、尻を温め、将軍は観音様に祈って、矢を放ったところ、林の中にいた龍に刺ささり、比企の里に平穏な日が来た。悪ガキ龍の伝説は、今でも残っていて、6月朔日には、小麦ピーを焚いて、尻をあぶり無病息災、灰を撒けば蛇除け、虫よけと農耕の行事として・・・岩殿丘陵...坂東道『けつあぶり』に正法寺❷‐❶埼玉県東松山市。
整列して、誘導する係員が15人ばかり、横一列、整列して、背中に・・午後5時の時刻に合わせて、あと何分?あと5分です、あと3分と、掛け合い。閉門の定刻きっちり、姫路城をあとに・・・。あっちにひょい、こっちにちょい、檻に入らない、やんちゃなガチョウのような気分だった。場外から見上げた姫路城は白い城の壁に、夕陽が当たり、影は黄金にひとはけ擦ったような美しさでした。千姫が10年程過ごした西の丸も、天守閣から見る街も、綺麗だった。科案内看板の説明に、感心して見学したけど歴史を紐解く以前の、感動は白い壁に夕陽が造った黄金をひとはけ・・擦ったような景色でした〆にもう一度黄金に、ひとはけ。姫路城。
若い花山(かさん)天皇に、勉強を教えたのは、紫式部の父、藤原為時。後ろ盾のない、天皇が、政治の争いに敗れた時は19歳で、986年。宮中を捨て剃髪して、仏の門をくぐり、圓教寺に入山し受戒したのは、比叡山延暦寺でという。天皇から法皇となった、花山法皇は中山寺の石棺から、観音霊場三十三カ所の宝印を見つけ、紀伊国熊野から、宝印の巡礼が始まる。西国三十三所を決定づけ、御詠歌は、花山法皇が詠んだ句で、一堂から一堂まで巡礼する法皇、道すがらの情景と、人柄が、ありありと浮かんできます。書冩山・圓教寺御詠歌はるばると登れば書寫の山おろし松のひびきも御法(みのり)なるらん👆👇圓教寺・性空上人が1007年に入寂してから、祀られた開山堂。1000年の灯りは、途切れることなく。国の重文が多い、圓教寺の建造物など、まだあるのですが、...西国27番札所、書冩山圓教寺③-③兵庫県姫路市。
西国三十三所札所、関東から最西の場所にあって、三十三所で最大の規模は、御詠歌👇はるばると登れば書寫の山おろし松のひびきも御法(みのり)なるらんこの日は山おろしは無く、照ってる陽は、近畿自然歩道、梢からのやんわり。👆👇魔尼殿は2度の焼失後、1933年昭和8年、落慶された市の重文。910年、京都に生まれた、橘善行36歳で出家して性空と名乗り966年、57歳でここ、書冩山で庵を結ぶ。4年後、性空上人は、天人が庭の霊木、桜の木に讃嘆礼拝をするのを見て桜の木に、如意輪観音像を彫り魔尼殿を建てて、祀ったのが始まりという1398年から明治維新まで女人禁制で、女性はロープウェー発着所が10分程度の如意輪寺で、札を納めたといいます。昭和の構築、構築材もきっちり、痩せもせず整然として、👇回廊は雨が溜まらないようにでしょうか、...書冩山・圓教寺。②~兵庫県姫路市。
姫路市に付いた夕刻、西国27番札所・圓教寺の場所を確認したのですが、ナビは田んぼの外れを指し、登山口がない。ロープウェーでなければ登れないと判って、この日は、姫路市の宿へ。👇圓教寺へのロープウェー4分間の、始発は8時15分。万全を期したのに、姫路市の道路は、4車線の片側通行で、2車線目を走っては、右折ができなくて面喰いです。ゴンドラにでは、『今日のお客様は、あなた様がおひとり』?乗ってたのは、8人。みんな圓教寺の関係者なのだそうで・・この日は雨の予報でしたが、書冩山しょしゃやま(371m)ロープウェー展望台では、すっかり晴れて、数分ばかりところ、👇石段を登ると、岡本太郎さんの荒々しい筆づかいの、👇石碑がありました。裏側に回ると、この地書冩山山麓で生まれた、悲壮な幼少期を過ごした、作家、椎名麟三さんを紹介し...晴れて・西国札所27番・圓教寺。①~兵庫県姫路市。
👆ムラサキカタバミ?短い4泊5日の札所巡りでした。当初の予定は完璧でしたが、ほとんど崩れました。そのおかげで、予定にない場所、宇良神社や、2度目の伊根の船宿、新井崎の岬などに、訪れる時間を作れたり・・・、感慨もあったり、不運な視覚障害もあったり、今回の為に新調した靴で、肉刺ができたり、いやはや、いやはやの私にとっての遠出。今日は、最終日に寄りたいと、日頃から思っていた、琵琶湖の『菅浦の群落』の一部を載せて、買い出しと、いびきの後の昼行燈です。河童、自宅で昼行燈。
兵庫県に来て今日で4日目、西国33番札所巡りは、しっかり計画を立てて出かけたのですが、関西のお寺さんは敷地が広く、一カ所3時間ばかり、足は棒になって・・・予定通りいかなくて、宿取りに四苦八苦、3日間で撮った、撮って出しをランダムに・・・。今日は、まもなく宿を出ますが、兵庫県は札所番外を1カ所巡りで、終わり、京都の北端、若狭湾に向かいます。👇西国27番札所圓教寺👇姫路城👇一乗寺の猫と枯れっ花👇西国25番清水寺👇西国24番中山寺猫に愛されて、西国札所巡り。兵庫県。
仕事の一休みは姫路まで、ひとっ走り。昨日、一杯の飲もうかと、仲間からの慰労と激励を兼ねての誘い。普段、付き合いをしない私に、私の誕生祝いをきっかけに・・。とんでもない話。今更の話、生まれた年を数えるのは、3年に一歳か4年に一歳、それが好ましい…ウン‼今年の歳など、口が裂けても云いたくない。けど、去年は確か75だったと、と思う・・よッ‼で、雲隠れ、姫路の宿から数日の工程を送り、付き合いが悪いと、悪口叩く仲間の顔を浮かべて、出先での楽しみ、今日は銘柄「京姫」の日本酒を、くいっ~~っと‼👆👇姫路駅ロータリー。唖然としてしまった。地方出身の私には、とてもなじめない、こじんまりとしているものの、モダンな動線の歩経路。駅は暗渠のような構造で、遠く、姫路城のライトアップが見える。もう、ちょっと引っ張ってみれば、これだ👇...姫路駅
蝦夷瑠璃草北海道・大雪山や夕張山地の高山の礫地で、見られるのですが、この花は箱根。北海道なら青さがもっと際立っているのではと・・。紫陽花は、鑑賞用に親しまれたのは、戦後になってからなのに、奈良時代には、咲いていた記録が・・。埼玉県東松山市箭弓神社、700年代から、広大な敷地と、建物で、矢久稲荷神社親しまれ、江戸時代、1700年代には、江戸日本橋を中心とした「箭弓稲荷江戸講中」に、引けを取らない、埼玉近郊の人、人で賑わったといいます。伝説に平安期に平忠常討伐に向かう源頼信が、白狐に乗った神から箭(や)と、弓を授かる夢を見て戦に勝ち、これに感謝して社殿を寄進したと・・・。社殿の彫り物は、彫物大工棟梁として、熊谷宿で生まれた、飯田仙之助。弟子に、飯田岩次郎、岸又八らがいて、兄弟子、小林源八も加担していた。仙之助...箭弓神社。埼玉県東松山市。
空き地など、どこでも咲いてる、水鳥の鷺の頭部に似てほったらかしでも咲く、かわいい紫鷺苔👆ムラサキトキゴケ長い休暇を取ってしまいましたブログ書き手の仕事も、気分も健康も戻りつつ今日でひと段落ですまた再開いたします河童、年齢の割に意外と元気です河童、元気に紫鷺苔。
埼玉県東松山市、箭弓神社敷地にある、牡丹園は、100年前から続いてたといいます。40数年前、神社の近くに2年程住んでましたが、牡丹は今回初めての鑑賞でした。👇、園の端の日向に、ギョリュウの木、牡丹の鑑賞以上に、人気がありました。日本に輸入されたのは、1700年代で、蕾はピンクで、花は白い花弁と雄しべ5個が、小さく着けると・・・。ギョリュウと聞いて、魚の龍と思い描いて、どんなのと目はあっち、こっちにうごいて・・?名づけは雰囲気が柳に似て、胃腸や肝疾患の生薬にした、中国が原産で楊貴妃が愛したことから敬意を表して、『御柳』と呼ぶそうで・・。👇、丸葉車輪梅?👇、藤棚もあって、みたらし団子とパックの焼きそばは、この日、至福の昼食。👇、しおれたつつじの花も、遠くから見れば、綺麗な花だと思ってしまい、東松山ぼたん園5月...春牡丹とギョリュウ。埼玉県東松山市。
👆サクラソウ行楽に湧くニュースを見てると、このまま、生活も豊かになればいいのに、な、思いますが、ウキウキしている人たちを見てると、楽しくなります。箱根で撮った花も、だいぶ日が経ってしまいましたが、こんな花が咲いている、と思ってくだされば・・。👇熊谷草発見して、持ち帰る人がいるので、ほとんどの都道府県で、絶滅危惧種に指定されてしまったと・・。👇エビネ(海老根)スギ林の下など柔らかい日が、差し込む樹林下に自生し直射日光を嫌います👇破れ傘キツネノカラカサの地方名がありますが、栃木県では、キノコの名前にもなってますね。ウサギノカサ、ヨメノカサ、カラカサグサなどの呼び名👇蝦夷の花忍日本の固有種で、北海道や青森県辺りに分布し、高山植物・・ヒマラヤに咲くという、青いケシを彷彿させますね。👇、小判百合。紹介名札には、フリ...投稿しそびれた花たち。箱根。
全国を巡ったた17~18歳の少女が、関東遍歴で立ち寄った、舟底のような地形の、都下・青梅で、紫金(赤銅)の千手観音像を奉納しました。飛鳥時代の頃。少女の名を八百比丘尼といい、北陸若狭で殿さまが重病になって、残りの寿命を殿さまに譲って、生涯を閉じたのは800歳の時と、伝説。行基さんが、ここの地形を見て、仏が人々を救おうとする、大きな願いの弘誓の船になぞらえて、ここを塩船と名付けたという。👇塩船観音寺山門の賑わいは4月25日👇山門の前の準絶滅危惧種に指定される、丁字草を撮ってから👇船底に居て、17,000本、花の観音様の世界。つつじの花で浄土の世界でした。語りは、ここまでです。つつじの舟底・塩船観音寺。都下青梅市。
最近、疲れてくると物の色の、彩度が落ちてくる云う現象。連休前に取れた、3日間の休み、昨日は埼玉県で撮った写真、サッパリ色味が悪いと、寝てしまいましたが、今朝、ウン?アレマ~没にするほどではないと・・・年寄り、やはり十分な睡眠、ほどいい運動で過ごすのがいい、と。はこね湿地花園で毎年見る、👆👇ゲンチアナ・アルペンブルー。ヨーロッパアルペン、ピレネー山脈辺りに分布し、日本では、園芸用にこの名で販売もされているよう。リンドウ科で、日本では広く分布しているという。原種はチャボリンドウで、形・色、姿は全くそっくり。風通しのいいところで、雨を避け、冬は乾燥させないようにする・・10センチほど背丈、アパート住まいベランダには、ほど良い大きさですね👇、伊豆地方に咲く大島桜、日本の固有種、成長するごと、花は赤みを増し、桜餅の...ゲンチアナ・アルペンブルー・・リンドウ。箱根で。
4月過ごしやすい気温に、ノンアルコールビールを飲む前に・・。物心ついてからの、誤字、脱字、迷文のひどさは、国語の先生もあきれるほどのお墨付き。意に返さない特技もあって・・。のに、過ちは直ちに治したい、無知の隙間を埋めて下さる言葉は、やんわり雲の上、胡坐姿で、至福の心地になります。4月の投稿記事で、そんな反省と繋がりを・・。👆箱根湿地花園4月19日で👇4月17日記事本文抜粋境内、木陰でお茶をするのも紹介くださったmamanjyon326youさんに感謝して誤字訂正です⇒mamanjyun326youごめんなさいたかたかのトレッキング👇4月8日の記事本文抜粋聞いたけど、忘れてしまった。👆銀河のサンマさんからtsukihimesakura高校時代にそんな思い出が😉貝の世界、面白いです。拡大しれみちゃった笑ムラサ...角が生えた過ちと、雲の上。
眼ざめの洗面所、鏡を見ていい顔してると、喜んだけど、心を映した姿見には、口をへの字にした、般若が写った。あと半月ばかりは、仕事で缶詰状態は続く。心はどこかで正直だつた。こんな時は、塩えんどう豆を助手席に、ウン‼心の般若に、外食付きの・特効薬、不意の電話が来る前に、行っちまえ・・・箱根湿地花園、4月19日。足柄パーキングでの仮眠が、年寄りになった足取りとは、ちと違った。湿地花園は種別ごとに群生しない。壮大への感動は無いけど、それなりに・・。👇翁草の一生。👇エチゴルリソウ👇プリムラ・ベリスヨーロッパ産とちっこい案内看板。ほったらかしの庭なんかに、似合いそうで・・。👇イカリソウ花言葉・君を放さない・・なんかわかる羽交い絞めにされそうだ。戦闘機のようにも見えるし子供に、ウン‼鶴の折り方を教えたこともあった。久しぶ...春・箱根湿地花園①
遠く榛名山系をのぞむ、田んぼの中で、江戸後期の花形スターが、最後の鑿を持った。明治年号まであと5年爪のように磨いた鑿は、指先の動きのように自在に動き、樫の木に喰い込む。掘っ立て小屋で寝起きしたのは、1858年、石原常八主信72歳(前回、雷電稲荷の彫り物師)その子の、石原常八(恒蔵)主利49歳。主利の長男、石原(高沢)改乃助28歳と、一世を風靡した石原3代。北関東の彫り物師として、関東の社寺に鑿裁きを残した爺さんの、常八主信は、榛名講の信仰が浸透する中、信者が、寄金を出して神社建設を計画する。そこで呼ばれたのが石原常八主信。高齢の主信は、63歳で常八を継がせた長男の常八主利を棟梁にして図柄を描く。けれど・・・まもなく明治、群馬花輪の彫り物集団の彫り師への、受注がほとんど無くなり、彫師たちはどんな生活を強いら...江戸後期の花形スターの決断。宿稲荷神社。群馬県榛東村
頭痛に、歳を思うとやばい、と思うのですが、片肺で生きてる私には、白内障の施術後の、調子の悪さを抱える私には、美人の顔もぼやけて・・・花粉症より黄砂が始末の悪い現象のようで、行楽を楽しみにしてた、今日の休み、出掛け予定のメモは円を描いて、ゴミ箱に・・。群馬県わたらせ渓谷に江戸中期、日光東照宮お参りに整備された、銅(あかがね)街道の花輪宿。東照宮の彫刻を手入れする彫師が、11人の弟子を持ち、やがて大集団となって、それぞれが独立して、北関東の社寺に腕を競って、全国に類を見ない数の、彫り物を残した。八王子市の高尾山に残こした、石原常八雅詖の子、1786年生まれで、1863年5月2日に亡くなった、石原常八主信。宮大工の棟梁に見込まれ、彫物棟梁に名指しされて、1819年、33歳で栃木県の野木市の、梟の里、野木神社を手...鑿に賭けた男たち⑤石原常八主信。群馬県邑楽郡。
4月2日、見なければよかったのに、記入した資料に、つじつまが合わない項目。群馬県川場村にある武尊神社の彫刻は、石原改乃助知信・1858年と・・しているまさか、で3日、群馬県川場村に出向きました。現地で白黒つけられる訳では無かったけど、気晴らしに、春の陽気が後押しして・・。この日の昼飯は、相変わらず握り飯、具はちょっと趣向を変えて、ワサビ茶漬けをまぶして、ゆかりをまぶしてシンプル。武尊神社、この辺りには20社ほどあって、石原改乃助の彫刻は、川場村ではなく、水上町だと気づいたときは、握り飯を食い終わって煙草をくゆらした時。訪ねた川場村の武尊神社の彫り師は3年前に書いてた👇長いので、スルーも‼群馬県川場村。武尊神社・胡粉下地。-春.夏.秋.冬.河童の散歩八王子今日も晴れてるけど、明日からは雨が降るという。我が家...武尊山麓に春の風物群馬県川場村
住み着こうと胸を弾ませた思いはすっかり遠退いた、神奈川県真鶴町。たまに行くと、キャンプシートマットを敷いて、のんびりしたくなる。ただ、周りの眼が有って、隅の岸壁で足をぶらぶら。コロナ前には、キンメダイの煮つけが、飲食店の目玉だったのに、今年の荷開けでは、お目にかからないという。以前、煮つけの土産を、鍋ごと持ち帰ったこともあった。今回は、岬の遠藤貝類博物館の土産物で、ノンアルコールを添えて👇高校時代、石原慎太郎ばりの、若くてモダンな、ハンサムな教師がいた。入学して数日後、教室の引き戸を開けるなり、とよ〇〇は居るか・・と・・廊下に呼び出されて、言われた。♪美術部に入れ♬・・晴天の霹靂とんでもない事、一応入ったけど、それ以来腐れ縁、ろくなクラブ生ではないのに、絵を描かされた。女性ヌードのデッサンにも誘われて、職...桜貝と絆創膏先生。神奈川県真鶴。
ここんとこ、仕事が有ったり無かったりで、1日出ては2日休み、2日出ては2日休みと、私にとってはいい事なのですが、何となく気が休まない。で、3月末日は、真鶴港へ、一時間30分のドライブです。源頼朝が石橋山の戦に敗れて、安房へ逃げるときに、真鶴港のしとど窟👇から、1.5キロばかり、利用した岩海岸は曇ってて、雨が降り出しそう。ここの岩海岸で、2021年6月、遠藤貝類博物館の学芸員と琉球大学の研究チームが、新種を見つけ『イワツノスナギンチャク』と名付けたという。オレンジ色した、小さいイソギンチャクに似た個体。身体に砂粒を取り込んでいて、骨粗鬆症に効果があるという、赤い壁の凝灰岩?が、ちょっと不気味。真鶴、箱根火山の外輪。今は行政の厳しい規制で、町が守られていて、新築建造物の条件は厳しく、奇抜な建物は建てられない・...真鶴海岸。神奈川県下足柄郡。