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  • 札所32番で巡りの道をはずした、法性寺。秩父。

    👇札所32番・般若山・法性寺、31番観音院から徒歩では10キロ3時間ばかり、扁額の上階に梵鐘が吊るされ、そのまま鐘楼になって、👇本堂には薬師如来が安置されて、向拝に般若の面が、法性寺のある地名は、秩父市小鹿野町般若で、御詠歌にも、願わくば般若の舟にのりを得んいかなる罪も浮かぶとぞ聞くと、言葉通り、般若の舟は、般若(智慧)を船にたとえ、迷いの此岸からさとりの彼岸に導くという。👇岩窟に、子育て観音、授からない子に、御婦人方は、地蔵像を持ち帰り、日々祈り、子が授かったら、もう一つの地蔵を造り、収めるという、覆いかぶさるような岩が、落ちかかる怖さの、奥の院、舟の舳先に似た岩には、大日如来の像、岩船観音像が、あり、登るはずでした。老人が写ってるあたり、奥の院への分岐、なのに、老人👇の雰囲気に、釘付けになり、33番、34番...札所32番で巡りの道をはずした、法性寺。秩父。

  • 第3紀層に、巌窟山・観音院 ② 秩父

    札所31番、鷲窟山・観音院の建物は、昭和に建立された箱型建造物。65メートルの岩崖は、弘法大師も、まさか1700万年前の岩肌とは、思いもしなかったことでしょう。海の中、波が流れに溝を掘り、滑らかに・・・、歴史の深さに、時を忘れていました。これも、霊場巡りをしなければ、知らないまま・・・でした!弘法大師が指で彫った岩肌の像が、1万数体あったといわれて、今はかすかな形だけが浮かんでいました。第3紀層に、巌窟山・観音院②秩父

  • 覆い被る大岩壁に、鷲窟山・観音院。① 秩父

    札所30番から、18キロ歩けば5時間ほどに、31番、鷲窟山・観音院。車では20分ほど、昔の巡礼では大変な労力、檀家を持たない、小さなお堂に地元民とわずかばかりの援助と納経料で運営された霊場、地元民の札所護持意識の強い秩父では、格式がなく、信仰を原点として、尋ねれば、親切に道案内をし、疲れればお茶も出し、駐車料も拝観料もなく、ひっそりと観光化しない霊場に・・と。👇地元の石で彫られた、仁王尊、一枚岩で作られたものでは、日本で一番大きいものと。石工は長野県伊那郡の藤森吉矢さん、地元、小鹿町日尾村の黒沢三重郎さん、信州伊那は民間信仰が盛んで、石仏造立にと、大工職人よりはるかに給金が高く、農家の跡取り以外の男性は、我もと選んだ職業、その足跡は、全国にも広がって・・。八王子にも、江戸城の石垣を造るために、たくさんの職人がい...覆い被る大岩壁に、鷲窟山・観音院。①秩父

  • 楊貴妃観音、膝を崩して、法雲寺。秩父。

    秩父盆地、静けさの山間に、霊場、札所34か所の巡りは神秘的でさえありました。札所29番から、駐車場に向かうとき、茶畑のそばで、農具を片付けながら、声をかけてくださった方がいて、「今日は、30番まで行き、鹿の湯に入って終わりにすればいい・・と。これからの工程は1日2カ所が、目いっぱい、疲れますよ」・・と。札所30番、瑞龍山・法雲寺、幕末の頃、土地の人々が卵の殻に、人形を描いて人形を作り、義太夫の語りに合わせ、一体の人形を二人で操り、人形の手の操作に竹串を使う、白久の串人形の一座があることで知られる、白久・深谷地区。谷津川に沿って急な坂道は、熊倉山へ。途中、寺の石標があって、道は2つ👇👇本尊の如意輪観世音。元応元年(1319年)建長寺の道隠禅師が唐より奉持したものと。手引書には、膝を崩してじっと何かを見ている、優雅...楊貴妃観音、膝を崩して、法雲寺。秩父。

  • 秩父の祈り、巌道の岩井堂から大渕寺。

    去年は一度も山に登りませんでした。今年もまだ、600メートルほどの、高尾山まで10分ほどの所に住んでるのに、麓までで、山の絵に額をくっつけて・・やま~・・。思いがけず山道を歩きました。札所26番・岩井堂の標高が380mで、次の27番・大渕寺までの尾根には30メートルの、岩場があり小山がありる1キロメートルばかり。30メートルの岩場もあり、こぶもあり、汗をかいて歩く・・・岩井堂から苔むす巌道を登って👇一際別天地のように、神々しい大仏さんに出くわします。ここの地名は「影森」名の通り、立冬から立春までは武甲山の影になり、日野では遠く、上水の便も悪く開発は遅れ、これから訪れる護国観音様までの1キロばかり、修験者は巌道を幾度も武甲山を見ながら、幾度も往復し、邪心の去り行を積み、江戸で観音講を広め、喜拾を受けこの大仏を造り...秩父の祈り、巌道の岩井堂から大渕寺。

  • ドジって寄らなかった札所26番の、岩井堂。秩父。

    昨日、ワクチン接種のだるさを期待していたのに、9時覚めた眼に「言葉袋」から、「杞憂」が飛び出し、胡坐をかいて、歌舞伎役者のように見栄を切った。ハハア~。mairimashita。元気溌剌の、昼から、秩父札所26番円融寺のドジって撮り損ねた、岩井堂までひとっ走りです。熱は無し、だるさも無くなって・・。ブログ記事にしようとしたけど・・見事、スカでした!。円融寺・岩井堂は、本堂👇から700メートルばかり処の、昭和電工さん👇の敷地内にあり、受付で挨拶をし、👇1700年ごろ建てられた「道しるべ」がポツン、右・岩井堂入り口、左・みぎ二十六番道の石碑を頼りに・・・、👇空き地に車を止め、車で乗り入れるべきでなかった・・。👇300段ばかりの石段を登り、👇詣りすんだ、4人、男性の後ろに3人の女性、2度目の34札所を巡った、方たちで...ドジって寄らなかった札所26番の、岩井堂。秩父。

  • 河童、久ぶりの散歩。

    リアルタイムの記事は、ワクチン接種と訪れた公園で、接種2回目を終えて、12時間近く、熱はなく、夜半にせわしく響く、オートバイ音の21時。接種のあと近くの記念公園で、歩いた疲れとは何となく違う、だるさ。ちょっとだるさ、気力が湧きません。こんな時はちょいと、一杯なのですが、食欲もあまり湧きません・・・。ワクチン会場、接種後の待機場所には、38度の熱も2日で解熱する案内していて、だるさも2日間なのでしょう。明日、明後日は出かけない?予定で、コロナとの陣中、まだ接種していない仲間から、好転反応を気にする仲間の、電話に対応するだけ、のんびりと過ごすことに・・。で、今日は久しぶりの散歩の記事にしたくて・・。札所・・・あと5か所ですが、・・・御免!明日以降に!・・。河童、久ぶりの散歩。

  • 花の根元の恩を、長泉院。秩父。

    札所29番は浦山川沿い、28番から約2キロばかり、参道入り口の、枝垂桜の前に、「篠戸山長泉禪院」の石碑、「二十九番」と彫られた台座に、延命地蔵が待っていました。境内の景観を管理する人たちが、あちらこちらに・・。東国花の寺、100カ寺にも選ばれて・・咲いた花みて喜ぶならば咲かせた根元の恩を知れ心静かにお参りし、自然の恵みと、仏さまの恵みに感謝すれば、心の奥底に芽生えるものがあるはず・・。う~む!根元の恩、畑の野菜には感じたけど、花に・ね・・・!修行が足らんかつた。👇紅葉大権現を祀っている、火伏の神様として・・。長泉院は、野火の類焼に2度、遭われたたといいます。戦中戦後に訪れる人たちは少なく、食糧難、春と秋の、土地の講中の人たちが来る頃になると、34か所4日半日で、歩いて回り、残りの半日は、無事お参りできたお祝いに...花の根元の恩を、長泉院。秩父。

  • 古代の住処に馬の目、橋立堂。秩父。

    来る日も来る日も坊主、橋立川のヤマメ釣りに尋ねた、二日徹夜しても、元気なころ・・。同行した友が2匹釣っただけでした。近年訪れたのは、足の骨折でギブスが取れた、解放感に、鍾乳洞が見たいとなった時。梯子の昇り降りがあると聞いて断念し、今度いつ来るだろう・・と、忘れてた、札所28番・石龍山・橋立堂。当時は、札所に関心は無かったけど、老人が菅笠をかぶって、お参りして巡礼の、記憶がありました。👆65メートルの切り立った断崖に朱いお堂、👇12万年前は、古代人が住んでいた場所だったと、学生時代の宮沢賢治さんも訪れ、古代の学識を得ていたという。日本百観音霊場で、馬頭観音を本尊にしているのは、西国の29番だけで、珍しい・・と。狭い馬車が通れるだけの道、伐採した木材を運ぶ馬車が、荷崩れして、絶壁の谷に滑り落ち、馬方は雑木につかまり...古代の住処に馬の目、橋立堂。秩父。

  • 円融寺でドジって、スキップの大渕寺。秩父。

    ドジつてしまいました。昼についた札所26番・円融寺、👇👇👇来年6月までの工事中、職人の休憩をいいことに、シートの隙間から、どんなとこ、修理するかと、鵜目たかの目。巡礼の本道から外れて・・。別名・岩井堂と呼ばれ観音堂は、近くの工場内を横切って、二百数段、険しい巌に立つ観音堂から、27番の大淵寺までは、山道がいいけど、町中を歩く格好では、まず無理と。と・・・知識を持ってはずなのに・・・自宅に帰って・・またやっちまった・・ドジ!期待してた建築、観音堂見ずに移動してた。円融寺さんの観音堂は後日にいたします。👇札所27番、大渕寺・月影堂。なつやまやしげきがもとのつゆまでもこころへだてぬつきのかげもり👆案内看板にあるように、大正8年の火事は、汽車の煤煙からの類焼だといい。和尚さん、粋な口っぷり、「御朱印帳の隅になあ~、札所...円融寺でドジって、スキップの大渕寺。秩父。

  • 鬼婆ぁ~と言わないで、久昌寺。秩父。

    民家は少なく、うっそうと茂る木立の、荒川沿いのルート72号・秩父荒川線。父母親類縁者から疎まれた、身ごもってた娘が一人、業の深さ、鬼よ鬼よと追い立てられ、果てに、村人たちに荒川に沈められはしたが、縛られた縄が解け助かり、逃げて久那の岩洞に住み、子を産む。15年経ち、岩堂で亡骸にすがって泣いてる、鬼と呼ばれた女の、子に修験者が声をかけた。母は子を守るのに、木の実をとって命をつなぎ、里山に知れて危害から守るために、またも鬼と呼ばれるようになった・・と。母の生きてきた一部始終を娘に、語って息絶えた母。手に花を持った火照りのいい顔の女性が、途方に暮れてた、娘の前に現れ、「観音を本尊にし、毎日祈るように・・母は必ず私のような姿形になるであろう・・」修験者は、里山に娘を連れていき、鬼と呼ばれた娘の母の心情を伝え・・・・。娘...鬼婆ぁ~と言わないで、久昌寺。秩父。

  • 口中の病に、恋が窪の遊女、法泉寺。秩父。

    札所23番の音楽堂から、24番のここ、法泉寺までは農家が点々と、のどかな景色に、のんびりと歩いてみたいと思わせます。今の東京・国分寺あたりに「恋が窪」と言う地名があり、信号を見るたび、いいねぇ~などと、ほくそ笑んでしまいます。昔、慈悲深い遊女が住んでいて、修行僧に毎朝施しをしてた。秩父の修行僧が来て、口中が痛む病にかかった遊女に、一本の楊の枝を与えて口を注ぐようにと・・。病が治った遊女は、今まで以上に、観世音を信仰するようになったという・・。👇秩父霊場の象徴・武甲山。看板には武州とありますが、「恋が窪」源義経の家来、畠山重忠が足蹴く通った、遊女・夙妻(あさづま)。武士と遊女の熱烈な恋。恋路に嫉妬した男の嘘は、「西国で平家に討ち死にされた・・」と悲しみに松の木を植えて、その松の枝は、西国へどこまでも伸びていったと...口中の病に、恋が窪の遊女、法泉寺。秩父。

  • 音楽の 御声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう 峰の松風・音楽堂。秩父。

    日本の文献に音楽という文字が初めて現れるのは,713年に勅撰された『常陸国風土記』だとされてるなら、秩父札所23番「音楽寺」というお寺の名も、頷ける、ウン!慈覚大師が名付けた小鹿野坂の中腹まで、息を切らせば、納経所👇登り切って、手水屋で手を清め、👇清めの水は、近寄れば流れる、近代的。👇観音様に行く前には、梵鐘を鳴らすのが手順、札所巡りで、初めて梵鐘の綱を持った。鐘の下部周囲に、聖観音、不空羅索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に六観音が、鋳造されている。1768年、今の栃木県佐野市の冶工・大川太郎兵衛、藤原宗封さんの銘が・・。年越し除夜の鐘の音とは違う、やさしい響きだった。札所23番・音楽堂、若い世代に、音楽関係の方たちが良く訪れると・・。👇回廊の段差に1枚板を削って・・。音楽の御声なりけり小...音楽の御声なりけり小鹿坂の調べにかよう峰の松風・音楽堂。秩父。

  • 猫の祈願所?、童子堂。秩父。

    どてっと、枕に飛び込み扇風機ガンガン回し、干乾びる肌に水をがぶ飲み、仕事をシャットアウト。明日もか・・・!風呂上り、白鳥柄の浴衣で立膝の足の爪を、行燈を背に、亭主待つ間のチョキン。江戸下町の夏の日の夕方の情景画。江戸の頃は、今よりはるかに涼しかったのでしょうね、それだけなのに見ていて、涼しい。田園風景が続く、秩父札所22番・童子堂(永福寺)へ着くと、広大な敷地に単層の茅葺の仁王門が、いかめしい仁王様とは程遠く、童子のよな造り、以外この仁王門の姿から、永福寺を童子堂というのだと。👆👇仁王門に比べて、極彩色の彫り物、内部も蓮華唐草模様に施された、1702年に建立した堂宇。かつては子供たちの間に天然痘が流行し、観音を祀って、祈念し岩間の清水をつけたら、病が消えたという900年ごろの伝説。童子堂の名の起源は仁王門に絡め...猫の祈願所?、童子堂。秩父。

  • アハハァ~眼を隠して、観音堂。秩父。

    昨日、雨模様で札所巡りの人はいないだろぅ~、と、初めての札所巡り経験、甘かった。ぽつぽつ雨粒に濡らすまいと、小袋に納札や御朱印帳を守って・・・。デザイン鮮やかな輪袈裟をかけて・・。いるいる夫婦があちらから、こちらから。語り合いながら・・秩父の巡礼は御開帳がなくても、いっぱい。江戸の頃の開帳には1日300人も訪れ、案内の駄賃もきちんと決められ、決して、雲助みたいなぼったくりは無かったといいます。私は車で巡って、昔は籠に乗れば、350文から400文、約6kmの駄賃。1文25円にして1万円。投宿先の民家への謝礼など、雨が降れば2文の渡しが約3倍になり、やはり、江戸から近距離、信仰と物見遊山、案内書や道中記を見て、当時の巡礼には金がかかる。それでも、明治の廃仏毀釈のあたりまでは、観光を兼ねて、自然に触れ・・・。👇荒川沿...アハハァ~眼を隠して、観音堂。秩父。

  • 岩の上に観音様が、岩之上堂。秩父。

    小さな十字路、手前の坂道を下れば、荒川の崖の上に建てられた、札所20番、法王山・岩之上堂で、低い蹴上がりに踏み面が低い石段は、花を見ながら下るのに、程よく、納経所の小坊主の案内に、順番を待つ間、椅子で小坊主に声をかけた。手を下げたら・・!と。・・・・・まっ、いいか。秩父札所で一番古い堂宇、1400年代、いよいよ戦国時代の頃。堂宇の名の由来は荒川の崖の上ではなく、苔むし、荒廃しきったこの地に、聖観音が、岩の上に置かれてた、ところからです・・と。観音開き、向拝たたきから、土間になる内部は、格式を超えて何となく、親しみやすい。須美壇の上に、母たちが、夜なべで子供の成長を願って、子猿の姿に似た瓔珞の奥に、荒川の川向うに住む病の母を、見舞う子に大雨の日に舟はなく、途方に暮れた時、小舟。観音様が子の願いを叶えて、母の元へと...岩の上に観音様が、岩之上堂。秩父。

  • 子育て婆さん、龍石寺。秩父。

    秩父札所巡りをしてを始めて3日、秩父へ着くのに2時間、巡礼は地元の民宿なりに泊まり、開門時刻に合わせて、訪れるのがいい、と思いながら、市内を外れて秩父の古代に触れる、札所19番飛演淵山・龍石寺。巨大に岩に建てられた、堂宇の前の岩盤に、あぶちゃんをかけた、身代わり地蔵さん。👇観音堂が建つ盤石は、約1600万年前に上昇した外秩父山地から、流れ込んできた角礫質砂岩。境内の岩は、かつて荒川の川床だったところ。観音様、千手観世音は室町時代の歴史も、そりの大きい宝形型の建物は、昭和47年、信者が浄財を集めて建立したものです、と。このそりに、相撲の貴乃花さんの土俵入りで、きれいに足を上げ、柏手を打って広げる手の姿に、似てる・・と妙に思ってしまった。👇三途婆堂には「三途の川の川辺で死者の服をはぎとる、奪衣婆(だついば)の座像」...子育て婆さん、龍石寺。秩父。

  • 巫女のお告げに、白道山・神門寺。秩父。

    ゲンチアナ・アルペンブルー👆👇の、目の覚めるような青さを以ってもコロナワクチン接種の好転反応は、眠い、だるい。30日午前に打って、当日の夕刻は爆睡、翌日は輪をかけてのだるさ、眠気。で、昨日は朝からすっきり、シャカリキ。好転反応の短さに晴れた空、ビール、どんぶりに入れ、ぐふふ!結局早めに寝てしまった。歴史ある寺社の資料が、火事で燃えてなくなるというのは、関係者の人たちにとって、どれほどの悔しさであろうか。札所18番、神門寺(ごうど)には、擬宝珠の1858年と、絵画、書道、詩文にも優れた秩父生まれの、森玄黄斎さんの御詠歌の扁額が、時代を知らせるだけ、向拝の彫り物は彫刻にも、たけた森玄黄斎さんと、思うのに、眺めては想像の世界。伝えに、ここは神社とのこと、荒廃で亡くなり、村人たちが惜しんで、神楽を奉納してたら、霊感巫女...巫女のお告げに、白道山・神門寺。秩父。

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