chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 散歩、玉村八幡宮 ③-② 髄神門。群馬県佐波郡。

    まもなく明治、神仏混淆時代の、1865年に造営した隋神門、三間一戸の八脚楼門で高欄付き。神仏混淆時代は、仁王門と称していて、仁王像が立っていたという。今は隋神が安置されていて・・。👇振り返れば、こじんまりとした髄神門、👇髄神門くぐれば、室町時代の建築様式の拝殿に、朱で化粧した神社が見える。👇楼門の大工は、越後国中之嶋の浅野喜内藤原長正さん。彫り物師は、武州熊谷宿玉井村の小林栄次郎さん小林栄次郎さんは、榛名山の榛名神社の双竜門の扉、北野神社の木鼻を彫った、小林(長谷川)源太郎正俊さんから、2代目の彫り物師。小林源太郎正俊さん石川雲蝶さんに誘われ、新潟まで行き、その後、関東に戻ったという噂もあるけど、源太郎さん当時、生きてれば76歳の時の髄神門、栄次郎さんの、この彫り物を眺めていたかも知れない。怒涛のように迫...散歩、玉村八幡宮③-②髄神門。群馬県佐波郡。

  • 春のとくい技は道草・・玉村八幡宮 ① 群馬県佐波郡。

    朝廷から神への毎年のささげ物を指す例幣を納めに、派遣される勅使。その勅使が通ったのが、高崎・倉賀野宿から始まる、日光例幣使街道。本陣1軒、問屋2軒、旅籠は50軒と、大きな宿場だったという2つ目の宿、玉村宿・・。本殿は国の重文、末社・国魂神社は国の有文指定されて、例幣使街道脇に鎮座する、玉村八幡宮は、戌歳、亥年生まれを守る神社でした。そんなこと知らず訪れた私、奇しくも、亥年生まれ。👇駐車場の看板が、何ともこそばゆい‼👇背高の楠木の御神木は根元が二股になってて、通称・夫婦楠木と呼ばれ・・。髄神門をくぐれば、道草の世界。👇5月生まれの私、ウゥ~ン?すずらん、すずらん?。煩悩も悪行も払えない無骨者の私には、ちと、似合わない、似合わない。けど・・・じっくり看板を読んでた・・。で、十二支、性格早見表まで見てしまい・・...春のとくい技は道草・・玉村八幡宮①群馬県佐波郡。

  • 秩父札所道。結願・水潜寺。

    秩父三十四観音霊場は埼玉県秩父地方に広がる全長100kmほど。起源は、1234年のことで、閻魔大王・倶生神・花山法王たち、13人の聖者が秩父の魔を破って巡礼し、お堂を建てたのが始まり札所33番から歩けば3時間ほど、秩父札所34番・結願霊場の水潜寺すいせんじ私のブログ、秩父札所道は、今日で終わります。実際に訪れ、再度机上で巡りましたが、宗教に心を置いてる人と、カメラを持って半分興味本位で巡るのでは、札所巡り、重みはかなり違う・・そう思わせられることもありました。👇秩父札所33ヶ所にある観音像。東京葛飾から7回目を歩いて結願した男性。ひょうひょうとして、多くは語りませんでしたが、8回目はどうするか・・・と。疲れた、これで帰りますと・・・。何でもかんでも観音様に見えた、秩父札所巡りでした飾りをつけて・・ウン秩父札所道。結願・水潜寺。

  • 秩父札所道、法性寺。

    秩父札所31番、観音堂から車で20分ばかり、32番、般若山・法性寺は、花がお寺とありましたが、2021年6月11日、花を探せなかった。行基さんが開創したというから、1300年の歴史を持ってるわけで・・。👇法寺寺は般若山・般若川の傍、堂に般若の面が飾られてた。小舟に乗り櫂を持つ聖観世音菩薩が、ご本尊・・興味があったのですが、見れませんね・・。👇東国花の百ヶ寺、赤いみつばつつじがちょっぴり、残ってて、👇戦の神様・毘沙門堂👇1707年に建立された観音堂。ひょうひょうとしたお詣りの彼は、秩父札所巡り7回目だと語る。聞いたのは、結願寺34番、水潜寺でいろんな話を聞かせてくださった。堂の後ろの岩場には👇子授け地蔵後ろの乾いたひょうたんのような穴は、「タフォニ」と呼ばれるもので、岩石の中の塩類が表面に染み出し、結晶化し...秩父札所道、法性寺。

  • 1700万年前の岩肌、秩父札所道、鷲窟山・観音院。

    👇石造りの仁王は“石造り”では日本一の大きさ。台座を入れると4メートルを超える。👇石段の数の296段は、般若心経“276字”と普回向(ふえこう)“20字に合わせて。👇凄い人がいた。秩父郡皆野町、いくら地元の人と云っても西国も高野山も・・‣秩父34霊場のなかで、もっとも険しい難所に建つお寺、奈良時代の僧・行基668-749年の作とされる、聖観音像が祀られているという、観音院がチラリ・・👇嬉しいのは、本尊を拝む前に、必鐘を撞いてくださいと、張り紙が・・・秩父札所31番・鷲窟山しゅうくつさん・観音院1893年に焼失した本堂、長い間、仮堂から1972年に再建された本堂17000万年前海底で小石や砂が積もってできた礫質砂岩が隆起した秩父地方に真新しいシャープな堂なんだか地質の方に眼が云ってしまい・・・・・1700万年前の岩肌、秩父札所道、鷲窟山・観音院。

  • 春は、姫踊子草から。楊貴妃を祀って法雲寺。秩父札所道。

    秩父、八津川渓流から熊倉山への道の途中に、秩父札所30番、法雲寺。1319年、鎌倉・建長寺の道隠禅師が唐から持ち帰えり、奉納した如意輪観音像は、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の供養のために自ら作ったものだという。👇2021年6月11日、緑深くなり始めた樹木の葉っぱ。👇アブチャンのデザインもまた洒落ていて・・👇奥秩父、本堂から納経所を俯瞰して・・👇秩父札所の観音堂、どうしてこんなに焼失してしまうのでしょうね。👆👇👇この花で春になったと思う借地にある農道に所せましと咲く、姫踊子草おけさ笠を着けたら・・‼とそんな絵空事に、片肘ついてる日曜日明日から1週間の出張都会を離れる嬉しさ気分はウキウキ、落ち着いてられないウン‼春は、姫踊子草から。楊貴妃を祀って法雲寺。秩父札所道。

  • 高尾山の花、わたらせ渓谷の猫で、秩父札所・橋立堂。

    百合山葵👆の咲いてた、去年の3月8日は、高尾山で花を追いかけてた。だるさを感じる身体になったのは、この辺りから。今年の8日は雪。疲れを知らない、怪物と揶揄されるのに、出かけない事、尻に根が生えてる・・・。👇ハナネコノメソウ👇この写真の後、彼は転落する羽目になり、私は、大変な時間を彼に取られました。もう50数年前、無職になった私、フランス言語学を専攻した友人に誘われ、秩父・橋立川で、山女魚、岩魚を脈釣り技法で、ワンカップ。秩父鉄道、始発池袋から乗り、浦山口で降りれば目の前、浦山川に流れる支流橋立川。その川沿いに橋立堂。当時は社寺巡りなど思いもしない、若造でした。彼がフランスに留学してから、プツリ。秩父が遠かった。橋立堂は3度でしたが、ここへ来ると、彼の釣れた、釣れたと喜ぶ無邪気な姿が、いつもフラッシュバック...高尾山の花、わたらせ渓谷の猫で、秩父札所・橋立堂。

  • 秩父札所。大淵寺・月影堂。

    秩父の盆地を一望できる所に建つ、高さ15mの護国観音像。秩父札所7番・法長寺の住職であった、町田兼義氏の発願によるもので秩父、昭和10年に開眼しました。高崎観音・大船観音と共に、関東三観音の1つにも数えられていました。琴平丘陵ハイキングコースをたどって、徒歩で約1時間くらい。3年前、まだかくしゃくとして・・ましたけど‼👇銅鐘と鐘楼は、昭和46年、秩父出身の小学生の頃、1升のご飯を食べていたという若秩父という相撲取りがいて、第51代横綱・玉の海一行による追善大相撲を記念して、寄進・建立したと・・。自然の湧き水で年間渇水することがない。この水を飲むと33ヶ月長生きすると昔から言い伝え。あやかって、ゴクン‼今度飲んだらまた33か月・・・ハイキングの後だったから、冷たさがなおさらでした。👇大正8年、本堂は蒸気機関...秩父札所。大淵寺・月影堂。

  • 秩父札所道、尾根づたいに。岩井堂。

    秩父札所26番の円融寺、訪れた2021年は、改築中でした。👇このお寺辺りから、順路は、自然の中を歩くようになります。懸造りの岩井堂と呼ばれる観音堂まで、石段を数えながら、今までの札所巡りとは、様相が変わりました。👇約300段、江戸中期に建立された懸造り。本尊、今は円融寺の本堂に祀られているのですが、秩父札所道、奥の院、立ち寄りたい観音堂でした。👇堂の裏の崖、弘法大師がここが霊地だろうと、壇を築いて37日の間、秘法を修行し、成満したその日、紫雲がたなびき、異香が香って、観音様が現れたという。👇尾根づたいには、琴平神社の修験道があって、👇傍には坐像の観音さんが・・。更に尾根づたい、鎖場の巌を登りきると、いきなりの観音像で、市内の景観を眺めながらの軽食です。👇一服後は下る一方、6月21日の紫陽花が。👇札所27番...秩父札所道、尾根づたいに。岩井堂。

  • 鬼畜の母を想った娘の、久昌寺。秩父札所道。

    深夜、ディズニーのアラジンの映画を見た。寝不足、しょぼしょぼ目ですが、朝から太陽を浴びてると、苦すぎるコーヒーも美味くって・・。秩父札所道、今日は長瀞、宝登山参道で「長瀞祭り」生憎、行けない。3月の予定に組み込んでたけど・・‼秩父札所25番、久昌寺きゅうしょうじ。のどかな里の景色、せこせこしてる都会の生活、なんか気の毒になってくる。👇仁王門の扁額に「御手判寺」秩父巡礼の13権者の一人性空上人が、閻魔大王から「石の手判』をここへ納めたから、と。👇ウン‼久しぶりに見た筋骨隆々の仁王さん。この日、2021年6月6日、小雨の観音堂👇質素でも、なごむ手作りの天蓋。‼聖観世音菩薩が祀られ、閻魔大王もいる堂内。👇地蔵堂堂の傍に、柔和な顔した、奪衣婆がいる。現世とあの世の境目、三途川の渡し賃は6文。6文無ければ衣服剥ぎ取...鬼畜の母を想った娘の、久昌寺。秩父札所道。

  • 武蔵国・恋ヶ窪の遊女を結んだ、法泉寺。秩父札所道。

    平安時代に名付けられた恋ヶ窪村、武蔵野から鎌倉に通じる宿場町、東京多摩地方は、国分寺市。秩父から修行僧が1本の楊の枝を持って、口中の病に悩まされていた、恋ヶ窪宿場で働く遊女に渡した。『楊のこの枝で口中をそそぎなさい』と。教え通りにした遊女の痛みは、消えて、観世音の信仰はさらに深くなったという。秩父・法泉寺の伝説。恋ヶ窪の遊女・・名は夙妻太夫(あさづまだゆう)遊女に恋をした、源頼朝に仕えた秩父の庄司・畠山重忠との、一途な恋に『重忠は戦で討ち死にした』という、横恋慕した男の嘘から、池に身を投げた遊女の亡骸を、憐れんた村人は、手厚く葬り墓印として松を植えた。その松・・・夙妻太夫の深い悲しみで、一葉に。後、戦いで勝利した重忠は一目散、太夫をのもとに・・、太夫の死を知って、魂を慰めるため、金仏様を造らせて弔ったと伝...武蔵国・恋ヶ窪の遊女を結んだ、法泉寺。秩父札所道。

  • 風の音、鐘の音、全国に轟いた民の音。23番・音楽堂。秩父札所道。

    息の切らして登り切る石段に、納経所の休息場が救いの、秩父札所23番、松風山・音楽堂。秩父谷からの風が、心地よく、秩父34札所を開設した、13権者が、松風が音楽だと感心し、音楽寺にしたという。音楽、現代的な響きの言葉、漢字の起源は中国で、秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した、『呂氏春秋』という書物に、記録されてるという。万葉集にも、風土記にも字面はある、と知ったけど・・・。👇コロナ禍の2021年5月3日、皐月の垣根の坂道、行き交う人たちとの挨拶も、首を縦横にして。登りきると、水屋、鐘楼、地蔵さんが、こじんまりと配置されてる。仕入れた知識、ここが秩父事件を繰り広げた、出発点かと思うと、感慨も深くなる。1884年(明治17年)国が提唱した、輸出で豊かな生活が出来ると、製糸の副業に民衆は、高利貸しからも、多額...風の音、鐘の音、全国に轟いた民の音。23番・音楽堂。秩父札所道。

  • 江戸の夫婦が建てた童子堂。豆腐がない。秩父札所道。

    寺伝によると、807年、伊予親王(淳輪天皇の弟)の菩提を、弔うために遍照僧正がこの地の領主に堂宇を作らせたとある。旧蒔田村・清水谷の山奥に草創され、花台山と呼ばれ、915年、村の子供たちの間で疱瘡(天然痘)が流行し、寺の場所を移すよう観音様からのお告げがあって、里たちの住むこの場所に移して、観世音に平癒を願ったら、天然痘は威力を失い、以来、病魔に犯された子供は、観世音に祈って救われて以来、童子堂と呼ぶようになる。誰が彫ったか、子供にも好かれるフォルムで、仁王像。👇広い寺域の仁王門の虫食いの柱や、猫(?)肉球もまた素朴で、好物のネギに挨拶すれば、藤棚、右手に堂宇が。👇江戸中期・1701年、江戸の田井三右エ門弘祐と、その女房、お銀が施主となって、秩父府坂峠の地に再建したもので、1910年、この土地に移築された...江戸の夫婦が建てた童子堂。豆腐がない。秩父札所道。

  • 今日の雨、眺めて、観音寺。秩父札所道。

    秩父札所20番の緑ある岩之上堂から、21番に向かう、小道。この辺りから山村風景、秩父の山々を眺めていると、札所巡りのリズムが少しずつ、のろくなります。自然とそうなります。額の矢之堂、昔、この辺り秩父郡矢納村と呼んで、矢納が矢之に転化したものと云われ、亦、御堂の建立に反抗し、堂に火を降らせる悪ガキを、八幡宮が矢を以って、退散させたという謂れもあり、度々、火災に遭って、観音堂の寺歴は焼失したという、札所21番・観音堂です。ニワトリは、近くばかり見てるから鳥の中でも、一番視力が悪いという鷲や鷹は、50メートル離れた蟻をはっきり見ているというあやかりたいですね半年ほど点眼しなかったら、パソコンの文字が、踊り始めてひとつになったり、重なったりこれから、眼科で薬の調達です今夜、また今日の雨、眺めて、観音寺。秩父札所道。

  • 岩之上堂、時にはゆっくり散策。秩父札所道。

    札所巡りをしていると、なぜか、ここでゆっくり骨休みをしていたい、と、思わせるお寺があるものです。ここ札所20番・岩之上観音堂がそうでした。今は、頑丈で近代的な橋がありますが、昔は19番札所から、ここ20番までは、市内(村内)を流れる、荒川を渡し船に乗って、荒川を晴れた日は、3文の船賃、雨の日には5文、15文と天候に合わせて変動乗船料。荒川の岸壁にあるから、岩之上堂。兵乱で本堂が灰燼となり、里人は離散し、ここを通った人が、岩の上に有った観音像に手を合わせたから、岩之上堂と名付けたのか。至る所に無造作な植栽。眺めているだけで、疲れが取れる。不謹慎ですが、御利益は、観音様の教えだけでない、と、つい・・・。秩父札所で最も古い堂で、堂を守る人がいて、堂は先祖の方が25年かけて造ったという自然に囲まれた、札所20番・...岩之上堂、時にはゆっくり散策。秩父札所道。

  • 能登の魂、キリコは燃えていなかった。北國新聞。

    『キリコは能登のシンボルであり、祭りは生活とも密接に関わっている。祭りができなくなってしまうと、みんなの心が折れてしまう』1月1日の能登の震災、家屋の崩壊、地盤の隆起、道路の亀裂、火災・・火災で焼失しなければと願った、キリコ会館。約30基が保管、展示されていて、20基が壊れたと。職員も被災したため、これまで詳細な被害を、確認できていなかったという。2月18日午後2時、北國新聞と職員たちが、キリコ会館に入って、1枚の写真を公開。職員たちは、暗闇に懐中電灯を照らしてみた光景に、言葉を失い、『あの日以来、展示室に入るのが怖かった』『地震は日常だけでなく、能登の魂まで奪うんか』と、5、6メートルのキリコが行く手を阻むように横倒しとなり、漆塗りの担ぎ棒には痛ましい亀裂が刻まれていた・・と。北國新聞の写真は、下の写真...能登の魂、キリコは燃えていなかった。北國新聞。

  • 悪龍を押し込んで、何百年。秩父札所道。

    人間、一丁前になるのには石の上にも3年だとか・・・ここ龍石寺の室町時代に彫られた、千手観世音菩薩は、何百年も、荒川の洪水の害を引き起こす、質の悪い、龍を岩盤に押し込んで、秩父盆地の平安を守ってきたという。岩盤は、放散虫や、放散虫・海綿動物などの、殻や骨片で構成されてるから、昔、ここは、想像できないほどの昔は、海の中ということですね。シャープな宝形造りの観音堂は、1973年に再建されたもので、堂宇内には、本尊と閻魔さんら15体が並んでる。三途婆堂には、赤ん坊の人形を置いてて、旱魃や水害で、亡くなった幼子を、奪衣婆が守って、成仏できるようにと、母の願いが、伝わってきます。市内を離れて、盆地景色を目の前に、奪衣婆と兄の閻魔大王、地獄の仏様たち、密教の暗さを暗示して札所巡りの観光気分も半ば、身が締まる思いをさせる...悪龍を押し込んで、何百年。秩父札所道。

  • 巫女、鶴の一声の18番・神門寺。秩父札所道

    かなり昔の話だと思う。境内の大きな榊の枝が右、左に分かれて、門のような形になった当時、里人はここを神の門と呼んで、神社だったと。榊が枯れ、堂が寂びた頃、神楽を奉納して、再興を願う里人たちの前に、巫女が現れ、ここは、寺院の方が栄えるとお告げした。以来、寺院となって永久札所18番・神門寺となる。車を止めた大通りには、食品スーパーが、家電販店が、ホームセンターが、蕎麦屋さんが、民家が寺院を囲むように密集していて、狭い境内の納経所では、梅茶が出て、休息場は別棟にあって、ほんのりした、札所。👇扁額にある・玄黄斎さん(1807-1886)地元、三峰口あたりの森家の入り婿になった、江戸後期-明治時代の根付師で、絵画、書道、詩文にも優れたマルチ芸術家だったという。細密彫刻にすぐれ,大黒天の根付けに、1000匹の鼠を彫った...巫女、鶴の一声の18番・神門寺。秩父札所道

  • 秩父、与太郎河童の散歩。

    アムール・デェ・ショコラ?ウン?アムール・デェ・ショコラ。これからの日程を考慮して、休みの先取りで見た、テレビ。チョコレートに10万円も使う。ただ、只びっくり。2月12日、秩父に出かけました。秩父札所18番の記事の下書きで、記憶にない仏像のファイルがあって、中断。それ行けぇ~は、札所18番の神門寺へ。記憶から飛んでた仏像のフォルダーは、やはり18番。この頃、記憶が飛んでて、困る‼空いた時間は、秩父美術館へ、骨董屋に寄って、西武秩父駅の『祭り湯』で、昼食、秩父ミュージアムで、市内を俯瞰し、夜は亦『祭り湯』へと。ここで食べた、豚肉の燻り丼、大盛りにすればよかった一品。👇仲見世4人掛け、6人掛けのテーブルに一人は、気が引ける。昼食夕食も、トレーを以って、あっちか、こっちか・・と。事務所・担当職員6人に土産。隠密...秩父、与太郎河童の散歩。

  • 秩父ミューズパーク、ちょっとだけ散歩。

    昨日秩父まで散歩。遠出していいとなれば、じっとしていない、尻軽さは、天下一品。👆雪の武甲山を始めて見ました。秩父ミューズパークなんぞ、へ。でも、なんだかなあ~、このような行楽地に、爺さん一人、さまになりません‥ね‼縁結び、愛を永遠に.......なんて私もラブレターで書いたこともあった、けど・・・。ちょっとだけの秩父市内を見れたことを、ヨシ‼として。日暮れにじっちゃん、ひとり、心配される前に、そろそろ帰えります。帰りは2時間、賄も面倒今夜の腹ごしらえ…は昼食で立ち寄った、西武秩父駅の仲見世で雰囲気は、次回に秩父ミューズパーク、ちょっとだけ散歩。

  • 秩父札所17番・定林寺。あの日見た花の名前を、ぼくたちはまだ知らない。

    👆武甲山を正面にして、帰路に就いた、2021年5月2日。札所巡りの復刻記事は、今ようやく半分。固唾をのんで只、呆然させる社寺に出逢うと、歴史的記録の為の検索も、聞き取りも、何もいらない‼と、思ってしまう。そんな札所17番・実正山・定林寺は、別名・林寺と呼ばれて、建立した林家は、秩父神社のお触書を村に伝える“触役(ふれやく)”を務めていた家柄とのこと。回廊の、千社札見てると、参拝者の姿が浮かんできます。~千社札フェチです~作品のファンにとっては聖地『劇場版・あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』予告編遠出の許可を頂いたもののいざ、現実になると気が抜けて、抜けすぎて好奇心への緊迫感は、どこへ行ったものか今日はだらり、だら~~りまッいいッか‼秩父札所17番・定林寺。あの日見た花の名前を、ぼくたちはまだ知らない。

  • 秩父札所道、中心地の霊場、西光寺。ちょっと報告も。

    秩父の中心街、秩父神社前の町並みを見たのは、2021年5月2日。寺域を囲む白い土壁が、綺麗だった、札所16番・西光寺。2本の柱に、切妻の屋根を乗せただけの、棟門をくくれば、参道の樹木が、お堂が霊場の落ち着きを漂わせる。1710年に本堂が落成するまでは、👇札所に千手観世音菩薩を安置されてたという。柱には、千社札が打ち付けられた無数の釘穴がそのままに・・。西光寺が落成したのは1736年ごろ、堂の正面の欄間には、釈迦の涅槃像の彫刻が見え、動物や弟子たちも彫られてる。回廊堂は、四国八十八霊場の砂場があり、特別に作ったのは、1783年、浅間山噴火で亡くなった人達の精霊を慰めるため住職が浄財を集めて10年後に造った回廊。回廊の出口に地蔵さん。30石樽の中に大黒さん。ここでは商売繁盛の後利益と、参拝者の名刺がぎっしり。...秩父札所道、中心地の霊場、西光寺。ちょっと報告も。

  • 堀文子画伯、82歳でヒマラヤの芥子の花を描く。

    昨日午前、4メートルほど幅の道の雪かきをしました。若手4人と、私ちょっと年配とで。息を切らして、手を休める若手、身体を動かすことを苦としない私。おッ‼まだいける・・。晴れ晴れした気分に、堀文子さん描いたねヒマラヤの芥子の花が浮かんだ。82歳でヒマラヤ4500メートル付近で、見つけた、20センチばかりの芥子の花。堀さん、旅先はひとり、事前の調べもしない、行ってから驚く。体験主義者だという。「息の絶えるまで、感動していたい、それが"現在いま"という時間なのです」群れない、慣れない、頼らない世の中は目立つものだけで成り立つのではない名もなきものが世界を支えているそのことに堀さんは刺激を受け、筆をとった82歳でヒマラヤへ行き描いた芥子の花100歳で亡くなってから6年5年まえ箱根成川美術館で見た、芥子の花の絵82歳...堀文子画伯、82歳でヒマラヤの芥子の花を描く。

  • 秩父札所15番、ひよこ色の花に少林寺。

    昨日の雪、仲間が日本橋に出かけて午後4時に離れた。高速は早々と閉鎖、挙句に甲州街道も閉鎖して、帰宅したのは11時、7時間かかったと。主要幹線2つとも閉鎖、どうして?とぼやくことしきり。👇参拝するのに、正面から入らず、駐車場からショートカットで、境内に入る河童の無神経さ‼👇ちゃんとした門があるのに・・。1878年の火災からの教訓からの、明治の館のような漆喰のお寺。秩父札所15番・母巣山₍藏福寺の山号₎・少林寺。かつて、秩父神社に有った、札所15番だった蔵福寺、廃仏毀釈で廃寺になるとき、藏福寺の住職は、近在のお寺たちに、仏具を振り分けてた。十一面観世音菩薩様は、今もそのお寺さんにある。住民は、消える15番札所を維持するために直訴、ここで少林寺を15番札所にした。👇「五葉山少林禅寺」という名前のお寺というでした...秩父札所15番、ひよこ色の花に少林寺。

  • 秩父札所道、時代に翻弄されて今宮坊。

    今日の雨、明日の雨、春はそこまでの知らせの雨・・・けど・・・さむい‼平安時代、貴族が遠くの寺や神社への、参拝が広まり、参拝の前に身を清めるために、宿坊が・・・観光の始まりは、この時代からでしょうか・・一般庶民も観光気分で寺社参拝に、出かけるようになった江戸時代、宿坊は顕著に整備され・・1750年、御開帳の午年の記録では、正月から3月21日までに、4万余の参拝者で、秩父領16ヶ村の人口1万7千人余の時代、受け入れも容易ではなかったという。ここ今宮坊辺り、秩父にある修験道場の中でも中心だった道場でした。1872年、修験禁止令が出て、いま、こじんまり無住になって観音堂が・・👇1569年、武田信玄の秩父侵入で戦場になった、秩父の社寺は、焼き払われてしまう秩父神社も、吉田椋神社も、廣見寺などことごとく、1038年か...秩父札所道、時代に翻弄されて今宮坊。

  • 小泉稲荷神社 群馬県伊勢崎市。

    👆誰が名付けたか、私を野に咲く襤褸ぼろ菊という。野襤褸菊のぼろぎくちぎれた冠毛が布のぼろ切れに似てるからだという。畑地では、強害雑草と嫌われているというけど、筒を割いてみればも、どんな花より目を引く、光沢のある、細い冠毛がびっしり。👇1月28日、仕事の合間に訪れた、群馬県伊勢崎市の、ちょっと長い記事になりますが・・小泉稲荷神社。売店で買った油揚げと、車に戻って宿での晩酌用の酒を、供えて柏手、パンパン‼鉄製の鳥居が300本ばかり、この日は日曜日で大安、上着もいらない陽気に、七五三の少女もいて、第10代崇神天皇の時代(古墳時代)に、毛の国開拓の祖神とされる豊城入彦命が東夷征討の折、山城国伏見稲荷の分霊を祀り、創建したと言われる小泉稲荷神社とありますが、はっきりした跡があるのは1864年、この神社に奉納された、...小泉稲荷神社群馬県伊勢崎市。

  • 秩父札所道、パッション地元民の慈眼寺。

    札所12番野坂寺から車で5分、秩父市街地に13番慈眼寺があり、2021年5月、コロナ禍にあっても、お花畑駅から2分というアクセスに、参拝者は多かった。1486年から本堂は、明治11年(1878年)の秩父大火で、焼失したが、明治34年(1901年)に、一番四萬部寺の本堂を模して再建された。広い敷地にこじんまりした本堂、この本堂の再建には、地元民の地道な努力があったという。山門をくぐると右手に経蔵があり、一切経1630巻が納められた輪蔵があり、まわすことで一切経の功徳にあずかれる。秩父札所の縁起で開創者と伝えられている、十三権者(じゅうさんごんじゃ)の木像も安置されている。十三権者の下には、秩父札所の1番から34番まで、廣重・豊国が描いた、観音霊験記の版画絵が掲げられてる。秩父札所道、パッション地元民の慈眼寺。

  • 伊勢崎市 小泉稲荷神社 さわりだけ。

    久しぶりにカメラを持ちました伊勢崎市、小泉稲荷神社。参拝者が一杯人恋しい今、仕事の合間の4時間今日帰京、とりあえず元気の証。4枚枚だけです伊勢崎市小泉稲荷神社さわりだけ。

  • 秩父巡礼道、花の野坂寺。

    昨日、仕事を終えて、相撲を見てるうちに眠くなって、10分ばかり寝た。ネギと、舞茸と椎茸を切ってを炒め、鶏肉を入れて煮る。いつもより濃い味にして。どんぶりに飯を盛って、簡単な鳥丼。ノンアルコールはここんとこ定番。キムチを傍に食い終わったら、猛烈な眠気はそのまま朝まで。ステロイド錠、4錠から3錠にになっただけで、こんなに眠れるものか・・と、8錠の時の覚醒が嘘のように。副作用は、ハゲ・・になりかけている位で。夜中の足の突っ張りは、長湯でやや解消。今日の経過観察検査で、2錠になるかどうか・・・。👇秩父札所12番・野坂寺、秩父中心街にあって、花の野坂寺の触れ込みで、観光客が多いという。それを知ったのは、詣りが済んだ後。今年は、折を見て訪れてみたい秩父札所12番・野坂寺です。👆明治39年の火事で焼失した本堂、昭和48...秩父巡礼道、花の野坂寺。

  • 野坂寺①、楼門の彫刻の牛。秩父巡礼道。

    「鬼秩父」と呼ばれた太織(ふとおり)という、織物、稲作耕が難しかった、山国の秩父の住民は、自然の悪条件を克服して、野良着の織って生活の糧にして、緻密で堅牢という特質は、庶民から武家たちにも、重宝されるようになり、全国に広がったという。今、技術を重ねてたどり着いた、玉虫色の輝きの、秩父銘仙。道の駅・あいがくぼ、辺りでも、さらり、溶けてしまいそうな、感触の秩父銘仙を、買うことができる。のに、機会織りが出来ない秩父銘仙、職人が、昔ながらの機で織る工房は、3店舗ほど。失いたくない機織り伝統工芸。桜並木が過ぎると、白い塀に囲まれた、札所12番の野坂寺の、1735年に落成した楼門が見えてくる。花頭窓からカメラレンズを押し込む無頼を、閻魔大王が赤い顔して、写真を撮るなら、本尊に手を合わせてからしろ‼マナー違反は♬釜茹で...野坂寺①、楼門の彫刻の牛。秩父巡礼道。

  • 秩父巡礼道。市内を一望する常楽寺。

    👆正面の肌色の建物はヤオコウ、その向こうは秩父市内で秩父駅は直線を結んで線上辺り。この近辺にいくつもの札所があり、札所以外の社寺も一杯。札所と関係ないけど、最近戻った、味覚障害の弊害・・・どんぶり飯のあと、もう少しと・・つい、立ち上がろうとする。札所11番は、山の中腹にあって、ここも明治の大火の煽りを受けている。それまでは、仁王門があったと云う。開基した、門海上人が、仁王門を建立半ばで、邪気に襲われ、薬の効果もなく、本尊に祈願したところ、金剛神が現れ、上人の手に触れると、たちまち元気になったという。👇秩父札所で見る、絵、秩父市宮側町、駅前近く、明治33年からの「浅賀ちょうちん店」の4代目?店長夫人、浅賀三千子さんが、1988年から25年かけて描き、三十四箇所すべてに奉納した額。参拝者を誘導する、道端のシャ...秩父巡礼道。市内を一望する常楽寺。

  • 大慈寺石段でアニメの乃木坂46。、秩父巡礼道

    1883年、全世界が恐慌に落ちた時代、秩父人たちも、困窮に陥ってる時、447棟の家が焼失した秩父の大火では、1191年、明智禅師が開創した明智寺も類焼してしまう。後、100年近く仮堂だったのを、地元の人たちの働きかけで、1990年再建した、秩父札所9番明智寺は、こじんまりと。👆は、境内近くから撮った武甲山。横瀬の里に、貧しい少年と盲目の母がいて、観音様のお告げどおりに、小堂で観音経の二句を唱えると、母の目が開いて、目が見えるようになったと・・。御朱印を頂いてから次の札所10番・大慈寺までは車で5分、歩けば30分、焼失したころのイメージを浮かべられるのに‥と。近くの農家の空き地に、車を置かせていただいて、武甲山の景色。平安時代の天台僧・恵心僧都・源信(えしんそうず・げんしん)作「聖観世音菩薩」を観音堂を建立...大慈寺石段でアニメの乃木坂46。、秩父巡礼道

  • 秩父巡礼道、行き交う人も少なくて。

    傘の柄、握る人たちの手に手袋、寒い日曜日の朝です。札所6番・卜雲寺から徒歩で約15分ほど、秩父札所の建造物では、現在は最も大きい観音堂。言い伝えでは医者にして発明家、平賀源内さんの設計だとか。けど、あり得ますね・・・源内さんは秩父大滝村中津川の自宅を設計して、執筆している訳で・・法長寺の境内のある観音堂は、♬牛伏堂(うしぶせ))とも呼ばれて・・・。👇一説では、この医師の下に、観音様がいたという?ここまで、一日7札所を巡り、今更ずいぶん急いだともんだと思って、今日、急げばいいって、もんじゃない・・・と、あきれ、減塩食パン一枚、キムチを乗せてペロリ‼2021年5月2日、1日おいて、さらに札所巡り。八王子から秩父までは3つの山を越えて、2時間。山道のシフトレバーの操作が、心地よい緊張感。この日の報道に、コロナ、...秩父巡礼道、行き交う人も少なくて。

  • 秩父巡礼道の、あの子は今?

    明日から3錠。ステロイド剤4錠になった先週、8錠の時には、1時間の睡眠で仕事場に行き、次の日は眠れず不眠で出掛けたて疲れを知らなかった、のに、最近は、眠りが誘う。平均4時間から5時間。この睡眠がたまらなく、嬉しい。阿波踊り、女踊りの手の拍子を、つい振り付けてしまう。体力の衰えをカバーするのは食事、半端ない量。にぎり数個で駆けずり回ってたころが、信じられない。この劇薬の副作用の一つ、頭の毛が薄くなってきた、育毛剤の世話になるのも、遠からじ。けど、きっと買わない。骨がもろくなる、手足の硬直が頻繁で、ずいぶん悩ませた。後は異常はないけど・・・少しだけ、デブになった。2月の半ば過ぎ、カメラを持って出かける姿を描いて、今は、じ~~~っと‼子どもと眼が合った。私もこんな時があった、この年代の子も育てた。そっと撮ったの...秩父巡礼道の、あの子は今?

  • 秩父巡礼道・金昌寺、浅間山噴火の人たちの石仏像。

    秩父の地元に、乱暴者で腹をすかせた男がいた。名を荒木丹下。巡礼の娘に、仏に備えるくらいなら、我に飯をくれ・・断った巡礼は、荒木にうちのめされる。観世音菩薩が、巡礼の娘に身を変えた、人は神の末なれば、人たるを踏むのは、神を踏むと一緒。仏は自他平等を説いている、懇々と説教。荒木丹下、心をあらため入道になって、観音堂を建てる。という、秩父札所4番、金昌寺の縁起。江戸時代になると、短い日数、少ない費用で、経済力のついた町人たちは、巡礼を名目にして秩父を訪れた。宿に泊まれない人たちは、民家の一杯の酒をご馳走になり、旅の疲れを取り、翌朝早く、次の札所に赴く。裕福な江戸の町民には、秩父札所巡礼は、格好の云いテーマパーク。2階には、西国33カ所札所の観音像、羅漢が並んでいて・・・。境内には無数の石仏。廃仏毀釈以前には、3...秩父巡礼道・金昌寺、浅間山噴火の人たちの石仏像。

  • 春菊と切り餅 & 秩父巡礼道。

    真夜中、空いた小腹に、切り餅2個半分に切って、バターを乗せ日本酒を少し、春菊を3本ばかり細かく切ってまぶし、レンジで1分30秒。減塩醤油で・・・友は剣客商売の漫画をパラパラ・・・。秩父札所2番真福寺から、歩けば1時間、田んぼと山に、オアシス・花があちこちの道端に・・・。当初は高篠山の中腹の岩窟に所在したという、秩父札所3番・常泉寺。1234年(文暦元年)3月18日、覚了和尚が開山したという・・。観音様は、本堂には無く、市内の秩父神社に在った、薬師堂を移築した堂の中に。秩父神社の建造と同時期なので、1592年頃の堂。秩父の人たち、自然への崇拝は強く生まれた土地の神様としての神道・産土神の民間信仰土地を離れても、守ってくれる神であれば観音様の救済も、また人が生きる勇気を与えてくれるのでしょう・・‼2021年4...春菊と切り餅&秩父巡礼道。

  • 嫉妬で鬼になった女性と出会った、巡礼道。秩父市。

    栄華を誇る村の長者が、村人に高篠山のわらびを、採り尽くして、我が藏に納めろ、命じたが、一日で採れきれず、長者は、夕陽が沈む前に、夕陽よ戻れ、夕陽を戻れと、踊ると、夕陽は戻り、高篠山ののわらびは、全て、採り尽くして、藏の中に収めさせた。と、夕刻、わらびは、季節外れの赤トンボが化けて、すべて高篠山に飛んで行った。高篠山、わらびの山とだという参道は、紅白の梅と花桃が咲き、桃源郷になるという、標高665mの高篠山の中腹に、鎮座する真福寺は無人のお寺。室町時代の本尊で、高さ64㎝の一木造り。👇大棚禅師は、日夜、お堂にすがる、地元の農家の女性の話を聞けば、嫉妬の悪念にかられ、鬼になってしまった・と、禅師、苦しみ懺悔する老婆をあわれみ、供養のためにお堂を建て、聖観世音菩薩を安置たという。‼?‼シャガが、新鮮な2021年...嫉妬で鬼になった女性と出会った、巡礼道。秩父市。

  • 100キロの巡礼道。秩父市。

    アパートから見える高尾山の向こうの向こうは、埼玉県秩父地方で、甲武信ケ岳を水源とした、荒川が、秩父市の中央を流れている。国内で初めて自然銅が発見され、708年(慶雲5年)日本最初の流通通貨となる、和同開珎を発行した所。盆地で、ほとんどが山、山、山。室町時代の後半には、秩父札所は定着していたという。今は、行動範囲の狭い私、2021年のファイルをもう一度です。👇ここ、誦経山・四萬寺は、1007年(寛弘4年)に建てられ、秩父34カ所の観音霊場の、第一番札所。秩父地方の社寺建造物の、規範となった建物と記録。5月の始め、いくつもの緑が綺麗な頃でした。👇1697年(元禄10年)に建てたのは、地元の大工棟梁。千鳥破風及び彫刻は文政年間(1818年~1830年)👇駐車場で・・・しゃがんだら、後ろにこけた臀部と太もも、鍛え...100キロの巡礼道。秩父市。

  • 炎で消えた町。能登輪島。

    祭りの国、能登。祭りは夏から秋にかけ、各地の神社を中心に夜を徹して、掛け声高らかに、華麗でエネルギッシュなキリコ祭り。この町が炎で消えた。この建物も・・この土産も・・2階の建ての、四脚門も・・本堂も・・明治43年の大火災で炎上した神社も、また・・・旨い蕎麦に、追加を頼んた店も・・輪島工房長屋も・・30年の技を見せた、塗師の店も、隣の北欧の小太りの、女性の店も・・彼らは、今?・・4~5000戸、自分の家には住めないという珠洲市への道、断層で通れず、白米千枚田は崩れていないだろうか?・・・輪島市の朝市近く、波止場祭り好きな輪島の人たち2度、3度、今4度も大きい揺れに明日を思えない、今ここだけは、燃えないでいて欲しい能登の人たちが持つ美の意識と伝統の祭り、灯篭があれば・・と‼炎で消えた町。能登輪島。

  • 八王子の空から・・・‼

    皆々様の今年が、いい日々でありますよう八王子の空からつまづき、すべって転んでたちあがる河童心からお祈りいたします八王子の空から・・・‼

  • 龍に乗る河童。

    買った50枚のボクサーパンツ、どう、使ったらいいものか‼辰年が来る。甲辰の干支。発芽した植物がしっかりとした形になり、勢いと大きな力、いままで準備してきたことが形になる、縁起のいい年。乗った・・‼♪銀の龍の背に乗って♬龍に乗る河童。

  • ワインを飲んだ、サンタ ‼

    贈り物を配って、ちょいと甲州ワインを飲んだら・・・眠くなって・・数年前のサンタクロース26日までこのままでワインを飲んだ、サンタ‼

  • 半年で判った、病名。

    眠るたびに夢を見ていました。大きな2つの穴に植えた、木に水を流している、長靴姿の外人女性の後ろ姿。11月24日。血圧、70-4169-4273-42。体温、続いてた不明の体温、38.5度の体温が下がって37.8度で、採血を始めました。採決は繰り返され、大量の採血。車椅子で少し意識が混濁。この日は、私の病気が判るかもしれない、希望の日でした。診察室で、のっけの医師の質問は、家族構成から。なんで家族の調査が必要ですかと、疑問。今日からしばらく、1~2か月、入院してもらいますが、万が一のために‥と。入院を断ったら、今日の検査について、一切意義を申し立てませんの誓約書。サインをして、初めて、病名を走り書きした用紙を見る。入院中の治療の副作用も書かれてた。これは怖かった。。この医師の元での治療に強烈な拒否反応。どの...半年で判った、病名。

  • 竹は竹、草でも木でもなく、120年目の花。神奈川県足柄上郡。

    東名高速道路、大井松田インターを降りて、6分ばかりところ、江戸時代から続いた、瀬戸家敷。垣根に束ねた竹に、花が咲いたと、飛んでいきました。👇気を静めるために、12時半の朝食は、こんがり焼いたトーストとコーヒー。座ったところから、パラソルの瀬戸家。11月21日の、小春日和です。笹の花は60年に一度、竹は花は120年に一度、咲いて地下茎で結ばれた竹は、共々、みんな枯れてしまう、運命共同体。一度も改良されたことのない竹。野生のまま、茶色くなって大往生するまで、あと数か月。👇稲穂に似ている花、竹はイネ目イネ科。竹は竹、草でも木でもなく、120年目の花。神奈川県足柄上郡。

  • なんか、学校も変わっちゃってね ‼ 岩科学校。伊豆松崎町

    今日の朝は、風邪が身体から居なくなって、ムクッと目覚めたら、アレもこれもと、動きが早く、やはり健康がいい。9月初めに出かけた松崎町の風景、岩科学校。明治13年9月に竣工した校舎は、1992年(平成4年)にほとんど竣工当時の姿に、戻したといいます。当時149名の生徒がいたといい、向学心と学校に行けば、友達が出来て、雨の日も風の日も、喜んで登校したのでしょうね。玄関は女性と男性は別々であっても、教室に入れば一緒。このころの先生は、何事にも鷹揚だったでしょう。いいですよね・・・・‼私なんか、うるさくて廊下に立たされ、休み時間には、廊下に居なくても、先生もケロリ忘れ、悪さにゲンコツ喰らっても、次の日は、けろりと学校に行ったものです。ここで昭和12年、ドイツ大使館の夫人が、オルガンを弾いて、賛美歌、キリスト教の布教...なんか、学校も変わっちゃってね‼岩科学校。伊豆松崎町

  • 松崎岩科学校。伊豆松崎町。

    風邪で寝ていた4日間から、今日は床上げ、朝から夜まで、夜中もよく寝て、テレビも照明もそのまま、良く寝ていたものです。コロナもインフルエンザでもなく、幸いでした。岩科学校の沿革の看板、建築設計、施工は地元大工棟梁で、松本市の国宝、旧開智学校に次ぐ古さだとのことでした。👇松本市、旧開智学校。岩科学校展示物からの転写です。👇岩科学校👇扁額の上の彫刻は、松崎町の左官棟梁、入江長八さんの作です👇洋館に似せたバルコニーと漆喰の壁と瓦が程よく内部の様子も撮ってますが、鬼の霍乱、ひやかしの来客からの一報、部屋の掃除に掛ります、続きは後程。松崎岩科学校。伊豆松崎町。

  • 医師と医師へ渡り鳥、と伊豆松崎町。

    小さな港町、町は観光客が何人か・・。「フランスの最も美しい村」運動にあやかり、2005年に発足した「日本で最も美しい村」の連合に、参加した、伊豆・賀茂郡松崎町を散歩。大分前の写真ですが、仕舞っておくよりいいかと・・‼上の酸漿の写真は、なまこ通りに在って、観光客や地元の人たちの休み処になった、明治43年に建てられた、呉服商の伊豆文邸で、明治の歴史的建造物としてを保存してる。今日の通院で、小さな町医者の診断から紹介され、近代的な検査設備を持つ病院までの、約4か月間。膵臓、胆嚢、肝臓、腎臓と専門家に見てもらいましたが、どの先生も、自己免疫が原因ではと、云い、はっきりするまで、処方箋は出さない、出せないと、ステロイドを口元から、漏れてた・・。何人もの医師に、云われると、だるさや、痛み、気力減退などの症状は、自己免...医師と医師へ渡り鳥、と伊豆松崎町。

  • 伊豆長七美術館。石山修武氏、40歳の技。

    1995年、阪神淡路大震災で都市の建物が破壊され、機能を失った現状は、無残な都市の廃墟こそ、日本建築の現状を指す・・と被災に直接遭った瓦礫20トンを、15人のボランティアが神戸から、ヴェネチアに運び、積み上げ、その瓦礫に中に、コンピーターを使った、数体の装置し、震災直後に放送された、テレビやラジオの音声を流し、簡単に混乱に陥った都市の、利潤と効率性を求めた、現代社会の脆さを表現して、イタリア1996年、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞に輝いた、「瓦礫の散乱する廃墟」製作者は、全権を磯崎新、写真家・宮本隆司、建築家・石山修武の3名。建築家、石山修武(おさむ)さん、1944年生まれ。建築家にして、2004年の銅板家としても名をあげ、孤高の人、社会に対峙し傷つきながら、のほほんと図面を引く人間には、...伊豆長七美術館。石山修武氏、40歳の技。

  • 紅葉狩りができるか、今日の検査。

    今日は定期検査のMRI検査で、すきっ腹が耐えられず、早めに手続きを済ませ、早めの磁器機から解放されて、売店で、サンドウィッチ・・‼食事できた至福の10分間。どんぐり眼先生の診察室への声が、明るいのは嬉しいシグナルで、画像を見ながら、♪ウン、胆嚢の腫れはあっても悪くはなってない♬と。腹を抑えると痛い時があると、つい漏らして、どんぐり眼先生の椅子、ジェットコースターのような速さで、滑らして、初めての触診、これが嬉しかった。で、♬おしっこの出は悪くない?♫こんな触診での技を見せるとは、思わなかった。すかさず、明日は泌尿器科への予約を入れますよ・・と。今のうちに検査と、迫るどんぐり眼先生。今度は、月曜日に替えてもらって、腎臓検査・・。今回も云う。どうして膵臓癌細胞が消えたか、不思議、宇宙人?今朝、小さい鼠を捕獲。...紅葉狩りができるか、今日の検査。

  • 瑞祥庵。石川雲蝶また逢う日まで・・。新潟県南魚沼郡湯沢町。

    時間があれば、彫り物師・石川雲蝶が30歳代から移り住んだ、三条市に足を延ばしたかったのですが、限られた3日間の休日だったので、南魚沼市、魚沼市を拠点に、近在の社寺を撮り終え、最後の訪問地は、雪国の南魚沼郡湯沢町土樽の瑞祥庵です。本堂での参拝を・撮影もご自由にと、快く承知くださって、どこでもいい、山に登りたいなァ~なんて、山を眺めて、一旦、軽く腹ごしらえ。👇1847年落成の桜門。ここに数年たってからの彫った、石川雲蝶さんの仁王がいる。👇堂内外陣の欄間は、雲蝶の彫り物ではありませんのでと、住職に念を押されましたが、誰もいないのをいい事に、優しい鑿裁きを撮ります。👇本堂側から楼門を。👆👇冬になれば、雪囲いで見ることができない、石川雲蝶の仁王・2体。継承する宗教然を切り離しながらも、オマージュを捧げた、雲蝶独特な...瑞祥庵。石川雲蝶また逢う日まで・・。新潟県南魚沼郡湯沢町。

  • 八海山尊神。新潟県南魚沼市。

    手を叩くと石段が鳴り響く龍鳴の前、88段の真ん中で、3度の柏手に、龍が鳴かなかった。耳が遠くなったと、納得して、南魚沼市、最後の訪問地、八海山神社。飲んべぇ~の頃、居酒屋の座敷に座って、いの一番の注文は、八海山か高清水。板前は、今日はどっちという位、飲む銘柄は変えませんでした。私には、それほどうまい酒でした。👇八海山2合目半に湧く清冷は、霊水の愛好家が、浄財を出し合って神社まで引き、登山者の喉を潤しているという。👇和楽殿縁結びの神様、大国主尊が祀られ、参拝者が歩を休め、暫しの歓談をする無料休憩所。👇霊風殿霊風殿(六角堂)八海山頂上の大日ヶ嶽に鎮座する、八海山大神像と同じ御姿を安置し、神徳が麓の里宮に居ながらにして沢山の光がいきわたることを、願って建てたと・・・。滞在中、いつ雨が降ってもおかしくない南魚沼市...八海山尊神。新潟県南魚沼市。

  • 越後浦佐、普光寺・毘沙門堂、雪国の灯り。新潟県南魚沼市。

    昭和6年、瞬く間に燃え尽きたという、室町時代前期の建築と云われた、浦佐毘沙門天堂、地元民の喪失感を埋めるように、再建の意欲高揚を垣間見る、写真1葉。昭和12年、地元民は堂再建の寄付金集めに奔走し、足りなくなれば亦、寄付金集めに駆け回り、焼失後、6年の歳月で、山形県米沢市に生まれた、すでに帝国大学を定年になっていた、建築史家の巨匠、伊東忠太(1867~1954)博士の設計、毘沙門天の完成を見た。参拝者は後を絶たなかったという。👇毘沙門天の回廊から・・当時の地元民の、意気込みを心鎮め・・眺め・・・‼👇宝仏殿住職の代が変わった時だけ開く扉。この中に、運慶作と伝わる、大日如来像が祀られ、四隅には、持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門)が、祀られているという。余談ですが、日本の製鋼・鋼管技術の先駆者とされ、群馬県...越後浦佐、普光寺・毘沙門堂、雪国の灯り。新潟県南魚沼市。

  • 越後浦佐・普光寺。裸押合い祭り ① 新潟県南魚沼市。

    普光寺の別当に住んでた修行僧が、毘沙門天堂に放火したしたのは、1934年、昭和6年4月26日。坂上田村麻呂が、東夷征討に出向いたときに、国家鎮護のため建立した普光寺、インドの仏工が彫った、「毘沙門天王」を奉祀した807年が草創と伝わってる。そんな毘沙門堂を尋ねました。生憎、誰もいなくて、本堂、宝仏殿(別行殿)の内部の、拝見は叶わず、心残り。1820年頃起工した門は、日光東照宮を真似た造りで、1831年まで、12年をかけて、地元浦佐の大工の関市四郎さんが築いた・・門と。現在、子孫の方々は、浦佐に住んでいないという。昭和の火災の煽りは受けなかったのは、幸いでした。👇谷文晁の画が2枚、2階には天女の画が23枚見られるのですが・・。👇雪国、積もる雪の参道はし易い配慮に・・・。3月3日、30キロ、1メートル20セン...越後浦佐・普光寺。裸押合い祭り①新潟県南魚沼市。

  • 桑都物語 花街 八王子市。

    日本橋から甲州、37宿が出来たのは1600年頃。11番目の八王子宿、武田、上杉、北条ら陣地争いで踏み荒らされた八王子。桑の繁りで養蚕農業が栄え、織物商人が往来するようになった。人々は、高尾山を霊山にして、信仰を深め、日々のささやかな楽しみ、芸能に馳せた。東京で唯一の日本遺産「桑都物語」👇夜の繁華街が栄えない町はやがて廃れるという、言い伝えは、今でも生きていて、街の活性に一役買った一人の芸妓さんの努力が実り、花街、黒塀の建物が始めてる。👇八王子花街通り・観光PR広報のモデルになってる親子。昨年秋に、市の中心部に開設した桑都テラス。25校のキャンパス、11万人の学生の街なのに、活気が少しずつ減ってた。若者が、人生を謳歌、闊歩してわれら年寄りが微笑んでいられる、威勢が欲しい・・ですね‼10月22日、八王子の散歩...桑都物語花街八王子市。

  • 英雄の基礎はここで、雲洞庵。新潟市南魚沼。

    僧尼となって、庵を結んだ藤原娼子は蘇我家から、藤原不比等の正妻になった方。後年は、藤原先妣尼と名乗り、隠遁生活に・・。正確な人物歴史的記録はないものの、701年以前には亡くなってる・・。今は立派な造りの禅寺になってるけど、飛鳥時代、穏やかな草葺きの建物だったのではと・・心が濁る。1707年からの広大な堂内は、華奢な装飾を嫌って、簡素、禅寺形式に、虫の羽音さえ聞こえそうな、張り詰めた静けさ・・・。👇この部屋は、米沢藩主となる上杉景勝10歳、生涯、上杉の家老となる直江兼続5才が、英雄の礎を築いた場所。柱が天井まで突き抜けない、天井が浮き上がるような書院造り。越後ではここしかなく、最高寺格を見せつけます。👇欄間彫刻が2点、黄河上流登竜門の急流を登れ、鯉。登れば龍と化として、修行僧は、悟りは座禅修行でと・・。👇不...英雄の基礎はここで、雲洞庵。新潟市南魚沼。

  • 日本一の庵寺、雲洞庵 ① 新潟県南魚沼市。

    戦国時代、武田信玄が太平洋の塩が閉ざされ、上杉謙信に日本海の塩を送るように進言したのは、ここ、南魚沼市の雲洞(うんとう)庵の、10代・北高全祝禅師という。この地の霊水で人々を救って庵を結んだのは、藤原鎌足の子、藤原不比等の奥さん。その母の菩提を弔って藤原房前が建立したのが701年という。今は、越後一の禅寺で日本一の庵寺、雲洞庵を散歩。前日訪れ、閉門前1時間では回り切れないと、翌朝一番、開門1時間前に着いたら、やはり入れなかった。👇赤門からの参道。石の下には法華経の一石一字が書かれた石が埋められており踏みしめ歩くと、罪業消滅(ざいごうしょうめつ)現世で起こした悪行も、仏道修行することで消してしまう・・と。葉っぱだって、へばりついてる修行している・・しっかり踏んで歩くことにしよう・・‼‼👇振り返れば、まだ踏み...日本一の庵寺、雲洞庵①新潟県南魚沼市。

  • 開山堂 ③ -③ 雪国の鬼才。新潟県魚沼市。

    新潟に骨を埋めた、彫り師・石川雲蝶(1814~1884)20人ほど入れば狭い堂の四面に、天井に彫って彫っての作品群。彫るまでは、幾度も和尚さんからの宗教心を聞き、丸6年、寺に籠って一人。人間、こんなエネルギーどこで養えるのだろう‥と・言葉がありません。岩絵の具で彩色された天井の彫り物には、猿や鳥なども彫っていて、アッ、鯉がいる・・・と。漆喰の鏝さばきも雲蝶の作品、たまげます。もう、ファイルを並べるだけです。西福寺・開山堂は、おしまいです。開山堂③-③雪国の鬼才。新潟県魚沼市。

  • 雲蝶寺 ② 西福寺・開山堂で少年に 新潟県魚沼市。

    いつ雨が降るかもしれない新潟県魚沼市。西福寺・開山堂の彫刻を見学しました。江戸・雑司ヶ谷で生まれた石川雲蝶が、30代で新潟に移り、西福寺の和尚さんが、雲蝶の才能を聞き、依頼したという彫刻は44歳ごろ。雲蝶が一人で本堂に寝止まりして彫ったと伝えられてます。幕末・当時の男の勲章、酒、女、博打、どれも人並み以上だったと。そんな男に少年のような遊び心。👇法堂(はつとう)の見学者の足元、廊下で・・👇埋め細工の宝探しです。👇5本指・靴下は、細工ではありませんので・・・‼。👇廊下を渡って、越後日光開山堂のとばっくちに、👇以前は山門に在った、雲蝶が仕上げた、はじめてみた力強く、繊細な躍動感ある、フォルムの仁王像が‥‼開山堂にある彫刻は沢山雨の中、転倒者続出の女子24名のマラソングランドチャンピオンシップを見てから下書きを...雲蝶寺②西福寺・開山堂で少年に新潟県魚沼市。

  • 立川昭和記念公園

    まさか、花の数より人が多いのでは、と思った、立川市昭和記念公園。彫刻は100年も200年も輝いているけど、今年の花はまもなく散るので・・。魚沼市をちょっと休んで、10月8日の散歩のひとこまです。花の名は、その都度判っているのですが、花を見てると、すっかり名を忘れてる。11時に入園して15時まで、ミントエリアからケイトウ、千日紅、コスモス、のエリアを、人込みを掻き分け、掻き分けランブリン(放浪)👇マウンテンミント?👇梅干しむすび👇時計草👇宿根フロックス?👇広葉マウンテンミントに、3匹。微かなにおいでした。人、人、広い公園の半分いろんな花が咲いているのに、撮り切れずひまわりが、自分の姿に・・・15日でもきっと咲いていることでしょう・・残りは、次回の投稿記事の中に重なるファイルも、あるかもしれませんその時は、御...立川昭和記念公園

  • 幕末の異端児、雲蝶 寺に籠る① 新潟県魚沼市。

    喉元過ぎればの危うい性格、夜の仕事はしないとばかり、パソコンは閉じたままでしたが、好いとも、悪いとも云わず、データーを見る女医さん。内心、しめた‼ちょっとばかりの仕事はストレス解消に・・。幕末の彫り師、腕を買われて、新潟くんだりまで出向き、挙句、金物屋の旦那に、好きなだけ酒は飲ませるから、娘の養子になれと・・・。絵も描けば、漆喰鏝も手掛け、石の彫刻もと、マルチに名を残したのは、石川安兵衛源雲蝶です。江戸では二十代で幕府御用勤めをしてたという。新潟に住んだ雲蝶の最も壮大といわれた彫り物が、魚沼市の西福寺の、開山堂にある、行けと、高崎市の山の師匠。撮影できるのは9月30日まで、夜明け前、スサーナの曲を窓に流して、鱈子と筋子のしょっぱい、にぎり飯を・・。👇山門扉のほころびを繕ったのは、雲蝶。👇開運堂この扉の中に...幕末の異端児、雲蝶寺に籠る①新潟県魚沼市。

  • 穴地十二大明神、未完の雲蝶の彫り。新潟県南魚沼市。

    昨日は、経過観察の検査での病院へ行ったのですが、ハードに動けば、右の脇腹に重苦しさ、行く前は、やはり不安、再発はしていないか、新しい病気が巣食ってないかなどと・・。検査は、血液検査と超音波だけ。杞憂に終わったのは、女医さんの最後の言葉、亦、検査をさせていただきますか?と。腫れはあるけど・・う~ん・とだけ。薬の処方もなく、定期の検査、それは願ってもない事で、首をかしげるどんぐり眼先生。揚げ物と、甘いものは一切取ってません。夜はパソコンもいじりません。頷き続ける女医さん。帰り、美容院で散髪しながら、結果を報告したら、そらぁ~、あんた、先生は、年寄りで、余生が短いから、薬はもったいない、好きなことをしなさいって、見捨てられたんだよ・・・と‼変に納得してしまって・・・。👇南魚沼市穴地、十二大明神を訪ねました。👆👇...穴地十二大明神、未完の雲蝶の彫り。新潟県南魚沼市。

  • 七尊観音堂、石川雲蝶とタイムカプセル。 新潟県南魚沼市

    ゛酸漿は殺しの口笛゛葛飾の小松菜は日本一の美味、隅田村の芋に、綾瀬川の蜆、向島の鯉は名物で、三囲下の白魚は珍味、採りたてを小舟に摘んで大川を漕ぎ下って、売りに来る小娘の、子供子供した彼女の口元が動くと、赤い酸漿が見えて、ぎゅっと音が押し出される。結核で3か月間、隔離されていた時に読んだ、平岩弓枝さんの゛御宿かわせみ゛シリーズの中の短編の一節。それ以来、酸漿を見るたび、宮司の一人娘に生まれた、平岩さんの感性に触れる。山裾の雲の七変化に幾度、車を止めたことでしょう、2泊3日の南魚沼市。宿から15分ばかり、仁王さんが履いたという、草鞋を吊っている七尊観音堂へ、石川雲蝶の彫り物があるというので見学に・・。観音堂の再建は1728年とさっき、知りました。👇彫った人・石川雲蝶👇境内に、来年8月の吉日、開封される由、何が...七尊観音堂、石川雲蝶とタイムカプセル。新潟県南魚沼市

  • 小林源太郎、越後・西福寺で龍を彫る。新潟県魚沼市。

    草刈りで住処を追われた蚊が、開けていた車の窓から今晩の住処に、容赦ない人間の仕業に、仇討ちの蚊4匹。かい~ぃ‼小林源太郎。1799年、中山道熊谷宿で生まれ、父の彫り師・小林源八から、長谷川家に養子になった男。江戸雑司ヶ谷(今の豊島区)で生まれた、飲んべぇ~で女好き、15歳年下の彫り師・石川雲蝶の誘いに乗って、越後・魚沼市の西福寺の鐘楼に龍を彫った。47歳で越後入りした長谷川源太郎が、鐘楼に施した龍は、1850年51歳。それまでは、三国峠あたりで、金剛力士などを彫ったと伝えられてますが、どうなのでしょう…?今回の魚沼巡りを決めたのは、雲蝶彫りより、長谷川源太郎の、越後での彫り作品でした。👇梵鐘は、越後の鋳造家の作で、三十三体の観音像が模られていて、戦時中、重要文化財とした、天皇の「勅許」の銘があり、「供出除...小林源太郎、越後・西福寺で龍を彫る。新潟県魚沼市。

  • 河童、朝市で桃を買う。新潟県南魚沼市。

    10月1日の新潟・南魚沼市は雨。ひとつのテーマをいつまでも、グダグダ、投稿もしないで、訪問もしないで、のうのうと新潟辺りまで・・。投稿しなければストレスが、訪問しなければ心も痛く・・。詫びる言葉を、胸にしまって・・です。9月30日、撮影許可が切れる最終日、花街遊び、アウト、セーフ、よよいのよい、野球拳セーフの代償は、今日の雨。半日宿で休養。アスファルトに流れる宿の玄関、規則正しく流れる、雨脚の波紋は,心地よく、のに、日曜日朝市を知って、朝市フェチの河童、雨にも負けず、寒さにも負けず・・・胸をときめかせて・・。👇黄色い桃、2日後が丁度いい、と2個。リンゴ、この色合いがいいから2個。計300円也。👇魚沼産の米の試食、食えば宿の魚沼の朝飯が食えない・・ので。👇とんぶりですか?と聞いたら、な~に、お兄さんしその実...河童、朝市で桃を買う。新潟県南魚沼市。

  • 漆喰絵の飛天・長八記念館(浄感寺)静岡県松崎町。

    5500人ばかりが住む、小さな入江の松崎町、朝陽に跳ねるボラのしぶきに、久しぶりにのんびりした朝。この町のキャッチフレーズは『花とロマンの里』桜餅に使われる桜葉漬けは、全国の約7割がここ松崎町で生産していて、種類も豊富・・道明寺好みで、病みでなければ5~6種類は、ぺろりしていた。歩いて判る平穏な町で、顕彰されている、漆喰で絵を描いた鏝職人、入江長八の記念館の母体、浄感寺の本堂が。(敬称を略します)浄感寺の近くで生まれた長八の生活は苦しく、6歳まで寺に住み込み修行し、12歳からは、左官業の関仁助の弟子になって、父平助、母てご、ら家族の生活を支えると同時に、長八の後年、漆喰細工の基礎技術をみっちりと学び、15歳、駿府の仕事では、村の繁栄ぶりに驚き、日々の中から、絵に対する関心を深めていく。👇長八の道具(一部)...漆喰絵の飛天・長八記念館(浄感寺)静岡県松崎町。

  • アカテカニが一杯・岩室洞。松崎町散歩。 静岡県賀茂郡。

    海底火山が隆起して観光名所になった伊豆半島、2000万年前に海底で生まれた伊豆が、本州にくっついたのは60万年と、気の遠くなる地形の歴史。柔らかく加工しやすい石は江戸城の石垣用にされて、石切り場であったという岩室堂。松崎町から伊豆半島の先端に通じる道端に。駐車場は10台ばかりのスペースに、先人客の車が2台。湿り切った洞内の天井を見たり、掘削跡を見たりで、一帳羅の靴が完全に泥まみれ、これから訪れる施設を思って、最後にすればよかったと・・。切り出した石は、奥の出口から海岸まで運んで、船で輸送、その船着き場までは、アカテカニが住んでいました。察知能力に優れて、隠れ家に入るとなかなか出てこない。息を殺して、そろりそろり・・辛うじて何枚か・・‼海岸の石の輸送する船着き場は、ここで👇・・力がなければ、とてもとても・・...アカテカニが一杯・岩室洞。松崎町散歩。静岡県賀茂郡。

  • なまこが一杯、松崎町散歩。静岡県賀茂郡。

    全国の商家が藏の荷物を湿っけ、潮風、火災から守るために、平板の河原を下地の土壁に貼り、目地を漆喰で、塞いだ模様の建物の町に立っていると、都会、重箱の隅をつつく様な喧騒に、心を動かされる、自分と別れたくなる。9月8日、台風が過ぎ去る、時刻を待つて、西伊豆、松崎町へ。2019年2月に2時間ばかり立ち寄った町。あの頃、まだ怖さ知らず、図々しさを持ってい動いてた。今は、小さな記憶に、失ったら二度と取り戻せない、日本の農山漁村の景観・文化を守りつつ、♪日本で最も美しい村♬連合に、ゆっくりと心を落として。👆扉に施していた、👇漆喰鏝絵。なまこが一杯、松崎町散歩。静岡県賀茂郡。

  • 漆喰の町・松崎町、散歩。静岡県賀茂郡。

    3泊4日の予定だった、西伊豆訪問、生憎の台風で、実働稼働は、2泊1.5日、今日は高速も混むので、早めに切り上げます。散歩の風景は後程・・・‼👇伊豆の長八美術館👇なまこ壁通り漆喰の町・松崎町、散歩。静岡県賀茂郡。

  • 須影八幡神社 ②-② 3代目石原常八の技。埼玉県羽生市。

    8月で終わる筈の仕事が、昨日まで伸びて、今度こそは、ゆとりができると信じた昨日。事務所に戻ったら、だぁ~っと、あれもこれも、お願いしますの箇条書き。病みの身体、誰かにやらせろと、と思ったけど、まっ、好きなペースで出来る、思いが喉元で盆踊り。何かやっていれば、気もまぎれるしね・・‼江戸時代、群馬県で生まれた彫刻集団も、末期になると、彫り物師の仕事も多方面になって、彼らへの仕事依頼はどこから出たのかと、知りたくなります。須影八幡神社の彫り物師は、群馬県みどり市花輪に住む、3代目石原常八なのですが、歩けば、12時間ばかり。彫刻の注文も少なくなってきた江戸末期、本人が単独営業するには、ちと疑問。彫り物師は、宮大工の棟梁が居なければ、成り立たない職業で、宮大工棟梁は、施主から満足のいく請負金を得るため、出来栄えの為...須影八幡神社②-②3代目石原常八の技。埼玉県羽生市。

  • 須影八幡神社 ① 埼玉県羽生市。

    熱さにげんなりは、河童の甲羅に縛った、3尺四方の幟もだらり。和紙の陣笠を斜っかけにし、脚絆に草鞋の紐は、地面を這い・噴く汗に垂れ眼になって・・・・・そんな夢を見て・・出かけたのは、藍染・青縞染色の町・羽生市。前日泊りの古河市からルート46、向こうの向こうまで、黄金色になった田んぼ、刈入れが済んだところもあるにの、熱い日差しが不思議。須影の町の外れ、無断駐車しかできない神社で、納涼感に浸ったのは、藍の葉の青縞染めの作務衣姿のおっちゃん👇須影八幡神社。歴史は判らず、唯一の記録は、別当の蓮華寺の最後の住職が、1858年拝殿を、1865年にかけて本殿を地元の宮大工、清水仙松、三村若狭正利で造営した、と。👇砂利石の照りに、草も枯れて、👇母の手さえ暑苦しい👇7月に行われる茅の輪巡りで参道にともす竹筒。祭神は水の水源、...須影八幡神社①埼玉県羽生市。

  • 稼ぎは足で、野木神社。栃木県野木町。

    子供たちが、熱波で校庭で遊べない日々の中、嬉しい記念日と書けば、人間性を失うでしょうか。15~6年続いた業務提携先と、ライフワーク専念の為に、長期・・長期中断の許可を頂いた、一昨日です。まもなく、変身するのは、休みが取りやすい、所属事務所での、てれんこ、てれんこの給料泥棒に・・‼1700年代から150年間ばかり、北関東の社寺に彫刻を施した52人の集団があって、車の無い時代、火災に遭った寺社の彫り物を気にして、寝ずに駆け付けた彫物師もいたり、天災に遭って、完成まで十数年掛かったり、仲間内の嫉妬に命を落としたり、現代、彫刻を見て感心して、遠い時代の出来事を見落とすと、単に、年代記録者だけになり、想像力が薄れて・・・。インターネットの便利さが、時には邪魔になったりして。気になると、同じところに何度も足を運ぶ癖。...稼ぎは足で、野木神社。栃木県野木町。

  • 金剛院・小説金閣寺放火犯の美。京都府舞鶴市。

    「私」は生まれつき吃音(どもり)で、彼女もできないほどの内向的な性格だった。ただ一つ、僧侶であった父親から、金閣寺の美について聞かされており、「私」の中で未だ見たことのない金閣寺を、究極の美として夢想していた。「私」は、初恋の女・有為子(ういこ)に対して、後ろからついていき、有為子からひどく罵られ、「私」は有為子の死を願うようになった。有為子は、海軍からこの地に脱走してきた、脱走兵と仲睦まじくなり、やがて妊娠した。脱走兵を追いかけてきた憲兵は有為子を詰問し、有為子は脱走兵の居所が金剛院であることを白状する。👇金剛院本堂夜になって、有為子は憲兵につれられて、金剛院にやってきた。有為子は、百五段の石段を上り、御堂に隠れていた脱走兵に耳打ちする。すると突然、脱走兵は石段の茂みに隠れていた、憲兵に向け銃を放ち銃撃...金剛院・小説金閣寺放火犯の美。京都府舞鶴市。

  • 松尾寺。 京都舞鶴市。

    👆8月7日箱根で5月半ばに訪れた、西国33観音霊場巡りの、最終日、舞鶴市青葉山の中腹に、松尾寺。太古青葉山は、火焔を吹き上げ、噴流は直下の日本海に注いで、壮絶な水煙を上げたという。708年に草庵を結んで、幾度かの火災を得て、今の本堂は1730年修築と記録されている。西国33カ所霊場で唯一の本尊は、馬頭観世音、農耕の守り神、牛馬畜産、車馬交通の関係者、競馬関係者からも、信仰を厚くしている。案内書を見て、一番興味を持った、丹後の宮大工たちがかかわった唐風の本堂、早く訪ねたのに・・・👇もしや・・は、もしやでした。長年に渡る虫食いの為の改修工事で、本堂の見学はできませんでした。工事の囲いがなければ👇こんな本堂。工事前の写真から・・・👇👇。工事関係者に色目を使ったけど、一市井の男性では色目も、効果がなく、内部見学は...松尾寺。京都舞鶴市。

  • 河童、菅笠の紐を解く。

    行き詰った時はいつも、👇この曲に逃げてたAndréRieuft.GheorgheZamfirTheLonelyShepherd8月7日。3か月ぶりに持ったカメラは重く、5月、1日で散ってしまう淡い赤い花、検査結果日を数日後にして、見たことが無いのに、来年はと、思う心残り。箱根地方、山梨県の一部に分布する山椒薔薇👆時折の雨に差す傘から、雫越しの実が愛おしい、1日で散るのは、ハマナスの花も、またそう・・‼悪ガキ河童、3か月間、干乾びていた、頭の皿に、潤いの水が挿したのは、昨日。どんぐり眼の女医さん、膵臓に有った癌らしい影が、消えてるの、癌だと云えなくなりました。医師の同士の見解も同じと云う。不思議だという。肝臓にある影は、10月の外来検査で判断しましょう・・・と‼いきなり癌、半年であなたはこの世からいなくなり...河童、菅笠の紐を解く。

  • 河童、海に燃える。

    2020年、信州の杜にアトリエを構えた、ピアニストで、作曲家の谷口公子さんは、2008年、乳がんを発症し、西洋医学的対処療法を拒み、食生活と、統合医療、食養生、身体と精神のバランス、自然との共生にいたるまで、自身が造ったプロジェクトで、癌を克服した。「日本で最も美しい村連合」の、テーマ曲を作り、2015年、ギタリストの村治佳織と、ユニットを組み、詩の朗読と「こどもの時間から始まる旅」シリーズコンサートは感情豊かに、今でも継続される。KokoetKaoli谷川公子+村治佳織♫戦場のメリークリスマス♬癌を征服したら、一緒に潜りましょうと、かかりつけの小さな医院で働く看護師が、3枚の写真を病室に送ってきた。今日の検査で結果、癌マーカーでも、5センチほどの腫瘍、巨大な設備を誇っても、癌と判断できなかったと・・・。...河童、海に燃える。

  • 五平餅食い食い、しばし御免 ‼

    今日は、膵腫瘍の生検検査の結果日で至福の雪見大福を、期待していたのですがガンとは、いえない腫瘍で腫瘍の判別できなかったとして再度MRCPで精査検査の入院になりましたガンでないことを願いますが28日の結果を待つまで、上げ善、据え膳なしの高価な宿泊に孤独の唇から嫌味がちょいと‼前回の入院にはパソコンを持って行きましたが通信できず、不要の荷物になって今回は暑さに耐えてもらい、家で留守番菅笠きっちり、道中合羽、肩にたたんで、盛夏五平餅、食い食いしばし、御免なすって‼です五平餅食い食い、しばし御免‼

  • 竜宮城伝説の 宇良(浦島)神社。京都府伊根町。

    淳和天皇は、浦嶋子が、478年7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、347年を経て、825年に戻ったとの話を聞き、浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁を勅旨として、社殿を造営したと云われる、京都府与謝郡伊根町の、宇良(浦島)神社。日本書紀に、逸書・丹後風土記に(国会図書デジタルコレクション参照)亀を助けた浦島太郎と竜宮城のおとぎ話の、元になる記録が残りっているという。造りは、伊勢神宮に代表される、古代・弥生時代の高床倉庫を模した、神明造り。日光東照宮や、江戸城の彫刻を施した、中井正清(1565~1619)の血統を汲んだ、中井権治一統(1780~1855)、丹後・但馬を拠点にして、精気ある龍の彫り物を得意とし、尻尾まで太い胴体、宝珠に食い込む爪は、誇張することなく、さりげない場所に配置し、明けた口からの舌は、勢...竜宮城伝説の宇良(浦島)神社。京都府伊根町。

  • 若狭湾、伊根浦の散歩

    今日、伊根浦のファイルを見ていて、体調不良は、この日辺りから始まってた。移動の昼は、運転しながらコンビニの握り飯、夜は、ワンカップ1本とビールで、翌日の宿取りに時間を費やし、禄に栄養のあるものを、補っていなかった。血液検査で、如実に表れていて、食事に気を付けてとも、くりっくり眼先生からも、紹介状を書いてくださった、ヤンキー先生からも、云われてた。西国28番観音巡りの成相寺から20分ばかりところ、日暮れに標準を合わせて、訪れましたが、この時、すでに身体が思うように、動いてなかったのを思い出しました。福井県の越前岬から、京都府経ヶ岬を結ぶ日本海が深く入り込んだ、リアス式の風光明媚な若狭湾。京都丹後半島の北側にある伊根湾、小さな青島が、日本海の荒波を消して・・・、昨日の記事をそのまま、引用して、伊根浦。静養を兼...若狭湾、伊根浦の散歩

  • 伊根の舟屋から、数日の顛末。

    福井県の越前岬から、京都府経ヶ岬を結ぶ日本海が深く入り込んだ、リアス式の風光明媚な若狭湾。京都丹後半島の北側にある伊根湾、小さな青島が、日本海の荒波を消して、・・・・・と書いて7月2日、ここでキーボダンを押す指が、ストップしました。一週間、食事なし、水も飲めない、退院の許可が下りて、点滴だけの針から、解放されたのは昨日7日の夜更け。膵臓がんの疑いから、バイオプシー検査入院でした。紹介状と、CDを持って訪ねた病院、消化器外科医では、いきなり、がんです、半年の命と云われ、脳みそに線香花火が20本飛び散り、ちょっと喧嘩。内科に回してもらい、がんとは、断定はできないので、組織を採って調べましょう・・と。こちらはどんぐり眼の、くりっくりの女医さん。同じ大学病院での診察。処方見解の対応の違いに、時間をかけても、明確な...伊根の舟屋から、数日の顛末。

  • 成相山・成相寺 ②-② 京都府宮津市。

    京都丹後半島に来て、庶民の伝説の看板を見て、なぜか、ほっとした境内。今日は、その風景だけをランダムに・・。撞かずの鐘の伝説。この説明が👇私を揺さぶりました。ほら、ホラ、よだれ、よだれ・・・‼明日、訪問できる時間はたっぷりのに、投稿はできないかもしれませんあなたへの足跡は残しても、しばらくは私の記事は、このままかもしれません足跡に応える時間がありましたらお茶の時間に、割り当てくださいますようコメントに応えることも、できませんのでコメントは消しておきますあしからず成相山・成相寺②-②京都府宮津市。

  • 成相山・成相寺。① 京都府宮津市。

    👆丹後半島の鼓が岳?成相山・成相寺からの天橋立体力以上に働いた一週間、昼からの予定だと、ここは一丁6時から2時間の2度寝。すっきり感は爆睡の賜物。時間に追われない僅かな時間に、幸福感を味わうとは。👇西国33観音霊場、半分を超えた巡りで、庶民の伝説に触れたのは、ここ京都丹後半島、景勝地であって山岳信仰の修験場だった、相成寺。本尊は、身代わり観音・美人観音の聖観音菩薩。波の音松のひびきも成相の風ふきわたす天橋立御詠歌・花山法皇👆👇👇・・704年に文武天皇の勅願寺として、真応上人が創建したと伝えられ、1774年、再建された本堂。雪深かった丹後半島の悲しい伝説成相寺の鐘楼近くには、伊根の舟屋があり徐福伝説の新井崎集落があり浦島伝説が残る丹後半島おいおい投稿の機会を・・と成相山・成相寺。①京都府宮津市。

  • 紫雲山・中山寺 ②-② 兵庫県宝塚市。

    拠無い用事ができてしまい、投稿も、訪問もできない日々でした。記事途中の西国24番観音札所は、建造物が新しく、境内も整然と清潔感があり、若い夫婦や、子連れのお礼参りの人たちで、にぎわってました。本堂前のびんずる尊者さんに、子らの健康を願うよだれかけ👇5月16日に願掛けたした人たち、ちょいと数えました、ざっと200枚以上でした。👇平成29年に建立された5重塔、これからの何世代の人々に語り継がれるのでしょう・・。西日が、なんとも言えない郷愁を呼びます。帰ります帰りも動く階段に乗って・・・‼紫雲山・中山寺②-②兵庫県宝塚市。

  • 紫雲山・中山寺 ① 兵庫県宝塚市。

    986年、政治に敗れた花山天皇が、宮中を捨て剃髪し、仏の門をくぐったのは19歳。圓教寺をに入山し、比叡山延暦寺で授戒した花山法皇が、ここ、👆中山寺の石棺から、観音霊場三十三カ所の宝印を見つけ、三十三カ所巡りを始めたのが、西国三十三番礼所の始まり、という。二十五番清水寺から約60分、閉門1時間前の日差しが、柔らかかった。宝塚市、札所24番中山寺、ここは、安産祈願が有名で、皇室から庶民から、広く信仰されたという。👇宝塚市内が1995年の阪神・淡路大地震が、あった街とは思えない。中山寺も、地震の煽りを受けた寺。奈良時代の中山寺は、大小多数の堂塔伽藍を備えていて、高野山や、比叡山に匹敵するほどの規模だった・と。そんな知識を蓄えたはずでしたが、山門からの参道では、すっかり知識が跳んでました。歴史の風雪に耐えた、建造...紫雲山・中山寺①兵庫県宝塚市。

  • ヤンキー先生、愛ある悪魔の囁き。

    一昨日、CT検査と、エコー検査の結果を聞きに・・、腰掛けてもないのに、「酸素ボンベ抱いて歩くようだけど・・」途端に、脳みそが花火のように飛び散った。何時から?明日からでも準備する出来てるョ・・・結果は、山登り禁止たばこ禁止、腫れものの正体は、わからないので、MRIを撮りに行けと・・・フットワークと、腰の軽さ?はお手の物・・それにしても酸素ボンベとは、悪魔が来た~、と言って、買ったばかりの煙草を看護師に、渡すとき、1本だけ抜く仕草に、ヤンキー先生の目が輝いた。「酸素ボンベだよ、愛ある悪魔の脅しだよ・・」‥と。今までの検査の、ヤンキー先生の所見では、肝臓と、肺以外は、異常なし。明日は、胃と十二指腸内視鏡検査で、一通りは済むのだと思い・・・・※、投稿者は、年相応の身体の状態を知れると喜びがあり、医者通いを楽しん...ヤンキー先生、愛ある悪魔の囁き。

  • ヤンキー先生。

    内科の係りつけになった先生は、小柄でヤンキー。鳩尾の横を押すと痛いと言ったら、がばっと、押し、ここは?重い。ここは、重い。ここではと、膀胱辺り、軽いと云ったら、軽いと云うのは、どんなコッタ‼痛い個所に戻って痛いと言ったら、おかしい・・・ここは何がある・・・?胆嚢‼・・専門家に臓器のあり場所を言ったのは初めて・・。触診終えて、たばこ・・減らす?やめる?やめると云ってら、たいへん良くできましたと、桜のマーク。持ってる煙草出せ・・と。言葉に詰まったら、やめるといっただろう・・つべこべ言わず、出せ、やめろ‼小柄なヤンキー医師の迫力に負けた。会社に行くより、楽しい時間だった。土曜日の内視鏡検査もあるけど、とりあえず、今日は、昨日のCT・エコー検査の結果が判る。ヤンキー先生。

  • 西国25番札所。御嶽山・清水寺。兵庫県加東市。

    兵庫県加西市から約1時間、加東市の播州清水寺、案内書では、歴史は古いけど、大正2年、多くの建造物は焼失し、仁王門は、昭和40年の台風で、壊されたとあります。歩いて間もなく、根本中堂へ通じる石段の周りに、👇薬師堂があって、👇大講堂があります。もともとの建物は、725年聖武天皇が、行基に命じて、建てたものだといいます。👇大講堂の側面を進んで、石段を登れば、👇根本中堂が👇更に登ると、明治の焼失、昭和の台風で大破したという、平清盛の聖母、京都の女御が1157年、建立した、銅板葺きで、5軒幅の大塔跡地で、👇ちょっとだけ残っていたシャクナゲを撮ります。昨日から平常の体温に戻り、明日から出勤態勢にはいますが喜んだ昨日、すきっ腹に「ペヤング」一口「べーぇ~ヤング」だった、味がしない今朝、沖縄黒糖飴、一粒・・・うまかった西国25番札所。御嶽山・清水寺。兵庫県加東市。

  • 菅浦の湖岸集落。滋賀県琵琶湖。

    西国33番札所巡り兵庫県を終えて、帰路に就く、数年前からの、赤茶けてしまったメモ用紙の走り書き、菅浦の湖岸集落。滋賀県琵琶湖の、葛篭尾崎の西の入江、72軒ばかりの集落に177人?が住んででいる。古代は万葉にも詠われ、高島の阿渡(あど)の水門(みなと)を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ中世から、惣という自治体を確立させ、住民は、天皇に魚や鳥を差し出す、贄(にえ)人が住んでいた。険しい山を背負い、湖岸の西、東に👇今残る、四脚門は、村を守る神を象徴していて、破風の飾りは、菅浦独特ものだといいます。住居は、荒れる琵琶湖水から、石垣を積み、斜面を埋め蚕や、薪生産、たばこも生産し、湖では刺し網、湖上運輸で生計を立て、古代からひっそりと・・。♫菅浦の湖岸集落♪今日で感染の隔離は、終わる筈ですがまだ37.5度、熱が去らない...菅浦の湖岸集落。滋賀県琵琶湖。

  • 迷宮入りを解く? 楽しみ。

    閉め切った窓を開ければ、雨空でも、清々しい空気を迎えた37.1度の身体。昨日の夜更け、玄関でガサゴソした音、開けたら、食糧一杯のビニール袋。困った‼隔離は明日までなのに、3日分くらいはある。誰だか、証拠くらい残してくれれば、いいいのに・・。まッ、いぃ~っか・・迷宮入りを解き明かす、楽しみもある。迷宮入りを解く?楽しみ。

  • なんだって 今頃。

    5回ワクチン打って、かかったコロナ、良い所は、頭を下げられても、出勤できないところ、それ以外は、何も良いところ無い。38.9度がピークの体温も、今朝は37.2度。今夜辺りは、平常値かもしれない・・・。今朝、気が置けない仲間、感染経験者、「ようやく一人前になったねぇ~」~馬鹿、言ってんじゃないよ‼~それにしても、なんだって今ごろ・・。なんだって今頃。

  • 巡礼者と一緒に、一乗寺 ③-③ 兵庫県加西市。

    兵庫県加西市、西国33所は一乗寺で、まだ2堂目です、なかなか進みません。本堂の外陣の天井は、江戸時代の木札が、格子天井に貼ってあって、庶民が長旅の疲れを、癒しながら、巡礼者同士の会話が、聞えるようです。紫の雲に乗って、8つの蓮の形に似たこの地に降りた、法道仙人を祀る、開山堂で、この辺りには、賽の河原があり、観光客も、石積みは時間が、親子ともども、和気あいあいとした風景でした。今日、これからコロナ検査に行きますどうやら初期症状はコロナだと3~4前仲間が感染し、彼と立ち話風邪であって欲しいのですが微熱、空咳、胃痛、頭痛、けだるさ隔離されそうですコメントは、一旦消しますので理解くださいますよう巡礼者と一緒に、一乗寺③-③兵庫県加西市。

  • 法華山の法に、一乗寺 ② 兵庫県加西市。

    中世、近世には何度かの火災に遭う一乗寺。春は花夏は橘秋は菊いつも妙(たえ)なる法(のり)の華山(はなやま)👇本尊・聖観音菩薩三重塔を見上げる、嘉吉の乱で焼失し天文2年(1533年)に再建するも、再び焼失し、1868年(明治元年)に再建された👇常行堂、さらに石段を登ると姫路藩主本多忠政の援助で、1628年に再建した、懸造り、👇本堂(大悲閣、金堂)が。👇本堂から俯瞰すれば、平安時代に建築された三重塔。屋根の上の5輪塔の下部、半円の飾りで、制作した時代が判明したという。👇法輪堂(経蔵)👇室町時代の妙味堂と弁天堂👇本堂、重なる台風被害の修復は、パッチワーク仕様で親しみ沸く、お寺になってきます。聖観音菩薩ここは札所26番で、長い旅をしてきた巡礼者が残した、証しがなんとも(次回)観音様に、手を合わせることなく過ごす毎...法華山の法に、一乗寺②兵庫県加西市。

  • 西国札所26番 一乗寺。① 神戸市加西市。

    👆ヒメキンギョソウでしょうか?投宿した姫路の宿を早く出て、40分ばかり、曇り空の予想が外れて、燦燦とした朝陽が眩しい、出だしでした。👇車で行けば最初にお参りするのが、駐車場傍の水子地蔵尊で、眺めてると結構な時間が経ち・・。朝早くから、長い枝バサミで、ニョキっと長い草を刈ってる庭師が居て、挨拶にメリハリが・・・。8時前ですが、下山の方もいて、文化財保護の浄財は、500円。浄財で最初に撮ったのは、欠伸をしながら迎えた、猫。紫の雲に乗った仙人が、中国、百済を経て日本へ飛来し、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に、8枚の花弁を持つハスの花の形をした霊山を見付け、降り立ち、法華経の霊山だとして、「法華山」と号したという。仙人の名は、法道。神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれた。今でも、兵庫県...西国札所26番一乗寺。①神戸市加西市。

  • 黄金に、ひとはけ。姫路城。

    整列して、誘導する係員が15人ばかり、横一列、整列して、背中に・・午後5時の時刻に合わせて、あと何分?あと5分です、あと3分と、掛け合い。閉門の定刻きっちり、姫路城をあとに・・・。あっちにひょい、こっちにちょい、檻に入らない、やんちゃなガチョウのような気分だった。場外から見上げた姫路城は白い城の壁に、夕陽が当たり、影は黄金にひとはけ擦ったような美しさでした。千姫が10年程過ごした西の丸も、天守閣から見る街も、綺麗だった。科案内看板の説明に、感心して見学したけど歴史を紐解く以前の、感動は白い壁に夕陽が造った黄金をひとはけ・・擦ったような景色でした〆にもう一度黄金に、ひとはけ。姫路城。

  • 西国27番札所、書冩山圓教寺③-③ 兵庫県姫路市。

    若い花山(かさん)天皇に、勉強を教えたのは、紫式部の父、藤原為時。後ろ盾のない、天皇が、政治の争いに敗れた時は19歳で、986年。宮中を捨て剃髪して、仏の門をくぐり、圓教寺に入山し受戒したのは、比叡山延暦寺でという。天皇から法皇となった、花山法皇は中山寺の石棺から、観音霊場三十三カ所の宝印を見つけ、紀伊国熊野から、宝印の巡礼が始まる。西国三十三所を決定づけ、御詠歌は、花山法皇が詠んだ句で、一堂から一堂まで巡礼する法皇、道すがらの情景と、人柄が、ありありと浮かんできます。書冩山・圓教寺御詠歌はるばると登れば書寫の山おろし松のひびきも御法(みのり)なるらん👆👇圓教寺・性空上人が1007年に入寂してから、祀られた開山堂。1000年の灯りは、途切れることなく。国の重文が多い、圓教寺の建造物など、まだあるのですが、...西国27番札所、書冩山圓教寺③-③兵庫県姫路市。

  • 書冩山・圓教寺。②~ 兵庫県姫路市。

    西国三十三所札所、関東から最西の場所にあって、三十三所で最大の規模は、御詠歌👇はるばると登れば書寫の山おろし松のひびきも御法(みのり)なるらんこの日は山おろしは無く、照ってる陽は、近畿自然歩道、梢からのやんわり。👆👇魔尼殿は2度の焼失後、1933年昭和8年、落慶された市の重文。910年、京都に生まれた、橘善行36歳で出家して性空と名乗り966年、57歳でここ、書冩山で庵を結ぶ。4年後、性空上人は、天人が庭の霊木、桜の木に讃嘆礼拝をするのを見て桜の木に、如意輪観音像を彫り魔尼殿を建てて、祀ったのが始まりという1398年から明治維新まで女人禁制で、女性はロープウェー発着所が10分程度の如意輪寺で、札を納めたといいます。昭和の構築、構築材もきっちり、痩せもせず整然として、👇回廊は雨が溜まらないようにでしょうか、...書冩山・圓教寺。②~兵庫県姫路市。

  • 晴れて・西国札所27番・圓教寺。①~ 兵庫県姫路市。

    姫路市に付いた夕刻、西国27番札所・圓教寺の場所を確認したのですが、ナビは田んぼの外れを指し、登山口がない。ロープウェーでなければ登れないと判って、この日は、姫路市の宿へ。👇圓教寺へのロープウェー4分間の、始発は8時15分。万全を期したのに、姫路市の道路は、4車線の片側通行で、2車線目を走っては、右折ができなくて面喰いです。ゴンドラにでは、『今日のお客様は、あなた様がおひとり』?乗ってたのは、8人。みんな圓教寺の関係者なのだそうで・・この日は雨の予報でしたが、書冩山しょしゃやま(371m)ロープウェー展望台では、すっかり晴れて、数分ばかりところ、👇石段を登ると、岡本太郎さんの荒々しい筆づかいの、👇石碑がありました。裏側に回ると、この地書冩山山麓で生まれた、悲壮な幼少期を過ごした、作家、椎名麟三さんを紹介し...晴れて・西国札所27番・圓教寺。①~兵庫県姫路市。

  • 河童、自宅で昼行燈。

    👆ムラサキカタバミ?短い4泊5日の札所巡りでした。当初の予定は完璧でしたが、ほとんど崩れました。そのおかげで、予定にない場所、宇良神社や、2度目の伊根の船宿、新井崎の岬などに、訪れる時間を作れたり・・・、感慨もあったり、不運な視覚障害もあったり、今回の為に新調した靴で、肉刺ができたり、いやはや、いやはやの私にとっての遠出。今日は、最終日に寄りたいと、日頃から思っていた、琵琶湖の『菅浦の群落』の一部を載せて、買い出しと、いびきの後の昼行燈です。河童、自宅で昼行燈。

  • 猫に愛されて、西国札所巡り。兵庫県。

    兵庫県に来て今日で4日目、西国33番札所巡りは、しっかり計画を立てて出かけたのですが、関西のお寺さんは敷地が広く、一カ所3時間ばかり、足は棒になって・・・予定通りいかなくて、宿取りに四苦八苦、3日間で撮った、撮って出しをランダムに・・・。今日は、まもなく宿を出ますが、兵庫県は札所番外を1カ所巡りで、終わり、京都の北端、若狭湾に向かいます。👇西国27番札所圓教寺👇姫路城👇一乗寺の猫と枯れっ花👇西国25番清水寺👇西国24番中山寺猫に愛されて、西国札所巡り。兵庫県。

  • 姫路駅

    仕事の一休みは姫路まで、ひとっ走り。昨日、一杯の飲もうかと、仲間からの慰労と激励を兼ねての誘い。普段、付き合いをしない私に、私の誕生祝いをきっかけに・・。とんでもない話。今更の話、生まれた年を数えるのは、3年に一歳か4年に一歳、それが好ましい…ウン‼今年の歳など、口が裂けても云いたくない。けど、去年は確か75だったと、と思う・・よッ‼で、雲隠れ、姫路の宿から数日の工程を送り、付き合いが悪いと、悪口叩く仲間の顔を浮かべて、出先での楽しみ、今日は銘柄「京姫」の日本酒を、くいっ~~っと‼👆👇姫路駅ロータリー。唖然としてしまった。地方出身の私には、とてもなじめない、こじんまりとしているものの、モダンな動線の歩経路。駅は暗渠のような構造で、遠く、姫路城のライトアップが見える。もう、ちょっと引っ張ってみれば、これだ👇...姫路駅

  • 箭弓神社。埼玉県東松山市。

    蝦夷瑠璃草北海道・大雪山や夕張山地の高山の礫地で、見られるのですが、この花は箱根。北海道なら青さがもっと際立っているのではと・・。紫陽花は、鑑賞用に親しまれたのは、戦後になってからなのに、奈良時代には、咲いていた記録が・・。埼玉県東松山市箭弓神社、700年代から、広大な敷地と、建物で、矢久稲荷神社親しまれ、江戸時代、1700年代には、江戸日本橋を中心とした「箭弓稲荷江戸講中」に、引けを取らない、埼玉近郊の人、人で賑わったといいます。伝説に平安期に平忠常討伐に向かう源頼信が、白狐に乗った神から箭(や)と、弓を授かる夢を見て戦に勝ち、これに感謝して社殿を寄進したと・・・。社殿の彫り物は、彫物大工棟梁として、熊谷宿で生まれた、飯田仙之助。弟子に、飯田岩次郎、岸又八らがいて、兄弟子、小林源八も加担していた。仙之助...箭弓神社。埼玉県東松山市。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、大叔父・大田節三の慕情さんをフォローしませんか?

ハンドル名
大叔父・大田節三の慕情さん
ブログタイトル
大叔父・大田節三の慕情
フォロー
大叔父・大田節三の慕情

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用