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  • 今日は何の日

    1985年3月21日。織田信長の時代に、九州のキリシタン大名大友義鎭、有馬晴信、大村純忠は耶蘇会の宣教師の勧めで近親の中から少年を選び、ローマー教皇に謁見させることになった。13,14歳の少年たちは長崎からポルトガル船に乗ってスペインに上陸し、国王フェリペ2世に会見。次いでイタリアからローマに入り1985年、ヴァチカン宮殿で”国王の間”で教皇グレゴリウス3世と謁見した。この間3年2ヶ月を要した。今日は何の日

  • 富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」

    大倭神宮南東約70mには、浄土真宗本願寺派・浄福寺がある。「小野妹子の玄孫・小野福麿をと弔うために建立された六福寺の一つ」との伝承がある。境内にはクロガネモチの大木があり環境省・巨樹・巨木データーベース、2000年6月22日確認によると「樹齢推定200~199年、幹の周り315㎝、樹高=20m」とある。手を伸ばし幹に触れてみる。富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」

  • 富雄川流域探索「大倭神宮」

    大倭神宮は聖徳寺と道を挟んで向かい側にあり、木々や竹藪に囲まれた中に磐座がある。「熊野を迂回して大和に攻め込んだ狭野命(神武天皇は幼少時代)の軍は連戦連敗だった。登美の軍(長髄彦)が勝ち鬨を挙げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲来とともに、金鵄の瑞光があって、両軍矛を納めて大地に平伏した。この天啓によって両軍和議が成立、長曽根日子命が差し出した条件を狭野命が無条件に受諾、長曽根日子命はヤマト国を狭野命に譲り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となったと言う。また、物部、蘇我戦争の際に祖先のトミノオミトイチヒは聖徳太子の矢を背負ったことから"矢追"と言う名を賜ったと伝えている」とHPにある。富雄川流域探索「大倭神宮」

  • 富雄川流域探索「聖徳寺」

    大和国鹿島香取本宮の近くに、融通念仏宗・聖徳寺があるが、「五七の桐の紋」の暖簾が掛かっている。大和郡山市城主であった豊臣秀長と何か関係があるのだろうか。詳細は不明。富雄川流域探索「聖徳寺」

  • 富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」

    霊山寺から川を挟んで北東直線500m程の奈良市富雄中町にある。大和国鹿島香取本宮は「鹿島の神人達が正義を護り不正を正し、外敵から護るため自然の要塞を利用し、神の聖地を維持するため陣屋を固めたのであります。国土開発に大功を建て給うた鹿島・香取の大神をお祀りしたのが始まりであると言われています。」とHPにある。郡山城の鎮守として祀られていたが、住宅開発に伴い今の場所、人斬山頂上に遷されたようだ。地域の氏神様ではなく「単立の神社」として機能しているなど市内ではやや異色の存在となっており、参拝時には飼育されている「神馬」が見られることもある。富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」

  • 富雄川流域探索「霊山寺2」

    古くから行基開基と伝えられ、富雄最大の寺院(富雄町史より)。寺の西側の奈良街道に接する所には昭和初期には南大門があったとされている土塀の一部が残されている。橿原考古学研究所の奈良県遺跡地図によると、霊山寺と葛上神社の境内辺りには「円墳」」として登録されているが、「日本のお城」によると「城跡・角山城」ともされている。富雄川流域探索「霊山寺2」

  • 富雄川流域探索「霊山寺1」

    霊山寺((りょうぜんじ)。奈良最大規模のバラ園として有名。葛上神社の南にある鎌倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。伝承によれば「小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けたとある。富雄川流域探索「霊山寺1」

  • 富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」

    杣川は今の学園前「こうの上池・下池」から南に流れ、富雄南小学校と砂茶屋の中間あたり「第二船場橋」で富雄川に合流する。杣木谷はその昔、大木の茂る山で杣師が管理し、神社などに使う木材の切り出しに従事していた場所でもあるらしい。切り出した用材は杣川へ流し富雄川へ、そして木嶋(木嶋神社あたり)で集積をし大和川へと運んだ。木材を切り出した杣木谷には「水神」として祭られていた神社があったといい、明治初期に葛上神社に合祀され、学園中、南(旧杣木谷)には葛上神社の氏子さんが現在もおられる。吉崎宮司(令和2年帰幽)さんのお話によると「天智天皇近江へ遷都したのをきっかけに、近江へ移りその後、平城京遷都に伴いこの位置に再び造営された。しかし度重なる火災のため今、伝記、資料となるものは残っていない」とのこと。「第二船場橋」があるので「...富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」

  • 富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」

    葛上神社の略歴に書かれている「…杣木谷に渡来した…後に本所に合祀…」とあるが、杣木谷はどの辺りなのか?」。富雄川沿いには「杣木谷」或いは「杣木」と云う地名が見当たらないが、大正元年10月25日大日本帝国陸地測量部発行の地図には「杣木谷」の地名と小集落が記されている。今の地図と照らし合わせてみる。近鉄学園前駅南東は丘陵となっており、頂きに学校が建っている。その丘陵から西に向って斜面となっていて下り、谷川を挟んでまた西には丘陵があり、住宅地が広がっている。学園前駅から西約150m線路脇あたりの小集落が杣木谷だったことが分る。谷川周辺はいま奈良市学園中と学園南に挟まれている。地元の人によると、かつては「杣川」呼ばれていて地名も杣木谷だったとのこと。富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」

  • 富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社2」

    「本神社は、建速須佐命(日本書紀では素戔男尊)を主神として奉斎し、相殿の神は大山咋神、天照大神、三筒男命なり。当社の伝記は散逸、或いは火災に罹り知るに由なしとも、鎮座多くの歳月の経て奈良朝の頃には存在したるものの如し。…」とある。何時の頃か現・学園前駅南西にあったものをこの地に遷したとも。富雄町史には、「葛上神社(水神)で享保(1730年)9月14日には雨乞いの芝居が行われた」と、数行だけ記述されている。富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社2」

  • 富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」

    富雄川にかかる「藤宮橋」を西に渡ると石の鳥居とその奥に大正15(1926)年5月大阪・天満市場村井組と大阪・山熊会(共に世話人・前川嘉雄)献納の、高さ2メートル余りの神前型の石燈籠がある。その先60段の石段を上がると左側に社務所、時計回りに籠もり所、拝殿その奥に本殿四社殿があり、その右側には三集所、その隣に浅間神社の祠がある。本殿の前には♂♀一対の狛犬があり、左右奥には元禄8(1695)年~大正15(1926)年までの14基の石燈篭がある。富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」

  • 富雄川流域探索「峙垣内(そわかいち)行者像」

    奈良県奈良市西千代ヶ丘2丁目4にある。「峙(そわ)」は奈良・中町の旧字名。「行者堂とされるがお堂には弘法大師が祀られている。正面に自然石彫込役行者像があり室町期の造立と考えられている。上部が笠石のように突き出た半肉彫りの行者像は神変大菩薩と呼ばれている」とあが、詳細は不明。富雄川流域探索「峙垣内(そわかいち)行者像」

  • 富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

    添御縣坐神社西側にある根聖院(こんしょういん)。境内に「三碓起源の石」があり、それによると「この土地一帯を三碓と言うのは、遡ること1300年前、奈良時代に小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)がこの地域を納めていました。住居とは別にこの場所に三ッ碓をおき、米を撞かせていましたが、鳥狩りに御幸された聖武天皇がご覧になり、この土地を"三碓(みつがらす)"と名付けられました」とある。(小野福麿は、第三十代敏達天皇の直系の末裔で、春日皇子や小野妹子の子孫)。富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

  • 富雄川流域探索「添御縣坐神社」

    添御縣坐神社(そうのみあがたますいますじんじゃ)。石の鳥居の北側には「三碓小学校跡」の標識があり、当時は西側にある変電設備の辺りにあったらしい。鳥居を潜と参道の左右に祠があり、地蔵が祀られている。坂を登り切った辺りの左側に石段がありそれを登ると境内である。舞台がありその東側に重要文化財に指定されている。南北朝時代の五間社流造で正面の中央と両脇に千鳥破風の本殿があり、小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)公が祀られている。ここより直線距離で北東方向約5㎞の位置、奈良市歌姫町にも添御縣坐神社がある。平城京の表鬼門に対して、富雄の添御縣坐神社は裏鬼門として鎮座させた可能性があるという話もある。富雄川流域探索「添御縣坐神社」

  • 富雄川流域探索「古堤街道」

    五仙堂橋の一つ南側に「上鳥見橋」があり、その西側には「阪奈道路」が高架である。開発されるまでは「土橋」と呼ばれる橋が架かっており、大阪天満橋から片町、徳庵、石切神社、宝山寺、生駒市・菜畑を通り現・阪奈道路沿いに東に進み「土橋」に至る。この「土橋」を東へ直進すれば添御縣坐(そうのみにいます)神社を経て西大寺から三条通へと繋がっていた「古堤街道」であたが、添御縣坐神社より東側は住宅地開発がされ、辿ることは難しい。(古堤街道については杉山三記雄著「河内の街道を歩く」に詳しい)またこの辺りには奈良県遺跡地図によると「追山廃寺」や数基の円墳跡が記されているが、現在は何れも開発が進み各個人宅の敷地となっている。富雄川流域探索「古堤街道」

  • 富雄川流域探索「旧生活道路」

    富雄川の東約200mに、片側1車線の道が阪奈道路「三碓インター」まで続く。民家の間には北條(きたんじょう)地蔵堂、多聞院、添御縣坐神社があり、鳥居前には、旧三碓小学校跡の門柱、下條(しもじょう)地蔵塚等がある。雰囲気から自動車社会になる前は、今は「裏通り」的なこの道が生活道路だったのかも知れない。富雄川流域探索「旧生活道路」

  • 富雄川流域探索「五仙堂村」

    スーパーマーケット・中村屋の北側に五仙堂橋があり、西に向かって細い道の田圃と田圃の間を進むと左側に「五仙堂」と下部に彫られた石柱がある。上部には「皇威赫八絋皇徳昭六合五仙堂」。皇威=天皇の威光。八紘=全世界、八方、八極。赫=かがやくさま、名誉をたたえ顕彰するのに云う。右側面には「和十六年」とある。明治45(1912)年発行の国土地理院地図を見ると「土橋」の北側に「五仙堂」と記載されている。「㏍GOSENDO」と社名のあるお住まいの方にお声がけすると「当時5,6軒位の村「五仙堂村」だったところで、(株)五仙堂は明治の頃大阪四ツ橋で、衣類や日用品を商う店だった。今は店を閉じて、㈱五仙堂も今年(平成29年)末をもって看板も降ろすと…」とのお話し。石柱を左へ坂を登ると井戸がある。近くの方の話によると、...富雄川流域探索「五仙堂村」

  • 富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』4」

    すっぽんを入れた魚籠は桜の枝につるした。桜の幹にも柳の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひっかかっていた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。…帰途(かえり)、酒屋に立ち寄り婆さんにすっぽんを見せた。亀はいるが、すっぽんはこの川でも珍しいと、大変喜んでくれた。二、三人見に出てきた男の一人が笑いながら、『かみに、養殖している人がありま。そこから逃げた奴だっしゃろ』といった。野生のつもりでいたので、これは少し興ざめした。…」とある。富雄駅の鉄橋から富雄川を南へ向かって歩く様子を語っている。「酒屋」とあるが昭和30年ごろ、現・富雄中学校の隣に酒蔵があったが今、「ボトルワールドOK富雄店」になっている。富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』4」

  • 富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』3」

    一軒離れて、間口の広い造り酒屋がある。その前の立木の中を分水した方の水が流れている。丁度前かきの幅だけなので、それを入れて子供達に下流から叉手(さで)で追はしたが、何度やつても一尾も入らなかつた。…十二、三軒人家のかたまった所を通りぬけると、真直ぐな一本道に出た。左は田圃、右は川で、遠く、大な榎が四辻においかぶさっている砂茶屋という所まで、それが続いている。此辺の川には綺麗な洲があり、葭(よし)が生え、何となく親しみ易い景色だった。路から一間ほど下り、草原の木陰で持って来た物をひらいた。すっぽんを入れた魚籠は桜の枝につるした。桜の幹にも柳の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひっかかっていた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。…帰途(かえり)、酒屋に立ち寄り婆さんにすっぽんを見せた。亀はいるが、すっぽんはこの...富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』3」

  • 富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』2」

    「…次の日曜(六月四日、晴れ)それを持って、うち中で富雄川へ出かけた。大概の生きものは好きだが、捕ることは甚(ひど)く不得手で、魚捕りも好きではないが、此日は前かきで多少の興味を持ちながら行った。電車を降り、線路について片側人家のだらだら坂を下りきると、直角に、それが富雄川だ。幅、四、五間の川床で、水は砂地を残し、もっと狭い幅で流れている。岸から、一寸した草原があり、其所に枝のよく広がった桜が一列にならんでいる。赤いのや、もう黒く熟した小な桜ン坊が沢山ついていた。桜並木と往来との間に上流で分水した小さな流れが下の川よりもなみなみと勢いよく流れている…」。富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』2」

  • 富雄川流域探索「富雄川と志賀直哉1」

    「小説の神様」と言われる志賀直哉が1925(大正14)年から1938(昭和13)年まで奈良・高畑に住んでいた。1934(昭和9)年1月に発表された「日曜日」に、富雄駅から砂茶屋ま、富雄川沿いに歩いた話が登場する。富雄川流域探索「富雄川と志賀直哉1」

  • 富雄川流域探索「変電所」

    富雄駅西出口北側に煉瓦造りの建物がある。創業時代の施設として最古の煉瓦造りの「旧大阪電気軌道富雄変電所」。配電用・電鉄用変電所として建造された唯一残っている歴史的建造物。東西の側壁面上部には変電所として使用されたことを示す配線孔跡が残っている。昭和44(1969)年変電所として役目を終え、周辺道路の拡張工事に伴って取り壊しの話が持ち上がった。これに「待った」をかけたのが近鉄・OBの今津勉氏。10年に及ぶ運動によりにより保存が決まった。その後ホームセンターや飲食店などに利用されてきたが、現在では利用されていない。建築者は不明だが、建築年が同じであり、様式が東京駅とよく似ていることから「辰野金吾の設計か」とも。(参考・とみお公民館だより)富雄川流域探索「変電所」

  • 日本最寒の地・北海道母子里町

    春のような温かい日が続いていたのに、今朝の気温-2℃。古民家の庭では厚さ2㎝の氷が張っていた。この寒さで思い出した。10年前に訪れた北海道・母子里町地元の方の話。「昭和53(1978)年2月17日に北大演習林で戦後国内最低気温-41.2℃と言っているが、実際には44.8℃だったのを気象庁が温度計が故障していたので訂正された」と不満げに言っておられたのが可笑しかった。「この時期、車庫に入れた車も、エンジンルームに毛布を掛けておかないと、朝、エンジンが掛からない」と。また、この辺りの言い伝えでは「白樺の葉が落ちると雪が降る」と言うらしい。日本最寒の地・北海道母子里町

  • 富雄川流域探索「近鉄・富雄駅」

    富雄駅は建設計画の当時、富雄村の中心地でもあった国道308号線と富雄川が交差する「砂茶屋」付近に計画されていた。しかし土地買収などの理由から現在の「三碓」に変更された。大正3(1914)年4月30日、大阪電気軌道・上本町から奈良間の開通時に富雄駅として開業し、東生駒駅、学園前駅、あやめ池駅は設けられなかった。昭和16(1941)年、駅名を「鵄邑駅」と改称。昭和19(1944)年、近畿日本鉄道の駅となり、昭和28(1953)年、再び「富雄駅」になる。現・駅西側のコンクリート製の橋は、昭和40(1965)年の駅改良工事以前は鋼鉄トラスト橋だった。(画像は昭和8年の富雄駅水野俊一氏提供)富雄川流域探索「近鉄・富雄駅」

  • 富雄丸山古墳

    2月6日、109mと日本最大の円墳、富雄丸山古墳の第4次調査報告が現地であった。天気も良く大勢の見学者でにぎわっていた。「…今回は特に造り出し南東側も三段構造であることを確認。また、一段目平坦面に巡る円筒埴輪列が造り出しへ向かって、屈曲することから墳丘一段目平坦面と下段平坦面が接続することも分かりました。埴輪列は造り出しへ向かって屈曲しますが途中で途切れると想定皿ます…」と。また、「発掘調査は奈良大学、東京・筑波・法政大学で古墳研究を専攻する大学院生と協力して発掘調査を実施しました…」。日々の調査状況を埋蔵公式Twitter(@naracity_maibun)で発信しています」とも。(パンフより抜粋)富雄丸山古墳

  • 富雄川流域探索「一条街道・地蔵山」

    地蔵山(辻地蔵)は学園前駅の北北西約250mにある。標高145mほどの頂上に石燈籠、地蔵などの石仏がある。1647(正保4)年の地蔵や1759(宝暦9)年の西国三十三所順礼碑もある。1716(享保元)年の地蔵には「二名村住人」が発願したことが刻まれている。「この地は富雄駅北側を中心とした近世の二名村の一部だった。昭和30年代初めの住宅開発で周囲は一変したが、もとから住んでいた学園新田町の人々は地蔵講を作り、今も祀り続けている(2017/8/30毎日新聞より抜粋)」とのこと。この先一条街道は、あやめ池から西大寺方面と三条通り方面に分かれる。今回は富川流域探索から離れるので機会が有れば探索することにし、一条街道はここで終わることにする。富雄川流域探索「一条街道・地蔵山」

  • 富雄川流域探索「七福神社」

    みねの寺を後に東へ坂を降って学園前駅に向かう。途中、小さな地蔵堂が有ったり、駅に近づくにつれマンションがあちこちにあり、その一角には「七福神社」があるが、「この七福神は今の大安寺の田の中より約30年前に出土され室町時代に彫刻されたものと鑑定されている・昭和33年造」とあり、一条街道とは直接関係はない。富雄川流域探索「七福神社」

  • 富雄川流域探索「みねの寺・阿弥陀寺」

    月見橋から二名小学校跡を通って、一条街道へ。峠を登り切ると北側にある「みねの寺・阿弥陀寺」がある。石段を登ると右側に切株の上に仏頭が置かれており、胸の位置にあたるところから枝跡が左右から手を合わせるようにある。本堂右側に年代は分からないが宝篋印塔があるが「あるとき地震でこの塔が壊れてしまいました。村の人はその修理を石屋さんに頼んだところ、石屋さんは壊れた塔の中から、千両箱を見付けました。石屋さんはついその千両箱を持って帰ってしまいました。そしてしばらくすると、石屋さんは目が見えなくなってしまったのです。石屋さんは千両箱を返し、村の人はそれに入っていたお金で今の本堂を建てたのでした」との話。また、本堂裏手には正徳2(1712)年西国三十三所巡礼の碑が4基(二名村)や新しい「子安大師」像がある。「朝には若草山から上...富雄川流域探索「みねの寺・阿弥陀寺」

  • 富雄川流域探索「一条街道」

    富雄川に架かる橋は、生駒市高山の「だんだん橋」から安堵町・大和川合流地点まで、約23㎞の間に約84の橋が架かる。そのだんだん橋から28番目の「月見橋」から法融寺前を通り二名小学校跡、近鉄・学園前駅、あやめ池駅から南寄りに東へ辿れば、現・尼ヶ辻駅前に出て、国道308号の崇神天皇陵から三条通を経て奈良町へと辿れるが「一条街道」、月見橋から学園前駅まで歩いてみた。富雄川流域探索「一条街道」

  • 年賀

    「鳳鳴朝陽」とは「世の中が平和なことをしめす、めでたいしるし」と。本年もよろしくお願いいたします。現・奈良市菅原町にある、日本最古の天満宮「菅原天満宮」の「狛牛」。菅原道真はこの天満宮周辺で生まれたとされており、牛との関係については諸説あるが、その一つが丑年丑の日丑の刻に生まれて、薨去されたのが牛の日だったと言う伝承がある。今日の暦:明治6(1873)年、政府が太陽暦を実施する。年賀

  • ちょこっと京都

    「これが古都・京都駅か?」とおもわず…。古都・京都にはふさわしいと、自分的には思えない「鉄、てつ、鉄」構造である。東海道線を走っていた蒸気機関車「陸蒸気」が、今は電化された新幹線に、しかも時速300㎞で走っている。時代とともに変化して行く一つの「京都」なのだろう。(完)今日の暦:治承4(1180)年、平重衡が東大寺、興福寺を焼き払うちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    初めて訪れた4代目の京都駅。明治10年に京都停車場として開業、大正4年に二代目駅舎、昭和25年には火災により焼失し、昭和27年に鉄筋コンクリリートで三代目駅舎が完成した。今の駅ビルは地上16階地下3階で平成6年平安遷都1200年記念事業として完成したホテル、百貨店の複合ビルで4代目となる。この4代目の現駅ビル大階段は「グラフィカルイルミネーション」と呼ばれ、「171段中125段の大階段には、約15,000個のLEDががちりばめられている」と言うから驚きだ。今日の暦:大正3(1914)年、東京駅が開業し、東海道本線の起点が新橋から東京に移る。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    京都駅北側にある「京都タワー」。1953年(昭和28年)京都駅北側の土地に建っていた京都中央郵便局が移転することが決まり、移転後の跡地の活用が検討され、1964(昭和39)年4月竣工した。当時色々な批判の声があったが、京都タワービルを含めた高さは131メートルあり、今は京都を代表する最も高い建造物である。今日の暦:明治1(1868)年、榎本揚らが蝦夷地を占領い、五稜郭を本営とするちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    清水坂の途中から、高台寺へ向かう道は「産寧坂」、「二寧坂」「一念坂」へと石畳が続く。京都随一の「京都らしい」美しい風景が満喫できるスポット。今日の暦:(1944)年、東海地方に大地震と津波がおこる。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    2017年6月に開店したスターバックス・京都二寧坂ヤサカ茶屋店。世界遺産の清水寺へと続く二寧坂を降った所にある。「大正時代の面影を残した歴史と文化を感じる町並みにある伝統的な日本家屋を使用した店舗です。建築の外観を残したまま、内装は既存の空間を活かしながら新しい解釈で刷新しました」とある。今日の暦:(1892)年、日本初の伝染病研究所が芝公園内に設立される。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    秀吉の妻「ねね」が無事に元気な子どもが生まれることを願ってこの坂を上がり清水寺にお参りしていた。そのことから、安産を願う文字を当てはめて「産寧坂(さんねんざか)」と呼ばれるようになった。その下の坂を「二年坂(二寧坂)」、さらにその下にある坂を「一年坂(一念坂)」と呼ぶようになったと伝えられている。今日の暦:(1944)年、米国の爆撃機B29が東京を初空爆する。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    食事処を探しながら清水坂を右に折れ産寧坂(三年坂)を降りる。昨年はこの産寧坂もスナップ写真を撮る観光客で大変混雑していたが難なく降ることが出来た。産寧坂を降り切った右側に「まぐろ丼」の看板発見。案内に従い路地を東へ入ったが見つからない。距離的に諦めかけたその先に、一寸入りにくそうな、その店はあった。今日の暦:昭和31(1956)年、米原・京都間が電化され、東海道本線全線の電化が完成。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    清水寺楼門前には小学校の遠足か、黄色い帽子の子供たちの姿がが目立った。門前には観光客の姿はあまり見られなく、清水坂は西へ見透しが効く位観光客が少なく「スーイスイ」と歩くことが出来た。今日の暦:大正5(1916)年、船橋無線局とハワイ間で日米通信が始まる。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    五条坂から真夏のような空の下、清水さんへ裏の坂道を登る。右側には毎年お彼岸やお盆にはテレビでお参りする人を映し出している西大谷墓所。墓碑は一万基以上あるとか。ご先祖様の墓碑に到達するのも大変だと思う。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    新型コロナで世界中はその対策で大変な今、いち高齢者としては感染に気を付け外出を自粛し、半年ぶりに公共交通を使ってやって来た。かつて、ネアンデルタール人とホモサピエンスが交雑を繰り返し、ウイルス免疫に強い人々が東の果てにたどり着いた。日本人もそんなDNAを引き継いでいるのかも…。今日の暦:昭和40(1965)年、日本原子力発電東海発電所が初めて営業用原子力発電に成功。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    京都の町家は「鰻の寝処」といわれ、間口に比べ奥行きがその何倍かある家屋。築数百年と言う老舗の店もある。その様な家屋が、いま、取り壊されビル化が進んでいるとか。歴史が消えるのか、新しい文化の出現か、数百年後の人々に託そう。今日の暦:天正6(1578)年、織田信長の水軍が毛利水軍を摂津木津川口で破る。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    朝から良い天気。12時過ぎのただ今の気温33℃。朝方の気温は14℃で、少し厚着をしてきたのを後悔。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    登ってきました、お盆や彼岸になれば、テレビなどで映し出される西大谷の墓地。1万基以上あると聞いたことがある。ここから見れば「納得、納得っ」。今日の暦:昭和31(1956)年、米海軍機が南極地点着陸に成功。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    天気も良く空は快晴の雲一つない青空。朝の散歩で疲れたのか、先ほどの事故とは裏腹に、犬も平和を「むさぼっている」。今日の暦:昭和20(1945)年、政府発行の第一回宝くじが発売される。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    京阪・清水五条駅を地上に上がると警察官が多く出ており、向こう側にはなんと事故を起こし、運転席がひしゃいだダンプカーが…。けが人がいなければいいがと思いながら、清水寺へと向かう。「くわばら、くわばら」である。今日の暦:明治23(1890)年、浅草に12階(凌雲閣)が完成し、日本初のエレベータが設置される。ちょこっと京都

  • ちょこっと京都

    久しぶりに京都まで出かけた。電車の車内の広告が吊られていた所には代わって細かく裂いた、プラスティックのリボンが吊り下げられていた。また天井コーナーにあるはずの広告もなし。窓は少し下げられており、風を取り入れている。これらは新型コロナ対策だと気づく。乗客数も広告収入も減り、鉄道会社も大変と聞く。今日の暦:明治42(1909)年、伊藤博文がハルピン駅で暗殺される。ちょこっと京都

  • 富雄川流域探索「一条街道を歩いてみた」

    富雄川の月見橋交差点から法融寺方向へ向かうと、すぐに駐車場の石垣沿いに右へ緩やかな坂道がある。それを120mほど進むと、民家の東側に「二名小学校跡」の石柱が「ポツン」とある。裏側には「富雄北小学校創立百年記念・昭和54年2月19日建立」とある。西隣のお宅で聞くとそのお宅の敷地を含め「西側一帯が校舎跡だったところで、道を挟んで南側には運動場があった」とのこと。二名尋常小学校は明治12(1879)年に開校、杵築神社境内にあったと言うことが、現・二名小学校元校長の説明にあるが…。昭和8(1933)年に、富雄村立富雄北尋常高等小学校と改称し、現在の富雄北小小学校に移転する。昭和30年3月15日、奈良市立富雄北小学校と改称し、現在に至る。そして平成29(2019)年に富雄北小学校は開校140年を迎えている。今日の暦:延暦...富雄川流域探索「一条街道を歩いてみた」

  • 富雄川流域探索「一条街道」

    月見橋から法融寺前を通り二名小学校跡、近鉄・学園前駅、あやめ池駅から南寄りに東へ辿れば、現・尼ヶ辻駅前に出て、国道308号の崇神天皇陵から三条通を経て奈良町へと辿れる。また、途中、近鉄・あやめ池駅から真っすぐ東に向かえば(現・線路沿い)、西大寺から平城京跡の北側「一条通」を通って、転害門へと向かう。これらは明治45年5月30日(41年測図)発行の1/20000の「古今マップ」で、辿ることが出来る。富雄川流域探索「一条街道」

  • 富雄川流域探索「旧一条街道」

    西国からは、山陽道を通って大坂から奈良・東大寺、春日大社に至るルートとして主に、現・国道163号線で、生駒・高山にいたるルートと、国道1号線・枚方から国道168号線を南下し、高山にいたるルートがある。何れも「高山大橋」に至る。富雄川沿いに南下、富雄二名から東へ進み現在の学園前、さらに菖蒲池を通り西大寺、法華寺、転害門へ向かうルートがあったと言う。イラスト地図「富雄に於ける古街道と…」を見ると、左上部「北倭村」で富雄川と交差している。ここが現・高山大橋と思われる。画像中央、法融寺を東に進むと「至一条道」とある。「…近鉄学園前駅北側の住宅地西は富雄川を経て生駒に至り、東は西大寺・法華寺を経て奈良へ通じる古い道が走っている…(毎日新聞2016/9/21やまと・民俗への招待・より抜粋)」ともあり、一条街道と伺える。慶長...富雄川流域探索「旧一条街道」

  • 富雄川流域探索「室町末期の大峰信仰」

    2018/9/26毎日新聞、やまと・民俗への招待「盆地に広がる大峰講/奈良」によると、「県内150の集落の民俗調査をし、その結果を項目ごとに、地図化した『奈良県民俗地図』(県教委刊1982)という報告書がある。信仰的な講集団の項目を見ると、盆地部を中心に、大峯山を信仰の対象とした行者講・山上講が広く分布していることが分かる。寺院の境内や道端に役行者の石像や大峯山三十三度登山などと刻んだ石碑があるところは、こうした信仰や講があったとみていいだろう。石造行者像としては、秋篠寺の天文15(1546)年在銘のものが最も古く、法融寺(奈良市二名)の1555(天文24)年像や長弓寺(生駒市上町)の室町後期のものなどが古い例で、盆地西北部の講の結衆の早さがうかがえる」とある。天正15(1587)年、豊臣秀吉が北野の大茶会を主...富雄川流域探索「室町末期の大峰信仰」

  • 富雄川流域探索「岩ごと本堂の中へ…」

    杵築橋南約250m春日橋交差点の東側に「海瀧山王龍寺」の石碑がある。道なりに約1.6㎞東へ進むと山門に着く。古く聖武天皇の勅願による古刹とされている黄檗宗の寺院。山門を入り本堂へと続く参道は奈良市の文化財(天然記念物)に指定されている、市内での貴重な里山の自然林。堂内には本尊があり、花崗岩の正面に建武三(1336)年の刻銘の十一面観音立像と、その脇に文明1(1469)年の刻銘のある不動明王が彫られており、大きな岩ごと堂内にある。また境内には奈良県の保護樹木・奈良市の文化財(天然記念物)に指定されている樹齢、約300年の古木・雌株がある。「ヤマモモの木は雄花、雌花の「雌雄異株」と言う。「高さ約10mで、根元近くで三本に分かれ、樹幹の基部の周囲は約5m。昭和25年のジェーン台風で上部が折れたがその後側枝が伸びて樹勢...富雄川流域探索「岩ごと本堂の中へ…」

  • 富雄川流域探索「真っ直ぐな参道がある杵築神社」

    奈良市二名町に入る。杵築バス停の北東側に神前型の石燈籠と石の鳥居がある。その先にはよく手入れされた、美しい松並木の参道が100mほど一直線に、二の鳥居、石段、本殿へ向かってある。「古くより牛頭天王と呼ばれ、敏達天皇の皇子春日王が聖徳太子らと物部守屋を滅ぼした功績により、この地(大字春日)を拝領して舎城を構え、祖神をここに鎮祭されたのが始まりとされている」とある。今日の暦:(1877)年、西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃、西南戦争が終わる。富雄川流域探索「真っ直ぐな参道がある杵築神社」

  • 富雄川流域探索再開

    奈良市西部の西ノ京丘陵と矢田丘陵に挟まれた谷底を生駒市高山の溜池から大和川まで約23㎞を流れる「富雄川」。この「富雄川」は飛鳥時代には「富の小川」として詩に詠まれたり、古事記、日本書紀には「神武天皇東征」に登場する「長髄彦」の伝承があったりする。そんな、富雄川流域探索を再開。今日の暦:安政1(1854)年、日露和親条約が結ばれる。富雄川流域探索再開

  • 遺物品の用途「もしかして、こんな使い方も・貴方の考えは…」

    「電熱ヒーター」、「いやいや、蚊取り線香台」。大安寺境内の杉山古墳周濠から9世紀前半の土器と共に出土したもの。座禅体験は1本の線香が燃え尽きる約45分で終える。時代と出土場所からやはり、時間を測る「香時計」か、それとも…。11月20日まで奈良市埋蔵文化財調査センターで「ナニこれ!?平城京出土の用途不明品」秋季特別展が開催されている。用途が今一度はっきりしない出土品が数多く展示されている。会場の出口には来場者が思いついた用途を提案する「御意見箱」があり、来場者は奈良時代の都に思いをはせながら「もしかしてっ」と想像しながら用途を書き込んでいる。今日の暦:(1938)年、三菱重工で零式艦上戦闘機の試作が完了する。遺物品の用途「もしかして、こんな使い方も・貴方の考えは…」

  • 遺物品の用途「盆栽の始まり?・貴方の考えは…」

    高さ9.9cm、底部の長径11.4cm、短径8.2cmの断面山形の須恵器質の土製品です。粘土塊を山形に成形し、断面U字形の工具で洞や岩肌を表現しています…。ウワナベ古墳の南外濠とみられる遺構から、埴輪や8世紀前半から中頃にかけての土器・軒瓦と一緒に出土しました。山形施釉陶器と同様の仏具の可能性もありますが、「盆山」に使う山のミニチュアの可能性もあります。「盆山」とは盆の上に石や土砂、苔・草木などを配し、自然の風景を模した芸術です(画像右下)。「盆山」は我が国では、鎌倉時代の13世紀半ばに成立したとされる『西行物語絵巻』にみえるものが最古とされています。…ただし、中国では706年に陪葬された草懐太子李賢の墓の壁画に描かれており、本品が「盆山」の用具であれば、我が国での初見を大きく遡る資料となります。(パンフレット...遺物品の用途「盆栽の始まり?・貴方の考えは…」

  • 遺物品の用途「仕切りのある須恵器・貴方の考えは…」

    肩部に一対の取っ手(把手)がついた須恵器。平城京の井戸から出土したもの。内部には壺内を2等分する仕切り板があった。壺の口径が約9㎝。この狭い壺口から両手を入れて、厚さ0.5㎜の仕切り板を付けるのは「なかなかの作業」となる。また、液体を入れたのか、粉ものをいれたのか?異なったものを一緒に貯蔵する物は何だったのだろうか?平城京外では富山県出水市の窯跡で仕切りのある横瓶が出土している。今日の暦:応仁2(1468)年、仁和寺が応仁の乱の兵火を受ける。遺物品の用途「仕切りのある須恵器・貴方の考えは…」

  • 遺物品の用途「ココヤシの実・貴方の考えは…」

    平城京の井戸枠内から出土した9世紀前半のヤシの実の内部、12.3㎝×9.8㎝の内果皮(ないかひ)。大きく口を開けた上に小さな目のように、加工装飾が施してある。漂着物なのか、南方との交易によって、はるばる、奈良にもたされたのか?用途は…今日の暦:昭和24(1949)年、キティー台風が関東を襲う。遺物品の用途「ココヤシの実・貴方の考えは…」

  • 遺物品の用途「貴方の考えは…」

    令和2年・秋季特別展「ナニこれ!?」が9月1日から、奈良市埋蔵文化財調査センター展示室で始まる。発掘調査で見つかる遺物の中には、破片も多くあり、その形状や材質を見ただけでは、専門家も用途に今一つ首をかしげる遺物類があり、それらを紹介している。「貴方の考え」も募集しています。遺物品の用途「貴方の考えは…」

  • 富雄川流域探索「最古の国書、真意はさておき…」

    天照大神、天忍穂耳、神武天皇、饒速日と、古事記に。古事記は天武天皇の発案により国家運営の根本にかかわる事業として、後世に伝えるための史書として作成された。稗田阿礼が諳んじた天皇家の物語を、30数年かかって太安万侶が文書にした事から始まり、序文に続き上巻は神造り「天地の始まり」、中巻は初代神武天皇、15代・応神天皇、そして下巻は16代・仁徳天皇から25代・武烈天皇までで終わっている。古事記の内容については色々な意見があるようだが、≪河童≫としては、この場所がどの様に比定されたのかとか、なにわともあれ掘り下げる知識はない。ただ日本最古の「国書」に出てくる「場所」が富雄川流域にあることを楽しみたい。画像は国学院古事記学センターより今日の暦:天正18(1590)年、徳川家康が江戸城に入城する。富雄川流域探索「最古の国書、真意はさておき…」

  • 富雄川流域探索「大和には出雲系が先に存在したっ」

    饒速日墳墓は矢田丘陵の北端にある。生駒市体育協会総合SC(生駒市白庭台)の広いグランドを南から北へ横切り、山道に入り道なりに進むと約15分ほどでたどり着く。石柱には「傳稱饒速日墳墓」と、左下に「浪華藤澤章」と個人名が彫られている。石柱の後ろ側には小さな石が約1㍍位の高さで三角山に積まれており、墳墓らしさが「演出」されている。饒速日(ニギハヤヒ)は物部(もののべ)氏の祖先神といわれ、天磐船(あめのいわふね)にのって天くだり、その後大和国の「鳥見の白庭山」に移り、長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻とした。一度は勝った神武天皇と再び戦が始まったが、金鵄が飛んできて神武天皇の弓先にとまり、長髄彦は目がくらみ戦うことが出来なくなった。しかし、長髄彦は神武天皇より先に降臨した饒速日に忠誠を誓っていた...富雄川流域探索「大和には出雲系が先に存在したっ」

  • 富雄川流域探索「信じていたのに…」

    「長髄彦の本拠地」。学研北生駒駅西へ直線距離1.2㎞の旧集落内にある。高千穂から河内湾(現・大阪湾)まで来た神武天皇(磐余彦(いわれひこ))は、旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近を支配していた神武天皇は長髄彦の抵抗により上陸を阻まれる。長髄彦は、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされて、長髄彦の娘を娶っていた饒速日(にぎはやひ)と言う神に忠誠を誓っていた。ところが、長髄彦が戦っているうちに饒速日は磐余彦(神武天皇)に仕えてしまう。磐余彦は長髄彦に「天は一人でない」と諭すが、改心しないので殺してしまう。「あー私はあなたが唯一の神と信じていたのに…」この饒速日は後の物部氏の祖であると日本書紀にあると言う。今日の暦:天...富雄川流域探索「信じていたのに…」

  • 富雄川流域探索「日本書紀と富雄川3」

    長髄彦が信じた神「天忍穂耳(あめのおしほみみ)」。神武天皇顕彰碑の先にある、天忍穂耳神社。天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子の長男「天忍穗耳尊」を祀る。神武天皇の東征に初めて抵抗した長髄彦が唯一の神と信じて忠誠を誓った「天忍穂耳」。天忍穂耳の子「饒速日命」に娘を娶らせていたが、しかし饒速日は長髄彦を裏切って神武天皇(磐余彦)の味方になる。今日の暦:天正13(1585)年、豊臣秀吉が四国を平定し、長宗我部元親を土佐に封じる。富雄川流域探索「日本書紀と富雄川3」

  • 富雄川流域探索「日本書紀と富雄川2」

    「孔舎衙で戦に負けた神武天皇は河内湖を南に進み和歌山県熊野から八咫烏の案内により大和国に入り、再び長髄彦と戦うことになった。孔舎衙では東に向かって長髄彦軍に矢を放ったことは、天照大神向かって矢を放たことになった反省から、此度は東から西に向かって長髄彦軍と戦った。その時、神武天皇の弓の先に金鵄が留まった。それを見た長髄彦軍は目がくらみ矢を放つことが出来ず戦に負けた」とされている。子供の頃から聞かされていた話だ。今日の暦:安政1(1854)年、日の丸の旗を日本船のしるしとする。富雄川流域探索「日本書紀と富雄川2」

  • 富雄川流域探索「日本書紀と富雄川」

    西村橋西詰の少し南にある「出垣内」バス停の少し南側に案内標記がある。日本書紀にも記載されている、神武天皇東征の聖蹟を顕彰するため、即位してから2600年後にあたる1940年(昭和15年)の記念をお祝いする奉祝事業で建立された。顕彰碑は、大分・福岡・広島・岡山・大阪・和歌山に点在する。九州を出発した神武天皇が率いる皇軍は、難波の碕を通って草香邑(くさかむら)から上陸し、大和へ入るために日下直越道(くさかただごえみち)を進むが、途中の孔舎衛坂(くさかえざか)で長髓彦(ながすねひこ)に行く手を阻まれ、紀伊半島を迂回する行動に出る。(国立デジタルコレクション、神武天皇聖蹟調査報告書より抜粋)。今日の暦:(1609)年、徳川幕府が、琉球を島津氏に与える。富雄川流域探索「日本書紀と富雄川」

  • 富雄川流域探索「そんな時代があった神仏習合」

    伊弉諾神社は長弓寺境内にあり、本堂へ向かう東側にある。長弓寺と同じく、聖武天皇の勅願によって、長弓寺の守護神として建てられた。神職は長弓寺の僧の中の第一﨟の人が継承されていると言う。かつては仏教が主で、神道が従であった時代があった。平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う神仏分離令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いてたと云う。今日の暦:(1718)年、徳川吉宗が重ねて中国船との密貿易を厳禁する。富雄川流域探索「そんな時代があった神仏習合」

  • 富雄川流域探索「山門はどこっ」

    真弓橋東詰め信号の東側に「真弓山長弓寺」の石柱がある。その向こうには大きな石の鳥居があり、参道が東へと向かっている。真弓寺の石柱より伊弉諾神社の鳥居が大きいので、躊躇するが、鳥居をくぐって進むと山門があり、長弓寺境内だ。長弓寺は、聖武天皇がまだ若かりし頃、豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその子であった長麿(ながまろ)とが、狩りに出かけたが、長麿が誤って父・長弓を射殺してしまった。聖武天皇はこのことを深く悲しみ、僧・行基に命じてお堂を建て十一面観音を祀り長弓を弔った」と云う一寸悲しい話がある長弓寺である。今日の暦:明治15(1882)年、日本初の鉄道馬車が、新橋-日本橋間に開通する。富雄川流域探索「山門はどこっ」

  • 富雄川流域探索「西日を向く地蔵さん」

    富雄川沿い東側の高台にある「融通念仏正覚山安養寺」。石段を登り三門入り口わきに大きな地蔵が西向きに立っている。反対側には「不許酒肉五辛入門内」の石柱。本堂軒丸瓦には「徳川立葵」の彫刻。本堂は新しく地下室がある。境内には鐘楼があり天明4(1784)年7月と新しい石柱があり、また、敷地内には地蔵が多く集められ供養されている。今日の暦:文化1(1804)年、出羽の大地震で名勝・象潟(ひさがた)が隆起し、陸地となる。富雄川流域探索「西日を向く地蔵さん」

  • 富雄川流域探索「流域に架かる橋」

    「くろんど池」を源とし、大和川に合流するまで約23㎞を生駒市、奈良市、大和郡山市、斑鳩町、安堵町と流れる富雄川に架かる橋は手持ちの資料には93橋とあったが、歩行者専用の橋であったり、橋名のプレートのない橋を含めて84橋が確認できた。今日の暦:(1582)年、豊臣秀吉が毛利氏と講和し明智光秀討伐(中国多返し)に出向かう。富雄川流域探索「流域に架かる橋」

  • 富雄川流域探索「願うは子供の成長」

    法楽寺。「奈良時代、東大寺大仏殿建立にあたり西北にあたる当地に王城守護のために聖武天皇が僧・行基によって開創させたと伝えられています。永禄10年(1567)松永氏によって大仏殿が焼き討ちされた際、当寺も消失しましたが、鷹山氏により再興されたと伝えられています。薬師堂は棟札銘から寛文3年(1663)に再建されたことがわかります」と生駒市デジタルミュージアムにある。境内には康永4(1345)年銘の十三重塔がある。また、小絵馬が奉納されており、拝み絵馬、子供の育成、安眠、乳搾りなどの絵馬があるが、これらは「保存のため現在は公開していない」との事。今日の暦:明治21(1888)年、東京天文台(気象庁の前身)がおかれる。富雄川流域探索「願うは子供の成長」

  • 富雄川流域探索「大和北田原城跡」

    大阪市から京都府木津川市を経由して三重県津市に至る一般国道である、国道163号線北田原交差点の北側にある小高い山が「北田原城跡」。頂上には関西電力の高圧鉄塔が立ち、眼下には大阪と三重県を結ぶ旧街道・清滝街道が東西に、また、現・大阪府交野市から岩船街道を通って奈良県に入る国道168号線がすぐ西側を南北に通っており、絶好の監視所だったであろう。鉄塔の辺りが一の曲輪跡と言われており、北へ向かって尾根伝いに道があり、二の曲輪などがあったと言われている。坂ノ上丹後守の城と言われているが、江戸時代、享保年間に編纂された「大和志」によると「田原壘(とりで)同村ニアリ、北田原ハ、坂上氏之ニ據(よ)リ、奥田原ハ奥田原兵蔵・同元右衛門ノ據ル所ナルモ共ニ事跡詳ナラズ」とだけあり詳細は不明。ただ、「星のまち交野・私部城の歴史をたどる奈...富雄川流域探索「大和北田原城跡」

  • 富雄川流域探索「彩色された狛犬があるのだが…」

    石の鳥居を潜って進み、三叉路を左(北)方向に曲がると、右手に池がありその先に52の石段の参道が見える。関係はないと思うが猿沢池の石段も52段。本殿脇にある六角石燈籠は正徳元(1711)年8月吉日、高山村奉納と彫られた常夜灯があり、彫が深くはっきりと読める。「749年に東大寺の大仏の守護神として大分県宇佐神宮から八幡神が迎えられ、大和入りした場所がこの高山八幡宮といわれている。「本殿は重要文化財に指定されており、鎌倉時代には、叡尊が、当地で菩薩戒(ぼさつかい)を授け、高山地域の領主であった『鷹山氏』の氏神として栄えました。…」と生駒市デジタルミュージアムなどにある。また、公開はされていないが、彩色された鎌倉時代末期と推定される木造の狛犬、一対がある。富雄川流域探索「彩色された狛犬があるのだが…」

  • 富雄川流域探索「大庵寺」

    竹林園と富雄川を挟んでの西側旧道「上大北」のバス停から約240㍍程南へ戻ると右側少し高台にフェンスが見える。もともと「大雄寺」と呼ばれていたが、明治以降「大庵寺」と呼ばれるようになったそうだ。それらしい標識は見当たらない。児童公園も兼ねているのかボール投げなど禁止事項が書かれた看板がある。空き地に石仏や宝篋院塔などが一ヶ所にまとめられていた。蓮弁に座する石仏や舟形に彫られた中にはめ込まれた「入れ子型」の地蔵石仏がある。崩れかかった建物が一棟あり、雰囲気的には本堂だったのだろうか。その左側には屋根の下で片膝突いたやさしい顔の元明4辰(1784)年十一月十八日建立の如意輪観音坐像があり、基礎部に「那智山」と「一番」が交差して彫ってあり奉納者名が読める。「西国一番那智山」とは、那智の大瀧に対する古代信仰から始まったと...富雄川流域探索「大庵寺」

  • 富雄川流域探索「茶筌の里」

    室町時代の中頃、この地の領主であった鷹山氏(高山氏)出身で、高山頼栄の次男で連歌師であった高山宗砌(そうぜい)が「わび茶」に通じた人であり、村田珠光の依頼を受けて茶道具の茶筅(茶筌)を考案したのが始まりとされている。茶筌は、用途、流派によって使う茶筌の先の穂立ちや、竹の種類、糸の色などが異なる60種類以上もの茶筌が作られ、それらが展示されている「高山竹林公園」。毎年2月頃、近くの田圃では竹の乾燥のため、約1.5mに切りそろえられた数十本の竹が、円錐状に傘の骨組みのように組まれ、日光にあて、寒風にさらす「竹の寒干し」作業の最盛期に入り高山町の風物詩になっている。寒干しのあと1年ほど倉庫で寝かせてから製品に加工されるという。また、園内の南側一段下がった所に圓楽寺跡がある。中世生駒市北部を支配していた鷹山氏の菩提寺、...富雄川流域探索「茶筌の里」

  • 富雄川流域探索「お寺に見えない向露寺」

    高山城跡の西直線距離約200mの所にある。境内には普通の民家風の建物があり、元は墓堂だった。浄土宗で本尊は阿弥陀如来とある。墓地が北側一面に広がっている。元、奈良県議だった奥野誠亮氏揮毫の「忠魂碑」があるので、この地区からも多くの戦士が出征したのであろう。向露寺墓地は元禄2(1689)年開基とされている。有井山家文書永代向露寺記録(元文3(1738)年には「和州添下郡高山村向露寺元来庄田村大北村和田村三ヶ村之墓所也」と記載されている。(添下郡=奈良市北西部、大和郡山市北西部、生駒市北部)。今日の暦:(1874)年、台湾出兵を決議、5月22日台湾上陸。富雄川流域探索「お寺に見えない向露寺」

  • 富雄川流域探索「高山城跡」

    くろんど池から川沿いに南へ下ると、高山集落があり標高217mの山城である高山城跡がある。生駒デジタルミュージアムによると「室町時代に奈良興福寺一乗院方衆徒高山(鷹山)氏によって築かれたと云われている。この城の歴史はあまり詳しく伝わっていないが、城主高山氏は、応仁の乱から戦国時代には越智・古市氏に属している」とあり、また、「室町後期、天文13(1544)年、筒井氏の柳生城攻めには、筒井氏に従って参陣しているが、後の筒井城主筒井順慶と信貴山城主松永久秀の抗争では、松永氏に従っている」と、お城の旅日記にある。頂には鳥居、十三重塔、九龍神(雨と水をつかさどる神)が祀られている。今日の暦:明治33(1900)年、軍艦マーチが神戸沖の観艦式で初演奏。富雄川流域探索「高山城跡」

  • 富雄川流域探索「田畑を潤す井堰の多い川」

    生駒市、奈良市、大和郡山市、生駒郡斑鳩町を経由して、安堵町で大和川に合流するが、その距離約23㎞で、くろんど池からの標高差は約185mある。そこに掛かる「橋」は約93橋(平成29年現)ある。西ノ京丘陵と矢田丘陵に挟まれて流れてきた川も、大和郡山市に入ると東側に平坦部が広がり、そこには3個十個井堰がある。その他「七箇井堰」は灌漑面積237町歩を潤している。また、3㎞程の距離に転倒式可動堰や空気ゴム堰等の「堰」が6ヶ所ある区域もある。今日の暦:寛永3(1626)年、幕府が人身売買を禁止する。富雄川流域探索「田畑を潤す井堰の多い川」

  • 富雄川流域探索「くろんど池(源流)」

    奈良県生駒市高山町にある、くろんど池(黒添池)の由来については、江戸時代末期雨不足により飢饉がよく起こったことから、灌漑用の溜池として当時の代官・有山精治が造営したとされている。名前の由来としては、平安時代、嵯峨天皇(809~823)の頃、この地に蔵人(くろうど)職と呼ばれる貴族たちの別荘庭園があったとされていて、蔵人が訛って「くろんど」となったと云われている。この「くろんど池」の堰堤の標高約225mから流れ出る水が富雄川の源流となり、標高差約185mの奈良県斑鳩町と安堵町の境辺りで大和川と合流する。源流が1適の湧き水からではなく、溜池からオーバーフローして、流れ出た水だったことに少々気落ちをしたが源流は源流である。今日の暦:(1949)年、GHQが1ドル360円の単一為替レートを指令する。富雄川流域探索「くろんど池(源流)」

  • 富雄川流域探索

    奈良市内には奈良盆地周辺の山地より南流する一級河川は3河川ある。一番東側には若草山東麓を走る柳生街道の石切峠付近を発し、奈良盆地へ出、奈良市街北部を潤す「佐保川」。近鉄・学園前駅北側にある大渕池を起点とし、大和郡山市で佐保川と合流する「秋篠川」。そして、一番西側を西ノ京丘陵と矢田丘陵に挟まれた谷底を流れる「富雄川」がある。この「富雄川」は飛鳥時代には「富の小川」として詩に詠まれたり、日本書紀には「神武天皇東征」に登場する「長髄彦」の伝承があったりする。そんな、余りに知られていない富雄川流域を水源から大和川に合流する地点まで20㎞余りを探索をしてみた。今日の暦:天正11(1583)年、柴田勝家と豊臣秀吉が賤ヶ岳で戦う。富雄川流域探索

  • 何かがおかしい昨今

    例年桜の開花は九州から関西、関東へと移ってゆく。しかし、今年は東京での開花が一番で、仙台も開花宣言がなされた。しかし、一昨日で鹿児島ではまだ開花していないと言う。いったいこれは…。新型コロナで、桜も…。今日の暦:天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原城を囲む。何かがおかしい昨今

  • 「新型コロナ」が頭から離れない

    寝ても覚めても新型コロナウイルス。ストレス発散と思い、奈良市菅原町にある東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わり、東大寺のひな型と伝承され「試みの大仏殿」と云われる「喜光寺」へ。境内には人っ子一人いない。本堂前には、夏になると綺麗な花を咲かす「蓮」の鉢が並ぶ。「あれれっ」本尊さんが「ないッ」。「ご本尊阿弥陀如来は解体修理にお出ましになり、ご本躰は令和2年6月に完成予定でお戻りになります。この修理に伴い堂内の拝観が出来ない場合がありますのであらかじめご了承下さい」とあった。「まさかコロナ検査ではあるまいなー」と、新型コロナが頭から離れない。今日の暦:1889(明治22)年、パリのエッフェル塔が完成する。「新型コロナ」が頭から離れない

  • 成るようにしかならないっ

    新聞を見ても、テレビのどのチャンネルを開けても、新型コロナ、新型コロナ、新型コロナウイルスである。感染を防ぐ確たる方法もなく、マスクをして、手を洗い、嗽の他なさそうだ。まぁ成るようにしかならないのが現状。ゆっくり、ぼちぼちといきますかっ。カタツムリのように。今日の暦:元治1(1864)年、萩藩が高杉晋作を投獄する。成るようにしかならないっ

  • 群楼、飲食、群集の「花見」

    新型コロナウイルス騒動で、暗いニュースが続いている。外に出てみれば、地元の桜の標準木(河童の勝手木)が開花していた。群楼、飲食、群集の「花見」は規制されているところがあるが、何故か心が「浮き浮き」してくる。今日の暦:承久2(1220)年、京都・清水寺が焼失する。群楼、飲食、群集の「花見」

  • ウイルス騒動下で、こんな所にも…

    大阪でも桜の開花宣言がなされ、さ~、世の中明るくなるかっ。家に閉じこもっていたが、溜まったストレスの解消を兼ねて、車で一寸遠くのスーパーへ。な、なんと、トイレのエアータオルが使用禁止っ。ここまでするか!と言いつつ自分はガッツリマスク着用していた。今日の暦:1882(明治15)年、コッホがベルリン大学で結核菌発見を発表する。ウイルス騒動下で、こんな所にも…

  • ウイルス騒動下での花見は…

    コロナウイルス騒動で、家の中に閉じこもる日々を過ごしている。野辺には春の草花が咲き始め、季節は停滞なく、前に進んでいる。そんな中、毎年恒例の桜の開花宣言が行われるが、大阪の開花宣言はまだされていない。東京上野公園では早、満開とか。しかし、ウイルス騒動で花見宴会は中止になっている。画像は2017年の上野公園の「花見」である。毎日新聞朝刊「余禄」からの受け売りだが「造園家の白幡洋三郎さんによれば、日本の花見の三要素として、群楼、飲食、群集と言う。群れ咲く桜、その下での飲食、そして大勢の人出。日本以外にない春の集団行動だ」と。今日の暦:(1661)年、江戸幕府が諸大名に、城米の半分を江戸、大坂、大津に運ぶように命ずる。ウイルス騒動下での花見は…

  • あれから2週間

    新型コロナウイルス騒動で、スーパーの棚からトイレットペーパーやティッシュペーパーが姿を消した。約2週間ぶりに訪れてみた。さすがに「これ見よがし」と言うほど積まれていた。しかし、報道のように今はマスクがない。ここの店にも見当たらないので、係の方に尋ねてみた。「在りません。棚もあえて設けておりません」との返事。コロナ騒動はまだまだ続くのだろうかっ。今日の暦:明治43(1910)年、日野大尉が、日野式飛行機を試験飛行。あれから2週間

  • 歴史は繰り返す?

    大型スーパーに立ち寄ってみて驚いた。色とりどりのスーパーの棚が、そこだけ真っ黒。テレビや新聞で「マスクが店頭から消えた」等と報じていたが、スーパーの棚からトイレットペーパーなども無くなっているなんてっ。47年前のトイレットペーパー騒動がよみがえる。あるスーパーの棚からトイレットペーパーが少なくなったので、少し値段の高い在庫のトイレットペーパーを並べたところ、それがさらに品切れに拍車をかけ、騒動に繋がったとの事だった。今回は新型ウイルスが原因とか。でもトイレットペーパーと、どの様な繋がりがあるのだろう。「歴史は繰り返す」と言うが…。今日の暦:明和8(1771)年、杉田玄白、前野良沢らが小塚原で腑分(ふあけ)を見学する。歴史は繰り返す?

  • 駅の真ん前にある明石城跡「400年前の町割りの上に…」

    昨年築城400年を迎えた明石城跡は、県立図書館や球技場など、スポーツ、レクリエーションの各種運動施設がある、県立明石公園内にある。「日本の都市公園100選の地」に、また「さくら名所100選の地」にも選ばれている。400年の歴史の上に建つマンションが薔薇園越しに見え、「若い町(現代の町)」を感じた。(完)今日の暦:安政1(1854)年、日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ。駅の真ん前にある明石城跡「400年前の町割りの上に…」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「剣豪が設計した庭園」

    「剣豪宮本武蔵(1584-1645)の出生地についてはこれまで諸説がありましたが、最近では現在の高砂市米田であると認知されています。武蔵は生涯特定の藩に所属せず全国を旅しながら剣の道を究めたのですが、特に出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。ここ明石においても、1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、明石の町割りや城内樹木屋敷の設営にかかわりました(公益財団法人兵庫県園芸・公園協会HPより)」と。今日の暦:(1946)年、旧円と新円の交換が始まる。駅の真ん前にある明石城跡「剣豪が設計した庭園」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「目の前なのに…」

    薔薇園の近くに「武蔵の庭園」がある。近くまで来たのだが、どれがその庭園なのかわからず、近くのカフェの人に尋ねてみたが、お忙しいのか「知らない、隣の管理所で訪ねて」と。庭園は目の前の園児を連れた若いお母さん方の駐輪している池の左側だった。駅の真ん前にある明石城跡「目の前なのに…」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「多門塀の復元?」

    巽櫓へ向かう、なが~く続く石段。左側(南)には石垣に向かって雁木が不整備のままあり、多門塀が復元されるのだろうか。駅の真ん前にある明石城跡「多門塀の復元?」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「リサイクルされた櫓」

    本丸に御殿は築かれたが、天守は建てられず四隅に三重の櫓を築いた。それらの建物の用材は幕府の一国一城令により、廃城となった伏見城や三木城などの廃材が用いられ、福山城とよく似た伏見城からの移設。今残る、巽櫓、坤櫓は国の重要文化財に指定され、日本に12基しか現存しない貴重な三重櫓。今日の暦:寛永10(1633)年、将軍家光、奉書船以外の海外渡航と外国在住5年以上の日本人の帰国を禁止する。駅の真ん前にある明石城跡「リサイクルされた櫓」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「排水溝から流れ出た水は…」

    天守台四隅に建てられた櫓の一つ「坤(ひつじさる)櫓」西側の石垣には、「稲荷曲輪」へ向けて、大きな排水口が2個見えるが、その後の処理はどうなっていたのだろう。本丸の西側に位置し、東西56m、南北122mの規模の曲輪で、築城時は「西の丸」と呼ばれていた。また「稲荷曲輪」の名は北端に稲荷の祠があったことから名付けられたとされているらしい。今日の暦:慶長8(1603)年、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府が開かれる。駅の真ん前にある明石城跡「排水溝から流れ出た水は…」

  • 古民家だより「氷」

    今冬は暖冬とかで、12月は氷点下の日はなく1月22日に氷点下0.2度となった。その後1月28日の最低気温が8.3度にまで上がり、3月中旬の気温だったとかで、古民家の庭にはまだ氷が見られなかった。しかし、今朝(2月7日)の最低気温は氷点下1.1度となり、「待望」の厚さ約8㎜の氷が張った。冬の風物としては、あと「雪」だっ。今日の暦:明治6(1873)年、日本古来の習慣「仇討ち」が禁止された。古民家だより「氷」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「ここも天守は建てられなかった」

    天守台は台石まで積まれ、東西25㍍、南北20㍍で約152坪には天守は建てられなかったが、五重の天守が乗る規模で熊本城の天守と同規模とのこと。今日の暦:元禄17(1703)年、大石内蔵助ら赤穂浪士46人が切腹。駅の真ん前にある明石城跡「ここも天守は建てられなかった」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「目と鼻の先の淡路島」

    ガイドの方が教えてくれなければ見過ごしていた。巽櫓南側には、ビルとビルの間から瀬戸内海が見え、今、一艘の船が通り過ぎて行く。元和5(1619)年、小笠原忠政が徳川秀忠に命じられ築城したころは、​淡路島との間を行き来する船を見渡すことが出来たのだろう。今日の暦:寛永18(1641)年、江戸・日本橋桶町から出火「桶町の火事」。結果、本格的な火消し部隊を編成駅の真ん前にある明石城跡「目と鼻の先の淡路島」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「天文台遠望」

    巽櫓から直線距離にして約1㎞東方に明石天文科学館が櫓一層目屋根の先に見える。明石天文科学館は昭和35(1960)年に開館した日本で最初に出来た科学館。時計塔は北緯34度38分、東経135度0分に位置する日本標準子午線の真上に建っている。現在国の登録有形文化財に登録されている。今日の暦:明治3(1870)年、国旗「日の丸」が制定される。駅の真ん前にある明石城跡「天文台遠望」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「太い材木でがっしり」

    通常非公開らしいが運よく内部の見学ができた。元和5年(1619年)に徳川秀忠の命により着工した明石城。現存する巽(たつみ)櫓。坤(ひつじさる)櫓と共に2棟の櫓は(国指定重要文化財)。信州松本から明石に移封された小笠原忠真(ただざね)が徳川秀忠の命を受け、西国諸藩に対する備えとして。幕府の一国一城令により廃城となった伏見城の建物が移築された記録が残ると。阪神淡路大震災により、石垣など崩れる大きな被害を受けたが、建物自体が傾いたにもかかわらず、明治期の修理の際に加えられた筋違が柱や梁などを守ったことから驚くほど損傷が少なかったらしい。櫓は明石西方にあった船上城(ふなげじょう)の遺材が使用されたと伝えられている。今日の暦:元和6(1620)年、幕府が諸大名に大阪城の修築を行わせる。駅の真ん前にある明石城跡「太い材木でがっしり」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「綺麗すぎる角石」

    1605年頃に築城技術が一気に飛躍し、角石の積み方「算木積み」技術も完成したとされている。角石には綺麗な「はつり仕上げ」がされた石が見られるが、はたして400年まえの当時のままの石なのだろうか…。今日の暦:安永3(1774)年、幕府が虚無僧の取り締まり令を出す。駅の真ん前にある明石城跡「綺麗すぎる角石」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「長~く続く石段」

    右側の高石垣の上は東の丸、二の丸。正面に見える櫓が乾櫓でその向こうには坤(ひつじさる)櫓が遠望できる。右に曲がり長~い石段を登り乾櫓に向かう。画像の右側がJR明石駅正面からくるルート。今日の暦:寛政11(1799)年、東蝦夷地を幕府の直轄とする。駅の真ん前にある明石城跡「長~く続く石段」

  • そろそろ、エンジン始動しなくては…

    新らしい年も明けたのに今日まで、なんとなく「だらだら」と朝を迎える毎日だった。今日の日の出は7時04分。7時前に今年初めてカメラのレンズを朝焼けの空に向けてみた。今日の暦:正徳5(1715)年、幕府が長崎貿易について「正徳新令」を定める。そろそろ、エンジン始動しなくては…

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