chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel

《河童》の旅メモさんの人気ランキング

  • IN
  • OUT
  • PV
今日 05/01 04/30 04/29 04/28 04/27 04/26 全参加数
総合ランキング(IN) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,523サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
旅行ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 46,858サイト
旅日記・旅の思い出 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,556サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
今日 05/01 04/30 04/29 04/28 04/27 04/26 全参加数
総合ランキング(OUT) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,523サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
旅行ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 46,858サイト
旅日記・旅の思い出 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,556サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
今日 05/01 04/30 04/29 04/28 04/27 04/26 全参加数
総合ランキング(PV) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,523サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
旅行ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 46,858サイト
旅日記・旅の思い出 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,556サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
  • 今日は何の日

    今日は何の日

    1985年3月21日。織田信長の時代に、九州のキリシタン大名大友義鎭、有馬晴信、大村純忠は耶蘇会の宣教師の勧めで近親の中から少年を選び、ローマー教皇に謁見させることになった。13,14歳の少年たちは長崎からポルトガル船に乗ってスペインに上陸し、国王フェリペ2世に会見。次いでイタリアからローマに入り1985年、ヴァチカン宮殿で”国王の間”で教皇グレゴリウス3世と謁見した。この間3年2ヶ月を要した。今日は何の日

  • 富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」

    富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」

    大倭神宮南東約70mには、浄土真宗本願寺派・浄福寺がある。「小野妹子の玄孫・小野福麿をと弔うために建立された六福寺の一つ」との伝承がある。境内にはクロガネモチの大木があり環境省・巨樹・巨木データーベース、2000年6月22日確認によると「樹齢推定200~199年、幹の周り315㎝、樹高=20m」とある。手を伸ばし幹に触れてみる。富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」

  • 富雄川流域探索「大倭神宮」

    富雄川流域探索「大倭神宮」

    大倭神宮は聖徳寺と道を挟んで向かい側にあり、木々や竹藪に囲まれた中に磐座がある。「熊野を迂回して大和に攻め込んだ狭野命(神武天皇は幼少時代)の軍は連戦連敗だった。登美の軍(長髄彦)が勝ち鬨を挙げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲来とともに、金鵄の瑞光があって、両軍矛を納めて大地に平伏した。この天啓によって両軍和議が成立、長曽根日子命が差し出した条件を狭野命が無条件に受諾、長曽根日子命はヤマト国を狭野命に譲り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となったと言う。また、物部、蘇我戦争の際に祖先のトミノオミトイチヒは聖徳太子の矢を背負ったことから"矢追"と言う名を賜ったと伝えている」とHPにある。富雄川流域探索「大倭神宮」

  • 富雄川流域探索「聖徳寺」

    富雄川流域探索「聖徳寺」

    大和国鹿島香取本宮の近くに、融通念仏宗・聖徳寺があるが、「五七の桐の紋」の暖簾が掛かっている。大和郡山市城主であった豊臣秀長と何か関係があるのだろうか。詳細は不明。富雄川流域探索「聖徳寺」

  • 富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」

    富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」

    霊山寺から川を挟んで北東直線500m程の奈良市富雄中町にある。大和国鹿島香取本宮は「鹿島の神人達が正義を護り不正を正し、外敵から護るため自然の要塞を利用し、神の聖地を維持するため陣屋を固めたのであります。国土開発に大功を建て給うた鹿島・香取の大神をお祀りしたのが始まりであると言われています。」とHPにある。郡山城の鎮守として祀られていたが、住宅開発に伴い今の場所、人斬山頂上に遷されたようだ。地域の氏神様ではなく「単立の神社」として機能しているなど市内ではやや異色の存在となっており、参拝時には飼育されている「神馬」が見られることもある。富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」

  • 富雄川流域探索「霊山寺2」

    富雄川流域探索「霊山寺2」

    古くから行基開基と伝えられ、富雄最大の寺院(富雄町史より)。寺の西側の奈良街道に接する所には昭和初期には南大門があったとされている土塀の一部が残されている。橿原考古学研究所の奈良県遺跡地図によると、霊山寺と葛上神社の境内辺りには「円墳」」として登録されているが、「日本のお城」によると「城跡・角山城」ともされている。富雄川流域探索「霊山寺2」

  • 富雄川流域探索「霊山寺1」

    富雄川流域探索「霊山寺1」

    霊山寺((りょうぜんじ)。奈良最大規模のバラ園として有名。葛上神社の南にある鎌倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。伝承によれば「小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けたとある。富雄川流域探索「霊山寺1」

  • 富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」

    富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」

    杣川は今の学園前「こうの上池・下池」から南に流れ、富雄南小学校と砂茶屋の中間あたり「第二船場橋」で富雄川に合流する。杣木谷はその昔、大木の茂る山で杣師が管理し、神社などに使う木材の切り出しに従事していた場所でもあるらしい。切り出した用材は杣川へ流し富雄川へ、そして木嶋(木嶋神社あたり)で集積をし大和川へと運んだ。木材を切り出した杣木谷には「水神」として祭られていた神社があったといい、明治初期に葛上神社に合祀され、学園中、南(旧杣木谷)には葛上神社の氏子さんが現在もおられる。吉崎宮司(令和2年帰幽)さんのお話によると「天智天皇近江へ遷都したのをきっかけに、近江へ移りその後、平城京遷都に伴いこの位置に再び造営された。しかし度重なる火災のため今、伝記、資料となるものは残っていない」とのこと。「第二船場橋」があるので「...富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」

  • 富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」

    富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」

    葛上神社の略歴に書かれている「…杣木谷に渡来した…後に本所に合祀…」とあるが、杣木谷はどの辺りなのか?」。富雄川沿いには「杣木谷」或いは「杣木」と云う地名が見当たらないが、大正元年10月25日大日本帝国陸地測量部発行の地図には「杣木谷」の地名と小集落が記されている。今の地図と照らし合わせてみる。近鉄学園前駅南東は丘陵となっており、頂きに学校が建っている。その丘陵から西に向って斜面となっていて下り、谷川を挟んでまた西には丘陵があり、住宅地が広がっている。学園前駅から西約150m線路脇あたりの小集落が杣木谷だったことが分る。谷川周辺はいま奈良市学園中と学園南に挟まれている。地元の人によると、かつては「杣川」呼ばれていて地名も杣木谷だったとのこと。富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」

  • 富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社2」

    富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社2」

    「本神社は、建速須佐命(日本書紀では素戔男尊)を主神として奉斎し、相殿の神は大山咋神、天照大神、三筒男命なり。当社の伝記は散逸、或いは火災に罹り知るに由なしとも、鎮座多くの歳月の経て奈良朝の頃には存在したるものの如し。…」とある。何時の頃か現・学園前駅南西にあったものをこの地に遷したとも。富雄町史には、「葛上神社(水神)で享保(1730年)9月14日には雨乞いの芝居が行われた」と、数行だけ記述されている。富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社2」

  • 富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」

    富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」

    富雄川にかかる「藤宮橋」を西に渡ると石の鳥居とその奥に大正15(1926)年5月大阪・天満市場村井組と大阪・山熊会(共に世話人・前川嘉雄)献納の、高さ2メートル余りの神前型の石燈籠がある。その先60段の石段を上がると左側に社務所、時計回りに籠もり所、拝殿その奥に本殿四社殿があり、その右側には三集所、その隣に浅間神社の祠がある。本殿の前には♂♀一対の狛犬があり、左右奥には元禄8(1695)年~大正15(1926)年までの14基の石燈篭がある。富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」

  • 富雄川流域探索「峙垣内(そわかいち)行者像」

    富雄川流域探索「峙垣内(そわかいち)行者像」

    奈良県奈良市西千代ヶ丘2丁目4にある。「峙(そわ)」は奈良・中町の旧字名。「行者堂とされるがお堂には弘法大師が祀られている。正面に自然石彫込役行者像があり室町期の造立と考えられている。上部が笠石のように突き出た半肉彫りの行者像は神変大菩薩と呼ばれている」とあが、詳細は不明。富雄川流域探索「峙垣内(そわかいち)行者像」

  • 富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

    富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

    添御縣坐神社西側にある根聖院(こんしょういん)。境内に「三碓起源の石」があり、それによると「この土地一帯を三碓と言うのは、遡ること1300年前、奈良時代に小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)がこの地域を納めていました。住居とは別にこの場所に三ッ碓をおき、米を撞かせていましたが、鳥狩りに御幸された聖武天皇がご覧になり、この土地を"三碓(みつがらす)"と名付けられました」とある。(小野福麿は、第三十代敏達天皇の直系の末裔で、春日皇子や小野妹子の子孫)。富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

  • 富雄川流域探索「添御縣坐神社」

    富雄川流域探索「添御縣坐神社」

    添御縣坐神社(そうのみあがたますいますじんじゃ)。石の鳥居の北側には「三碓小学校跡」の標識があり、当時は西側にある変電設備の辺りにあったらしい。鳥居を潜と参道の左右に祠があり、地蔵が祀られている。坂を登り切った辺りの左側に石段がありそれを登ると境内である。舞台がありその東側に重要文化財に指定されている。南北朝時代の五間社流造で正面の中央と両脇に千鳥破風の本殿があり、小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)公が祀られている。ここより直線距離で北東方向約5㎞の位置、奈良市歌姫町にも添御縣坐神社がある。平城京の表鬼門に対して、富雄の添御縣坐神社は裏鬼門として鎮座させた可能性があるという話もある。富雄川流域探索「添御縣坐神社」

  • 富雄川流域探索「古堤街道」

    富雄川流域探索「古堤街道」

    五仙堂橋の一つ南側に「上鳥見橋」があり、その西側には「阪奈道路」が高架である。開発されるまでは「土橋」と呼ばれる橋が架かっており、大阪天満橋から片町、徳庵、石切神社、宝山寺、生駒市・菜畑を通り現・阪奈道路沿いに東に進み「土橋」に至る。この「土橋」を東へ直進すれば添御縣坐(そうのみにいます)神社を経て西大寺から三条通へと繋がっていた「古堤街道」であたが、添御縣坐神社より東側は住宅地開発がされ、辿ることは難しい。(古堤街道については杉山三記雄著「河内の街道を歩く」に詳しい)またこの辺りには奈良県遺跡地図によると「追山廃寺」や数基の円墳跡が記されているが、現在は何れも開発が進み各個人宅の敷地となっている。富雄川流域探索「古堤街道」

  • 富雄川流域探索「旧生活道路」

    富雄川流域探索「旧生活道路」

    富雄川の東約200mに、片側1車線の道が阪奈道路「三碓インター」まで続く。民家の間には北條(きたんじょう)地蔵堂、多聞院、添御縣坐神社があり、鳥居前には、旧三碓小学校跡の門柱、下條(しもじょう)地蔵塚等がある。雰囲気から自動車社会になる前は、今は「裏通り」的なこの道が生活道路だったのかも知れない。富雄川流域探索「旧生活道路」

  • 富雄川流域探索「五仙堂村」

    富雄川流域探索「五仙堂村」

    スーパーマーケット・中村屋の北側に五仙堂橋があり、西に向かって細い道の田圃と田圃の間を進むと左側に「五仙堂」と下部に彫られた石柱がある。上部には「皇威赫八絋皇徳昭六合五仙堂」。皇威=天皇の威光。八紘=全世界、八方、八極。赫=かがやくさま、名誉をたたえ顕彰するのに云う。右側面には「和十六年」とある。明治45(1912)年発行の国土地理院地図を見ると「土橋」の北側に「五仙堂」と記載されている。「㏍GOSENDO」と社名のあるお住まいの方にお声がけすると「当時5,6軒位の村「五仙堂村」だったところで、(株)五仙堂は明治の頃大阪四ツ橋で、衣類や日用品を商う店だった。今は店を閉じて、㈱五仙堂も今年(平成29年)末をもって看板も降ろすと…」とのお話し。石柱を左へ坂を登ると井戸がある。近くの方の話によると、...富雄川流域探索「五仙堂村」

  • 富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』4」

    富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』4」

    すっぽんを入れた魚籠は桜の枝につるした。桜の幹にも柳の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひっかかっていた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。…帰途(かえり)、酒屋に立ち寄り婆さんにすっぽんを見せた。亀はいるが、すっぽんはこの川でも珍しいと、大変喜んでくれた。二、三人見に出てきた男の一人が笑いながら、『かみに、養殖している人がありま。そこから逃げた奴だっしゃろ』といった。野生のつもりでいたので、これは少し興ざめした。…」とある。富雄駅の鉄橋から富雄川を南へ向かって歩く様子を語っている。「酒屋」とあるが昭和30年ごろ、現・富雄中学校の隣に酒蔵があったが今、「ボトルワールドOK富雄店」になっている。富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』4」

  • 富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』3」

    富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』3」

    一軒離れて、間口の広い造り酒屋がある。その前の立木の中を分水した方の水が流れている。丁度前かきの幅だけなので、それを入れて子供達に下流から叉手(さで)で追はしたが、何度やつても一尾も入らなかつた。…十二、三軒人家のかたまった所を通りぬけると、真直ぐな一本道に出た。左は田圃、右は川で、遠く、大な榎が四辻においかぶさっている砂茶屋という所まで、それが続いている。此辺の川には綺麗な洲があり、葭(よし)が生え、何となく親しみ易い景色だった。路から一間ほど下り、草原の木陰で持って来た物をひらいた。すっぽんを入れた魚籠は桜の枝につるした。桜の幹にも柳の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひっかかっていた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。…帰途(かえり)、酒屋に立ち寄り婆さんにすっぽんを見せた。亀はいるが、すっぽんはこの...富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』3」

  • 富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』2」

    富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』2」

    「…次の日曜(六月四日、晴れ)それを持って、うち中で富雄川へ出かけた。大概の生きものは好きだが、捕ることは甚(ひど)く不得手で、魚捕りも好きではないが、此日は前かきで多少の興味を持ちながら行った。電車を降り、線路について片側人家のだらだら坂を下りきると、直角に、それが富雄川だ。幅、四、五間の川床で、水は砂地を残し、もっと狭い幅で流れている。岸から、一寸した草原があり、其所に枝のよく広がった桜が一列にならんでいる。赤いのや、もう黒く熟した小な桜ン坊が沢山ついていた。桜並木と往来との間に上流で分水した小さな流れが下の川よりもなみなみと勢いよく流れている…」。富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』2」

ブログリーダー」を活用して、《河童》の旅メモさんをフォローしませんか?

ハンドル名
《河童》の旅メモさん
ブログタイトル
《河童》の旅メモ
フォロー
《河童》の旅メモ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用