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  • 富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

    添御縣坐神社西側にある根聖院(こんしょういん)。境内に「三碓起源の石」があり、それによると「この土地一帯を三碓と言うのは、遡ること1300年前、奈良時代に小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)がこの地域を納めていました。住居とは別にこの場所に三ッ碓をおき、米を撞かせていましたが、鳥狩りに御幸された聖武天皇がご覧になり、この土地を"三碓(みつがらす)"と名付けられました」とある。(小野福麿は、第三十代敏達天皇の直系の末裔で、春日皇子や小野妹子の子孫)。富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

  • 富雄川流域探索「添御縣坐神社」

    添御縣坐神社(そうのみあがたますいますじんじゃ)。石の鳥居の北側には「三碓小学校跡」の標識があり、当時は西側にある変電設備の辺りにあったらしい。鳥居を潜と参道の左右に祠があり、地蔵が祀られている。坂を登り切った辺りの左側に石段がありそれを登ると境内である。舞台がありその東側に重要文化財に指定されている。南北朝時代の五間社流造で正面の中央と両脇に千鳥破風の本殿があり、小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)公が祀られている。ここより直線距離で北東方向約5㎞の位置、奈良市歌姫町にも添御縣坐神社がある。平城京の表鬼門に対して、富雄の添御縣坐神社は裏鬼門として鎮座させた可能性があるという話もある。富雄川流域探索「添御縣坐神社」

  • 富雄川流域探索「古堤街道」

    五仙堂橋の一つ南側に「上鳥見橋」があり、その西側には「阪奈道路」が高架である。開発されるまでは「土橋」と呼ばれる橋が架かっており、大阪天満橋から片町、徳庵、石切神社、宝山寺、生駒市・菜畑を通り現・阪奈道路沿いに東に進み「土橋」に至る。この「土橋」を東へ直進すれば添御縣坐(そうのみにいます)神社を経て西大寺から三条通へと繋がっていた「古堤街道」であたが、添御縣坐神社より東側は住宅地開発がされ、辿ることは難しい。(古堤街道については杉山三記雄著「河内の街道を歩く」に詳しい)またこの辺りには奈良県遺跡地図によると「追山廃寺」や数基の円墳跡が記されているが、現在は何れも開発が進み各個人宅の敷地となっている。富雄川流域探索「古堤街道」

  • 富雄川流域探索「旧生活道路」

    富雄川の東約200mに、片側1車線の道が阪奈道路「三碓インター」まで続く。民家の間には北條(きたんじょう)地蔵堂、多聞院、添御縣坐神社があり、鳥居前には、旧三碓小学校跡の門柱、下條(しもじょう)地蔵塚等がある。雰囲気から自動車社会になる前は、今は「裏通り」的なこの道が生活道路だったのかも知れない。富雄川流域探索「旧生活道路」

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