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  • 大晦日寝ると

    大晦日は寝ると白髪が生える小生子供の頃、大晦日に寝ると白髪になると、お袋に聞かされていて、白髪になるのは嫌だから、眠い目を擦りながら、兄達と双六やその他のゲームなどして一生懸命起きていたが、12時を回ると上瞼下瞼がくっついてしまう。当時は今と違ってテレビなどなく、ラジオのみ、ラジオも大晦日特集を遣っていたのかもしれないが、子供心には分からない。戦後放送媒体が発達して、テレビで「紅白歌合戦」コロンビアトップライトの司会で「レコード大賞」等有り、大晦日の夜を楽しませてくれた、自分でも紅白歌合戦のメンバー表を見て、どちらが勝つか予想して、最後まで見ていて、一喜一憂したしてたこともあった、その頃は歌手も歌も分かり、楽しめた、あと「ゆく年くる年」を見て、夜を徹して起きていたことがあった、それはもう20年も前の事か。最近の...大晦日寝ると

  • IWCついに脱退

    鯨肉ってそんなに貴重?安倍晋三さん初め政府のお偉方が決め、IWC脱退を菅官房長官が世界に向けて発信した、30年来の捕鯨制限から脱退、来年7月からは商業捕鯨が再開される、だが捕獲範囲は経済的排他水域(EEZ)内の捕鯨だ。戦前から戦後にかけては年間20万トン以上のクジラを捕獲していた、佃煮屋では照り焼き角煮晒クジラベーコン各種あった、魚屋には赤身の刺身尾身の刺身鯨の各部位を売っていた、揚げ物屋には鯨かつ竜田揚げなどとにかく鯨料理はどこにでもあり庶民の栄養源だった、学校給食にも多く提供された。現在のクジラ捕獲高は5~6千トンか、数少ないが鯨専門店もある、愛好者で繁盛しているのだろう。先日ある調査で鯨料理に興味を示したのは、よく食べた60代後半から80代の人が18%台、あまり食べたことがない20台の人は3%に満たない数...IWCついに脱退

  • IWC脱退 なぜ

    もう少し考えた方がいいのでは戦前から戦中戦後にかけて、鯨はよく食べられた、当時国民の大きな栄養源だった、鯨料理はどこでも売られていて、庶民的な食品だった。鯨を利用した商品も豊富で、赤身の刺身クジラかつ竜田揚げ鯨のベーコン脂身の脂を抜いて晒した晒クジラ、酢味噌か少し辛子をを混ぜた酢味噌和えも旨い、尻尾に近いところの「尾身」など脂がのって鮪のトロに匹敵する、小生まだ子供だったが、父親が晩酌の時肴にしてよく食べていた、旨そうなので、時々ちょっかいを出してご相伴にあずかる。今の何でも有る食品豊富の時と違って、戦前戦中戦後の食糧難時代、国民の大きな栄養源だった、自分でも戦後成人して酒が飲めるようになった時、鯨料理はよく食べた。当時の日本は捕鯨技術もさることながら、世界の海で捕鯨に活躍捕鯨大国だった。乱獲もあったのか鯨資源...IWC脱退なぜ

  • 写真展

    皆さんとても努力している先日或るサークルの友人が所属している写真クラブが、所沢市役所1階ギャラリーで展示会を開いた、招待状を頂き、友人が当番の日に鑑賞に行った。非常にレベルの高いクラブで、一枚いちまいが何かを語りかけてくる、撮影した場所季節時間がなんとなく読み取れる、だがその一瞬のシャッタ―チャンスを捉える感というか技術、これは長い経験と卓越した感性の賜物だろう。ライトアップしたスカイツリーの先端に満月が輝いている、その月も煌々と輝く月ではなく、霞んだ月で春の季節を想わせる、墨田川には遊覧船が、高速道の車の流れ、撮影の位置時間おそらく根気よくその瞬間を待ったのだろう、掲載したかったが、余計な物が反射で映り込み、掲載遠慮。池に新緑が映り、緋鯉が水面に背びれと尾びれで波紋を描く、これが真鯉で黒いのでは絵にならない、...写真展

  • 旧友と忘年会

    心通う友は楽しきかな小学校時代の親しい旧友が、所沢へ集まって忘年会をした、写真展や何かの機会があると集まって旧交を温めている、昨日は偶には小生地元の所沢へ集まろうと言ってくれた。東大和市と中野区から所沢へ集まってくれた、以前はもっと人数も多かったが、年々あの世へ旅たつ人も多く、今回は3人になってしまった、でも小学校時代の旧友、途中空白期間があったが70数年来の友、ざっくばらんに打ち解け何でも話し合う、思い出話や、もう先が見えた終末の話もある。52年目の卒業式を主導した友が、「俺が死んでも通知しないから」と言う、参列もお焼香もしないでいいと言う、小生びっくりした、その友は級友の死に久喜までお焼香に行き、親しき友の法事に出席、音信不通の友の安否を尋ねて、炎天下汗を流して1万歩もき回った、そんな友を思う心の人が、何で...旧友と忘年会

  • 戦争後日談ー2

    疎開先烏山市に母校の記念樹があった小生縁故疎開したため、集団疎開は経験していない、依って集団疎開の厳しさ苦しさ辛さは判らない。烏山市のお寺、旅館民家に分散して集団生活をしていたようだ、食糧事情衛生面親元を離れた寂しさ、いろいろな面でつらい過酷な生活を強いられたのかもしれない。各寺院他に分散宿泊していたが、疎開本部は当地のお寺「慈願寺」だった、この本部から疎開児童へ各種管理情報が発せられていたようだ。戦後地元の栃木県立烏山女子高等学校社会部の生徒が、昭和55年に「地域から見た戦争」をテーマに、我が母校の生徒たちの疎開生活を、大嶽浩良教諭指導の下で史実資料を調査研究を重ね論文に纏め、小冊子を作り同校の文化祭で1部300円で販売、その売上金で百日紅の苗木を購入、焼失廃校になった母校富士前小学校の為、疎開先本部になった...戦争後日談ー2

  • 戦争後日談ー1

    52年目の卒業式3年8か月に及ぶ戦争も終わり、昭和19年9月から20年3月まで田舎の学校へ転校して、卒業証書も貰った、祖母の怪我で20年2月と3月は東京へ帰り、実質5ヶ月しか通っていない田舎の学校の卒業証書は重みもなく、母校本郷区富士前国民学校の証書が欲しかった。明治20年代に開校した本郷区でも由緒ある小学校、大正5年に改築された母校、左奥の出っ張りが階段と裁縫室だった、その階段の踊り場に、全身を映す大きな鏡が有り、そこに記された文字を今も覚えている「鏡には姿ばかりが映るぞと思う心の恥ずかしきかな」今もこの教訓は心に残っている、今はなき懐かしき母校、5年と一学期通った。集団疎開した人達も3月末に卒業式の為栃木県烏山の疎開先から帰ってきたが、母校が焼失隣の昭和国民学校の屋上を借りて卒業式を挙行中、空襲警報が鳴り避...戦争後日談ー1

  • 安っぽい駅名

    新駅名発表昨日山手線新駅名が発表されてびっくりした、何とも安っぽく品のない駅名。田町―品川間に新駅ができるので駅名を募集した、「高輪」「芝浦」「芝浜」などが上位に選ばれたが、「高輪」が圧倒的に多かった、中には「高輪ゲートウエイ」という投票もあったが130位たったの36票安っぽい駅名、昔からの来歴でゲートウエイをつけた様だが、山手線駅名にカタカナは全く似合わない。周辺地域に点在する歴史的寺院史跡を見れば高輪だけでその知名度は判る、敢えてゲートウエイなどつける必要は全くない。最近都市名などもひらがな名も多くみられるようになった、人はどう感じているか分からないが、ひらがなの都市名など安っぽくて魅力がない。駅のアナウンスでもたかなわたかなわと連呼すればいいのだが、たかなわゲートウエイを連呼しても間延びして締まらない、車...安っぽい駅名

  • 戦争を語るー10

    長い戦争が終わった昭和20年8月15日正午に放送された「昭和天皇の玉音版」現在はNHK放送博物館に、永久保存のため厳重に保護され、展示されている。昭和20年8月15日終戦の日は山梨へ疎開中だった、朝6時か7時のニュースで「今日正午天皇陛下のお言葉がある」と放送されて居たようだ、朝ご飯を食べている時に父親が話していた。終戦の日は朝から強い太陽がぎらぎら、甲府盆地の擂鉢の底のような地形は暑くなった、それでも30度を少し超すくらいの気温だった、近年の様なバカげた気温にはならなかった。沖縄戦も6月に終結し、8月6日と9日には「特殊爆弾」(当時は原子爆弾とは発表されなかった)が広島と長崎に投下され、今迄にない甚大な被害を受けた。B29の空襲が有っても、立川飛行場所沢飛行場から迎撃する戦闘機は一機もなかった、沖縄戦で「特攻...戦争を語るー10

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