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2015/05/16

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  • 読書案内「黒澤止幾子」-時代に創られた偉人- ②

    読書案内「黒澤止幾子」-時代に創られた偉人-②大阪から江戸そして故郷・錫高野へ(数少ない止幾子の写真)(黒澤止幾子の生家)随分前の頃の写真です。2013年頃の写真を見ると屋根は一部朽ち、特に屋根のてっぺん・「ぐし」は崩れています。出入口(正面右)は当時の面影を残していますが、居室等部屋の方はアルミサッシになっていました。20数年前に訪れた時はアルミサッシではなかったように思います。(2016年頃の様子)近年の動き茨城新聞2006年10.19及び毎日新聞2007年3.28の記事から抜粋。生家は築400年とも云われています。茅葺屋根の日本家屋で、止幾子が活躍した寺子屋の机や土間、機織り機、民具などが展示されている。平成9(1997)年には、敷地内に止幾子資料館もできた。顕彰碑敷地内にある。だが、残念なことに読書案内「黒澤止幾子」-時代に創られた偉人-②

  • 読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 時代に創られた偉人

    読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」湯浅由三著時代に創られた偉人①錫高野から京都まで……(幻冬舎文庫2020.6第1刷)(黒澤止幾子ウィキペディアより)黒澤止幾子文化3(1807)年生明治23(1890)年死去85歳名前登幾子、とき子、時子、止幾、李恭(りきょう)止幾子墓碑銘には「止幾子」と刻んであり、一般の呼び名もこれを使用している。茨城郡高野村(城里町錫高野)の修験道場・宝寿院に生まれるも、幼い頃に父と離別、祖父や養父から漢学、国学などを学び、後年「日本初の女性教師」と言われる素地はこの時に養われた。死後17年たった1907年明治政府から従五位を追贈される。26歳。夫と死別し錫高野の実家に戻る。その後20年間、櫛(くし)や簪(かんざし)の行商で生計を立てていが、漢学や国学の豊かな知識を見込まれ、地元子弟たちの教育...読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」時代に創られた偉人

  • 読書案内「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹著

    読書案内「昭和16年夏の敗戦」猪瀬直樹著ー総力戦研究所“模擬内閣〟の日米戦必敗の予測ーブックデータ:中公文庫2010.6新版として発刊。初版は1983(昭和58)年に世界文化社から出版されている。この9月に再版されました。ノンフィクション昭和16(1941)年4月1日、31歳から37歳までの35人の優秀な人材が集められた。『総力戦研究所』、彼らが所属するこの研究所の目的は、模擬内閣を作りやがて訪れるであろう日米開戦の勝敗を予測するための組織だった。総理大臣をはじめ、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍等に任命された男たちが模擬内閣を組織し、国力、戦力、エネルギー、経済、資源すべてを投入して、開戦に至った場合の勝敗を予測するものであった。総力戦研究所の入所要件は、幅広いバランスの取れた判断力を要求されたから、実社会に出て...読書案内「昭和16年夏の敗戦」猪瀬直樹著

  • さよなら としまえん 燃えつきたあしたのジョー

    さよならとしまえん燃えつきたあしたのジョー(画像は「広告朝日」編集部公式Twitterより)としまえん閉園の新聞広告(朝日新聞朝刊8/30)は、当時一世を風靡した『あしたのジョー』のラストシーンです。主人公の矢吹丈が世界チャンピオンのホセ・メンドーサと戦い終ったあと、真っ白に燃えつきた場面です。これが、としまえん閉園の新聞広告です。「黙して語らず」という言葉がありますが、なんとシンプルで大胆な閉園広告なのでしょう。新聞の見開き前面を使用し、なにも語らないが、矢吹丈のまっしぐらな生き方が懐かしい思い出のようによみがえってきます。戦い終えて、全てを出し切った矢吹丈。バンデージをしたままの両手を両ひざの間にだらりと下げ、うなだれる矢吹丈。過酷な試合で、満身創痍。だがうなだれた「あしたのジョー」の表情は、わずかに笑って...さよならとしまえん燃えつきたあしたのジョー

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