後漢 宗教団体の反乱 神を自称し多くの信者を集めた維汜が処刑され、信者たちは反乱を起こす
また、同じ40年には5銖銭が復活されます。馬援は隴西にいた頃、3度も5銖銭を鋳造すべきだと上奏していましたが、反対にあって尽く却下されていました。この年、中央に戻ったことを受け、反対論を踏まえた上で詳しい意見を奏上しました。これがようやく受け入れられ、5銖銭の鋳造が開始されます。王莽が貨幣政策を混乱させて以来、穀物や布帛が貨幣代わりとなっていましたが、ようやくまともな状態に戻ったのでした。 41年…
後漢 ベトナムの反乱 悪政に反発した越の人びとが徴側、懲弐姉妹を立てて反乱を起こす 後漢は反乱勢力の分断を図るも終息はしなかった
40年、交阯の女性、徴側と徴弐の姉妹が反乱を起こし、城邑を有します。交阯は現在のベトナム北部で、前漢の初期に独立を保っていた南越のあった場所です。徴姉妹は現地の有力な軍の指導者の子として生まれました。彼女は交阯太守の蘇定が悪政を行っていたことから、徴税権を現地の有力者に戻すように訴えます。これに多くの者が賛同したのです。 漢はこれを重大視したのではありますが、直ちに対応することはできませんで…
後漢 人口統計の不正 徴税を逃れようとした富裕層は役人と結びついて調査を誤魔化すも、露見して多くの者が獄に下される
これに先立って、何度も奴婢を解放していますし、徭役の徴発も10分の1に減らして、流亡した農民の穴埋めをしています。その結果、得られた結果は2200万人でした。前漢末の調査では6000万人だったわけですから、新崩壊から後漢成立までの混乱で3分2の人々が亡くなった計算ですね。 戸籍調査と並行して耕地の調査が行われたわけですが、これらが同時に行われたことは税の調査でもあったわけです。 死と税金からは逃れ…
『その犬の名を誰も知らない』 南極でタロ、ジロと共に生き、第3次越冬隊が南極に着く前に死んだ第3の犬の正体は?
1958年2月24日、第1次越冬隊と第2次越冬隊を乗せた宗谷は、第2次越冬を断念し、南極海域から離脱を開始します。イヌたちを南極に残して。なぜイヌたちが取り残されることになったのか、その経緯を簡単に振り返ってみます。 南極越冬計画が指導したのは、敗戦からまだ10年しか経っていない1955年のことで、日本にまだ科学研究に割く十分な資金などありませんでした。それでも、日本は国際的な極地研究に参加することを選び…
後漢 厳罰化論議2 法律で禁止事項を増やしても社会は良くならないとの上書を受け、厳罰化は見送られる 統一後の人口統計について
厳罰化案を聞いた杜林は、「人の心をくじくならば、節義の心が失われるものです。法律で禁止することを増やしても、法律から逃れる行動が増えるに過ぎません。孔子の説く『免れて恥なし』というものです。漢が成立すると過去の失敗や成功から法律の過剰なものを無くして足りないものを補い、苛政を除いて粗い網をつくりました。それ故、社会は安定して人々は寛容な政治になついたのです。法を厳しくしてもつまらぬ理由で死刑と…
後漢 厳罰化論議1 2000年前からあった厳罰化論議 厳罰化に反対した杜林について
ちなみに、厳罰主義には量刑を重くするものと犯罪の範囲を広げるものがあります。この提言は前者の刑の重さがなくなったことに対して、後者の罪の範囲を広げることでバランスを取ろうとするものです。 これに反対したのが杜林です。 杜林の父の杜鄴は前漢の成帝、哀帝の時代に涼州刺史を務めており、杜林は若い頃から学問に励んで博識で知られました。新末の動乱の際、孟冀らと共に女性や子供を連れているところを…
後漢 功臣粛清のなかった後漢 功臣には広大な土地も顕官も与えないことで、国内の安定化と功臣粛清を防いだ劉秀
どのような選び方をしても不平等に感じる人がでるのは避けられないにしても、来歙がいないのは少々腑に落ちないものがありますね。馬援は建国時の英雄というわけではないでしょうし、明帝としては彼が舅に当たるため入れるのを躊躇したということもあるのでしょう。実際、なぜ伏波将軍馬援が入っていないのかという質問はあり、明帝は笑って答えなかった、ということです。 特記事項の最初に記した封爵を見ても、どこにも…
後漢 雲台28将4 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その4 傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植
序列名前特記事項21傅俊積弩将軍、昆陽侯。潁川出身。劉秀が襄城を攻めた際に迎え入れるが、この際に母や弟は襄城の人々に殺された。昆陽の戦いなどの後、一度喪に服し、劉秀の河北遠征の際に邯鄲で合流。劉秀が即位すると侍中となり、秦豊討伐や揚州平定に従事。31年に死去。22堅鐔左曹、合肥侯。潁川出身。…
後漢 雲台28将3 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その3 臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂
序列名前特記事項 14臧宮城門校尉、朗陵侯。潁川出身。若くして県の亭長となる。新への反乱が続発すると、下江の兵に合流、その縁で劉秀に従うようになる。河北を転戦。公孫述討伐にも参加する。 15馬武捕虜将軍、楊虚侯。南陽郡出身。反王莽の蜂起に参加、緑林を経て劉氏の下へ。昆陽で劉秀と共に戦う。そ…
後漢 雲台28将2 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その2 朱祜、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純
序列名前特記事項8朱祜建義大将軍、鬲侯。安帝の諱を避けるため、朱祐とされることもある。南陽の宛出身。幼くして父が死んだため、劉氏に育てられたことで劉縯・劉秀兄弟と早い時期から親しんだ。河北の戦いや秦豊攻撃などに参加。儒教を尊び、戦の時には城や邑を得ることを優先して首を得ることには熱心ではなかった。9
後漢 雲台28将1 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その1 鄧禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異
序列名前特記事項1�ケ禹太傅、高密侯。南陽出身で長安遊学中に劉秀と知り合い、河北遠征に出た劉秀を追った。各地を転戦、新末の混乱する関中へ入るなど、常に劉秀の力であり続けた。2呉漢大司馬、広平侯。南陽出身。常に冷静沈着、朝廷では謹厳に仕えた。河北遠征中に王朗は偽物で皆劉秀に付いていると嘘を…
後漢 成都略奪 勝利に酔った兵士たちは成都場内になだれ込み、略奪や放火、殺人を繰り広げる 劉秀は怒り、呉漢を叱責
勝利に酔った漢の兵士たちは成都城内に雪崩込み、略奪、放火、殺人など乱暴狼藉を繰り広げたのです。戦闘終結後の暴力の発露により、城内だけで1万人以上が殺されたと伝えられます。 成都の惨状を聞いた劉秀は怒り、呉漢を譴責するとともに副将の劉尚に対して「城は降って役人は服し、幼児や老母の人口は万をもって数えるというのに、兵を放ち、火を縦(はな)ったと聞く。これを聞き、痛ましく、涙がでるほど痛ましい。…
後漢 公孫述の死 劉秀は降伏勧告を送るが公孫述は拒否、「虜は城下に死ぬ」との占いを信じて城下に戦い戦死する
劉秀は公孫述に書簡を送り、「今、自ら降伏すれば家族を含め罪に問うことはしない。来歙、岑彭のことがあったからといって、疑うことのないように。もし迷い、従わないのであれば、飢えたトラの前に肉を差し出すのと同様、命はない。兵士は疲れ、故郷に帰りたがっている。詔書を何度も送ることはしない。嘘は言わぬ」と最後通牒を突きつけます。 公孫述はしかし、降伏を肯んじようとはしませんでした。 9月、漢の軍…
後漢 蜀攻撃開始 漢軍は数手に分かれて蜀へ侵入、公孫述は暗殺作戦を実行して岑彭と来歙を刺殺させるが、漢軍の勢いは止まらない
同じく37年、遂に蜀への総攻撃が開始されます。劉秀は自ら軍を率いて長安に入ると、岑彭、来歙、臧宮らを蜀に発進させました。彼らは天険を冒して蜀へ向かいます。また、同年12月には呉漢が船で長江を遡って蜀を目指しました。 岑彭の軍は規律正しく、略奪は許しませんでした。そのため、その軍の進路に住む人々は酒や牛を奉じて迎えましたが、岑彭は「我々は蜀の人々が長らく苦しめられていたことを哀れに思い、罪ある者…
後漢 羌族の撃退 馬援は羌族を攻撃して敗退させると、逃げる羌族を執拗に追い、山頂に追い詰めてこれを破る
略奪を行う羌族に対しては揚武将軍馬成とともに果敢に攻撃して後退させ、さらに間道を伝って攻撃します。羌族は驚き快走して谷に籠もりますが、馬援らはこれを追いかけたので、羌族は山に逃げます。馬援は自分も山に向かいながら、数百からなる部隊を背後に回り込ませ、夜陰に乗じて火を放つと共に、鼓を打って大軍が攻めてきてるように思い込ませました。乱れたところに馬援らの本体が突入します。羌は地の利を活かして矢を射…
後漢 隗囂の死 漢軍が匈奴と結んだ盧芳と戦っている間に隗囂は困窮のうちに死に、後を継いだ隗純は翌34年に攻撃を受け降伏する
年が明けて33年、劉秀は隗囂方面はある程度緊急性が去ったと判断したのか、隗囂を棚上げして盧芳攻撃に向かいます。 盧芳は安定の人で、新に人々が劉氏を慕うところを見て、自らを武帝の曾孫の劉文伯であると自称します。巫蠱の乱で死んだ衛太子の弟が北西に逃れてひっそりと結婚していた、と主張したのです。劉氏ブランドはかなりの力を持ったようで、新末期には羌や匈奴の軍も引き入れて西方に地歩を占めました。更始帝…
後漢 隗囂の抵抗 隗囂は降伏を拒否して西城に立て籠もる 呉漢は城を囲むも、蜀からの援軍に挟撃されて敗退、周辺は再び隗囂の勢力下に
王遵は隗囂軍の将で旧知の牛邯が漢に降りたいと願っていることを知り、長文の書を送って帰順を呼び掛けます。悩んだ末に牛邯は降ることを決意しました。彼と共に大将13人、県16、10余万の兵が降ったということですので、かなりの重鎮が降伏したことになります。 また、竇融は五郡の太守、羌の捕虜、異国の歩兵騎兵合わせて数万を率いて参戦しています。 隗囂は妻子とともに天水の西方に位置する西城へ逃れ、王元は蜀…
後漢 劉秀の余裕 隗囂、劉秀は公孫述との戦いを控えながら、減税や刑の執行取りやめなどの恤民政策を行い、地方の常備軍も廃止する
前漢の落ち着いた時代には30分の1税だったのが、戦乱で資金不足に陥り、税率が上がっていたのです。劉秀陣営も遠征を繰り返してはいましたが、彼らは屯田を行っていたため、糧食が確保できるようになっていたのです。 更に、郡の都尉を罷免し、そして列侯を国に赴かせました。思うに、郡に軍の指揮官がいれば地方が不安定になるので、先に都尉を罷免させたのではないでしょうか。 年が明けて31年の正月、死刑に相当する…
後漢 隗囂の申し開き 隗囂は戦いは驚いた部下が勝手に動いた偶発的なものだと釈明するが、劉秀は最後通牒を突きつける
隗囂は「兵士たちは突然大軍がやってきたことに驚いて自分たちの命を守ろうと戦いになってしまい、臣下の囂はこれを止めることができませんでした。ですから、攻撃の好機ではありましたが、自ら兵を引いたのです。今や、私のことはひとえにお国のお心ひとつに罹っております。死を賜れば死を、刑を加えるのなら刑を受けます。もし恩を受ければ、功績をあげます」と詫び状を送りました。 劉秀の側近はその手紙が傲慢だとし…
後漢 隴西との全面戦争 公孫述が南郡に侵入したことを受けて劉秀は蜀攻撃を図ったが、隗囂は自分への攻撃と思い、両国は戦争に突入する
そこで、竇融は兄弟たちに「天下は未だどう転ぶか分かったものではない。この河西の地は豊かで、河があるため守りやすい。張掖の精兵は万を数え、ことが起これば河の渡しを破壊すれば敵は責められない。この場所こそ、一族安住の地であろう」と言い、皆を納得させました。竇融は河西にでることを願い、張掖属国の都尉に任じられました。 西域では異民族との戦いに活躍します。なお、同じ郡出身で西域で共に活動していた中…
後漢 竇融の帰順 隴西の隗囂に見切りをつけた竇融、劉秀に帰順することを申し出る
劉秀は隗囂と公孫述は自分に服しないことを知りましたが、長く兵乱が続いてきたなかで、両者は共に辺境に拠って漢を左右する力はないと判断し、両名の討伐を考えないとしました。 事態を変えたのは、不幸な出来事の積み重なりでした。隗囂が劉秀へ送った使者の周游が馮異の陣に至った時、仇敵に殺されてしまったのです。劉秀は詫びとして衛尉の銚期を遣わして珍宝を贈ろうとしたのですが、その途中に鄭で宝物が盗まれてし…
後漢 孤立する蜀 蜀は優れた技術で塩を自給できた他、貴金属の産出量も多く、中央からは天険に隔てられているため、公孫述は蜀に籠る
ボーリングで発生する土塊は竹筒と複動式ピストンふいごで除去されました。穴が完成すると竹で裏打ちされました。 井塩から組み上げられたのは、塩水ばかりではありません。塩水が湧く場所では、天然ガスもまた多く産出します。塩水層の下にメタンがたまりやすいのです。天然ガスは遅くとも前4世紀には利用されていました。その天然ガスを燃やして塩水を煮詰めたのです。 公孫述は険阻な蜀に拠り、中央へ撃って出よ…
後漢 荊州(楚)対応の完了 独立していた李憲、秦豊、田戎らを次々と破り、南方を平定する 残るは隴西の隗囂、蜀の公孫述となる
同じく28年には、漢は南方での作戦を継続させています。 この年の主な攻撃対象となったのは、李憲という地方の官吏だった人物です。李憲は23年に自立して淮南王を、27年には天子を自称しており、その勢力は10余万にもなっていました。 劉秀は馬成を派遣して李憲の籠る舒を囲みます。29年正月、舒は陥落し、李憲は城から逃れましたが、彼の部将たちは主を斬って降伏しました。 28年には秦豊、田戎を続けて敗北さ…
後漢 馬援と劉秀 劉秀は馬援と謁見する場に劉秀は頭巾を付けただけの姿で現れ、馬援と穏やかながら度量に満ちた態度で接する
新が滅ぶと、馬援は隗囂の下につきました。そして、隗囂から公孫述と劉秀の様子を伺うように命じられたのでした。 馬援と公孫述は同郷で、旧知の間柄でした。その馬援を、公孫述はもったいぶった儀式の後に皇帝として迎えたことで、馬援は失望し、帰国後に「公孫述は井の中の蛙である」と評して劉秀に味方することを説きます。 この馬援が、劉秀のところへやってきました。劉秀は頭巾を被っただけの姿で馬援に会うと…
後漢 馬援 戦国時代趙の名将趙奢の子孫の馬援は率先垂範で周囲から慕われるリーダー資質にあふれる人物だった
呉漢の軍は、楚では略奪を繰り返しました。劉秀の姉を娶った�ケ晨の兄の子�ケ奉が、故郷の南陽が略奪を受けるのを見て劉秀に背いたほどでした。劉秀と親しい間柄の者ですら背くことを決意するとは、かなり酷い行動が繰り返されたのでしょう。 �ケ奉は南陽の諸将と共に漢を攻撃し、27年に劉秀は自ら討伐に向かい、�ケ奉を敗死させています。 28年、劉秀のもとへ隗囂から馬援という使者がやってきます。馬援は隗囂のた…
後漢 岑彭の南征 荊州(楚)で自立した秦豊に対し、劉秀は兄劉縯に命を救われたことから劉秀に従うことになった岑彭を送る
南方に目を転じましょう。26年の7月には征南大将軍岑彭が楚を攻撃します。 岑彭は劉縯が宛を攻めた際、防御側として勇戦して城を守り続けましたが、食料が尽きて遂に降った人物でしたね。誅殺を唱える者もいましたが、劉縯により許されていたのでした。劉縯が誅殺された後は朱鮪の下に付けられて功績をあげています。劉玄からは潁川の太守に任じられ、任地に赴こうとしたのですが、劉秀が周辺一帯を押さえた際に降って…
後漢 斉平定 耿弇は巧みな用兵で張歩の軍を破り、張歩を降伏に追い込む 劉秀は耿弇を韓信に勝ると激賞
西安を守る張藍は臨?が落ちたことを知ると、張歩のもとへ帰還しました。 戦国時代の斉の首都臨淄を落とされたとは言え、張歩はまだ10余万という、耿弇を圧倒する大軍を擁していました。張歩は麾下の軍を20万と号し、連戦で疲れ果てている耿弇軍を一気に殲滅すべく、臨淄の東へ軍を進めました。 魯に駐屯していた劉秀は自ら耿弇を救おうと、斉へ向かいます。 臨淄では、耿弇はまず淄水のほとりで張歩の…
後漢 耿弇の臨淄攻略 耿弇は攻めやすいと見た臨淄を更に油断させ、急襲することでわずか反日で陥落させる
この際、敢えて包囲の一角を開けておくことで、あえて敵兵を逃します。兵法に、包囲された敵は命を賭して戦うようになるので一箇所は包囲を開けておくように、とあることを忠実になぞった作戦ですね。鍾城の人々は祝阿がたちどころに落とされたことを知って恐れ、城を空にして逃げ出しました。 歴止を守る費邑は弟の費敢を派遣して巨里を守らせます。耿弇は巨里に至ると、周囲の木を切り倒し、堀を埋めてやると広言しま…
後漢 彭寵の反乱鎮圧 彭寵を劉秀側に立たせた耿弇が彭寵鎮圧に当たる 彭寵は敗北して地方へ追い詰められ、奴婢に殺されて反乱は自滅する
その討伐に向かったのは、彭寵を劉秀側に付かせるきっかけを作った耿弇です。しかし、耿弇は進軍することなく、洛陽に上書します。というのは、彼の父の耿況は彭寵と親しかったので、共に背いているかもしれないと疑ったのです。そして、自分の父も背いているかもしれないという状況で自分が討伐に向かっても疑念を抱かれるのではないかと恐れたのです。 劉秀は、「将軍は自らをはじめ一族をあげて国のために尽くし、戦…
後漢 赤眉集団の戦後処理 劉盆子らは許され、多くは寿命をまっとうする 彭寵、かつての部下ばかりが重用されることを恨み、背く
劉盆子他、赤眉の指導者は皆許され、邸宅を与えられて洛陽に暮らしました。 赤眉の指導者たちについて先に述べてしまいましょう。劉盆子は趙の郎とされたのですが、後に失明してしまいます。その後、滎陽の均輸官の地位を与えられて税で暮らしました。その没年については記録が残っていません。徐宣、楊音らは故郷に帰って天寿を全うしました。樊崇、逢安らは翌年に反乱を起こし、誅殺されています。 反乱の首謀者…
後漢 赤眉の乱の終了 赤眉は東に逃れようとするが鄧禹に代わった馮異に敗北、敗走するが劉秀が待ち構えていたことから降伏する
収まらないのは李宝の部下です。李宝の弟は旧部下と共に蜂起、�ケ禹の将である耿?を襲って殺してしまいました。 悪いことは重なるもので、赤眉が長安に戻って来たためにこれを迎え撃った�ケ禹でしたが、部下の離反に食糧不足も重なり、敗北を喫しました。 劉秀は�ケ禹が連敗したことから、�ケ禹に「固く守り、困窮した賊と軽々しく戦うこと慎むように。賊は疲弊し、必ず手を束ねることになるだろう。満たされた者が…
「ブログリーダー」を活用して、仲井 智史さんをフォローしませんか?