後漢 外戚梁一族 97年に竇太后が亡くなると、和帝の実母で故人の梁貴人が再評価され、梁一族が外戚として台頭してくる
当時のローマは、輝かしき五賢帝の時代でした。ネルウァの即位が96年、その前のドミティアヌスがウェスパシアヌスの子で、父ウェスパシアヌス、兄ティトゥスの後を継いで皇帝になっていることを考えれば、優れた者を選ぶというのはネルウァがトラヤヌスを養子とし、後継者にしたことを示していると分かります。 残念ながら、後漢はローマの方法を知っても採用することはなく、皇帝が早死にしては幼帝が立てられ、外戚と宦…
後漢 漢書の成立 竇憲が死んだことを奇貨とした洛陽令は班固を獄死させる 妹の班昭はその後を継いで漢書を完成させた
洛陽令の種竸は班固の免官を奇貨とし、彼を獄に繋いでしまいました。実につまらない話なのですが、かつて班固の奴婢が種竸の車馬の列に入り込み、追い出されようとしたところ、酔った勢いに任せて罵ったことがあったのです。種竸は班固を激しく憎んだのですが、竇憲がバックにいると思って手が出せなかったのです。 竇憲が自殺し、その輩が逮捕されたタイミングで、種竸はこの恨みを晴らすこととして班固を逮捕したのでし…
後漢 竇一族の腐敗 袁安らは竇一族の専権を批判する情緒を行うが、竇皇后は取り上げず、一族はますます驕り高ぶる 竇憲の再出撃と勝利
また、竇一族の専権を憂いて袁安、任隗、9卿が上書します。袁安については楚王劉英謀反後の楚で見事な処置をし、河南尹に抜擢されたことを記しましたね。河南尹の在任中も厳正ながら裁判を多用しないというバランスの取れた政治を行い、9卿を経て3公の司空、次いで司徒を歴任するようになっていました。 しかし、竇太后は上奏を取り上げませんでした。失脚させられなかっただけまだマシというものかもしれません。聞き入…
後漢 外戚竇憲 和帝は幼かったため、外戚の竇太后とその兄の竇憲が実権を握る 竇憲、斉殤王の子の劉暢を殺してその罪を他人になすりつける
話を先に進めすぎたようですので、章帝が亡くなって和亭が即位したところに戻りましょう。 後漢書梁統列伝によれば、和帝の実母は梁統の子の梁竦の娘に当たるそうです。梁竦には3男3女がおり、そのうちの2人が後宮に入っています。その小貴人が生んだ男児を竇皇后が養い、自分の子としました。梁竦らは喜んだのですが、竇一族はことが露見すると権力が梁一族に移ってしまうと考え、2人の貴人を殺し、梁竦を獄死させてしま…
後漢 和帝即位 班超は数にまさる莎車を巧みな作戦で打ち破る 88年、章帝が亡くなり10歳の和帝が即位、以後後漢の国力は衰えていく
翌88年、班超は于闐を始めとする諸国から2万5000の兵を集めて莎車を攻撃します。亀茲王は左将軍に5万の兵を率いさせ、莎車へ援軍を送りました。班超は諸国の昇降や于?王を集め、「我が方は兵が少なく、対抗することは難しい。撤退するしか無いであろう。私もまた、西へ帰ろうと思う。夜になるのを待って出発しよう」と告げました。 この時、敢えて捕虜の捕縛を緩めておいたため、逃げ出した捕虜は亀茲王へ班超らが撤退し…
後漢 南道開通 進むことを恐れた李邑の讒言もあったが、皇帝の信任を得た班超は西域諸国を順調に下し、南道を漢の支配下に置く
ところが、李邑は于闐に至ると、亀茲が疏勒を攻撃するのではないかと恐ろしくなって進むことができなくなってしまいます。しかし、中央へは「西域での作戦が成功するとは考えられません。班超は妻と子を得て外国で安穏と暮らし、内心を顧みる気持ちもありません」と班超を讒言して保身を図ります。 章帝は班超が忠実であることを知っていたので、逆に厳しく李邑を責め、「班超はたとえ愛妻を擁して愛児を抱こうとも、国…
後漢 班超の孤軍奮闘 撤退命令に従って班超が帰国しようとすると絶望した疏勒枉は自害、于闐の人びとは縋り付いて留まるように求める
亀茲と姑墨はしばしば班超を攻撃します。しかし、班超は味方はわずかながらも城に立て籠もって攻撃を防ぎ続けました。章帝は班超が孤立無援で危険な状態にあることから、詔を下して班超に引き上げることを命じます。 班超が疏勒を去ると、疏勒王は「漢の使いは私を見棄てた。これでは亀茲に滅ぼされるだけだ。使いが去るのを見届けるに忍びない」と言って自刃し、疏勒の2城は班超が去ると、亀茲に降伏しました。 そ…
後漢 明帝の死 75年、恤民政策を取り続けた名君、明帝が死に、19歳の章帝が即位する 馬援の娘の馬皇后が補佐する
75年、明帝が死去します。享年48と伝えられます。現在の基準で言えば若すぎるくらいですね。後漢書はその治世について、「刑は重くなく、法令は分かりやすく明らかであった。日が暮れるまで朝廷で仕事に励み、無実な者の疑いは必ず晴らした。内外に邪な私事を行うことはなく、天子の座にありながら驕った素振りは見せなかった」と褒め称えています。 その言葉通り、心優しき皇帝は寝廟を立てさせなかったり、墳丘を築かせ…
後漢 西域諸国の服属 班超は鄯善で匈奴の使者を撃退して鄯善を服属させ、更に于窴国(ホータン)や疏勒(カシュガル)に向かう
班超に率いられた兵士たちは北匈奴の使者が泊まっている野営地へ向かいます。そして、まず10人に太鼓をもたせて建物の後ろに潜ませ、「火が燃えているのをみたら太鼓を鳴らし、大声で叫べ」と命じます。そして、残った兵士たちには弩を準備させた上で、火を放ちました。その日は風が強く、火は風に煽られて勢いを増します。北匈奴の使者が驚き慌てたところを班超らは攻撃、30人余りを斬り、100人ほどを焼死させました。 …
後漢 班超の野心 役所の仕事中に張騫のような存在になりたいと言って笑われた班超が竇固の西域遠征に参加、35人の部下を率いて鄯善(楼蘭)へ
班超は兄と共に歴史を学びました。父が死んだ後は家中で必死に働き、辛いことや惨めなことがあっても恥とはしませんでした。兄の班固が召されると、班超は母を連れて洛陽に赴きます。家は貧しかったので、役所で文書の書写で糊口を凌いでしました。しかし、心は兄とは全く別のことを望んでしたのです。 ある時、班超は筆を投じて、「大丈夫たるもの、桜蘭王を刺殺して侯になった傅介子や西域張騫の倣って外地で功績を挙げ…
後漢 漢書 班超の兄の班固、文を愛した章帝の許可を得て禁中の書も利用し、父の後をついで漢書をほぼ完成させる
司馬遷が史記を著して以来、好事家が時たまその当時の歴史を編纂はしましたが、とても史記を継ぐようなものはできませんでした。班彪は前代の史書を紐解き、異聞を集め、それをまとめた上で得失を明らかにしました。賦、論、書、記、奏事合わせて9篇を編みましたが、志半ばにして52歳で世を去りました。54年のことです。 班彪には班固、班超の2人の兄弟と娘の班昭の3人の子がいました。そのうち、父の文章への情熱を引き…
後漢 班超登場 竇固が西域へ出撃した際に、部下の班超を西方へ送り込む 班超の出自について
パミール高原の更に西方には、前漢時代に大宛(李広利が汗血馬を求めた国でした)や大月氏、安息などの国がありました。このうち、大月氏の5つの翕族の1つの貴霜翕侯が大月氏国を統一しただけではなく、安息などを服属させて貴霜国となっていました。これが、中国の西域からインド北部にまで至るイラン系の大国、クシャーナ朝です。後漢では引き続き大月氏国と呼び続けていました。 長々と述べてきましたが、西域諸国は匈…
後漢 西域事情 新成立後の混乱を受けて西域は中国から離反し匈奴に組み込まれるも、後漢は成立直後には余裕がなく西域を放置していた
祭肜、耿秉、来苗は功績が無いまま帰還したのですが、竇固は祁連山で呼衍王を破るという功績をあげます。 竇固は竇融の甥でその後も昇進を重ねていくのですが、今見ておきたいのは、彼の遠征時の処置です。ただ、その前に西方事情を振り返っておきましょう。 前漢の時代に、衛青、霍去病、張騫、李広利らの活躍で、西域諸国は漢に服属するようになっていました。新が前漢を簒奪すると、王莽の独りよがりな対応によ…
後漢 楚王劉英の後始末 楚王の謀反に関与した者たちは次々と検挙される 処理に送られたのは有能さを知られていた袁安
劉英やその一族への処遇は大甘だったわけですが、讖緯偽造事件に関与した者には厳しい処置が待っていました。親戚であれ、諸公であれ、官吏であれ、許されることはなかったのです。数千人が検挙され、死刑または流罪となった者が千人余りにもなった、と伝えられます。擁護した者まで罪に問われたというのですから、尋常ではありません。 讖緯は天の意を示すものとされていたわけですから、それだけ捏造事件は重大な犯罪と…
後漢 楚王劉英の死 南北匈奴の分裂 70年、楚王劉英は反乱を起こそうとして露見、丹陽に移されるが、自害して果てる
もちろん、劉英が中国最初の仏教信奉者であるはずがないので、この67年までには仏教がそれなりの支持を集めていたことは分かりますね。 同じ65年、明帝は北匈奴へ使者を送ります。 匈奴は南北に分裂し、南匈奴が後漢と和親を結んでいたことは記しましたね。北匈奴は不安になり、後漢との和親を求めましたが認められませんでした。こうした経緯から、北匈奴は後漢に侵入しようとし、後漢は南匈奴の力も借りて北匈奴と対抗…
後漢 仏教伝来 中国に仏教が伝来した年代は不明だが、歴史書にはっきり証拠が見えるのは明帝の弟の楚王劉英の事例から
また、同時期に皆既日食が起こったことを受け、「朕は徳も無いのに大業を継承し、下は人の恨みを残し、上は天文を動かしてしまっている。日食の変事は災の最も大きなものと春秋の図讖にあるとおりである。その咎は朕1人にある。吏たちは職務に励み、上申すべきことがあればためらわずに行うように」との詔を出しました。 詔に応じて多くの上申があり、明帝はそれを深く受け止めたとのことです。この逸話に見られる通り、…
後漢 恤民政策の継続 明帝は光武帝の恤民政策を継続、絹(罰金)を払うことで罪を贖い、定住することを許す 廃太子劉彊の死
少々先走りしましたね。明帝の即位直後に戻りましょう。 明帝は即位すると、逃亡者で斬首以下の刑の者に対して絹を収めることで罪を帳消しにする、との詔を出します。同時に官吏選抜の不正や弱い者にばかり厳しい刑罰を課すことを非難していますので、明帝は父光武帝の恤民路線を引き継いだことがわかりますね。 即位翌年の58年、光武帝と郭氏の間の長男で、郭氏が皇太后を廃された後に自ら願い出て太子を降りた劉彊…
後漢 明帝即位 明帝即位の朝廷では建国の功臣の1人、竇融の一族が多くの力を握っていたため、明帝は竇一族の力を削ぐ
さて、明帝即位直後の朝廷では、なんといっても竇一族が大きな力を持っていました。河西の人びとを率いて劉秀に降ったことは西方への進出を有利にしたこともあり、竇融のみならず一族が重用されました。 竇融はまだ存命中で、竇一族の多くの者が重く用いられていました。そこに加えて竇融の従兄弟の子竇林が護羌校尉に任じられます。この時、竇融の長男の竇穆、更に竇穆の子の竇勲、竇友の子の竇固がそれぞれ公主を娶って…
後漢 劉秀の死 倭の使者を迎えた翌月に劉秀は死去し、皇太子が即位する(明帝)
さて、倭の使者を謁見した翌月の2月15日、光武帝は死去しました。その遺詔には、「朕は民に益を与えられなかったので、葬儀は文帝の時と同じように倹約を旨とするように。刺史を始めとする高官は持ち場を離れてはならない。部下を遣わして哀悼の辞を捧げてもならない」と命じました。 劉秀はたまたま生きた時代に戦乱が起こり、その中で思いがけずに皇帝にまで至ったわけですが、軍事を好まず、戦乱で疲弊した天下が安定…
後漢 倭からの使者 光武帝劉秀の死の直前、倭の奴国の使者が奉献する 後漢書に記された倭の習俗について
遥か異国から朝貢にやってくるということは(少なくとも当時の人々には)皇帝の徳が高いことを意味しますから、光武帝紀にもしっかり「東夷倭奴國王遣使奉献(東の夷である倭の奴国の使者が奉献した)」と記されています。 倭については、三国志魏志東夷伝倭人の条(広く魏志倭人伝として知られるもの)が有名ですが、この後漢時代に朝貢があったことから、後漢書にも記録が残ります。 ただ、後漢書は既に述べた通り…
後漢 図讖とトラブル 桓譯から図讖に従うことを諌められた光武帝劉秀は激怒して桓譯を斬れと命じる
翌月、劉秀は洛陽に帰ると、元号を建武中元元年と改めました。 そして、洛陽に明堂、霊台、辟雍を建てました。更に翌年には后土を祭る方丘が作られました。これで、王莽によって完成された礼の施設が洛陽に揃ったことになります。 霊台を作るに当たって、1つのトラブルがありました。 封禅の儀が図讖によって決められたことに見られるように、劉秀は讖緯説を重んじました。この図讖を天下に宣布したことで、 国…
後漢 封禅の儀 56年、前漢の武帝以来となる封禅の儀が行われる 秦の始皇帝同様に、新たな王朝を開いたことを天に報告する儀式だった
劉恭を殺した劉鯉が世話になっていたのが、劉玄と郭氏の次男にあたる劉輔です。 劉輔は右翊公に封じられましたが、母が廃位されるに当たって中山王に、次いで沛王になっていました。劉鯉はこの劉輔の賓客となっていたのですが、その立場でありながら、劉恭を殺害したのです。劉輔はすぐに釈放されましたが、郭氏が死ぬと同じようなことを防ぐため、王侯の賓客が逮捕され、数千人が命を落とすことになりました。 賓客…
後漢 匈奴分裂 蝗害や旱害に苦しんだ匈奴は分裂、南匈奴は後漢と結んで北匈奴と対抗し、北匈奴もまた漢との和親を図るが拒否される
馬援の末子の馬客卿は馬援の後を追うようにして早くに亡くなりましたが、長男の馬廖は羽林の左騎を率いる羽林左監、虎賁中郎将に任じられ、後には衛尉に出世します。一族はその後も故郷の右扶風に残り、後漢末にこの地で猛将を生むことになります。 さて、51年、大司徒、大司空、大司馬の三公が、司徒、司空、太尉と名称が変更されます。いよいよ、我らが三国時代で見慣れた官位が現れてきましたね。 もっとも、政治…
後漢 馬援の死2 武陵蛮は険阻な地に立て籠もって抗戦し、馬援をはじめ漢軍は暑熱に苦しみ、遂に陣没する
しかし、馬援たちが進んでみると、反乱軍は高所に陣取って隘路を塞ぎ、大軍の接近を許しませんでした。水路を遡ろうにも、水の流れがあまりに速すぎてとても実行できません。 加えて、厳しい暑さと疫病が襲いかかります。馬援もまた病に冒され、崖に穴を穿ってその中で暑熱を避けながら療養するしかありませんでした。 それでも馬援は、敵が鬨の声を上げると足を引きずりながらその様子を伺いに出ていきました。 …
後漢 馬援の死1 武陵蛮の反乱に建国の功臣の1人である劉尚が派遣されるが敗死、馬援は死に場所を求めてその後任となることを望む
47年には匈奴との関係を大きく変える出来事が起こります。前漢に降っていた呼韓邪単于の孫で、匈奴の南方と烏桓を領していた日逐王比が単于になれないことを不満に抱いて密かに後漢と好を通じたのです。 翌年の48年には、日逐王比は祖父と同じ称号、呼韓邪単于と称して後漢に来降しました。こうして匈奴の内部には、南北に分かれて相争う下地ができたのでした。 同じ48年には武陵の異民族である南郡蛮が背いたため、…
後漢 反乱鎮圧 徴側、徴弐姉妹は斬られても反乱は続き、馬援は3年がかりで反乱を鎮圧すると治水などインフラ整備まで実行し、帰還する
また、軍には疫病が蔓延し、楼船将軍段志が病死するなど苦しみます。それでも進軍を続けてついに反乱軍を捕捉すると、戦って勝利を得、数万の人々の降伏を受けましたが、徴側、徴弐の姉妹は軍を分散させて逃げてしまいます。 翌43年、皇太子劉彊が廃されます。彼は郭皇后との間の子で、母親が皇后を廃されたことから大変に不安定な立場に置かれていました。それを自覚していた劉彊はかねてから皇太子を辞めたいと願ってい…
後漢 反乱相次ぐ ベトナムの反乱鎮圧へ伏波将軍馬援が派遣される 蜀ではかつて岑彭の部下だった史歆が背く
反乱を鎮圧したばかりの馬援でしたが、劉秀は彼を伏波将軍とし、副将に劉隆を充て、楼船将軍段志らを率いさせて交阯の徴姉妹に向けて遠征させます。 伏波将軍は雑号将軍で、車騎将軍や驃騎将軍のような高い将軍位というわけではありません。過去にも伏波将軍号が使われたことはありますが、もっぱらこの馬援で知られています。 42年2月、蜀で史歆が背きます。その反乱の原因となったのは、呉漢が公孫述を滅ぼした際…
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