後漢 党錮の禁 李膺らが中常侍の専横を批判したのに対し、宦官たちは「党人が朝廷を誹謗した」として李膺らを訴える
官僚、則ち士大夫層は宦官の腐敗に対し、宦官と宦官に阿る者たちを濁流派、それに対する自分たちを清流派と名づけ、対立していくようになります。宦官の現世利益面の腐敗や堕落に加え、宦官という存在そのものが儒家の教えに反している存在として見下していたことから対立は先鋭化していきます。 翌166年、李膺たちは中常侍の専横を批判し、罪を糾弾します。批判を受けた宦官側は、逆に「党人たちが朝廷を誹謗した」とし…
後漢 腐敗を憎むものたち かつての李膺の部下で太尉の陳藩、司空の周景らの抵抗により、具瑗は降格され、左悺は自殺する
評判を聞いた梁冀に召されましたが、陳藩は使者を鞭打って殺して誘いを拒否し、左遷されています。左遷で済むのか、という話ですけどね。それでも一度中央に戻って尚書となるのですが、直言を嫌われて豫章太守に出されます。その後、尚書令として中央に戻り、大鴻臚へ昇進するも皇帝の不興を買って免職となり、またも召されて選挙を管轄しますが、ここでも権力者に阿らずに免職されます。またまた復帰し、尚書僕射となり太中…
後漢 党人 知識人たちは宦官と対峙する李膺を慕う 宦官たちは李膺や太学の学生らを党人と呼び、朝廷を誹謗していると非難する
中央に戻った李膺は河南の尹(長官)だった159年に、宦官を告発しようとして逆に獄に下されたことがあります。幸いにして無罪を訴える上書があったことを受けて復職した李膺は、宦官にひるまない人物ということで有名となっていました。 この李膺が宦官を厳しく批判したのです。それだけではありません。宦官で、出世の階梯を登りつつあった張譲(後に宦官としての地位を登り詰める姿を見ることになります)の弟の張朔が…
後漢 李膺 桓帝を扶けた宦官たちには絶大な権力が与えられ、知識人階級はこれに反発する 反宦官の急先鋒だった李膺という男
単超は桓帝即位翌年の160年に死ぬのですが、残りの4人は大邸宅に美女を囲い(宦官なのに)、一族を高位高官に就けるなど、好き放題を始めました。 官僚たちからすれば、政界を梁冀に代わって宦官が牛耳っている以外の何物でもありませんでした。 知識人階級はこれを不満とします。宦官は男性器を無くすことだけが皇帝の傍に侍る唯一の資格で、官僚に求められる学問や素行の良さなど無関係でした。加えて、官僚たちは…
後漢 梁冀誅殺2 宦官の具瑗らはまず梁冀に送り込まれた張惲を捕縛、動員可能な千人余りの兵で梁冀宅を囲み、梁冀を自殺に追い込む
8月、具瑗は張�ツが反乱を起こそうとしていると言ってこれを捕縛させます。これが梁冀排除計画の始まりでした。桓帝は前殿へ移ると、尚書を集めて謀反が起ったことを宣言、尚書令尹勲に節を与えて尚書郎に武器を取らせました。 司隷校尉の張彪が1000余人の兵士を率いて梁冀の屋敷を囲み、袁安の孫(梁冀に阿って3公になったとされる袁湯の従兄弟)で光禄勲の袁盱(えんく)が梁冀から大将軍の印綬を取り上げ、現在のベ…
後漢 梁冀誅殺1 専横を極める梁冀への反撃のきっかけとなった梁皇后の死 桓帝は宦官に梁冀追い落としを相談する
全国からの皇帝への貢納品はまず梁冀のもとへ届きますが、それに飽き足らず外国へ珍奇なものを求めさせました。道行く女性や御者を徴発し、それを見た部下たちは他人の妻女を奪い取ったり役人や兵士に暴行を加えたりと好き放題を行い、怨嗟の声が満ちていきました。 なにせ、彼の持つ広大な土地のウサギを知らずに獲ってしまった者が出ると、連座して10人以上が殺されたり、数千人にも及ぶ一般人を捕まえてきては奴婢にし…
後漢 梁冀の妻の孫寿 美人だが性格がきつく、梁冀ですら恐れたという梁冀の妻・孫寿 梁一族は高位に登り、好き放題を行う
孫寿は美人で科を作り、細く曲がった眉、目の下にだけ薄く白粉を塗って涙が流れたように見える化粧をし、頭の片側に髪を寄せ、なよなよした歩き方をし、歯痛を患っているかのような作り笑いを浮かべて媚惑したと後漢書は記しています。最後の項目のどこが魅力的なのか、ワタクシには分かりかねますが、梁冀は気に入っていたのでしょう。 なよなよしたように見えながら、性格はきつく、梁冀もこれを憚るという女性でした。…
後漢 梁太后の死 夙夜勤労と褒めそやされる梁太后が死に、梁冀に歯止めをかけられる存在がいなくなる
後漢書孝桓帝紀には、『洪範五行伝』を引いて、「法律を棄て、功臣を逐えば、時には即ち羊禍有り、時には則ち赤?赤祥(せきせいせきしょう=五行の「火」に配当される赤色に関わる怪異の現象)有り」。また、「是の時、梁太后摂政し、兄の冀は専権して李固、杜喬を枉誅し、天下之を冤とす(無実の罪であると考える)」との注がありますので、少なくとも構成には忠臣が殺されたことに対する不吉な出来事だったと受け取ら…
後漢 梁冀専横 梁冀に対する反乱は叩き潰され、その政敵の李固や杜喬はご駆使させられる ファフロッキーズ現象の発生
当然、梁冀の専横に対する反発も生まれます。 11月、清河の劉文や南陽の劉鮪らが劉蒜を天子と立てようとします。劉文らは清河の相の謝�ロを捕え、劉蒜を天子にし謝�ロを3公に据えようとしたのですが、謝�ロに罵られた劉文は謝�ロを殺害してしまいました。 反乱計画は肝心の劉蒜が賛同しないままに鎮圧され、劉文らは誅殺されました。劉文や劉鮪といった劉姓の人びとが反乱を企てたことは、劉氏の中で反梁冀的な動き…
後漢 桓帝即位 節度のある劉蒜は宦官に嫌われていたため候補から外され、14歳の劉志が即位する 朝廷のトップは梁冀の息のかかった者が占める
劉蒜は節度があり、態度が厳しいとのことで、梁冀のような人物と対抗しうる皇族だったかもしれません。しかし、その擁立に宦官が反対します。かつて劉蒜は曹騰と面会した際に、曹騰に礼をとらなかったことから宦官から嫌われていたのです。 結局、梁冀が擁立を決めたのは、章帝の曾孫に当たる劉志です。 梁太后は劉志に妹を娶せようと洛陽に呼んでいました。史書は「会(たまたま)」と記しますが、怪しいものです。…
後漢 質帝殺害 質帝は梁冀の専横を憎んで「跋扈将軍」と呼んだため、怒った梁冀は鴆毒で質帝を殺してしまう 鴆毒について
質帝は幼い頃から聡明でした。そして、梁冀が驕り、恣に振る舞っていること知って梁冀を嫌い、李固を頼ろうとします。しかし、梁冀を「これは跋扈(強く荒々しい)将軍だ」と言ったことから、梁冀は直ちに食事に鴆毒を盛り、質帝を殺してしまいました。146年のことです。後漢書は「質帝が弑逆されたのは聡明だったからである」と記しています。 この鴆毒とは、毒蛇のマムシを常食することで毒をもつようになった鴆という…
後漢 順帝の死 144年、順帝が世を去り、2歳の殤帝が即位するも、即位半年で死去する キングメーカー梁冀の権力はますます巨大なものになる
この時期の梁冀の所業について、後漢書はこう記します。洛陽の令で父の梁商とも親しい家の客になっていた呂放が梁商と話をする中で梁冀の欠点について語ったことがあります。梁商はそれを聞いて梁冀を責めました。すると、梁冀はただちに人を送って帰宅途中の呂放を刺殺させてしまいます。加えて、このことが梁商に露見しないように、呂放を恨む人びとに罪を着せ、その一族や賓客を皆殺しにさせたというのです。順帝は、梁商の…
後漢 梁冀 141年、梁皇后の父の梁商が病に冒されて世を去り、子の梁冀が後を継ぐ それまでの官職で暴虐で何度も法を犯す危険人物だった
133年、学者の李固は外戚や宦官の専横を上奏します。 李固幼い頃から学問を好み、長安では有名な存在となっていました。その名を伝え聞いた地方から何度か登用の誘いがありましたが、いずれも拒否しています。132年に上奏したことから順帝の目に止まり議郎となったのでした。外戚からも宦官から睨まれることとなったのですが、順帝は李固らを用いることでバランスをと労組するようになっていきます。その活躍はもう少し後…
後漢 張衡の地震計 知覚できないレベルの揺れさえ検出することができた地震計の仕組み
では、張衡の地震計とはどのような装置だったのでしょうか。『中国の科学と文明〈第1巻 序篇〉 - ジョゼフ ニーダム, 護, 砺波, 繁, 脇本, 二郎, 杉山, 勝美, 田辺』から引用します。 それは「精製した青銅」の、酒がめによく似た直径180センチの容器で、円屋根のようなフタ…
後漢 地震計献上 132年、張衡が地震計を献上する 地震が多発していたこともあり、地震計は重宝された
張逵らは讒言が受け入れられなければ逆に自分たちが危ないと、曹騰たちを捕えてしまいます。ここでもし張逵の陰謀が成功すれば、後漢末の動乱は大きくその姿を変えることになったはずなのですが、曹騰らが危ないと聞いた皇帝は激怒して直ちに曹騰らを解放させ、張逵らは誅殺されました。 梁商や曹騰排除を図った一味に対する取り調べは苛烈を極め、拷問によって次々と関係者の名前が挙げられます。梁商は連座する者の多い…
後漢 梁商の娘の梁妠(りょうなん) 班始は妻が若い男の同衾を見せつけたのを怒って妻を殺害、一家が滅される 梁妠の立后
班始は章帝の孫で順帝の叔母にあたる陰城公主を娶っていました。この女性は大変に困った性癖の持ち主だったようで、班始をベッドの下に居させておいて、若い男と同衾したのです。怒った班始は公主を刺殺しました。順帝は激怒し、班始とその兄弟は全員腰斬とされたのです。 現在でも、女性が最も殺されやすい状況は、別の男との行為が露見した時だとされます(別の男性とする姿を見て興奮したいという性癖の持ち主もいるよ…
後漢 三通三絶 班超の子の班勇の活躍もあって西域諸国は再び服属したが、班勇が引き上げるとまた背く 外戚梁一族の登場
年が明けた126年の正月に、閻姫が世を去ります。史書は多くを語りませんが、閻一族が滅ぼされて2ヶ月で閻姫が亡くなるというタイミングには、偶然とは思われませんね。 同年5月、外国勢力と国境を接する幽州、并州、涼州の刺史に領域内の調査を行い、堡塁への兵士の充当や軍馬の演習を命じます。10月には死罪以下の者を辺境に移し、罪を贖わさせることとしました。 もちろん、単なる温情措置ではありません。異民族…
後漢 順帝即位 閻氏の擁立した北郷侯の劉懿は在位200日で死去、宦官たちは安帝の廃太子の劉保を擁立し、外戚閻氏を滅ぼす
閻皇后は北郷侯の劉懿を擁立します。しかし、その200日余り後の10月27日に劉懿は死去しました。そのため、劉懿は正式な皇帝に立てられず、諡号も与えられずに少帝と呼ばれます。もし劉懿が諡号を与えられていた場合、「懿」は諱となりますから、司馬懿や呉懿は異なる名前となっていたはずです。(実際、司馬氏が天下を得たことで司馬懿の「懿」が諱とされ、呉懿は史書では呉壱と記されます) この少帝懿について詳細は伝…
後漢 安定の死 宦官を重用し、後漢の混乱の端緒を開いた安帝、32歳で世を去る 後漢書は「王者の法度をだめにした」と手厳しく非難
124年、閻姫は宦官の江京(�ケ太后死後に讒言して�ケ隲らを排除した人物として名前が出ていましたね)と共に、安帝に皇太子劉保を讒言します。閻姫は美しく、安帝の寵愛を占めたのではありますが、男児には恵まれませんでした。もし劉保が即位すれば、実母の李宮人を毒殺させた閻姫には悲惨な末路しか待っていないということもあったのでしょう。 安帝は讒言を受け、劉保の乳母の王男、飲食係の?吉を殺し、皇太子を廃して…
後漢 班勇 班超の末子の班勇、再び背いた西域へ向かい、車師前国や車師後国を攻撃して功績をあげる
それまで6芸、6経と言っていたものから楽が外れて5経となったような文芸部門だけではなく、『九章算術』のような数学分野でも発展が見られたことは記憶して良いと思います。実は、中国の数学も西洋とは別個にかなりの進展を見せていました。 彼らは地上の政治に対する天の遺志が天文現象に現れると考えておりましたので、天文現象が熱心に記録されました。天文現象は基本的に数学で叙述可能ですから、数学が発展するわけ…
後漢 学問の発展 地味ではあるが意外と学問の発展した後漢時代 当時の漢字を解説する『説文解字』のおかげで甲骨文字も解読できる
�ケ一族を滅ぼすと、続いて�ケ綏に可愛がられた平原王劉翼もまた、都卿侯に落とされます。劉翼は河間に帰ると、客の訪問も拒絶して家に籠もったため、それ以上の迫害は受けずにすみました。 ただ、�ケ一族への迫害は長くは続きませんでした。�ケ綏や�ケ隲を擁護する声が大きくなり、生き残った�ケ一族の人びとは再び首都に戻ることが許されました。三国時代に活躍する�ケ芝はこの一族の出なので、もし許されなかったら歴…
後漢 外戚鄧氏の排除 安帝は宦官江京らの力を借りて邪魔になった鄧一族を排除する 外戚としては最高級だった鄧隲は排除され、絶食して死ぬ
120年、安帝は息子の劉保を皇太子に立てます。劉保は115年生まれなので、5歳で太子に立てられたことになります。その母は李宮人ですが、息子の立太子を見ることはできませんでした。同じ115年に立后された閻姫は嫉妬深い性格で、李宮人を殺させてしまったためです。 121年、�ケ綏が世を去り、安帝は和熹皇后の諡号を贈って葬りました。しかし、安帝の内心には、�ケ綏とその一族に対する恨みがあったようです。 �ケ綏…
後漢 張衡 116年に張衡が太史令に着任 青年時代に崔瑗から天文や数学を倣った多才な人物の登場
後漢の苦境を見抜いたか、烏桓や鮮卑が背いて侵入して郡の兵を破り、南単于もまた背きました。12月には地震が起こり、9の郡国で被害が生じています。ようやく改善が見えてきたのは110年のことで、広く海岸沿いをあらしていた海賊の張伯路を青州刺史が破り、度遼将軍と遼東太守は南匈奴を破っています。 116年、後漢のみならず、古代中国の科学、技術を語る上で決して外すことのできない人物が太史令に着任します。その人…
後漢 殤帝の死 殤帝はわずか2歳で世を去り、章帝の元の皇太子劉慶の末裔に当たる13歳の長安侯劉祜が擁立される
�ケ隲は妹が立后された際に昇進を拒んだ経歴を持つ、権力に汲々としない人物です。しかし、このような状況ともなれば是非もありません。�ケ隲は車騎将軍に上り、政治を見る事になりました。 ところが、その翌年、皇帝が世を去ってしまったのです。夭折した皇帝には、20歳より前に死ぬことを意味する「殤」が諡号に選ばれました。 殤帝が世を去ると、�ケ太后は誰を擁立するかを兄の車騎将軍�ケ隲と相談します。当然、…
後漢 紙の発明者 蔡倫以前に紙は存在したにも関わらず蔡倫が紙の発明者とされる理由について
ヒントになるのは蔡倫以前に紙は存在していたこと、にも関わらず、書写材料として多く用いられたのは紙ではなかった、ということです。秦の始皇帝が仕事量を重さで量っていたのは木簡や竹簡を前提に考えなければ筋が通りませんし、前漢の皇帝の命令が刻まれた木簡が多数発見されています。ということは、大量生産に適した方法を考え出したのかもしれません。 製紙の発明者が蔡倫でないなら、なぜ蔡倫の名がそ…
後漢 紙の製法と性質 紙の剛性をもたらす水素結合のありがたみ
後漢書(興味深いことに、後漢崩壊後の混乱期である三国志の方が先に書かれ、後漢書の成立は南宋をまたなければなりません)には、蔡倫が樹皮、麻、ボロ布、魚網から紙を作り出す方法を発見したと記されています。その作り方を『紙 二千年の歴史 - バスベインズ,ニコラス・A., Basbanes,Nicholas…
後漢 紙献上 鄭衆とともに権力を握った蔡倫、105年に紙を献上する ただし、紙そのものは前漢からも発見されている
宦官は子孫を持つことを許されませんでしたから、彼らの蓄財も所詮は一代限りのものですから、かわいいものでした。ところが、養子を取ることができるようになると、子孫のために蓄財を図るようになっていきます。 鄭衆本人は忠誠心篤く頭脳明晰な人物だったので権力を壟断するようなことは無かったのですが、宦官に与えた絶大な権力は引き継がれていきます。そのため、和帝以降は宦官が大きな力を握り、後漢は以後宦官と…
後漢 宦官の専横 班超の後任の任尚、班超の忠告を聞かずに西域の離反を招く 和帝を助けて竇憲を失脚させた鄭衆は侯に封じられ養子をとる
後任の戊己校尉任尚(じんしょう)は、班超に西域を運営する秘訣を尋ねます。班超は、「私はもう老いて、知恵を失いました。任君は重要な官職を歴任してきたのですから、私の言うべきことは無いと思いますが、どうしてもとおっしゃるなら愚言を進めましょう。塞外の兵士、役人は罪を犯してこの地に送られてきた者たちで、もともと孝行で親に従うような者たちではありません。しかも、夷狄の民は鳥獣のような心を抱き、養うこと…
後漢 班超の死 中央への官吏推薦として孝行や廉潔が重要視されるようになる ようやく帰国を許された班超、帰国するも翌月に世を去る
班超はこのように切々と訴える上奏を行います。班超の妹の班昭もまた、兄がどれほど西域を安定させるために尽くしたかを説き、寄る年波には勝てず病に冒され、異民族に攻撃されれば兄の体は心に従っては動かず、国家累世の功績すら損なってしまうでしょうと上書し、帰国を求めました。 流石に朝廷も班超の帰国を認めることになります。 101年、孝廉の推挙人数に変革が行われます。 官僚として登用されるには前…
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