後漢 皇帝廃立 董卓は呂布を籠絡して首都近郊の警備を司る執金吾の丁原を殺させて軍を一手に握る 何皇后は殺され、少帝劉辯は廃立される
何進以外で洛陽付近で軍を握っていたのは、執斤後の丁原です。執金吾は首都近郊の守備を司る武官の官位でしたね。当然、彼は守備隊を率いていたのです。 丁原は寒門出身で、騎射を得意とした武人で、戦いとなれば先頭に立って戦う人物です。一方で、官吏としての能力は低かったそうです。并州刺史や騎都尉を歴任し、そして執金吾に上っていました。 董卓はこの丁原の軍を奪おうとしますが、丁原の陣営にいた呂布によ…
後漢 董卓の軍事掌握 董卓は何進の軍を握り、詭計を用いて自分の軍が多いと見せかけて洛陽に権力を確立する
呉匡は親宦官派の何苗も何進殺害に関与しているとして兵士たちに何進の復讐を煽り、董卓の弟の董旻らとともに何苗を攻撃、何苗を殺害しました。何進、何苗兄弟が死んだことで、外戚何氏の力は大きく損なわれることになったのです。 一方、皇帝とともに洛陽を脱出した張譲や段珪でしたが、小平津に逃げたところで上洛中の董卓の軍勢に逐われ、自殺しました。皇帝とその弟の陳留王劉協は徒歩で逃げ惑っているところを董卓に…
後漢 宦官誅滅計画 何進は宦官誅滅を計画し、各地から軍を呼び寄せて皇后と宦官に圧力をかけようとするが、先手を打った宦官に殺害される
これまでの歴史を眺めてくれば、今の状況が何進たちにとっては非常に危険なものであることは明らかです。 袁紹は各地から将軍たちを呼び寄せようと提案します。盧植や曹操は反対しますが、袁紹は自説を曲げずに何進を説得、何進はそれを認めて王匡や橋瑁、曹操らに兵を集めさせるのと並行して董卓や丁原を呼び寄せました。盧植は董卓の性格を知っていたため呼び寄せるのに反対したのですが、何進は聞き入れませんでした。…
後漢 皇子辯の即位 何進は直ちにライバルの董皇后と蹇碩を排除、甥の劉辯を即位させる
外戚何一族の力で17歳の皇子の劉辯が即位します。何皇后は皇太后とされ、臨朝するようになります。大赦が行われ、改元して光熹としました。異母弟の劉協は渤海王に封じられます。後将軍袁隗が太傅となり、大将軍何進とともに尚書を司りました。 何進がまっさきに行ったことは、政敵の排除です。 霊帝は皇子劉辯が軽はずみなことから、皇太子としたくないと考えていました。そうなると、次の候補は劉協となります。霊…
後漢 霊帝の死 皇甫嵩は韓遂や馬騰を討ち、反乱軍を敗走させる 霊帝の死
186年から187にかけて反乱が相次いだという中で、187年2月に馬騰や王国が背いたとの記録がありましたね。この時、異民族の氐(てい)や羌も反乱を起こしており、涼州刺史の耿鄙が狄道まで鎮圧に向かいますが、部下の裏切りにあって殺害されてしまいます。 韓遂は漢陽へ進み、太守の傅燮を攻殺します。馬騰や王国が韓遂に合流すると、彼らは王国をトップに据えて三輔へ侵入、陳倉を囲んでいたのです。皇甫嵩はこの反乱を…
後漢 公孫瓚 反乱を起こした張純は公孫瓚に敗れて烏桓へ逃走 烏桓はかねて慕っていた劉虞に降ろうとするが、公孫瓚は妨害する
張純らは薊中を攻撃しますが、石門山で公孫瓚に迎撃されて大敗し、張純は烏桓とともに逃亡しました。 同じ188年11月、涼州の賊の王国という者が陳倉を囲みますが、黄巾の乱鎮圧の立役者の1人である右将軍皇甫嵩がこれを救います。西方、北方からの圧迫が強くなってきたことが感じられますね。 この年、州牧を廃止し、代わりに刺史を置いています。これは名称の変更に留まらず、「従来の刺史は監察の官であったが…
後漢 西園8校尉 188年8月、霊帝に直属する組織として西園8校尉が新設され、袁紹、曹操、淳于瓊らが任命される
彼らは霊帝が河間を訪れた際に、黒山の賊を討つためと称して兵を動かしてことを起こそうとしました。しかし、霊帝が出発する前に、天文官が北方に赤気が東西にたなびいたのを見て陰謀があるに違いないと進言したため、巡行は取りやめられました。そして王芬に対する軍の出動許可を取り消し、王芬を召喚しました。王芬は恐れて自殺し、計画は未遂に終わりました。 188年も兵乱は続きます。 正月には匈奴の一派の休屠…
後漢 霊帝排除計画 冀州刺史の王芬や南陽の許攸は同志を募り、霊帝を廃位しようと図る 曹操も声をかけられるが、参加を拒否
なお、結合双生児はシャム双生児と呼ばれることもありますが、シャム、則ちタイで特別結合双生児が多いというわけではなく、有名になった結合双生児がたまたまタイ生まれだったから、との由です。 このような、珍しいケースではあるとしてもそれなりに出生の見られる結合双生児よりも遥かに王朝の堕落を示しているのが、関内侯がまたも売りに出され、しかも伝世が許されるようになった(過去は一代で終わりでした)ことで…
後漢 相次ぐ反乱 黄巾の乱は鎮圧されても各地で反乱が発生する 史書に遺された結合双生児の記録
186年2月、江夏で兵の趙慈が背いて南陽太守の秦頡を殺害しますが、6月に荊州刺史の王敏により鎮圧されます。 10月武陵の蛮族が背き、郡の兵に敗れます。 187年2月、滎陽の賊軍が県令を殺しますが、3月に何皇太后の異父兄の何苗に鎮圧されます。 4月には涼州刺史の耿鄙が金城の韓遂を攻撃しますが大敗し、逆に韓遂が漢陽に侵入して太守を殺害します。また、扶風の馬騰や漢陽の王国が叛き、三輔に侵入します。 …
後漢 西方での反乱 北宮伯玉は三輔に侵入して略奪を行い、官軍に撃退される 梟雄韓遂は北宮伯玉を殺し、反乱を率いるようになる
司徒の首を飛ばしたからといって、既にどうにもならないほど社会には混乱が広がっていました。 火災の翌月、北宮伯玉は数万騎にも膨れ上がった反乱軍を率いて三輔(長安近郊)に侵入し、暴れまわります。左車騎将軍の皇甫嵩や左中郎将の董卓を派遣しましたが討伐は進まず、7月に皇甫嵩は罷免されてしまいます。 代わりに朝廷では司空の張温を車騎将軍に任じて、董卓らを率いさせます。超温は一度は敗北しますが、再…
後漢 反乱続発 北辺では北宮伯玉を擁立しての反乱が、黒山では張牛角らが叛き、首都では火災が発生するなど、内外で混乱が続く
そうした後漢への反発の中でも有数に大きなものが、黄巾の乱の興奮冷めやらぬ184年の冬に炎となって噴き上がります。異民族政策に当たった治中従事の程球の不正を憤った先零羌や王国(人名です)たちが北宮伯玉なる人物を擁立して反乱を起こしたのです。 この聞き慣れない姓名の人物は湟中月氏という月氏の一集団出身で、湟中義従とされた人物です。異民族の音を感じに当てはめた名前なので変わった名前に見えているので…
後漢 反乱鎮圧 張角は籠城中に病死し、張宝、張梁は戦死して反乱の中枢部は潰えるが、黄巾を名乗る反乱は各地で続く
全体的に見れば、黄巾賊は社会不安と後漢の不意を突いたことから反乱初期には爆発的な破壊力を持ちましたが、彼らは近隣の反乱集団とすら連携を取らなかったことから、いざ官軍の正規軍が派遣されると各個撃破されていったのです。 広宗籠城中に張角は病死し、弟で地公将軍を自称した張宝が反乱を引き継ぎます。しかし、張宝の弟で人公将軍を称した張梁は戦死し、10月には広宗が陥落して張宝も戦死しました。官軍は張角の…
後漢 黄巾賊の退勢 皇甫嵩や朱儁が軍を率いて討伐に向かうと黄巾賊は各地で敗れる 腐敗した宦官は盧植を讒言して更迭、董卓が後任になる
討伐軍が組織される間にも、南陽の黄巾賊は郡守を攻撃して殺害し、4月には朱儁が黄巾賊の渠師の波才に敗れ、汝南では太守趙謙が敗れ、広陽では幽州刺史の郭勲や太守の劉衛が敗死するなど、反乱は勢いを増します。このような状況においても、宦官の腐敗は変わりません。4月には宦官を批判した侍中の向挧(しょうく)と張鈞(ちょうきん)が獄に下されて死んでいます。 ただ、軍事的には後漢の取り組みは概ね成功を収めます…
後漢 反乱対策 黄巾の乱に他の反乱も合流して黄巾賊の勢力が膨れ上がる 朝廷は党錮の禁も解除して総力戦に備える
反乱は張角の夜郎自大的な誇大妄想があったことは勿論ですが、数十万もの男たちが反乱に加わったのは、後漢王朝の統治の緩みに他なりません。この背景があったため、安平や甘陵の人びとは王を捕えて反乱に呼応しました。 中央では無能な皇帝が早死するという状況に乗じた外戚と宦官とが権力を争い、地方では世界的な寒冷化を背景とする自然災害、飢饉が相次いだことで社会不安が醸成されており、安帝以降は民衆反乱が絶え…
後漢 黄巾の乱 反乱計画が露見したことを知った張角は、当初の予定を早めて184年2月に反乱に踏み切る 黄巾の乱のはじまり
『中国の歴史04 三国志の世界(後漢 三国時代) - 金文京』は、黄巾賊の組織だったところや、各地での活動(地方の役所の門にも、彼らが蜂起する年の「甲子」の文字が書かれたという)を考えると、党錮の禁で漢王朝を見放した清流派=党人や後漢に見切りをつけた者が流入していた可能性を指摘…
後漢 反乱計画の露見 184年、洛陽の宦官のもとへ太平道の信者の唐周が駆け込み、大規模な反乱があると告げる
184年、洛陽の宦官の下へ、唐周なる者が駆け込んできます。その唐周が言うには、ある教団が蜂起を計画し、内応を約束していた中常侍の徐奉らへ 馬元義という使者を送ってきたというのです。 蜂起計画が発覚したため、馬元義は逮捕されて車裂きにされました。霊帝が捜査を命じたため、洛陽では広く捜査が行われ、1000人以上が誅殺されました。 反乱の首謀者は冀州鉅鹿郡の張角という者です。 張角は自ら大賢良師…
後漢 皇子二人 何皇后が辯皇子を生んだ翌年、才色兼備の王美人が協皇子を生む 世情不安定な中、霊帝は後宮での遊びに耽る
何皇后は身長は162cmほどで、ひどく嫉妬深く、後宮では皆が震え上がっていたそうです。 その翌年に181年に王美人が懐妊すると、王貴人は何皇后を恐れて薬を飲んで中絶しようとします。しかし、お腹の子は無事に育ち、月満ちて生まれ、協と名づけられました。何皇后は怒り、王美人を毒殺してしまいました。遺された劉協は、霊帝の生母である董太后の手で育てられることになります。 王美人は祖父の王包が五官中郎将だ…
後漢 曹節誅殺計画 計画は宦官側に漏れ、陳球や陽球は逆に捕縛されて誅殺される 何皇后の冊立
超タカ派の段珪は10年余りの対外任務の間、1日たりとも寝室で休まずに兵士と生活を共にしました。春秋時代の有名な兵法家の呉起(呉子)が兵士の膿を口で吸い出すほど面倒を見たため兵士は呉起のために死ぬことすら厭わなかったと伝えらるように、ここまでリーダーが部下と苦労をともにするのなら、兵士は身をなげうって戦うものです。段珪の軍は兵士の奮闘もあって負け知らずで、多くの敵を打ち取りながら味方の損害は殆どな…
後漢 王甫の死 宦官トップの曹節誅殺を目標に、永楽少府の陳球や司徒の劉郃らは司隷校尉の陽球と共に王甫を逮捕、拷問して殺害する
179年、陽球が司隷校尉に任命されます。 ここで陽球について見ておきましょう。 陽球は法律を厳しく適用する酷吏に属する人物で、その記録は列伝67の酷吏列伝に収められています。子どもの頃から剣術をよくし、弓、馬を習う一方で申不害や韓非子の学問、つまりは法家の学問を学びました。法家へ向かったのは、生まれついての性格だったのでしょう。 高唐の県令の時代には厳格すぎて太守に逮捕され、大赦されて…
後漢 宋皇后の死 桓帝の弟の渤海王劉悝は霊帝のライバルになりかねないことから誅殺され、その一環で宦官王甫の讒言を受けた宋皇后も族滅される
ことの発端は、中常侍の王甫が渤海王劉悝を誅殺したことにあります。 渤海王劉悝は桓帝の弟で、傍系の霊帝からすれば自分よりも正統な血筋のライバルに当たっていました。王甫は劉悝に難癖をつけて一族を滅ぼしたのでした。 この時に一緒に殺された妃の宋氏は宋皇后の伯母に当たりますから、王甫は宋皇后に恨まれることを恐れ、「皇后は巫蠱などの呪詛を行っている」と讒言させました。前漢の武帝の末期、巫蠱の…
後漢 竇太后の死 竇武が自殺に追い込まれた後、竇太后は幽閉されたまま死ぬ 宦官たちは竇太后の死体を晒し、皇后の位も剥奪しようとする
竇皇太后は父の竇武が宦官討滅を謀って自殺に追い込まれた後は幽閉されていました。曹節や王甫ら宦官は竇皇太后を深く恨み、竇皇太后の遺体を市場に晒しました。それだけではなく、彼らは皇后の位すらも剥奪しようとしましたが、霊帝は竇太后は自分を即位された恩人でもあるので皇后として葬りたいと言ったため、歴史の改竄にも等しい死後の皇后剥奪は行われませんでした。 称号剥奪で狙いを果たせなかった宦官たちは、今…
後漢 中常侍侯覧の死 劉寛のような寛大な長者はいても、宦官の腐敗と皇帝の無能は漢を救える段階にはなかった 中常侍侯覧の失脚と死
彼が寛大なのは生まれついてのものもあるのでしょうが、世を治めるのに当たって刑罰ばかりを用いれば、民は刑さえ逃れれば恥を感じることが無くなるから、との思いもあったそうです。 その信条は寛大さにのみ現れたわけではなく、県を巡って宿場に止まるごとにその地方の教師や学生を集めて経書の解説をするといった教育熱心なところにも現れています。 変わった人物として知られるエピソードとしては、礼儀作法には…
後漢 弾圧の影響 知識人たちは名士に三君、八俊、八顧、八及、八廚と位階をつけ、朝廷の基準とは別に敬うべき順序を議論する
死者の名の中には、李膺も含まれています。李膺は逃亡を勧められましたが、「君主に仕えれば難を避けず、罪を得ては刑を逃れないのが臣下のあるべき姿。私ももう60歳。生きるも死ぬも天命であろう」と言うと出頭しました。李膺は拷問にかけられて命を落としました。そして、李膺の妻子は辺境に移され、門人はその父兄に至るまで禁錮とされました。 清流派の人びとは宦官と対抗した名士たちに、三君、八俊、八顧、八及、八…
後漢 第2次党錮の禁 竇武は自殺に追い込まれ、宦官側は知識人たちに対して巻き返しに出る
曹節は帰国したばかりで前後の状況など何も知らない張奐に、竇武が反逆したので討つように命じます。 天子の御旗と百戦錬磨の名将が宦官側に押さえられた以上、竇武に勝ち目はありません。投降すれば許すと言われた兵士たちは次々と竇武を見棄て、竇武は自害しました。 宦官たちは竇武に与した者たちを次々と族滅する一方で、竇武の廃滅に功績のあった張奐を大司農に任じ、侯に封じました。しかし、張奐は事情を知ら…
後漢 露見 竇武が竇太后に宛てた宦官誅滅の文書はチェック係の宦官から漏れ、宦官たちは霊帝の身を押さえて宮殿の守りを固める
竇太后の許可を得た竇武たちは権力を振るう中常侍の管覇と蘇康を誅殺します。この両名の名前は、竇太后が桓帝の死の直後に桓帝に寵愛された女性たちを殺害しようとしたのを諌めた者として名前がでてきていましたね。あるいは、竇太后の意趣返しだったのかもしれません。 竇武たちはこの2人で終わらせる気はさらさら無く、続いて中常侍の曹節誅殺を図ります。 曹節は魏郡出身で、順帝の時代に小黄門、桓帝の時代に中…
後漢 竇武 外戚となっった竇武は昇進を重ねて権力を得るが、身を謹んで賄賂を拒み、党錮の禁も解除させる 竇武の宦官排除計画
この時、霊帝擁立に功績のあった周景は安陽卿侯に封じられています。周景は忠実な性格で、桓帝の時代に専権を振るった宦官の具?を失脚させたことでも知られていますが、後世の日本では、もっぱら彼の名は周瑜の一族(従祖父)として知られています。 彼らよりも、何と言っても注目すべきは竇武です。 竇武は後漢建国の功臣、竇融の玄孫です。若い頃から学問に励み、長安方面で功績をあげています。165年に娘の竇妙が…
後漢 霊帝即位 12歳の劉宏が即位し、外戚の竇武と太傅の陳藩が尚書のことを司る
また、賛には「桓帝は傍系から天子の地位に登った。政治は5人の寵臣に移り、李固や杜喬が刑死するなど、過酷な刑罰がみだりに行われた。後宮の女性は大勢いたが、皇子には恵まれなかった」とし、やはりその治世が良いものではなかったとしています。 即位してからは梁冀の影に怯え、梁冀を誅殺しても宦官に頼るしか無かった桓帝には同情の余地はああると思います。それでもやはり、彼のような類の人物を、絶対的な権力者…
後漢 桓帝の死 桓帝が36歳で死去すると竇皇后は桓帝の寵愛を得ていた田聖を殺害する
また、この時に涼州の3明として知られる皇甫規は、自ら「自分は党錮である」と主張しています。皇甫規は安定出身で、祖父の皇甫稜は度遼将軍、父の皇甫旗は扶風都尉と、匈奴との最前線で働いてきた家の生まれです。直言の士故に多くの挫折を経験しながら対匈奴戦線で硬軟両面で成功を収めています。 その過程で梁冀を批判したり、仕事を罷めたいのに宦官の嫌がらせで罷められなかったりしたと、硬骨漢ぶりを発揮しました…
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