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  • 人間にはいくつもの顔がある。(欲動その6)

    人間にはいくつもの顔がある。なぜならば、所属する構造ごとに異なった自我として生きるからである。人間は自らのことを自分と言うが、人間には特定の自分は存在しない。人間は常に自我として存在しているのである。自我とは、人間が、構造体の中で、役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、首相・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員な...人間にはいくつもの顔がある。(欲動その6)

  • 自分は存在しない。(欲動その5)

    小林秀雄は「人間は何にでもなれるだろう。しかし、自分にしかなれない。」と言った。しかし、人間は偶然出会ったものにしかなれない。しかも、他者に受け入れたものにしかなれない。さらに、自分で主体的に考えて行動しているわけではない。つまり、自分は存在しないのである。人間は、誰しも、永遠に生きることができず、必ず、死が訪れる。人間は、誰しも、自らの死を最も恐るべきことだと思っている。それは、人間にとって、自らの存在が掛けがえのないものだからである。しかし、誰が死んでも世界は消滅しない。自我が一つ消滅するだけである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある...自分は存在しない。(欲動その5)

  • 愛という名の欲望について。(欲動その4)

    一般に、愛は欲望と対立しているように解釈されている。愛は推奨され、欲望は毛嫌いされる。それは、愛は献身的だが、欲望は自分の利益の追求のことしか考えていないと思われているからである。だから、小説、映画、ドラマ、アニメ、漫画などにおいて、愛は肯定的に描かれ、欲望は否定的に描かれているのである。日常生活においても、世間では、愛は求められ、崇高なものと見る風潮がある。人間は、愛する人がそばにいると喜びを覚える。さらに、その人に愛されていると実感すると無上の喜びを感じる。そして、愛する人のためには自らを犠牲にしようとさえ考える。だから、愛は崇高なものと思われているのである。愛には様々な形態があるが、愛する喜び、愛されることの喜び、愛する人やものに対する献身性は共通して存在する。愛する子のために、愛する人のために、愛...愛という名の欲望について。(欲動その4)

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