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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 「奥の細道」蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (岐阜県大垣市)

    門人の露通が敦賀まで迎えにきた。二人は大垣へ向かった。大垣では曾良をはじめ、多くの門人が芭蕉の到着を待っていた。・・・・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行いよいよ〝奥の細道"の旅も、最後である。大垣には古くからの門弟たちが、多勢あったし、何度か訪れた土地でもあった。大垣へきて、やっとこの長途の旅も、終着駅についたという感じで、ほっと一息ついたのだ。もちろん芭蕉の生涯が旅なのだし、ここを立って、さらに伊勢の御遷宮を見に行こうと計画しているのだから、旅が終わったというわけではない。だが、細道の紀行文は、ここらで打ち止めにするのが適当だと思ったのだ。敦賀をいつ発って、どういうコースをたどって、何日に大垣についたのか、いっさいわからない。大垣には、前川荊口その他大垣藩士のなかに門弟が多...「奥の細道」蛤のふたみにわかれ行秋ぞ(岐阜県大垣市)

  • 「奥の細道」名月や北国日和定なき (福井県敦賀)

    名月の日に、まんまるい♪お盆のような月を・・・見ることができれば、美しさや、大きな月に感動される。薄さえ名画のように見える。でも、中秋の名月は雨の夜が多い。今でも、観月会の会場は雨を前提に設営していることが多い。・・・「超訳芭蕉百句」嵐山光三郎筑摩書房2022年発行「中秋の名月」なのに雨が降ってきた。雨が降ろうが、見えない「名月」を見てしまうのが芭蕉の目玉である。名月や北国日和定なき(中秋の名月の夜だというのに、雨となり、北国の天候は、変わりやすいなあ。)・・・・・・旅の場所・福井県敦賀市旅の日・2015年8月4日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「わたしの芭蕉」加賀乙彦講談社2020年発行名月や北国日和定なき今夜は中秋名月の日である。宿に泊まっても前夜は晴れて満天の星に満月が輝いていた。ところが雨が降...「奥の細道」名月や北国日和定なき(福井県敦賀)

  • 「奥の細道」月清し遊行のもてる砂の上 (福井県敦賀)

    敦賀の宿の主は酒をすすめてくれた。それから氣比神宮に夜、お参りした。境内は神仏混淆、大鳥居に五重塔、三重塔あり、堂々として木々からは月光がさしこんでいた。遊行上人の砂持ち伝説があり、それは現在も、神事「お砂持ち」が営まれている。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行夕暮、敦賀の津に宿を求めた。その夜、月はことに晴れていた。「明日の夜もこんなだろうか」と言うと、「天候の変りやすい越路の習いで、明晩のお天気は予測できない」と主人は言い、私に酒を勧めるのだった。氣比の明神に夜参した。仲哀天皇の御廟である。社殿のあたりは神々しく、松の木の間から月光が洩れて来て、神前の白砂が霜を敷いたようである。「その昔、遊行二世の他阿上人が、大願を思い立たれて、みずから草を刈り、土や石を荷い、悪竜の住む...「奥の細道」月清し遊行のもてる砂の上(福井県敦賀)

  • 「奥の細道」物書て扇引さく余波哉 (福井県永平寺)

    金沢から門弟の北枝が半月間同行した。松岡まで来て、そこで北枝と別れることになった。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行金沢の北枝という者が、ついちょっと見送るつもりだったのが、とうとうここまで慕って来た。彼は、道中すがら方々のよい風景を見過さず句を案じつづけて、時おり情趣のある着想の句を見せるのであった。今、いよいよ別れに臨み物書いて扇(あふぎ)引きさく余波(なごり)かな(ここまで持って来た夏の扇に、無駄書きなどしては、引き裂いて捨てようとするが、いざとなると名残が惜しまれる。そのように、長いあいだを共にした北枝との別れも、名残惜しいことよ。季語は「捨扇」)・・・旅の場所・福井県永平寺旅の日・2013年11月5日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「日本の古典11松尾芭蕉...「奥の細道」物書て扇引さく余波哉(福井県永平寺)

  • 「奥の細道」今日よりや書付消さん笠の露 (山中温泉)

    江戸を出てからずっと一緒だった芭蕉と曾良は、曾良の病のため山中温泉で別れた。以後、金沢から同行していた北枝と二人で福井まで旅をつづける。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行今日よりや書付消さん笠の露(旅の門出に、笠の裏に「乾坤無住、同行二人」と書いたのだが、今日からは一人旅だから、その笠に置く露で、その書付を消してしまおう。寂しいことだ。)・・・・・・旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」旅の日・2020年1月28日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行今日よりや書付消さん笠の露露は季語であるが、これには複雑な意味がこめられている。露は消え易いものであるから、会者別離のはかなさとか、露は涙にたとえられるので、別離の涙という意味もある。また...「奥の細道」今日よりや書付消さん笠の露(山中温泉)

  • 「奥の細道」行ゝてたふれ伏とも萩の原 (山中温泉)

    曾良は腹を病んでいた。温泉療養のかいなく、芭蕉と別れることになった。芭蕉・曾良・北枝の三人が別れの句を詠んだ。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行行々てたふれ伏すとも萩の原曾良(私は病気の身で旅立って行くのだが、歩いた末に行き倒れになるかも知れない。それが折から盛りの萩の原であったら、死んでも本望である。)と書き残した。行く者の悲しみ、残る者の無念さ、これまで何時も一緒だった二羽の鳧(けり)が別れ別れになって、雲間に迷うようなものである。・・・・・・旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」旅の日・2020年1月28日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行七月二十七日から八月五日まで、芭蕉は十日間も山中に滞在した。ずいぶん長い滞在であっ...「奥の細道」行ゝてたふれ伏とも萩の原(山中温泉)

  • 「奥の細道」山中や菊はたおらぬ湯の匂 (山中温泉)

    北陸本線『加賀温泉駅』には、三つの温泉地が大きく観光表示されている。それが「片山津温泉」「山代温泉」「山中温泉」で、まとめて加賀温泉郷と呼ばれる。近接した駅に『芦原温泉駅』もある。芭蕉一行は、芭蕉と曾良に加え北支の三人で金沢から山中温泉を訪れた。なぜ数ある名湯のなかで、山中温泉が選ばれたかと言うと和泉屋という温泉宿の主をしている久米之介に会うため。和泉屋は代々風雅のたしなみがあった。・・・・・・旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」旅の日・2020年1月28日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行山中や菊はたをらぬ湯の匂(にほひ)(昔、菊慈童が桃源郷に、大菊から滴り落ちる甘水を汲んで、八百歳の齢を保ったというが、この山中の温泉は、長寿延命の菊を手折...「奥の細道」山中や菊はたおらぬ湯の匂(山中温泉)

  • 「奥の細道」石山の石より白し秋の風 (石川県那谷寺)

    芭蕉は那谷寺(なたでら)を訪れ、句に那谷でなく石山寺を詠み、いっそう那谷寺をひきたてた。学説では、石山寺でなく那谷寺の石山が多数派であるようだが、とにかく那谷寺の奇岩は白く晒され、境内をとりかこむようにつづいている。みごととしか言いようがない。芭蕉は秋の風の頃訪れたが、いちばん見事な時期は紅葉。奇岩の周辺はモミジ一色で覆われる。・・・・・・旅の場所・石川県加賀市「那谷寺」旅の日・2020年1月28日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行八月五日に芭蕉は曽良に別れ、北枝とともに生駒子と出会うために小松に戻った。この前は小松から北陸道を動橋に出て、山代から山中に入ったが、今度は山代から別れて那谷に参詣し、それから小松に出ることにした。那谷寺は真言宗で、世に那谷の観音...「奥の細道」石山の石より白し秋の風(石川県那谷寺)

  • 「奥の細道」むざんやな甲の下のきりぎりす (石川県小松市)

    源平時代に幾多の合戦で、勇猛で名を馳せた斎藤実盛。最晩年は白髪を黒く染めて出陣した。合戦で馬が田んぼの稲株につまずき倒れ、そこで討取られた。首実験後、木曽義仲は実盛の甲を多田神社に奉納した。全国各地には今も、田んぼの虫送り行事”実盛さま”が伝わっている。・・・・・・「平家物語」世界文化社1976年発行実盛武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、ただ一騎、引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤...「奥の細道」むざんやな甲の下のきりぎりす(石川県小松市)

  • 「奥の細道」しほらしき名や小松吹萩すゝき (石川県小松市)

    小松市は古い歴史の町だが、現在は地上にブルドーザー工場、空に戦闘機が飛び交う自衛隊航空基地の町。芭蕉が訪れた当時は北陸路の”しおらしい”町だった。白山連峰が見え、安宅関にも近い。町には秋の花・萩が咲き、ススキが揺れていた。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行「しほらしき名」とは小松という地名をいったので、昔の小松引きの行事なども連想されて、いかにもしおらしい名だ、といったのである。「小吹吹萩すすき」の「吹」は小松にも萩すすきにもかかる。小松は地名であると同時に実際そこに生えている姫小松でもあり、小松を吹く風が同じくしおらしいさまの萩やすすきにも吹き渡るといったのである。多分、亭前に萩やすすきがあったのであろう。主が古風な連歌の人だから、ここでは小松とか萩、すすきとかみやびやかな...「奥の細道」しほらしき名や小松吹萩すゝき(石川県小松市)

  • 「奥の細道」あかあかと日は難面もあきの風 (石川県金沢市)

    金沢で、弟子や縁者に囲まれ、すっかりくつろいだ芭蕉の様子が句にあらあれている。金沢は、太平洋戦争で米軍の空襲をまぬがれ、現在も加賀百万石の城下町の雰囲気がよく残っている。・・・「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行十七日は、浅野川の大橋付近にあった北枝亭に招待された。曽良は気のゆるみが出たせいか、寝込んでしまって、お供はしなかった。芭蕉はこの席で、あかあかと日は難面もあきの風芭蕉という句を披露した。越中路から金沢へ入る途中、十三日、十四日、十五日といずれも快晴で、暑気が甚だしかった。加賀の大国に入るのだと、心をふるいたたせてみても、身心の疲れはどうすることもできなかった。十四日は大暑と疲労のために気分がすぐれなかった。炎暑の中を歩き続けたので身心ともに疲れ果てたのである。あかあかとした夕日を顔にう...「奥の細道」あかあかと日は難面もあきの風(石川県金沢市)

  • 「奥の細道」秋涼し手毎にむけや瓜茄子 (石川県金沢市)

    ナスビは江戸時代に急速に普及し、戦前まで果菜類のなかで最も生産量が多かった。庶民はぬか漬けで食用し、武士やお金持ちの家では焼いても食べていたのだろう。縁起もよく「一富士二鷹三茄子」、夢や絵画に登場する。・・・「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行その夜は雨がひどく降って、明け方まで続いたが、十八日、十九日はともに快晴で、俳人たちが芭蕉のもとに集まって来た。二十日は斎藤一泉の松玄庵に招待された。松玄庵は松幻庵、少幻庵などとも書き、犀川のほとりにあった。このあたりは川幅も広く、中洲もあって、川を渡る風は涼しく、掬すべき風情があった。この日の献立は、芭蕉の希望したように、たいそうあっさりしたものであった。芭蕉はこの席で、残暑しばし手毎にれうれ瓜茄子芭蕉という句を作ったが、これは改作されて、秋涼し手毎にむ...「奥の細道」秋涼し手毎にむけや瓜茄子(石川県金沢市)

  • 「奥の細道」塚も動け我泣声は秋の風 (石川県金沢市)

    芭蕉は新潟県、富山県を歩き、やっと門弟の多い加賀百万石の城下町金沢に着いた。届いた知らせは、楽しみにしていた一笑の訃報だった。去年の冬に若死にしていた。芭蕉は塚が動くほどに泣いた。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行金沢には一笑を中心にして、蕉門のグループがまだ見ぬ師の来訪を首を長くして待っていた。あまり芭蕉に心を寄せる者のいないみちのくや越路の長旅の後に、そのような加賀衆に会うことは、芭蕉にとってもこの旅の楽しみの一つであった。芭蕉が、いかに、一笑との対面を心に抱きながら、歳月を経てきたかがわかる。一笑への愛情は数年にわたって持続され、昴まってきたもので、その金沢に折角たどりついてみれば、もはや一笑は影も形もないのである。この句にはその悲しみが激しく表出されている。塚も鳴動し...「奥の細道」塚も動け我泣声は秋の風(石川県金沢市)

  • 「奥の細道」わせの香や分入右は有磯海 (富山県那古の浦)

    市振を発った芭蕉は加賀百万石の城下町金沢に向かった。越中の黒部川、庄川、小部川を渡ると加賀が近くなった。そこに、万葉集の歌枕”有磯海”がある。源義経一行の、雨宿り伝説の残る「有磯海」を訪れた。・・・旅の場所・富山県雨晴海岸旅の日・2015年8月1日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行わせの香や分入右は有磯海歌枕担籠は『万葉集』以来藤の花の名所であるから、藤の花咲く「春ならずとも初秋の哀とふべきものを」と執心を燃やした芭蕉であるが、結局は諦めざるを得なかった。その心残りを託したのがこの一句で、七月十四日(陽暦八月二十八日)のことである。今や加賀の国にはいろうとしているが、この黄金の穂波の遥か彼方には行くことを断念した有磯海が青々と広がり、白波が打ち寄せていることだろ...「奥の細道」わせの香や分入右は有磯海(富山県那古の浦)

  • 「奥の細道」一家に遊女もねたり萩と月 (新潟県市振)

    新潟県糸魚川の駅前から歩いて、通りを日本海に向かうと左手に北アルプスの北端が見えた。北アルプスは急角度で日本海に飛び込むように終了する。その崖下が「親知らず」「子知らず」「犬戻り」「駒返し」で、白波が狭い渚を洗っている。すごい光景だ。越後と越中の国境、市振の町には糸魚川駅から市振駅まで鉄道(旧北陸本線)で行った。トンネルの合間から何度もチラリと日本海が見える。その海岸線の「恐怖」を車窓からもじゅうぶん感じられた。市振駅から芭蕉や遊女が泊った町に向かって歩いていると、交通が発達した現代でさえ、遠いところに来たなあと思った。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行市振(いちぶり)今日は親不知・子不知・犬戻り・駒越しなどという北国一の難所を越えて疲れたので、枕を引き寄せて早く寝ると、一間...「奥の細道」一家に遊女もねたり萩と月(新潟県市振)

  • 「奥の細道」荒海や佐渡によこたふ天河 (越後路)

    日本でもっとも有名な俳句のひとつ、「荒海や佐渡によこたふ天河」。深い意味も、学者先生によればいろいろ解釈や論説もあるのだろうが、この句は万人にわかりやすい。説明が不要な(邪魔)な名句。誰でも作れそうな句で、「荒海」「佐渡島」「天の川」を並べているだけ。そして皆、自由に自分の思ったり・見たりした荒海や、佐渡島や、天の川を頭の中に浮かばせる。楽しませ忍ばせ、しかも雄大の、すばらしい句。・・・旅の場所・新潟県糸魚川市旅の日・2020年1月29日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「わたしの芭蕉」加賀乙彦講談社2020年発行荒海や佐渡によこたふ天河この作品はすばらしい。その迫力に圧倒される。荒海とは、八月半ばから冬にかけて、強い北風が起こす力一杯の波である。北から押し寄せてくる波また波に洗われている佐渡島が、流さ...「奥の細道」荒海や佐渡によこたふ天河(越後路)

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