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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 相方城の城門(現存する関ケ原以前の三城門)

    場所・広島県福山市新市町戸出「素盞嗚神社」訪問日・2023.11.29(相方城城門・西門)何年か前から”現存12天守”といった言葉ができたが、天守閣といっても弘前城や丸亀城は「御三階櫓」と呼ばれていたし、備中松山城に至っては櫓よりも小さく、大きな古民家といった感じ。天守閣や櫓と比べて地味な城門だが、広島県の芦田川の絶壁上に築かれた佐方城には、石垣の遺構が残り、城門は移されて残っている。昨日、イチョウを見に喧嘩祭で知られた「素盞嗚神社」に行き、併せて城門を見学してきた。相方城城門は関ケ原以前の城門では、日本に三つしか残らないうちの二つの城門であるそうだ。(相方城城門・西門)相方城城門当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられている。櫓は、一九七〇年代に火災により消失した。城門二棟のうち、比較的保存状...相方城の城門(現存する関ケ原以前の三城門)

  • 御堂筋にWパレードを見に行った 2023.11.23

    7年前、広島の平和大通りに「広島カープ」の優勝パレードを見に行った。その日は快晴で、びっしり沿道を埋めたファンの熱気が楽しかった。それで、もう一度プロ野球の優勝パレードを見に行きたいものだと思っていた。(オリックス1号車のラ王)(オリックス1号車の、首位打者頓宮。備前市伊部のお隣さん山本由伸投手は欠席で残念)今年はオリックスと阪神のパレードがあると、兵庫県と大阪府から発表があったので、即(天気さえよければ)見に行こうと決めた。(オリックス2号車)(オリックス3号車)2023年11月23日の御堂筋の優勝パレードは天気にも恵まれ、風なく、温暖。名物の銀杏並木は紅葉真っ盛り。・・・(阪神1号車)御堂筋が真っ盛りなのはイチョウだけでなく、オリックスと阪神ファンの人の波もそうだった。人、人、人、・・・・・・。パレー...御堂筋にWパレードを見に行った2023.11.23

  • 新幹線のワゴン車

    無くなったもの・新幹線のワゴン車販売(但しJR東海の東海道新幹線「のぞみ」「ひかり」に限定)無くなった日時・2023年10月31日。撮影日・2023年11月23日(みずほ・岡山駅~新神戸駅間)岡山駅から新大阪根に、新幹線「みずほ」に乗っていたら後方からワゴン車が来た。あれ?新幹線のワゴン車販売は既に無くなったんではなかったかな?と思っていたら、前方の席の人が何か飲み物のようなものを買ってスマートホンで支払っている。家に帰って調べると、全ての新幹線でなく、JR東海の東海道新幹線「のぞみ」「ひかり」に限定だった。逆にいえば、ワゴン車販売を続けているのは、新幹線でも山陽・東北・上越・北陸などの一部の列車だけだそうで、北海道、九州ではすでに車内販売をやめている。20年ほど前は、ワゴン車が前から来るか、後ろから来る...新幹線のワゴン車

  • 松永のゲタリンピック

    場所・広島県福山市松永町無くなった日時・2019年9月15日(中止決定は2023.11.10)撮影日・2019年9月15日コロナで中断していた松永のゲタリンピックが、コロナが落ち着いた今年も開催されなかった。そして2023年11月10日、イベント自体の中止が発表された。中国新聞によると理由は経費節減で、「約30年の歴史に幕」だそうだ。お祭りはJR松永駅を降りると、すぐ目の前からはじまっていた。松永地区の高校生と福山大学の学生が主役のような感じで、若々しく楽しいイベントだった。お祭りが無くなるのは寂しいけれど、考えてみると「下駄」も「ぽっくり」も履く人を見ないし、松永湾名物・名所だった貯木場もすっかり縮小の様子になってしまった。松永のゲタリンピック

  • 笠岡でよお見る図柄ナンバープレート

    ご当地ナンバーとか、図柄ナンバーとか呼ばれている、デザイン付きのきれいなプレートナンバーを町中でよく見る。・・・笠岡では、下記の三つを特によく見る。カブトガニのカブニくん(笠岡市HPより)車でなく、単車のプレート。広島カープのカープ坊や(福山市HPより)福山や備後地区でなく、広島県全域のプレートだそうだ。鶴形山の「阿知の藤」、と思っていたが、それは間違い日本全国の花そういうことで、倉敷地域が対象でなく、北海道から沖縄まで日本全国が対象。・・・・・・・料金無地のプレートに比べ、(福山市の場合)車の前後2枚分で8.620円。それにプラス地方行政への寄付金が1.000円以上必要となる。・・・・・・・ところで、昨日福山市神辺町を運転していたら、前の車が今まで見たことのないナンバープレートをしていた。(番号は加工し...笠岡でよお見る図柄ナンバープレート

  • まごころの湯

    場所・広島県福山市千田町無くなった日時・2023年8月31日撮影日・2015年12月17日2023年11月8日、神辺の城跡と宿場町を歩き、程よく疲れたので「グランの湯」に行くと運悪く閉店日だった。(11月は8.9日が休日)それでは、と、まっさきに浮かんだのが千田の「まごころの湯」だったが、おお、そうだ、「まごころの湯」は2ヶ月前に閉店したんだ。「まごころの湯」は国道沿いにあり、料金も普通で、便利な温浴施設だった。2015年頃、大衆芝居も興行する「夢の湯」から、芝居を止めて「まごころの湯」で開業した。あらから8年ほどで今回の閉店となってしまった。・・・・「まごころの湯」から3~4km圏内に、「蔵王温泉ヘルス共和国Z」「西光寺温泉」「グランの湯」と計4つの湯があったが、残るのは「グランの湯」だけになった。まごころの湯

  • 醤油屋さんの倉庫

    場所・岡山県笠岡市吉田無くなった日・2023年11月初め撮影日・2014.6.14「醤油屋さんの倉庫」と呼ばれていた倉庫が、今月突然のように消えていた。すぐ前を旧・井笠鉄道が通り、その線路跡は現在県道笠岡・美星線となり、日常よく通っていた。存在感のある倉庫だった。「醤油屋さんの倉庫」は映画にも登場している。大映映画「花の講道館」で、当時日本一の美人と言われた山本富士子が、汽車で東京へ旅立つ長谷川一夫を泣きながら見送る娘役だった。この付近を山本富士子が歩き、山本富士子と、「醤油屋さんの倉庫」と、蒸気機関車が映画に登場している。吉田の名所がまた一つ消えた。醤油屋さんの倉庫

  • デパートの屋上遊園地

    福山の天満屋が、木造から白い四階建ての近代ビルに替わり「スワン」と呼ばれた。その屋上には福山駅からも、屋上に何か遊具のような、楽しそうな施設が見えていた。しかし農村育ちの管理人にとっては、遊具と言えば学校にあるブランコやギッタンバッタンしか知らなかったし、使ったこともなかった。とても天満屋の屋上で遊ぶという発想も願いもなかった。高校卒業の春、福山市の高校へ通う友と福山に遊びに行くと、”いつも普通”といった感じで、天満屋の屋上に行った。友は食堂に入り「オムライス」を注文した。その時、自分も真似をして「オムライス」と言った。それが生まれて初めて食べる「オムライス」だった。食堂のガラス窓から、すぐ前にメリーゴーランドなどが見えていた。・・・・当時全国の百貨店の、ほぼすべてに屋上遊園地はあったと思える。今は減って...デパートの屋上遊園地

  • 機関士

    城見小学生の時は、交通事故=踏切事故で、(つまり自動車事故はなかった。車がないので)校長先生の校庭での全員朝礼でも、ほぼ毎回踏切注意を言っていたような気がする。茂平の子どもは学校へ行くときと、帰るときと、最低でも二度踏切をわたる。当然のことだが、踏切小屋も遮断機も信号も、何もない。勿論のことだが、父兄や緑のおばさんのような大人の付き添いもない。踏切を待っていると、巨大な機関車が轟音と蒸気と煙を吐いて通るのは怖いほどだった。母もたまに「アメリカ屋の前の踏切を渡るのは気をつけにゃあいけん」と経験談を言っていた。その怖い踏切では、機関車の機関手と機関助手が見えた。凄いスピードで通り過ぎるが、近いので顔が見えた。機関手も機関助手も顔から汗が噴き出ていた。機関助手は、前と後ろに顔がピストンしていた。後ろを向いてスコ...機関士

  • 紙芝居屋

    茂平の観音堂の前に、紙芝居のおじさんが来ていた。料金は5円か10円だった。お金をわたすと棒がついた飴玉をくれた。それをねぶりなら、おじさんが話す紙芝居を見ていた。見物人は10人前後で、繁盛している様子はなかった。紙芝居は、物語の途中で終わり「つづきは次に来たときに」で終わりだった。紙芝居のおじさんは、話し方がとても上手で、特に顔の表情がおもしろかった。紙芝居よりも、おじさんの顔を見ている方がおもしろかった。紙芝居屋さんは特に興味もないし、見てみたい気もなかった。たぶん、代金が安いので親が金をくれたのだろう。興味がないと言うのは、「紙芝居」は小学生が見るものではない、と自分では思っていた。あれは、小学生になる前の園児や幼児が見るものと思っていた。実際、保育園では先生(保母さん)のする紙芝居は大きな楽しみだっ...紙芝居屋

  • 屋根の葺替

    小学校の一年生の時だったと思うが、屋根の葺き替えをした。近所の大人たちが来て、10人くらい、屋根に上って古い藁を取りはずした。その時は家の中から、青い空が見えた。すぐに、その個所に新しい藁を差し込んだ。大人たちの顔は古い藁の煤やほこりがついて、墨を服や手や顔だけでなく鼻の穴や、耳の穴まで塗ったように黒くなっていた。・・・(父の話)2003・5・18小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。・・・家では、ご飯(麦飯)ように裸麦が多く、小麦はあまり作ってなかった。小麦粉やお菓子やパンやうどんとトリカエで使用する程度だった。従って小麦の藁は大事にして、屋根裏に保管していた。言ってみれば、麦藁のために小麦を作り、食用は副産物的だったのかもしれない。・・・「矢掛町史・民俗編」矢掛町昭和55年...屋根の葺替

  • 元帥閣下の忠魂碑

    忠魂碑は、明治・大正・昭和に全国の市町村に建立された。とは言え、その多くは昭和元年~昭和17.18年頃に集中している。そして揮毫者は?と言えば、そのほぼすべてが軍人で、地位が大将または中将だった人。市町村の在郷軍人会の役員が、そのコネなどで将官に依頼したものと思われる。今日散歩中に忠魂碑を見ると、揮毫者が”元帥”の忠魂碑があった。大日本帝国の軍人の位には、大元帥、元帥、大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、の将校がいたが、一般的には大将が最高位。元帥は、歴史の教科書に載るほど有名な人物。と思っていたが、よくみると「元帥陸軍大将正二位勲一等功一級伯爵奥保鞏」家に帰ってパソコンで見ると、(Wikipedia)奥保鞏(おくやすかた)弘化3年11月19日(1847年1月5日)~昭和5年(1930年...元帥閣下の忠魂碑

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