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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • DDTは頭から腹まで

    同級生の女子全員がオカッパ頭か、それに近かった。城見小学校では女子生徒だけDDTを掛けられていた。見ていて、少し気の毒だった。だがそれも小学校の3年生の頃は、無くなっていたような気がする。男子は坊主頭だったので虱はいなかったが、ノミはいた。自分の下着にいたノミを母は何匹も潰してくれていた。そう思えば、男子もDDTを掛けられても仕方ない面もあったのだが・・・。・・・・DDTは頭から腹まで【姉の話】2002.1.3イヤダネェ!!!運動場で。一列に並んでね。掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。粉をかけまくるんよ。おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。きゃーきゃー言いながら。パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)2002・1・3・・・・小学生ではないが、大人も海外...DDTは頭から腹まで

  • 旧陸軍第十七師団司令部衛兵所

    場所・岡山県岡山市北区津島岡山大学構内訪問日・2022.11.13岡山大学は聯隊跡地を、そっくり転地利用しているので、今も構内はひろく、そして旧陸軍施設も点在している。この旧陸軍第十七師団司令部衛兵所は現在、岡山大学情報展示室として利用され、学生・市民に常時公開されている。岡山大学情報展示室(旧陸軍第十七師団司令部衛兵所)明治44年(1911)建築。木造平屋建、瓦葺、40m2の旧司令部衛兵所である。外部はほぼ当時のままである。外部巾木はタイル貼り。柱は面取りがしてある。戦争遺跡の遺構としてその価値を有している。登録有形文化財・文化庁旧陸軍第十七師団司令部衛兵所

  • 靖國の家

    (嫁いらず観音)井原の町歩きをしていたら表札の横に、「靖國の家」プレートのお宅があった。以前笠岡市笠岡では「遺族の家」を2軒ほど見た記憶がある。戦前や戦時中のものかと思っていたが、戦後(初期だと思う)にも発行された可能性があるようだ。この時代の資料は、どうしてはっきりしないのか、いつも不思議というより不満に思う。・・・誉の家(Wikipedia)特に第二次世界大戦前後の時期の日本において、その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現。戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを掲げることが一般的に行なわれていた。戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされる。類似した表現・表札誉の家名誉の家遺族の家勲の家・・・(井原市井原町)撮影日・2022.11.18靖國の家

  • 笠井信一

    場所・岡山県岡山市北区丸の内(烏城公園)山陽路に聳えていた岡山城と福山城の天守閣は、その時期をほぼ同じくして、昭和20年に米軍の空襲で焼失。昭和41年前後、コンクリートで天守閣再建。令和4年、改修工事が完成しお披露目。岡山城天守閣は金の鯱が、いっそう光り輝いている。その烏城天守閣の石垣の前に笠井信一・元岡山県知事の銅像が建つ。笠井知事は戦前、貧民救済に尽力し、今も県政に名を残している。笠井信一(Wikipedia)笠井信一(かさいしんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日)-1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。経歴静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。1893年2月、内務省に入り、内務属...笠井信一

  • 黒正巌先生

    場所・岡山県岡山市北区津島岡山大学構内(岡山県の紅葉名所・岡大のイチョウ並木)戦前、中国・四国には帝国大学がない地域だった。そんななか、岡山県民が郷土自慢に話す学校が二つあり、それが「六高(ろっこう)と医大がある」岡山県。黒正巌先生のことは知らないので、碑文を丸写しする。先生は六高の校長先生で、終戦後に聯隊の敷地を教育施設へ変換に功績があった人。(イチョウ並木の突当りに岡山大学図書館があり、その前に胸像が建つ)黒正巌先生岡山大学創設功労者である先生は、昭和19年六高校長になられ、戦火に焼失した校舎を復興され、またこの岡山に中国総合大学を新設する構想を立てられ、進駐軍より旧陸軍用地25万坪と建物5万坪を接収するや即夜六高生250名を移して分校を置き県立農専の応援を得て、この広大な敷地を確保し開学に努力されま...黒正巌先生

  • 山羽虎夫

    場所・岡山県岡山市北区丸の内(岡山県庁前・内堀)金の鯱が輝く岡山城天守閣、そのまん前に建つのが山羽虎夫胸像。氏は今年11月に「日本自動車殿堂」入りした。OHK岡山放送2022年11/15(火)18:01配信自動車産業の発展や振興に貢献した人を顕彰する「日本自動車殿堂」に岡山市出身の発明家で明治時代に国産初の蒸気自動車を開発した山羽虎夫が選ばれました。11月15日、東京で表彰式が行われました。山羽虎夫は岡山市北区表町で電気機器工場を営んでいた1904年、国産初の蒸気自動車を開発しました。欧米でも自動車が道楽的なものとされていた明治時代に自動車とその動力源にいち早く関心を持ち、自動車大国日本の端緒を切り開いた点が高く評価されました。撮影日・2022.11.14山羽虎夫

  • 木原光知子

    場所・岡山県岡山市北区いずみ町岡山総合運動公園木原美知子といえば、1960年代映画の本郷功次郎と並ぶ、岡山県出身の大スターだった。岡山市の山陽女子高1年生の時、東京オリンピックに出場し人気は全国区になった。その後はテレビ役者や文化活動でも知られ、水泳はバスターズで優勝したりしていた。低音と、美貌と、なりより大陸的な人間性が魅力を感じさせていた。59才で突然の死には驚いた。広く愛されたミミが銅像として公園に残っているのは嬉しい。撮影日・2022.11.13(おかやまマラソン当日)木原光知子

  • 村田兆治・元ロッテ選手が亡くなった

    金浦中学校の卒業式での、来賓の挨拶の一部をよく覚えている。「福山電波工高へ22名の合格者がありました」通称”デンパ”の福山電波工業高校は、福山駅から遠く不便さがあったが人気も高かった。そのデンパ出身の村田兆治選手は東京オリオンズに入団。”カネやん”こと金田正一監督のもとのエース投手だったり、日本人選手で初めて肩の手術、その後は”サンデー兆治”として活躍。その名は山口瞳の小説”居酒屋兆治”になり、高倉健で映画化された。プロ野球の大投手・村田兆治選手は引退後も速球派で、全国各地を野球振興のため少年・少女選手を指導してきた。2022年11月11日、火災の為亡くなった。画像は、2022年7月17日岡山県笠岡市走出「古代の丘スポーツ公園」どんぐり球場”ドリーム・ベースボール”ドリームチームvs笠岡選抜村田兆治・元ロッテ選手が亡くなった

  • スカイレール

    場所・広島県広島市安芸区瀬野川瀬野駅~みどり中央駅無くなった日・2023年末(運行終了予定)撮影日・2015年8月21日山陽本線の瀬野駅~八本松駅は、区間距離が長い(10.6km)だけでなく、急こう配でも有名、別名セノハチと呼ばれ、いちおう国鉄の名所だった。八本松は山のイメージがあるが、瀬野川は広島平野の端で広島市街地が近く大規模団地が出来た。そこに”スカイレール”というモノレールとロープウェイを合わせた乗り物が運行された。スカイレールは瀬野駅から急角度で団地を上り下りする便利な乗り物だったが、2023年末で営業を止めることが中国新聞に載った。理由は採算が悪いので、電気バスへの切替えを検討しているそうだ。2015年に乗った時は150円だった。まるで遊園地の乗り物のようで、スカイ感があり、乗り心地もよかったスカイレール

  • 栃木順作翁

    場所・広島県庄原市東城町川東東城小学校「お通り」を見に東城へ行った。・・・・栃木順作翁イベント会場の東城小学校の校庭に、栃木順作翁の胸像があった。翁は東城町に多大な寄附をした功労者だそうだが、公園等でなく学校内に建つというのは珍しい。栃木順作翁明治3年2月8日東城町に生れ志を立てて海運界に入り大正4年栃木商会を神戸市に設立社運隆昌克く栃木汽船の基盤を築く昭和22年12月19日芦屋市にて永眠す行年78翁は郷土愛厚く昭和12年より4ヶ年東城小学校建設資金40万円福代道路舗装費1万円を又郷土緑化のため多数の苗木を寄贈する等教育産業に多大の貢献をなす翁は質実にして剛健富を致して奢らず而も郷土のために巨費を投じて惜しまず郷党皆翁の遺徳を慕い相謀りて胸像を建て後世に永く伝えんとする美なる哉昭和27年7月2日広島県知事...栃木順作翁

  • 岩崎彌太郎

    場所・高知県安芸市井ノ口甲岩崎彌太郎生家三菱財閥を創設した岩崎彌太郎生家は、高知市から室戸岬へ向かって約40kmの安芸市にある。周辺はのどかな田園風景で、生家は農家と侍を合わせた”郷士”の造りになっている。岩崎彌太郎像「あき物語」安芸観光情報センター・安芸市三菱グループの基礎を築いた異才慶応3年(1867)、長崎に設立した土佐商会で腕をふるった彌太郎は、廃藩置県の後に大阪に出、明治6年三菱商会を設立。以後、明治経済界を席巻する活躍をし「東洋の海上王」と呼ばれるようにもなった。彌太郎の曾祖父・彌治衛門が建てた家で、当時の中農の標準的な家。土蔵の鬼瓦には岩崎家の紋であり三菱のマークの原型といわれる「三階菱」がある。また、庭の石組は少年・彌太郎が天下雄飛を託し、日本列島を模したものだといわれている。「教養人の日...岩崎彌太郎

  • 広井勇

    場所・高知県高岡郡佐川町甲「青山文庫庫舎」佐川(さかわ)には一度行ってみたかった。(佐川文庫庫舎)佐川町の中心部にある上町(うえまち)地区は、城下町として栄え、主に商人が居を構えた町でした。その風情は、いまも受け継がれ伝統的な商家住宅や酒蔵などが町並みを形成しています。「佐川町観光ガイドブックさかわの栞」広井勇は、その佐川の町の出身。広江勇(Wikipedia)廣井勇(ひろいいさみ、1862年10月24日(文久2年9月2日)-1928年(昭和3年)10月1日)は、日本の土木工学者。元東京帝国大学教授。高知県出身。札幌農学校(現在の北海道大学)卒業。「港湾工学の父」と呼ばれた。小樽港や函館港や秋田港に大きな貢献があり、現在も感謝されている人。偉人。撮影日・2022.10.26広井勇

  • 馬越儀三郎

    場所・岡山県笠岡市北木島町千ノ浜馬越石材工業の社長さん、笠岡市議会議員。石材の胸像が邸内に立っている。撮影日・2022.10.15馬越儀三郎

  • 加藤正二

    場所・岡山県玉野市築港胸像は加藤製油の工場内にある。加藤製油は、サラダ油や配合飼料の製造会社。加藤正二氏は、創業者と思われる。撮影日・2022.9.25加藤正二

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