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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 本庄重政

    場所・広島県福山市松永町JR松永駅前本庄重政本庄重政は福山藩主水野氏の家臣本庄重紹の嫡子に生まれたが、家督を弟にゆずり、江戸に出て兵法を学んだ。島原の乱に従軍し戦功をたてたのち、現在の松永町高須に隠棲した。福山城下に出て藩の子弟に兵法をおしえ、さらに、干拓事業を指導し、1656年には柳津沖に新田を、翌年福山湾沖の深津に干拓を完成させる。1660年から藩営工事としての松永干拓に着工し、近郊の農民たちを動員し、まず堤を築いて塩場をひらき、1667年役40ヘクタールの広大な塩田を完成している。福山藩では、それまで中世的な揚浜塩田によって塩の需要をみたしていたが、松永塩田においてはじめて生産性の高い入浜式技術が採用された。重政は播州赤穂の大石頼母助(内蔵助の父)と親交ふかく、赤穂からの技術を取りいれたようだ。1676年...本庄重政

  • 潮 (水軍之将)

    場所・広島県尾道市因島土生町因島公園潮―水軍之将吉田正浪ブロンズ。195×80×140。昭和61年5月。因島公園。故村井修さん(元因島汽船社長)の藍綬褒章受章を記念した作品。村上水軍の武将の雄々しい姿で因島を強く表現することを狙った。台座には、四国特産の青石を使用。さらに、作家・城山三郎著の「秀吉と武吉」から文章を引用。「目を上げれば海運に任せて自在の海あゝ人生は海」とある。瀬戸内タイムズweb2010年10月2日海上の武士たち室町時代後期になると、いわゆる三島村上氏の勢力が押してきた。島嶼部の要地を占めて、海賊衆のみによる独自の組織体制をかためたのが、能島・来島・因島に拠る三島村上海賊集である。それぞれの海域における棟梁として成長してきた土豪的勢力で、名門村上義弘の家系で結ばれる形で同門意識を強くし、連帯して...潮(水軍之将)

  • 「神郷太鼓田植」

    場所・岡山県新見市哲西町道の駅「鯉が窪」はやし田はやし田は過酷な田植え労働をしのぐために、田植え唄を歌いながら苗をさしたもので、その素朴な形が中国高原内陸盆地であちこちでみられた。民俗芸能であり、県の無形文化財になっているものも多い。岡山県阿哲郡神郷町神代の太鼓田植えは、現在では年一回の農村恒例行事として行われており、周辺の町村のみならず、各地から観光客や研究者が大勢集まり、古形伝承の努力とその記録につとめている。「瀬戸内の風土の歴史」谷口・後藤・石田著山川出版社昭和53年発行2019年「神郷太鼓田植」の開催について岡山県指定重要無形民俗文化財「神郷太鼓田植」が今年も開催されます。神郷下神代の夢すき公園体験田で神代郷土民謡保存会と神代小学校の6年生が、「日本一の親子孫水車」をバックに太鼓ばやしの音を奏でながら、...「神郷太鼓田植」

  • 緒方洪庵像

    場所・岡山県岡山市北区足守製造・1990年(平成2年)「日本史探訪16」角川文庫昭和60年発行司馬遼太郎緒方富雄(医学者)緒方洪庵岡山県吉備郡足守町、のどかな山陽地方の田園。そこが洪庵のふるさとである。備中足守藩二万五千石。洪庵は、この町のはずれに、三十三表四人扶持の武士の三男として生まれた。後年、医学の修業中、按摩や玄関番をして学費をつないだというから、家はけっして裕福ではなかった。洪庵の若いころの医学の主流は、漢方であった。洪庵は西洋医学を蘭方を道を選んだ。時に杉田玄白の『蘭学事始』より11年後、洪庵17歳の時である。洪庵の特色は、何よりもその語学力の冴えにある。彼の開いた適塾は、いつしか医学塾にとどまらず、しだいに語学塾の性格が強い塾へと発展していった。そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につける...緒方洪庵像

  • 畑中平之丞

    場所・岡山県笠岡市北木島町北木島は、今はお笑いコンビ「千鳥」大悟の出身地で知られるが、管理人が子供の頃は、もっとも勢いを感じる地域というイメージを持っていた。「井原・笠岡・浅口の歴史」太田健一監修2009年発行北木島の石材業石材の採掘が本格的に行われだしたのは、伊予の国の畑中平之丞が多数の石工とともにこの北木島に移住してからで、地元民の持ち山を賃借りして石材の採掘を大規模に始めたようである。これに対して地元島民は、危険で重労働を伴う採石場の仕事を敬遠し丁場の石工にはならず、むしろ石材の加工業、販売業に進出した。また地元島民にとって採石業者から支払われる地代(石材出荷額の一割)も大きな収入であった。石材産業に依存した島民の生活水準は極めて高く、そのためか水産や観光業の発達はいま一歩のところである。戦前には明治神宮...畑中平之丞

  • 佐々木小次郎

    場所・山口県岩国市吉香公園”佐々木小次郎”は小学校にあがる前から知っていた。パッチンや漫画によく登場していた。岩国に小次郎像があるのは、吉川英治「宮本武蔵」で小次郎の生誕地になっているから。武蔵も小次郎も謎、というか不明なことが多いようだ。佐々木小次郎?~慶長17年(1612)?江戸時代の剣術家。越前生まれという。諸国武者修行中に、つばめ返しの剣法をあみだす。慶長17年(1612)宮本武蔵と船島(巌流島)で戦い敗れる。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行「時代小説で読む日本史」末国善己文芸春秋2011年発行佐々木小次郎武道弾圧の影響もあり、終戦直後には剣豪小説が下火になっている。武道の復権は、1948年にGHQ黙認のもとで開催された剣道大会から始まり、翌年事実上公認となる。戦後初の長編剣豪小説として連載さ...佐々木小次郎

  • 芭蕉 (小松)

    場所・石川県小松市多太神社兵の夢の名残の甲ありただコオロギの鳴くにまかせて万智むざんやな甲のしたのきりぎりす芭蕉人はなぜこんなにも戦ってきたのだろう。戦場では殺さねば殺されるのがもののふのならいではあるが、殺して生き残っていけば、それだけ悪い因果を積み重ねてしまうのである。それらの因果は必ず自分に報いる。歴史をひもとけば、そこにあるのは無数の死である。私たちは古人の死体の上に生きているといえる。殺し合って相手を殺し、勝って生き残ったとしても、必ず近いうちに死にとらえられる。逃がれるすべはないのである。それなら殺し合わなければよいのに、殺し合う。七十二歳の実盛は討たれ、木曽義仲の郎党である樋口次郎に首の検分をされた。甲の下に見えたのは、墨で染めた白髪首であった。義仲は義経の軍に討たれ、樋口次郎は斬罪に処せられて散...芭蕉(小松)

  • 芭蕉 (封人の家)

    場所・山形県最上町「旧有路家住宅」(封人の家)「新・おくのほそ道」立松和平河出書房新社2001年発行陸奥から出羽へと抜ける山刀伐峠には、国境を守る番人の家、すなわち「封人の家」が今もある。風雨のため芭蕉が三日間閉じ込められたといういう家は、茅葺の大きな家である。まわりは山川草木の山気があふれだしているような鬱勃(うつぼつ)たる森林で、ここで進退のきわまってしまった芭蕉は、どんなにか心細かったことであろう。旅人は、広間で雑魚寝である。どこまでも気持ちは沈んでいくのであるが、こんな時こそ俳諧には、諧謔(かいぎゃく)という機知があるのだ。私がいった時、「封人の家」は人の影が断えがらんとして清潔で、土産物などを売っていた。それでも芭蕉の途方に暮れた心情は、どうにか感じることができた。そこで一句。蚤虱馬さえ見えずみそさざ...芭蕉(封人の家)

  • 三原港発フェリー航路(三原~佐木島~生口島~因島)

    場所・広島県三原市三原港無くなった日・2021年4月30日撮影日・2011年3月27日佐木島に行くには、本土から三原港からフェリーと旅客船。須波港からフェリーがあった。島からは、因島(重井)と生口島(沢)から行けた。今日(2021.5.1)の中国新聞に最終航路の記事が載っていた。2021年4月30日でフェリー便(三原~佐木島~生口島~因島)が廃止された。これで三原港発のフェリー航路は無くなったそうだ。三原港、これからフェリーに乗る。進行方向の左手に三菱重工業。新藤兼人監督の「裸の島」の舞台、宿祢島。後方は「見晴らし連山」が尾道へとつづく。広島100名山の「筆掛山」と「竜王山」を西に見る。佐木島の佐木港に着いた。今回の廃止は三原発のフェリー便であって、旅客船は従来通り三原港から佐木島便は継続される。フェリーは須波...三原港発フェリー航路(三原~佐木島~生口島~因島)

  • 藤原俊成

    場所・愛知県蒲郡市竹島園地藤原俊成保元の乱、平治の乱から源平合戦にいたる平安時代末期の戦乱の中でも文学は生まれた。その代表格が歌人の藤原俊成と西行である。俊成が歌人として活躍したのはもちろん京都だが、銅像は三河湾に面した愛知県蒲郡市公園「俊成苑」に立つ。国司として今の愛知県三河地方に赴任して、この地域の開発につくしたといわれ、同市沖の竹島にある八百富神社は俊成の創建と伝わる。俊成は藤原道長の流れをくむ名門の出身。息子・定家、西行とも親しく交際した。平家物語では、平忠度(ただのり)が俊成宅を訪れ和歌一貫を託し、『千載集』へ、生涯の名誉に一首でも入れてほしいと懇願している。「銅像歴史散歩」墨威宏ちくま新書2016年発行撮影日・2014年10月10日藤原俊成

  • 加藤清正

    場所・愛知県名古屋市中区加藤清正安土桃山・江戸前期の武将。尾張生まれ。豊臣秀吉に仕え、天正16年(1588)肥後半国19万5千石の熊本城主となる。朝鮮との文禄・慶長の役で活躍し,勇名をとどろかせた。関ケ原の戦いで東軍に従がい、戦後、肥後一国51万5千石を領した。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行「NHK歴史と人間」日本放送出版協会昭和53年発行談・五味康祐加藤清正名古屋城というのは、はっきり、大坂城から攻めてくるものへの防御を主体にして家康はつくっていますわね。つくらされている加藤清正は、いってみれば豊臣恩顧の武将ですね。清正にとって本音は熊本城、建前は名古屋城。蔚山でずいぶん苦労しています。熊本の城の畳は普通の、いわゆるい草じゃなくて、いつでも食べられるものにしたとかね。要するに朝鮮へ行って攻めてきて...加藤清正

  • 平和の群像(二十四の瞳)

    場所・香川県小豆郡土庄町日本映画の最高傑作は「二十四の瞳」と思う。たぶん、同じ思いの人も多いだろう。「銅像歴史散歩」墨威宏ちくま新書2016年発行木下恵介監督が1954年に高峰秀子主演で映画化した。黒沢明監督の名作「七人の侍」などを抑え、この年のキネマ旬報ベストテンで一位に選ばれるなど大ヒット。壷井の出身地の小豆島は有名観光地になって、56年に「平和の群像」が建立された。この「平和の群像」の題字を書いたのが当時の首相の鳩山一郎だった。壷井は「再軍備に忙しい鳩山首相と平和はどこで結びついたのか」と新聞のコラムで異議を唱えた。(Wikipedia)『二十四の瞳』は、1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画である。日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうね...平和の群像(二十四の瞳)

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