古代山陽道(1)7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。とりわけ、奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は重要な道でした。街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれていました。山陽道最大ということは、日本で最大の駅(うまや)が野口にあったということです。ふつう駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えていました。賀古の駅のあった場所は、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、賀古駅のあったといわれている大歳神社あたりの調査が行われ駅跡であることが確かめられました。(蛇足)・...大河・かこがわ(80)奈良時代(4)古代山陽道(1)
条理制の田畑を潤した旧加古川流路は、この用水が「五ヶ井用水」として確立したと想像される室町時代のところで説明すべきなのですが、条里制を理解するために、ここで簡単に説明しておきましょう。(五ヶ井用水については、後に詳しくみることにします)五ヶ井用水の溝筋加古川は、丹波市青垣の遠坂(とうさか)付近を源流に、播磨灘に注ぐ兵庫県一の河川です。その幹線流路は96kmであり、兵庫県に降った雨の約4分の1は加古川に流れ込んでいます。その流域面積は1.732平方キロメートルで県下最大です。また、加古川は暴れ川であり、古代より幾度となく洪水をひきおこし、流路を変えました。五ヶ井郷の人々は、そんな大河と闘い、加古川から田畑に用水として水を引いたのです。五ヶ井用水は、近世の村で言うと20ヵ村で、1.1900石ほどの田地を灌漑するとて...大河・かこがわ(79)奈良時代(3)・五ヶ井用水の溝筋
大河・かこがわ(78) 奈良時代(2) 条里制(2)・旧加古川流路が条里制の土地を潤す
旧加古川流路が条里制の土地を潤す「加古川の近くですから、加古川から水を引いたのだろう」と考えられますが、そう簡単な話ではありません。加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。加古川は暴れ川でした。加古川に堰をつくり、勾配をつくり加古川の水を引いたとも考えられません。この時代に大規模な用水作る土木技術はまだ発達していません。加古川は、太古よりその幾度となく流路を変えた暴れ川です。加古川の旧流路をご覧ください。不思議なことがわかります。これらの流路と条里制の遺構がたぶんに重なっているのです。つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水路として利用して開墾されたと考えられます。これらの流路は後の「五ヶ井用水」と呼ばれている流路です。ですから、現在の「五ヶ井用水」の始まりは条里制の時代まで、さかのぼること...大河・かこがわ(78)奈良時代(2)条里制(2)・旧加古川流路が条里制の土地を潤す
西条廃寺中西廃寺を紹介しました。この他にも同時代(白鳳時代)の野口廃寺(加古川市尾上町)・石守廃寺(加古川市神の町)を訪ねたいのですが、先を急ぎ奈良時代の歴史探索に出かけましょう。条里制(じょうりせい)奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることでした。政府は、税を確実にするために、まず土地制度を整えます。これが条里制です。条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けました。そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけ所有者をはっきり...大河・かこがわ(77)奈良時代(1)条里制
オマーン国王物語(20) オマーン王族 稲美町訪問 ・元国王夫人が眠る墓地へ
26日の神戸新聞は、オマーンの副首相兼国王特別代理のアスファイドらが稲美町への墓参について報じました。『オマーン夫人物語』の続きとして、転載させていただきます。神戸生まれの王女に代わってオマーン王族稲美町訪問元国王夫人が眠る墓地へ天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」に出席するため来日した、中東・オマーンのアスファイド副首相兼国王特別代理らが25日、王族ゆかりの地である稲美町を訪問した。元国王夫人で、神戸でブサイナ王女を生んだ清子・アルサイド(旧姓大山)さんの墓に、同国関係者10人が花を供えた。約40年前には同王女が来町しており今回は副首相が墓参した。清子さんは1935年(昭和10)、カーブース現国王の祖父であるタイムール元国王と神戸で出会った。恋に落ちた2人は翌年結婚式挙げ、ブサイナ女王(日本名は節子)が...オマーン国王物語(20)オマーン王族稲美町訪問・元国王夫人が眠る墓地へ
大河・かこがわ(76) 飛鳥・奈良時代(1) 中西廃寺(加古川市西神吉町中西)
中西廃寺(加古川市西神吉町中西)日本に仏教が伝えられました。まばゆい仏を見て、その教えは、はっきりと分からないものの人々は畏れ、尊崇しました。その後、仏教は日本各地に広がり、やがて加古川の地にも伝えられました。それも、比較的早い白鳳時代(645~710)のことです。加古川市西神吉町中西にあった寺院(中西廃寺)もそのひとつです。『加古川市史(第一巻)』は、次のように述べています。・・・この寺院(中西廃寺)は、正式な発掘調査が行われていないため、詳細は明らかでない。・・・現在、薬師堂境内の西南隅にある塔心礎(写真)は、1919年(大正8)に元の位置より50センチばかり移動したという話があるが、伽藍配置を復元する有力な手がかりとなる。法隆寺式伽藍を備えていたようで、創建は白鳳時代である・・・白鳳時代、各地に寺院が多く...大河・かこがわ(76)飛鳥・奈良時代(1)中西廃寺(加古川市西神吉町中西)
大河・かこがわ(75) 余話:(余話) 東播磨は 、「ボーダーの地域」
(余話)東播磨は、「ボーダーの地域」次の話題の前に移ります。その前に、コーヒー・ブレイクです。律令制度下で、直接に都(中央)の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれです。播磨は摂津に接していますが、畿内ではありません。でも、畿内の強い影響を受けた畿外でした。つまり、東播磨は、畿内と畿外のボーダー(狭間)に位置していました。律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっています。古代の播磨は畿内の勢力下にあったのですが、地理的には周辺部でした。この周辺部は、常に緊張した政治的状況にさらされていたのです。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。加古川・高砂地方は、古代より都の勢力と結びつきの...大河・かこがわ(75)余話:(余話) 東播磨は 、「ボーダーの地域」
大河・かこがわ(74) 古墳時代(42) 石の宝殿(11)・一の華表(鳥居)
一の華表(鳥居)*華表:神社の鳥居のこと宝殿駅に近い西国街道筋・神爪(かづめ・高砂市米田町)に社殿もないのに大きな鳥居と灯籠があります。延宝年間(1673~81)、この地の庄屋・神吉久太夫が姫路の殿様のいかりにふれ、一家断絶になろうとしていた時でした。生石神社に祈願して、その難を逃れたといわれています。この鳥居は、そのお礼に奉建されたものだといいます。知らない人が見れば、神社の跡地に残る鳥居としか見えません。最近、付近は、猛烈な宅地化が進みました。鳥居の彼方に石の宝殿がのぞまれるはずなのですが、今は全く見えません。この鳥居は、生石神社から遠く離れてはいるものの生石神社の「一の鳥居」といわれ石の宝殿の「一の華表」とも呼ばれています。*上記の文章は、『画文集・高砂の史情(森村勇著)』からお借りしました。(文章は、若...大河・かこがわ(74)古墳時代(42)石の宝殿(11)・一の華表(鳥居)
大河・かこがわ(73) 古墳時代(41) 石の宝殿(10)・「石の宝殿」は、永遠に語り継がれる謎(ロマン)
石の宝殿の伝承がない理由石切り場の工人たちの多くは、蘇我氏の命令であったとしても、単に中央からの命令として、黙々と作業を続けるだけで「何を何のためにつくっていること」など考えなかったのでしょう。「石の宝殿」は、永遠に語り継がれる謎(ロマン)時は過ぎます。伝承がないだけに、よけいに人々は石の宝殿に「不思議さ」を感じたのではないでしょうか。後の人は「こんなでっかい石塊は、人が作ることは不可能である。きっと神様がつくられたものであろう」と考えたのかもしれません。記録によれば、平安時代にはこの「石の宝殿(大石)」は神となり、社殿「生石神社」が作られたようです。歴史学者・真壁ご夫妻は、この不思議な石の宝殿を学問的に研究されています。『石の宝殿‐古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター)で詳細を述べておられます。詳しく...大河・かこがわ(73)古墳時代(41)石の宝殿(10)・「石の宝殿」は、永遠に語り継がれる謎(ロマン)
大河・加古川(72) 古墳時代(40) 石の宝殿(9)・「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか
石の宝殿(大石)ですが、途中で放棄されています。このことに関して前回の青木説で「石の宝殿は、蘇我氏との争いに敗れた物部氏のモニュメント」とする説を紹介しました。「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか今回は、『石の宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子共著)』から、反対に石の宝殿は蘇我氏がつくろうとしたモニュメントであるとする説を紹介します。・・・・石の宝殿は、ほとんど完成品にちかい段階で放棄されています。よほどのことがあったと考えられます。石の宝殿が「飛鳥時代のもの」で、これだけの石造物の製造を命令することのできるのは、中央の最高権力者です。その権力者とは「蘇我氏」以外に考えられません。それでは、なぜ蘇我氏がこのモニュメントづくりを中止したのでしょうか。よほどの理由があったはずです。蘇我氏は大化の改新で滅び、...大河・加古川(72)古墳時代(40)石の宝殿(9)・「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか
大河・かこがわ(71) 古墳時代(39) 石の宝殿(8)・「石の宝殿」は敗者のモニュメント
「石の宝殿」は敗者のモニュメント青木一夫氏は、物部氏が大石を作ろうとした目的を「・・・物部氏は、日本古来の信仰である大きな岩などに霊力がやどるとする自然信仰もっていた。とにかく、この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の大和への侵入を防ごうとしたのではないか。つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとした」という説です。少しだけ、つけ加えます。物部氏と蘇我氏の戦いの結果は蘇我氏の勝利で終わりました。この争いの中でつくられていた大石(石の宝殿)は、その後「敗者のモニュメント」として(未完成のまま)打ち捨てられたのです。敗者のモニュメントは、その存在さえなにも許されないもので、それらは、ふつうは打ち壊されます。しかし石の宝殿は未完成品であり、打ち崩すには大きすぎ、頑丈すぎました。蘇我氏の支配...大河・かこがわ(71)古墳時代(39)石の宝殿(8)・「石の宝殿」は敗者のモニュメント
大河・かこがわ(70) 古墳時代(38) 石の宝殿(7)・大石は、仏教侵入をふせぐためにつくられたのか?
青木説にみる「石の宝殿」②大石は、仏教侵入をふせぐためにつくられたのか?『風土記』は、蘇我と物部の争いを語る「石の宝殿」のつくられた時期の日本社会のようすを中学歴史教科書にみてみます・6世紀の日本では、地方の豪族が反乱を起こし、大和王権でも豪族同士の争いが続くなかで、豪族の蘇我氏が渡来人と強い結びつきを持ち、力を伸ばしました。外国の宗教である仏教を取り入れようとして、これに反対する物部氏を滅ぼし、大きな勢力をふるいました。・・・・(中学歴史教科書:大阪書籍より)つまり、聖徳太子の時代外国の勢力と結んだ蘇我氏と物部氏の勢力が激しい争いをしていました。蘇我氏は、仏教を取り入れ百済の力を借りようとしました。それに対して、物部氏は「仏教は、我が国を亡ぼす邪教である」として反対しました。結論は、蘇我氏を中心とする勢力がこ...大河・かこがわ(70)古墳時代(38)石の宝殿(7)・大石は、仏教侵入をふせぐためにつくられたのか?
大河・かこがわ(69) 古墳時代(37) 石の宝殿(6)・石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!
石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!石の宝殿(大石)は、「高さ5.7㍍、幅6.5メール、奥行きは屋根形の突起をいれて7㍍、重さが500トン」ととてつもない大きな石造物です。巨石という以外に表現がありません。この大石を完成後他の場所に移動するという考えは無理があるのではないでしょうか。ましてや、山の中腹につくられています。ど素人(私)ですが、「松本清張や歴史学者の真壁氏ご夫妻の考えの完成後大和に移動予定であった」とする説に同意できかねます。そんなことを考えていた時、『兵庫史の謎(青木一夫著)』(神戸新聞総合出版センター)で「石の宝殿は石棺にあらず‐仏教の東進はばむ境界に‐」の記述を読みました。青木氏は、石の宝殿の移動させる予定であったという説はとっておられません。青木説を紹介しましょう。結論は次回になります。青...大河・かこがわ(69)古墳時代(37)石の宝殿(6)・石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!
大河・かこがわ(68) 古墳時代(36) 石の宝殿(5)・竜山1号墳の被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?
竜山1号墳の被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?石の宝殿は謎の大石です。でも、その謎を知っている人物がいるとすれば、竜山1号墳(写真)の被葬者です。山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺の身の部分のすぐ上部に小型の石室が確認されます。石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6メートル、長さ1.18メートル、蓋と身の高さをあわせると0.62メートルです。この古墳は、生石神社の境内にあり、石の宝殿と無縁とは思えない位置にあります。この古墳の時期について、棺形から7世紀中頃までとされていますが、長さが1メートル少々の小形棺で、場合によっては火葬骨が納められていても不思議のない大きさです。この種の棺で、子供を納めた事例は知られていません。大人を納めた石棺です。場合によると8世紀に入っている可能性もある古墳...大河・かこがわ(68)古墳時代(36)石の宝殿(5)・竜山1号墳の被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?
大河・かこがわ(68) 古墳時代(35) 石の宝殿(4)・ゾロアスター教(祆教)の拝火壇か?
ゾロアスター教(祆教)の拝火壇か?今回の話題は、余話としてお読みください。石の宝殿つくられた7世紀、日本は新しい国づくりの真最中でした。新しい文化が中国からどんどん取り入れました。その最大の文化は、なんといっても仏教です。でも、ちょっと考えください。日本に入ったのは仏教のみだったのでしょうか。熱心さにおいて温度差(公私の差)はあるものの、仏教だけでなく道教、当時中国に伝わっていたキリスト教、その他の宗教も同時に日本に入ったと考えるのが自然です。宗教だけではないはずです。ペルシャから日本へ古代中国では、ハイカラな風習としてイランを源流とするものが大いに流行しています。胡桃(くるみ)・胡麻(ごま)・葫(にんにく)など「胡」のつく植物・野菜は、たいていイランを原産地とするもの又はイラン経由のものです。柘榴(ざくろ)・...大河・かこがわ(68)古墳時代(35)石の宝殿(4)・ゾロアスター教(祆教)の拝火壇か?
大河・かこがわ(67) 古墳時代(34) 石の宝殿(3)・長い空白期をもつ『風土記』
長い空白期をもつ『風土記』もう少し『風土記』の話を続けます。『風土記』は編集されて後、まもなく姿を消します。何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が分からなくなりました。そんな状況が、一変しました。江戸時代、何百年もの空白の期間を経て『風土記』がみつかったのです。『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年(1796)と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。つまり、『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。この『風土記』の空白の間にも、「石の宝殿」は、近在はもちろん、広く不思議な大岩として世に知られていました。人々は、この岩についていろいろと想像し、風土記とは関係ない伝説がつくられ、いまに至っています。いつしか、...大河・かこがわ(67)古墳時代(34)石の宝殿(3)・長い空白期をもつ『風土記』
大河・かこがわ(66) 古墳時代(33) 石の宝殿(2)、石の宝殿は、『風土記』編纂の1世紀前
石の宝殿は、『風土記』編纂の1世紀前石の宝殿は、宮城県塩竈神社の塩竈や宮崎県霧島の天の逆鉾と並んで、日本の三大奇岩と言われています。そして、「石の宝殿」は文献と考古学遺跡が一致する珍しい例です。造営年代は7世紀ごろだろうといわれていますが、伝承でいう物部守屋がつくったものであるなら6世紀後半となります。・・・・『風土記』は、日本で最も古い書物の一つで、今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の①郡や里の名のいわれ、②産物、③地力、④山や川の地名、⑤伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。その報告書が『風土記』となりました。・・・つまり、『風土記』が制作されたのは700年代(8世紀)です。石の宝殿(大石)が造られてかららすでに100年ほどが経過しており、その時すでにこの大石はどのような目的で作られ...大河・かこがわ(66)古墳時代(33)石の宝殿(2)、石の宝殿は、『風土記』編纂の1世紀前
石の宝殿先に、竜山石・天の磐船を紹介しました。順序として、次は「石の宝殿」を紹介しなければなりませんが、石の宝殿は、謎だらけの大きな石造物です。石の宝殿を古墳時代の項に含めるのは、少し無理があるかもしれませんがご辛抱ください。JR宝殿駅(ほうでんえき)「石の宝殿」の話」をJR山陽本線の「宝殿駅」から始めます。『兵庫史の謎(春木一夫著)』(神戸新聞総合出版センター)に、宝殿駅について、次の文章を見つけました。・・・尾崎士郎の艶笑小説『ホウデン侍従』に、奇怪なふぐりの顔をした挿絵が描かれていたのを思い出す。戦争中、在日していたドイツの婦人たちは、この地を通過するたびに、駅員がまじめくさって、「ほうでん、ほうでん」と大声で叫ぶため、耳まで真っ赤にしていたという、いわくつきの駅だ。・・・・石の宝殿は生石神社のご神体「ほ...大河・かこがわ(65)古墳時代(32)石の宝殿(1)
大河・かこがわ(64) 古墳時代(31) 聖陵山古墳(加古川市野口町)
聖陵山古墳(加古川市野口町)写真は、野口町長砂の円長寺(昭和40年代の撮影か)です。この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っていますが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)です。もともと、前方後円墳であったのですが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえます。また、寺伝は、天文12年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えています。この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられています。また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓と考えられます。ともかく、考古学では注目されている古墳です。この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験していますが、受難はさらにつづきました。第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘ら...大河・かこがわ(64)古墳時代(31)聖陵山古墳(加古川市野口町)
大河・かこがわ(63) 古墳時代(30) 時光寺古墳(高砂市阿弥陀町)
時光寺古墳:高砂市阿弥陀町時光寺(じこうじ)の裏手に小高い丘があります。そこに、径46メートル・高土6.6メートルの円墳・周溝を持った二段の古墳があります。墳頂部には方形埴輪列と、外周に円形埴輪列、この墳頂周辺からは、甲冑・盾・靭(ゆき:矢を入れて背負う筒状の道具)・家・鶏形埴輪の断片が相当量出土しました。段部にも円筒埴輪がめぐっていたようで、崩れ落ちていましたが、この段の部分には馬形埴輪があったようです。墳頂のほぼ中心部には写真にあるように、石棺が東西に直葬されています。蓋の形は、かなり背の高い半円形に近い蒲鉾状断面形で、両長辺にそれぞれ二個の縄掛突起を持っています。全体に丁寧な作りで、石棺蓋全長は228センチメートル、幅は85センチメートル、突起を含めると123センチメートルです。長持形石棺とすれば小形の棺...大河・かこがわ(63)古墳時代(30)時光寺古墳(高砂市阿弥陀町)
大河・かこがわ(62) 古墳時代(29) 愛宕塚古墳(あたごづかこふん・播磨町)
愛宕塚古墳へ出かけました。古墳の周囲は、住宅が密集して、古墳時代を想像する雰囲気はありません。この古墳が、「愛宕塚古墳」と呼ばれるのは、写真にあるように古墳の頂には、愛宕大権現が祀られているためです。愛宕塚古墳(あたごづかこふん)播磨町の大中遺跡は、弥生時代前期から古墳時代中期まで続く複合遺跡です。そのため、同地に居住する人々の墓や支配者の墓が近隣に存在していたと考えられますが、大中遺跡の住人と愛宕塚古墳の関係は分かりません。大中遺跡人の墓地は、大中遺跡の発掘調中に大中台地西側で墓らしきものが確認されています。潰目池等溜池、田畑の開墾等により破壊された可能性も考えられます。いまのところ、大中遺跡の東約2キロメートル、標高22メートル(大中遺跡も標高13メートル)に位置する播磨町唯一の愛宕塚古墳が、大中遺跡と何ら...大河・かこがわ(62)古墳時代(29)愛宕塚古墳(あたごづかこふん・播磨町)
大河・かこがわ(61) 古墳時代(28) 天の磐船(あまのいわぶね)
天の磐船(あまのいわぶね)「天の磐船(石棺の蓋)」は、高砂市阿弥陀町伊保山の南面、頂上から20㍍の地点で、半ば埋もれていました。この大きな石棺の「縄掛け」は、円盤状です。天の磐船は、ひっくり返っていると、ちょうど船のように見えたのでしょう。加古川下流城の家形石棺の中で「縄掛け」が円盤状のものは珍しく、これが唯一の例です。古い形式の長持ち形石棺の伝硫を受け継いでいるようです。大きさは、加古川下流で一番大きく、全長3メートル、幅1.3メートル、厚さ60センチ、推定重量は4㌧もあるといいます。近辺で、この石棺にふさわしい大きな古墳は知られていません。古墳は、完全に破壊されてしまったのかもしれません。石棺のあった伊保山は有名な「竜山石」を産する竜山のとなりにあり、伊保山も山全体が「竜山石」でできています。この石棺は、山...大河・かこがわ(61)古墳時代(28)天の磐船(あまのいわぶね)
大河・かこがわ(60) 古墳時代(27) 中山1号墳 : 加古川市文化センターで保存
中山1号墳:加古川市文化センターで保存加古川市文化センターの歴史博物館へお出かけください。展示室の中央に大きな古墳があります。「精巧に造られているな・・・」と思われるかもしれません。これはデプリカ(模型)ではありません。本物の古墳です。中山1号墳は、もともとは加古川市平荘町中山にありましたが、権現ダムで水没したため、現在横穴式石室が加古川総合文化センター博物館の中に移築され展示されている古墳です。全長12m、玄室幅約2m、高さ約2.5mの両袖式。博物館の庭に石室が移築されるのはよくありますが、全長10m以上の大型石室を建物の中に移築するのは珍しい展示方法です。もともと、中山集落の西側に、3基の古墳が確認されていました。その1号墳が文化センターに移築されています。工事に伴って調査が行われましたが、報告はされていま...大河・かこがわ(60)古墳時代(27)中山1号墳:加古川市文化センターで保存
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