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  • 大河・かこがわ(59) 古墳時代(26) 地蔵寺古墳(加古川市・平荘町池尻)

    地蔵寺古墳(加古川市・平荘町池尻)地蔵寺古墳は、平荘湖の東端の山の麓にある地蔵寺の建物の下に開口しています。群れをなさずに、単独で造られている終末期(7世紀)の古墳です。切石に近い横穴式石室で玄室長3.6m、幅1.7m、船頭1.7m以上の古墳で、墳丘は地蔵寺の建立に伴い削られたようで、旧状をとどめていません。もともとは円墳であったと考えられ、石室内から遺物は採取されていません。石室に入るとまず感じることは、石が見事に組み合わされ、精巧に造られていることです。奥壁、天井には巨石を使用し、側壁は石材を巧みに組み合わせて、表面をノミで平らに削っています。奥隅には、L字に加工した石材を一部コーナーに使用しています。お訪ねください。地蔵寺は、見つけにくい場所です。お寺さんにお尋ねください。平荘地区は石棺仏(石仏)の宝庫な...大河・かこがわ(59)古墳時代(26)地蔵寺古墳(加古川市・平荘町池尻)

  • 大河・かこがわ(58) 古墳時代(25) (民話)又平新田の弁天さん

    前号で稚児が窟(ちごがくつ)古墳の石棺を紹介しました。この古墳には、弁天さんの民話があります。古墳時代の話ではありませんが、余話として紹介しておきましょう。(民話)又平新田の弁天さん平荘湖の底に沈んだ又平新田村に弁天池という大きな池があり、池の北東隅の島に弁天さんがおまつりしてありました。この島は古墳で、弁天さんが、しばしば稚児に化けて、池の表面にあらわれたという言い伝えから、村人は稚児が窟(ちごがくつ)と呼んでいました。むかし、この村に彦衛門という人がいました。池守りなどをしていたので、毎日池に行き、いつの間にか弁天さんと心安くなっていました。ある日、彦衛門はいつものように池の廻りを歩いていると弁天さんが手招きしていいました。「いっぺん、あなたの家に遊びに行きたいが、私は天界の身、人に見られると困るので、家の...大河・かこがわ(58)古墳時代(25)(民話)又平新田の弁天さん

  • 大河・かこがわ(57) 古墳時代(24) 稚児ヶ窟古墳石棺の身と蓋

    平荘湖の湖底の中ほどに、かつて稚児ヶ窟(ちごがくつ)古墳と呼ばれた池尻16号墳がありました。前号地図で稚洞ヶ窟古墳のあった場所を確認ください。この古墳の石棺は、市内最大の石棺で、蓋と身がそろうめずらしい例です。稚児ヶ窟古墳石棺の身石棺の身は、志方町の投松(ねじまつ)公会堂の庭に置かれています。長さ228㌢、幅142㌢、高さ95㌢の堂々とした大型石棺です。内部は土が詰まっています。石棺の前に立つと、その大きさが実感できます。この石棺に身の部分について、石棺の側に次のような説明(加古川市教育委員会)があるので読んでおきます。・・・この石棺の身は、かつて平荘ダムに水没した稚児ヶ窟古墳にあったものを姫路藩主、榊原式部太夫が泉水に使うため運ぼうとしたが、重くて投松峠に放置したという記録がある。昭和11年、県道拡張の時、こ...大河・かこがわ(57)古墳時代(24)稚児ヶ窟古墳石棺の身と蓋

  • 大河・かこがわ(56) 古墳時代(23) 平荘古墳群・カンス塚古墳の場所は、どこ!

    カンス塚古墳の場所は、どこ!平荘湖のあたりには、かつて図のようにたくさんの古墳が集中していました。私事ですが、最近、腰痛の治療を兼ねて散歩をしています。たくさんの古墳を見ることができます。アクア交流館の前あたりでは、一部が水面に浮いたように姿を現わしている古墳を眺めながら散歩をしています。地図で「金のイヤリング」が出土したカンス塚古墳の場所を確かめてください。以下の説明は『加古川市史(第一巻)』の記述をお借りしていますが、文章(文体)・記述等は、少し変えています。平荘湖古墳群の語ること海浜の工業地帯に用水を供給する平荘ダム建設のために、多くの古墳が平荘湖に沈んでしまいました。工事に並行して、1962年(昭和37)から66年にわたり、数次の調査が行われました。水没した古墳は約50基ですが、升田山に約11基、飯盛山...大河・かこがわ(56)古墳時代(23)平荘古墳群・カンス塚古墳の場所は、どこ!

  • 大河・かこがわ(55) 古墳時代(22) 金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

    金のイヤリング(カンス塚古墳出土)平荘湖古墳群のほとんどの古墳は6・7世紀のものです。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼり古い古墳です。カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳でした。一部盗掘されていましたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品しています。出土品も朝鮮半島南部の渡来した工人により須恵器・製作技術によるものも多く含まれています。なかでも一対の金のイヤリング(写真)は注目を集めました。県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけです。全国でも、50ほどの出土例しか知られていません。このイヤリングも朝鮮半島からもたらされたもので、カンス塚古墳の主とその交易関係...大河・かこがわ(55)古墳時代(22)金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

  • 大河・かこがわ(54) 古墳時代(21) 宮山古墳(加古川市八幡町)

    天満大池に沿った西の道(県道宗佐・土山線)を北へ車を進めると、やがて加古大池の西に出ます。さらに、北へ少し行くと八幡町野村の手前で、道は坂をつくって八幡町へと急降下しています。ちょうど、坂を下る手前辺りから印南野台地が西へ舌を出したように城山(じょやま・加古川市神野町)にむかって伸びています。この舌のように伸びた台地こそ、古代文明の舞台であり、縄文・弥生・古墳・白鳳時代の人々の生活の跡がいっぱい詰まっています。『加古川市の文化財』を参考にして、宮山遺跡を訪ねてみます。宮山古墳(加古川市八幡町)宮山遺跡は、八幡町上西条(かみさいじょう)と中西条の間で、上記の舌のように伸びた印南野台地から、さらに北へ突き出たところにあります。昔、ここは上西条と中西条の共有地で、自由に土を取っていました。昭和39年頃、この土砂が採集...大河・かこがわ(54)古墳時代(21)宮山古墳(加古川市八幡町)

  • 大河・かこがわ(53) (20)古墳時代 二塚古墳(加古川市神野町)

    古墳時代(20)二塚古墳(加古川市神野町)夏の日でした。稲根神社(いなねじんじゃ)の裏にある二塚古墳の写真を撮りに出かけました。昼間の熱い日で、強烈な薮蚊の襲来でした。縞々模様の蚊が数匹、尻尾を高くして脚に止まっています。早々に退散したことを覚えています。二塚古墳(加古川市神野町)稲根神社のある小さな丘の裏に、二つの円墳があります。二基の古墳が近接しているところから考えると夫婦塚とも考えられます。2号墳は、1号墳よりやや高いところにあり、石造りも若干丁寧な造りです。2号墳の方が1号墳よりも少し早く造られているようです。2号墳の築造時期は、石室の形態や見つかった須恵器などから6世紀後半の古墳と思われますが、1号墳もあまり時期は違わないと考えられます。二塚古墳のあるこのあたりは、加古川地方では最も早く米作が始まった...大河・かこがわ(53)古墳時代(20)二塚古墳(加古川市神野町)

  • 大河・かこがわ(52) 古墳時代(19) 人塚被葬者は、西条廃寺の建造者か?

    西条廃寺と人塚神野町西条の城山(じょやま)から南に伸びる標高30メートルばかりの台地に西条廃寺があります。西条廃寺(白鳳時代)については、後に調べることにしましょう。写真は、西条廃寺の塔跡の一部から正面の森を撮っています。その森は、5世紀古墳の人塚古墳です。西条廃寺は7世紀に、人塚古墳に接して建設されました。古代寺院の側に古墳がしばしば見られる場合があります。人塚被葬者は、西条廃寺の建造者か?歴史学者は、「古墳の有力な被葬者が、この頃仏教文化を取り入れ寺院をつくった」と考えています。古代人は、基本的には、素朴な森や大きな岩(磐座)など自然物を神として崇拝していました。やがて、日本へ仏教が伝えられました。それとともに寺院や仏像が伝わりました。その煌びやかさに、驚きと、崇拝の気持ちを、仏教に衣替えした豪族も多かった...大河・かこがわ(52)古墳時代(19)人塚被葬者は、西条廃寺の建造者か?

  • 大河・かこがわ(51) 古墳時代(18) 西条古墳(群集墳)と西条52号古墳

    西条古墳(群集墳)と西条52号古墳◇西条群集墳◇山手中学校の北方、西条の丘陵地帯に、かつて約30基ばかりの古墳がありました。これらの古墳は、1963年(昭和38)にはじまった住宅造成工事により全て破壊されてしまいました。現在は、規模の大きな行者塚(ぎょうじゃづか)・尼塚(あまづか)・人塚(ひとづか)を残すのみです。現存する3基の古墳などから判断して、これらの群集墳の多くも5世紀古墳で、4世紀古墳の多い日岡古墳群より新しい古墳です。これらの古墳は、日岡古墳からの墓所の移転ではなく、異なる豪族墓所であったのだろうと考えられています。西条の群集墳の破壊は、宅地造成とはいえ残念なことです。一度破壊された遺跡は復元することができません。◇西条52号古墳◇古墳の調査中、城山(じょやま)の西隅にある古墳は、他の古墳よりはるか...大河・かこがわ(51)古墳時代(18)西条古墳(群集墳)と西条52号古墳

  • 大河・かこがわ(50) 古墳時代(17) 行者塚古墳(4)、日岡山から西条への移動の事情

    日岡山から西条への移動の事情加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。もちろん、この外にもたくさんの古墳がありますが、行者塚古墳は、西条古墳群に属しています。日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。この二つの古墳の関係が気になります。二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられておられます。「・・・加古川のこの地方では、この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。ところが、この行者塚古墳の時期になりますと、(日岡山から西條に)移動する。その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。・・・・ということは、・・・大和・河内という...大河・かこがわ(50)古墳時代(17)行者塚古墳(4)、日岡山から西条への移動の事情

  • 大河・かこがわ(49) 古墳時代(16) 行者塚古墳(3)、加羅(任那)への援軍

    加羅(任那)への援軍古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。ここからは、素人(私)の無責任な想像をまじえますので、そのつもりでお読みください。行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多いのです。これは、中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられますが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのです。行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。つまり、お互いに相手の領土を狙っていました。行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)との交流が深いようです。加羅(任那)は...大河・かこがわ(49)古墳時代(16)行者塚古墳(3)、加羅(任那)への援軍

  • 大河・かこがわ(48) 古墳時代(15) 行者塚古墳(2)、朝鮮半島南部との交易

    行者塚古墳(2)朝鮮半島南部との交易行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘されています。そのうち、前回紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられています。中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられたのでしょう。その他、多くの種類の遺物があります。巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されています。それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられています。そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されていますが、それらは朝鮮半島南部のものと思われます。今後、鉄の成分分析が行われると、さらに、詳しく生産地等が特定されることでしょう。つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカ...大河・かこがわ(48)古墳時代(15)行者塚古墳(2)、朝鮮半島南部との交易

  • 大河・かこがわ(47) 古墳時代(14) 行者塚古墳(1)、古代からのタイムカプセル

    古墳時代(14)行者塚古墳(1)古代からのタイムカプセル加古川市行者塚古墳(ぎょうじゃづか)古墳は、神野町西条の城山(じょやま)から東に続く加古川左岸(東岸)の丘陵に築かれた前方後円墳です。かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していましたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまいました。今は、規模の大きな行者塚・人塚・尼塚が残るのみです。ここは、昭和48年(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けました。行者塚古墳の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにしました。その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見てみます。なお、他の人塚・尼塚および西条廃寺については、後に紹介し...大河・かこがわ(47)古墳時代(14)行者塚古墳(1)、古代からのタイムカプセル

  • 大河・かこがわ(46) 古墳時代(13) ヤマトタケル物語(9)、ある歴史学者の思い(苦い経験)

    ある歴史学者の思い(苦い経験)歴史学者、佐原真氏は『日本の歴史(一)・日本誕生』(小学館)で、次のように述べておられます。・・・梅原猛氏書き下ろし・・・新歌舞伎・ヤマトタケルを見た。分かりやすく、おもしろく・・・記録的な観客を集めたのも当然である、と思う。・・・(しかし)作者の意図に反して、見る者、聴く者にすべてが事実だと誤解した観客もいたのではないか。おもしろさと分かりやすさによいしれながら私の半分は目覚め、神話・歴史・考古学の研究成果のむずかしさ、それを一般向きに説明することの、いかに困難かをかみしめている。佐原氏だけでなく、多くの学者の思いではないかと思われます。というのは戦前、歴史教育の中で、「ヤマト・タケル」は、「皇国史観」の中心と扱われ、結果戦争推進の一翼を担わされたにがい過去があります。もちろん「...大河・かこがわ(46)古墳時代(13)ヤマトタケル物語(9)、ある歴史学者の思い(苦い経験)

  • 大河・かこがわ(45) 古墳時代(12) ヤマトタケル物語(8)、『風土記』にヤマト・タケルが登場しない

    古墳時代(12)ヤマトタケル物語(8)『風土記』にヤマト・タケルが登場しない古事記・日本書紀のクライマックスに登場するヤマト・タケルですが、時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場しないわけがありません。不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマト・タケルの姿はありません。あるのは、ヤマト・タケルのお母さんとお父さん(景行天皇)の愛の物語ばかりです。これは何を物語るのでしょうか。『播磨風土記』の研究家である、岩坂純一郎氏は『東播磨の歴史1・古代』(神戸新聞出版センター)で、「・・・ヤマト・タケルがなぜ地元で編集された風土記に登場しないのかを考察することは重要です。私の認識不足かも知れませんが、これまで『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していないことに疑問を抱かれた研究はほとんどありません。・・・・『播磨風土...大河・かこがわ(45)古墳時代(12)ヤマトタケル物語(8)、『風土記』にヤマト・タケルが登場しない

  • 大河・かこがわ(44) 古墳時代(11) ヤマトタケル物語(7)、ヤマト・タケルの物語ること

    古墳時代(11)ヤマト・タケル物語が語ること(7)最近は、神話が語られることも少なくなりましたが、ヤマト・タケルの物語はいかがでしたか。加古川誕生の古代の英雄です。おもしろさも倍増します。でも、神話であることを頭の隅においてお読みください。ヤマト・タケルの語ることを考えてみましょう。いろいろと想像できるのですが、ここでは、次のように考えておきます。ヤマト・タケルの物語ること「ヤマト・タケルは、どうも好きになれない」という人もおられたのではないかとも想像します。というのは、クマソ・タケルやイズモ・タケルを征伐するときに「だましうち」にしているのです。ここで、少し断っておかなければなりません。古代においては「ダマす(謀る)」ということは悪いことではなく、ダマされる者が、それを見抜くことができなかった愚か者と考えられ...大河・かこがわ(44)古墳時代(11)ヤマトタケル物語(7)、ヤマト・タケルの物語ること

  • 大河・かこがわ(43) 古墳時代(10) ヤマトタケル物語(6)、タケル白鳥に

    タケル白鳥に大和に帰ろうとします。オトタチバナヒメのことが忘れられません。しかし、悲しんでいるばかりおれません。甲斐の国(今の山梨県)を過ぎ、信濃(今の長野県)に入り、そこにはびこっている悪者を従え、尾張の国(今の愛知県)に帰りつきました。そこには、結婚の約束をしたミヤズヒメが待っていました。姫の顔はなぜかさえません。「本当に長い年月を待っていたので、とうとう病気になってしまいました・・・・」と答えるばかりでいた。タケルは、剣をミヤズヒメに預けて伊吹山の賊を征伐に出かけました。「この山の神(賊)ぐらい素手でも捻りつぶしてやるぞ・・・」と山を登って行くと、白い大きなイノシシが現れました。気にもとめず、さらに登りつづけました。このイノシシこそ、山の神が姿を変えて現れていたのでした。やがて、枝葉が折れるばかりの雹(ひ...大河・かこがわ(43)古墳時代(10)ヤマトタケル物語(6)、タケル白鳥に

  • 大河・かこがわ(41) 古墳時代(9) ヤマト・タケル物語(5)、オトタチバナヒメ

    古墳時代(9)ヤマト・タケル物語(5)、オトタチバナヒメ相模で敵をたおしたタケルは、さらに東へ進み、走水(はしりみず)に着き、対岸の上総(かずさ・今の千葉県の南部)に渡ろうとしました。が、海は大荒れになりました。舟は木の葉のように揺れ、今にもしずみそうになりました。その時です。タケルに従っていた弟橘姫(オトタチバナヒメ)が、「・・・これはきっと海神のたたりです。私がタケル様の身代わりになって、海神の怒りを鎮めましょう。どうか、帝の命令を成し遂げられ、無事に大和にお帰りください・・・」と海に菅(すげ)の畳を八枚、皮の畳八枚、それに絹の畳八枚を重ねて海面に敷き、それに飛び乗りました。大波は、美しい姫をたちまちにのみ込んでしまいました。海は、嘘のように静まり、タケルは上総に向かって進むことができました。タケルが上総に...大河・かこがわ(41)古墳時代(9)ヤマト・タケル物語(5)、オトタチバナヒメ

  • 大河・かこがわ(40) 古墳時代(8) ヤマトタケル物語(4)、タケル東国(焼津)へ、

    古墳時代(8)タケル東国(焼津)へ、ヤマトタケル物語(4)イズモ・タケルを征伐して大和に帰ってきたとおもうや、父・景行天皇は、こんどは「・・・東の方にらんぼうな、大和に従わない悪者がいる。それらを、従えて参れ・・・」とタケルに命令するのでした。タケルは東国への途中、伊勢の叔母のヤマトヒメを訪ね別れの挨拶をしました。なぜか、悲しくなり「帝(父・景行天皇)は、東国を征服してまいれ、とおっしゃいました。私は、どうなってもよいとお考えなのでしょうか・・・」とヤマトヒメに泣き崩れるのでした。ヤマトヒメは「もしものことがあったら・・・」と、剣と袋を与え、やさしくタケルを慰めました。タケルは尾張(愛知県)の長官・ミヤズヒメの館にとまり、結婚の約束をして、さらに東へと進みました。やがて、相模(静岡県)に着きました。その国の長は...大河・かこがわ(40)古墳時代(8)ヤマトタケル物語(4)、タケル東国(焼津)へ、

  • 大河・かこがわ(39) 古墳時代(7) ヤマト・タケル物語(3)、 イズモ・タケル

    古墳時代(7)ヤマトタケル物語(3)イズモ・タケル出雲(いずも)の国は歴史も古く、大和の国にも決して劣らない、誇り高い国でした。ヤマト・タケルにとって出雲の国の主、イズモ・タケルはいつか戦わなければならない大敵でした。クマソ・タケルを征伐したものの、大和をでる時にいた供の勇ましい兵(つわもの)も半分ほどになり、剣も度重なる戦でボロボロになってしまいました。このままでは、イズモ・タケルを倒すことはできそうにもありません。それに、出雲は立派な剣が作られているところですから、なおさらのことです。ヤマト・タケルは「されど、イズモ・タケルに勝たねばならない・・・」とつぶやくのでした。「そうだ、謀(はかりごと)を使おう・・・まず、イズモ・タケルを味方と思わせることだ・・・」こう考えたヤマト・タケルは、さっそくイズモ・タケル...大河・かこがわ(39)古墳時代(7)ヤマト・タケル物語(3)、イズモ・タケル

  • 大河・かこがわ(38) 古墳時代(6) ヤマト・タケル物語(2)・熊襲征伐へ

    古墳時代(6)ヤマト・タケル物語(2)・熊襲征伐へヤマトタケルとはどんな人物なのでしょうか。この物語は、小碓命(オウスノミコト)が父・景行天皇の命令を裏切った兄・大碓命(おおうすのみこと)を便所に入いるところを捕まえて、殺してしまったところから始めます。兄はオオウスノミコト、弟はオウスノミコトです。間違わないようにしてください。天皇はこの話を聞いてビックリ、「こんな気性の荒いミコトを傍においていては、どんなことがおこるかもしれない」と思い、「お前は、西の果ての九州に悪い熊襲がいる。これから出かけて征服してまいれ・・・」と命じました。オウス・ノミコトは、伊勢の叔母のヤマトヒメのところにお別れに行くと、女性の衣装と剣をくださいました。ミコトは、日を重ねて、熊襲の住む九州に着きました。その時、熊襲は新しくできた館のお...大河・かこがわ(38)古墳時代(6)ヤマト・タケル物語(2)・熊襲征伐へ

  • 大河・かこがわ(37) 古墳時代(5)、ヤマトタケルの話をしよう

    日岡御陵は、ヤマトタケルのお母さんの墓と伝えられています。ヤマトタケルの話をしよう・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。*『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄...大河・かこがわ(37)古墳時代(5)、ヤマトタケルの話をしよう

  • 大河・かこがわ(36) 古墳時代(4)、同范鏡(どうはんきょう)

    古墳時代(4)同范鏡(どうはんきょう)日岡山の古墳から3枚の神獣鏡(しんじゅうきょう)が出土しています。これら神獣鏡は「同笵鏡(どうはんきょう)」です。耳慣れない言葉ですが、「同笵鏡」は、同じ鋳型でつくられた鏡のことで、この「笵同鏡」を研究している学者は、次のように結論づけています。力を持った豪族が、同盟関係を結んだ印として他の豪族に与えたもので、従って、同笵鏡の分布状態を調べることにより当時の勢力関係をしることができます。日岡山の豪族は、どうやら大和の豪族からこの鏡を与えられたようです。そうすると、4・5世紀の頃、日岡豪族は、大和の豪族の勢力下にありました。日岡豪族にとっても、大和の豪族と同盟関係をむすぶ必要があったようです。というのは、自分たちと大和の豪族が結びつくことにより権威を高めることができるし、そし...大河・かこがわ(36)古墳時代(4)、同范鏡(どうはんきょう)

  • 大河・かこがわ(35) 日岡山山頂の古墳:御陵

    古墳時代(3)日岡山山頂の古墳:御陵・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。*『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、ピンとこない人(世代)...大河・かこがわ(35)日岡山山頂の古墳:御陵

  • 大河・かこがわ(34) 古墳時代(2)・日岡山古墳群

    古墳時代(2)・日岡山古墳群日岡山には図のように多くの古墳があります。現在残っている古墳は図のように、①勅使塚、②南大塚、③西大塚、④北大塚、⑤狐塚、⑥西車塚です。これらの古墳群の多くの古墳は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。平野部には、南西約2キロメートルの溝口遺跡・美乃利遺跡等の遺跡があります。そのあたりは、早くから開けていたようです。中でも、「溝口・美乃利遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所でした。溝口遺跡・美乃利遺跡は、日岡豪族の生活した集落か『加古川市史(第1巻)』に、次のような面白い記述があります。・・・日岡...大河・かこがわ(34)古墳時代(2)・日岡山古墳群

  • 大河・かこがわ(33) 望塚(ぼんづか):銅鐸の出土地は?

    前号から古墳時代の紹介を始めましたが、弥生時代の銅鐸の紹介が抜けていましたので、挿入させていただきます。望塚(ぼんづか):銅鐸の出土地は?東沢1号墳は、(加古川近辺で発見された唯一の銅鐸が発見された)望塚(ぼんづか)があった水田の下の地層から新たにみつかった古墳です。調査の結果、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかりました。東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下の地層から新たに見つかった古墳です。望塚の場所から、加古川市内で唯一、弥生時代の祭器である銅鐸が発見されました。少し、不思議です。説明...大河・かこがわ(33)望塚(ぼんづか):銅鐸の出土地は?

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