chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 大河・かこがわ(32) 古墳時代(1)・加古川地域の3つの古墳群

    今回から、しばらくは、加印地区(加古川市・高砂市・稲美町・播磨町)の古墳時代の散策に出かけましょう。今日は、大まかな話です。古墳時代(1)加古川地域の3つの古墳群まず、加古川市にある古墳群を探検することにしましょう。加古川市には、地図のように3つ大きな古墳群があります。日岡山古墳群(4世紀古墳)・西条古墳群(5・6世紀)・平荘古墳群(6・7世紀)です。もちろん、この他にも多くの古墳があります。日岡山古墳は、これらの古墳の中でも最も古く、4・5世紀にさかのぼることができます。日岡山古墳は、兵庫県でも有数の古墳群が残っている地域です。昔は、もっと多くの古墳があったのですが、戦争中に多くの古墳が壊されました。たとえば、加古川刑務所は戦時中弾薬庫(神野倉庫)であり、それらの施設を建設するために、多くの古墳はこわされまし...大河・かこがわ(32)古墳時代(1)・加古川地域の3つの古墳群

  • 大河・かこがわ(31) ナビツマのしま(2)、印南別嬢のロマンス

    南批都麻島と印南別嬢のロマンス奈良時代に書かれた『風土記』に、南批都麻島(なびつましま)が登場します。前回の「ナビツマ」の物語の続きです。伝承です。奈良の都から一人の役人が、加古の里に派遣されてきました。彼は、里の女性と結ばれ、女の子をもうけました。名を印南別嬢(いなびのわきいらつめ)といい、美しい女性に成長しました。この噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古の地へやって来ました。別嬢の胸が高なりました。どうしてよいか分かりません。“南批都麻島”に身を隠しました。加古の松原に着いた帝は、別嬢を探したが見当たりません。そのときです。島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていました。天皇は「誰の犬か」とたずねると、土地の人は「別嬢の犬である」と答えました。天皇は、舟をつくり島に渡たり、そして別嬢...大河・かこがわ(31)ナビツマのしま(2)、印南別嬢のロマンス

  • 大河・かこがわ(30) ナビツマの島

    ナビツマの島(1)風土記にある「ナビツマの島」の物語です。奈良の都から一人の役人が、加古川の里に派遣されてきました。彼は、加古川の里の女性と結ばれ、女の子をもうけました。名を印南別嬢(いなみのわきいらつめ)といい、別嬢は、美しい女性に成長しました。噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古川の地へとやって来ました。別嬢の胸が高なりましたが、どうしてよいか分かりません。“ナビツマの島”に身を隠しました。加古の松原に着いた帝は、別嬢(わきいらつめ)を探したが見当たりません。そのときです。島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていました。天皇は「誰の犬か」とたずねると、土地の人は「別嬢の犬である」と答えました。天皇は、舟をつくり島に渡たり、そして別嬢と幸せな生活を始めました。これは物語であり実話ではあ...大河・かこがわ(30)ナビツマの島

  • 大河・かこがわ(29) 高砂三角州

    歴史家の稲見悦治氏の論文「加古川三角州の非対象とその原因」の「加古川三角州の形成過程」の一部を読みましょう。(*文体を少し変えています)高砂三角州加古川左岸(東岸)の三角州の陸化の時代は極めて早かったのですが、右岸(西岸)の陸化は非常に遅れました。加古川三角洲端に当る洗川と現在の加古川本流間の中洲は、古くからナビツマ島(播磨風土記)・加古能島(万葉集)その他の地名で呼ばれ、阿閇津(播磨風土記)より海上(船)で往来しなければならない高砂三角州でした。*阿閇津(現在の播磨町の港)ある記録に「天平年間(奈良時代)まで、高砂は海中の高州にて少し漁師の住し処(ところ)にて、荒井・小松原は砂浜・芦原で有し処(ところ)、池田公(輝政)の御普請にて荒井は塩浜と相なり云々」とあるように中世末期に入ってようやく加古川三角州の一部と...大河・かこがわ(29)高砂三角州

  • 大河・かこがわ(28) 鹿(子)児水門(かこのみなと)

    鹿(子)児水門(かこのみなと)『日本書紀』応神天皇13年の条に、次のような話があります。・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと)」に入るのを見たので、調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛-かみながひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。彼らが鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのだった・・・これは、地名説話ですが、九州と畿内を結ぶ瀬戸内海の泊(港)のひとつに、「鹿子水門」があったことを物語っています。古代には、河口が港として利用される場合が多かったが、航海に必要な水や食料も得やすかったのでしょう。それに、加古川の河口は内陸部と結ぶ重要な拠点でした。「鹿子水門」がどこにあったか、明らかではないのですが、加古川東岸は西岸と比べ若干土地が高く、加古川の流れは西岸...大河・かこがわ(28)鹿(子)児水門(かこのみなと)

  • 大河・かこがわ(27) 東神吉弥生遺跡

    東神吉弥生遺跡昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見され、昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました、*場所は東神吉中学校の南のバイパスあたり遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。さらに、加古川市史の記述を引用します。・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できないが、溝と付近の地形からみて、おおよそ東西300メートル、南北500メートル、広さにして1.5ヘクタールの大きさと推定される。遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのであろう。これらをあわせると、耕...大河・かこがわ(27)東神吉弥生遺跡

  • 大河・かこがわ(26) 砂部弥生遺跡

    砂部弥生遺跡日岡山と升田山の狭窄部から流れ出した川の流勢は、つねに南西方向すなわち加古川右岸(西岸)に強く、その低湿地は洪水の常習地帯でした。それに対し、左岸(東岸)は、つねに緩やかな水の流れで、より早い時期から陸地を形成しました。西岸、つまり神吉地区の低湿値の開発は、加古川左岸より遅れました。しかし、西岸の低湿地(神吉地区)は、人が住めないということではありません。遅れたというものの自然堤防も大きく、ずいぶん古くから人が住んでいました。標高5メートル余りの微高地の、弥生遺跡である砂部(いさべ遺跡)は、そのことを証明しています。(1)砂部弥生遺跡昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表されました。遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施しました...大河・かこがわ(26)砂部弥生遺跡

  • 大河・かこがわ(25) 美乃利遺跡

    美乃利遺跡溝ノ口遺跡の調査に引き続き、その北に広がる美乃利遺跡が平成27年11月25年から平成12年11月25日から、平成28(2016)3月18日までの間実施されました。2,820㎡を調査された結果、合計780基もの遺構と、たくさんの遺物が出土しました。美乃利遺跡も溝ノ口遺跡も弥生時代から中世にかけての複合遺跡でした。調査地点は、写真で確認ください。調査地点の北にある丘陵は、日岡山です。地図と合わせて場所を確認ください。(no4735)*『美乃利遺跡発掘調査報告書Ⅰ』より*写真上:美乃利遺跡発掘現場同下:竪穴建物大河・かこがわ(25)美乃利遺跡

  • 大河・かこがわ(24) 溝ノ口遺跡(2)・弥生を中心にした複合遺跡

    溝ノ口遺跡(2)弥生を中心にした複合遺跡前回は、加古川バイパスの建設に伴う溝ノ口遺跡の報告の紹介でしたが、その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかり、3回に分けて調査が行われました。第1回目は、平成26年12月9日から12月26日まで。第2回目は、平成27年8月10日から11月24日まで。3回目は、その北の美乃利地区(美乃利遺跡)の調査が実施されました。美乃利遺跡については、次回報告しましょう。調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。今回は、溝ノ口遺跡の発掘現場と遺物の一部を見ていただくことにします。*写真上:溝ノ口遺跡の発掘現場(上空から播磨灘を望む、加古川バイパスがるので場所は確認ください)*写真下:溝と遺物の一部*写真:『溝之口発掘調...大河・かこがわ(24)溝ノ口遺跡(2)・弥生を中心にした複合遺跡

  • 大河・かこがわ(23) 溝ノ口遺跡(1)・加古川パイパス工事で発見

    溝ノ口遺跡(1)加古川パイパス工事で発見「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。多数の出土品がありました。これら出土品の一部は、加古川市文化センター(平岡町)に展示されています。溝ノ口遺跡は、JR加古川駅から東へ約1キロメートルの場所で、少し高くなっており、当時の加古川の東岸の「自然堤防」上にあった集落と想像されます。また、調査により溝ノ口弥生遺跡は、弥生遺跡だけでなく古墳時代・奈良時代の住居も含まれている複合遺跡であることが確かめられました。加古川市内最大の複合遺跡です。溝ノ口弥生遺跡は、調査後埋めら...大河・かこがわ(23)溝ノ口遺跡(1)・加古川パイパス工事で発見

  • 大河・かこがわ(22) 大中弥生遺跡(4)・国史跡に

    大中弥生遺跡(4)国史跡に、多くの遺物が出土大中遺跡は、弥生時代中期から古墳時代中期にかけての遺跡であることが判明しました。約44.000平方メートルの範囲に、円形、方形長万形、五角形、六角形の住居跡が数多く発見されました。そして、さまざまな用途や機能に応じた土器や鉄器、砥石など当時の人びとの生活を知る手がかりとなる遣物が多量に発見されました。また、先に紹介したように、当時から中国との交流があったことを示す青銅製の内行花文鏡片(分剖鏡)も出土しています。国史跡に(昭和42年)このように大中遺跡は、古代国家が形づくられようとする時期を今に伝える重要な遺跡で、昭和42年(1967)に国の史跡に指定されました。そして、兵庫県立歴史公園「大中古代の村」として全面的に保存、整備され、広く人々に親しまれる憩いの場となってい...大河・かこがわ(22)大中弥生遺跡(4)・国史跡に

  • 大河・かこがわ(21) 大中弥生遺跡(3)・なぞの鏡、分割鏡

    大中弥生遺跡(3)・なぞの鏡、分割鏡昭和38年年(1963)3月、大中遺跡がある台地の中でも少し高くなっているところにある住居跡から出土しました。この住居跡は、弥生時代後期のもので、その住居跡は遺跡の中ほどに復元されています。出土したものとは、鏡片(写真上)で、最大長6.2センチ、最大幅3センチで、重さは7.2グラムあり、他の遺跡から出土した鏡を参考に復元(写真下)すると直径が21.2センチになります。この鏡片は、鑑定の結果、中国の後漢代に製作された内行花文鏡(ないこうかもんきょう)であることが判明しました。分割鏡この鏡片は意図的に割った上に、片方を磨いて一直線にし、懸垂ができるように二つの穴があけられており、考古学上、分割鏡あるいは懸垂鏡と呼ばれています。このような分割鏡は、近年弥生時代の遣跡から時々発見され...大河・かこがわ(21)大中弥生遺跡(3)・なぞの鏡、分割鏡

  • 大河・かこがわ(20) 大中弥生遺跡(2)・大中は絶好の生活の場

    大中遺跡(2)大中は絶好の生活の場大中の集落は、生活の絶好の場所でした。播磨平野のほぼ中央部で、北から張り出した低平な丘陵は、国道二号線のあたりで切れ、海岸線沿いの低地へとつながっています。大中の弥生集落はこの台地の南端部に築かれます。高台であるため加古川の氾濫の影響もあまりなかったようです。台地の南は低湿地で、米の収穫もあったことでしょう。さらに、すぐ近くを喜瀬川が流れ、伏流水も豊かで飲み水の心配もなかったようです。大中の人々は、こうしたすばらしい環境の中で生活していました。イイダコ漁大中の各住居跡から、小型の土器が百数十個出土しています。高さがせいぜい15センチで、口の部分または底部に小さな穴があいており、単なる貯蔵用の容器ではないことは確かです。この土器は大阪湾沿岸、播磨灘北九州の博多湾沿岸からも多数の出...大河・かこがわ(20)大中弥生遺跡(2)・大中は絶好の生活の場

  • 大河・かこがわ(19) 大中弥生遺跡(1) 中学生により発見

    私たちの地域で弥生遺跡というと、まず、大中遺跡を最初に紹介しなければなりません。大中弥生遺跡(1)中学生により発見大中遺跡は、昭和37年6月、地元播磨中学の三人の生徒によって発見されました。古くから「大増(おおぞ)の畑では土器が出るとか、大増には貝殻の山が三つもあり、じゃまになるので車で捨てに行った」とかいう話がありました。しかし、公にはなっていませんでした。古代の歴史に興味を持っていた播磨中学校の三年生の浅原重利(あさはらしげとし)、大辻真一(おつじしんいち)、大辻要二(おおつじようじ)君らは、大正時代にこの地に別府鉄道が敷設された時、多くタコツボが掘り出されたことを地元の古老から聞き、調査したところ、多くの土器片を発見しました。これが、大中遺跡が世に出るきっかけとなりました。県下最大の集落遺跡(弥生~古墳時...大河・かこがわ(19)大中弥生遺跡(1)中学生により発見

  • 大河・かこがわ(18) 縄文時代(3)・岸縄文遺跡(加古川市西神吉町)

    縄文時代(3)岸縄文遺跡(加古川市西神吉町)加古川市西神吉町の岸・大国の集落の南の端、つまり県道平荘・魚橋線辺りは、段丘となっています。その段丘の南は、加古川が運んだ土砂がつくった平地が海岸まで続きます。この平地部から、弥生時代の遺跡が発見されているのですが、縄文遺跡(土器)が発見はありません。このことは、弥生時代(BC2.3世紀~AD2・3世紀)に陸化が進み、やっと人が住める状態になったと考えられます。それに先立つ縄文時代、ボーリング調査でも確認されていますが、そこは海で人が住める状態ではありませんでした。現在、岸の集落の北側は台地、台地で大きな団地になっていますが、この辺りで弥生土器が出土することは知られていました。周辺一帯は、良質の粘土を利用してレンガが生産されていました。このままでは、「岸の弥生遺跡が消...大河・かこがわ(18)縄文時代(3)・岸縄文遺跡(加古川市西神吉町)

  • 大河・かこがわ(17) 縄文時代(2)・日笠山縄文人

    縄文時代(2)・日笠山縄文人日笠山貝塚の調査中、縄文人の出土がありました。人骨は直径約80センチ、深さ約40センチの穴に、足を抱きかかえるようにして埋めていました。屈葬(くっそう)です。穴の上には長さ30センチばかりの平らな石を置いて蓋(ふた)とし、そのまわりには数個の石をならべてあり、まわりの石は平らな石より高い位置にあり、ここは墓であることをしめしているようです。日笠山貝塚で人骨が出土したのは一ヵ所だけですが、おそらくそのあたりは墓地であったのでしょう。埋葬にあたって胸に石を抱かせたり、頭に土器を被せたりすることがしばしば見られます。屈葬とともに、縄文時代の埋葬の特徴です。死霊を封じ込め、その活動を妨げるための処置ではなかったかといわれています。抜歯の風習また、歯が張り出して小さなすき間になっています。これ...大河・かこがわ(17)縄文時代(2)・日笠山縄文人

  • 大河・かこがわ(16) 縄文遺跡・日笠山貝塚(1)

    縄文時代(1)日笠山貝塚浜国道(国道250線)で高砂市曽根町の中心部を西に抜け、天川を渡ったところに小さな台地があります。高さ約60㍍の日笠山を中心に伸びる台地で、日笠山貝塚は、この台地の南端にあります。古くから貝殻山と言われていながら、この日笠山貝塚の研究は、昭和37年までおこなわれていませんでした。それから4年をかけての調査の中で、遺跡の実態が明らかとなりました。この貝塚には、多くの謎がありました。形成された時期は、縄文時代前期(約7000年前)から晩期(2500年前)まで、ざっと、5000年間に及んでいます。ところが、貝塚の広さは長さ約40㍍しかなく、期間に比べて規模が極端に小さいのです。さらに魚の骨、石のオモリ、ヤスなどの漁具類がほとんど出土していません。大型の貝を採る昭和43年に高砂市教委が刊行した『...大河・かこがわ(16)縄文遺跡・日笠山貝塚(1)

  • 大河・かこがわ(15) 加古川三角州 加古の入江

    加古川三角州加古の入江今から一万年程前に最後の氷河期は終わり、現在のような気候になりました。それに伴い、加古川の水量は増え、大量の土砂を下流に運びました。その土砂は河口にたまり三角州をつくり、三角州は大きくなり、やがて、平野をつくりました。海抜10メートルより低い地形の加古川市・高砂市の南部あたりは、「加古の入江」と呼ばれた海の底でした。2~3000年以前より、陸化が始まりました。時代を一挙に進めました。地図の太線は、海抜10㍍の等高線です。そこから南の土地はかつての海底です。弥生時代、そのあたりから南は、三角州の多くの島がある海岸線でした。地図の黒い点は、弥生遺跡(集落跡)です。河口部分(加古の入江)で、弥生遺跡より以前の縄文時代の遺跡は見つかっていません。このことは、このあたりに人が住み始めたのは弥生時代以...大河・かこがわ(15)加古川三角州 加古の入江

  • 大河・かこがわ(14) 旧石器遺跡(2)・山之上遺跡(加古川市平岡町)

    旧石器遺跡(2)・山之上遺跡(加古川市平岡町)前回の続きです。昭和24年(1949)年、群馬県岩宿遺跡(いわじゅくいせき)の発見により、わが国にも縄文時代時代以前に人(旧石器人)が住んでいたことが認められました。旧石器人の生活跡から木炭が出土し、火を使っていたことが確認されています。でも、彼らは、まだ土器をつくることは知りませんでした。そのため、旧石器時代は、無土器時代とも呼ばれています。1万年以前、氷河時代も終わり地球は暖かくなり、やがて縄文時代へと続きます。私たちの地域では、前回紹介した七つ池遺跡の発見以来、県下でも多くの旧石器人の生活跡が発見されるようになりました。大中弥生遺跡のすぐ西の潰目池で平岡町(加古川市)にも旧石器人の生活の跡(山之上遺跡)が発見されました。山之上遺跡です。場所は、大中弥生遺跡のす...大河・かこがわ(14)旧石器遺跡(2)・山之上遺跡(加古川市平岡町)

  • 大河・かこがわ(13) 旧石器遺跡(1) 七つ池遺跡

    旧石器遺跡(1)七つ池遺跡昭和6年、直良信夫(なおらのぶお)は、明石市の西八木海岸で、化石化した人類の腰の骨を発見しました。この骨は、教科書にも登場する「明石原人」の骨です。しかし、戦前の日本の学界は「日本には、旧石器時代が存在せず、疑わしい・・・」として、これを否定しました。不幸は重なり、この骨は東京空襲で焼失してしまいました。ところが、昭和24年(1949)群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡の発見により、わが国にも縄文時代以前に人類が住んでいたことが確かめられました。納豆の行商をしていた相沢忠洋(あいざわただひろ)さんは、行商の途中、赤城山山麓で旧石器時代の地層から旧石器の遺物を発見したのです。兵庫県はどうだったのでしょうか。昭和35年・家島群島の無人島・太島(ふとんじま)で旧石器の存在は確認されましたが、本土...大河・かこがわ(13)旧石器遺跡(1)七つ池遺跡

  • 大河・かこがわ(12) 赤い土

    赤い土右の写真をご覧ください。照明塔のある施設(写真)は、加古川市陸上競技場(加古川市西神吉町鼎1050)です。そして右の山は、神吉八幡宮のある宮山です。かつて、陸上競技場のトラックの場所に、標高54メートルの小さな丘「赤山」がありました。少し古い地図を見ると、赤山採土場とあります。文字どおり赤土の山でした。加古川陸上競技場は、この赤山を削ってつくられたのです。話題は、陸上競技場ではありません。「赤山(土)」の話を紹介します。日岡山をはじめ加古川の台地の部分は、赤から赤橙色をしています。この「赤い土」の原因は、なんでしょうか。神戸大学の名誉教授・田中眞吾氏は、次のように説明しておられます。・・・・もともと玄武岩は風化すると赤くなります。ブラジルのテラ・ロッシャもインドのイグールの赤土もこのためです。加古川辺りの...大河・かこがわ(12)赤い土

  • 大河・かこがわ(11) 印南野台地(4)・印南野台地は東に高く、西に低くなる地形

    印南野台地は東に高く、西に低くなる地形「・・・神戸市垂水区神出町の雌岡山(めっこうさん)に立つと、印南野が一望の下に見渡せる。標高241メートルの低い山だが、ぐるりに高い山がなく、視界はぐんぐん開けている。・・・加古川や高砂の市街地が霞んでいる。播磨灘からだんだんに高まってきた海岸段丘の、頂点にあるのが雌岡山だった。言い換えると、目の下の台地は雌岡山から南西にかけて漸次低くなり、・・・」以上が『兵庫探検』(神戸新聞社)の説明の一部です。しかし、現在、頂上あたりは木が茂り稲美野台地全体の風景を見渡すことはできません。印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点に南西に徐々に低くなる地形です。私たちの近くの稲美野台地には、草谷川・曇川・国安川・喜瀬川4つの川が流れています。いずれも、雌岡山の麓から流れ出していま...大河・かこがわ(11)印南野台地(4)・印南野台地は東に高く、西に低くなる地形

  • 大河・加古川(10) 降水量

    降水量印南野台地は、加古川の流れが運んだ砂利がおもで、水を貯めにくい土からできています。それに、水を集める範囲が狭いのです。その上に、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。稲美野台地に降る雨についてみておきましょう。図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。平均降水量は、日本海側で多く2000~2250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。印南野は、きわめて雨の少ない地域となっています。一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、...大河・加古川(10)降水量

  • 大河・かこがわ(9) 印南野台地(3)・印南野台地と段丘

    印南野台地(3)印南野台地と段丘(加古川市)別府町のイトーヨーカドーの西の道を北にサイクリングしてみましょう。平岡町の東加古川郵便局横の三ツ池あたりから坂になっています。しばらく行くと新在家あたりでまた一段あがります。この台地は山陽本線を越えたあたりで、いったん下がり、いなみの学園、農業高校付近で上あがり続け、寺田池の北方でさらにあがります。何段かの東西に続く坂があり、坂の上に段丘があることがよく分かります。野口・平岡・播磨町の地域は、大きく3つの段丘からなっています。この段丘は、気候変動によるものです。およそ24万年前、地球が暖かくなり、海が大きく陸地に押し寄せる大海進がありました。やがて氷期になり、海は大きく後退(海退)しました。その後も地球は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しました。やがて氷河期が終わり、...大河・かこがわ(9)印南野台地(3)・印南野台地と段丘

  • 大河・かこがわ(8)・かつて、印南野台地は海の底

    印南野台地(2)かつて、印南野台地は海の底「印南野台地もかつて海の底であった」と言われて、信じることができるでしょうか。たしかに確かに海の底でした。それでは、印南野台地は、どのように形成されたのでしょう。図を見てください。この図は24・5万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)現在の印南野台地は海の底です。もちろん、現在の海岸線までは当然海の底になります。この海に川を中心として周辺から土砂が流れ込みました。土砂は、海底では比較的平に堆積します。今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。そして、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。これが印南野台地です。印南の台地の隆起のようすは一様ではではなく、東の隆起が徐々に大きく、西の平岡・野口辺りで...大河・かこがわ(8)・かつて、印南野台地は海の底

  • 大河・かこがわ(7) 印南野台地(1)

    印南野台地(1)加古川の中心街を抜け、国道二号線を少し東へ行くと野口の手前で、ゆるやかな上り坂になっています。その坂の下に広がる地域名は「坂元」です。その坂元の坂を登った所から台地は東へ明石川辺りまで、徐々に高くなる比較的平らな地形が続きます。この広大な台地は、印南野台地(いなみのだいち)と呼ばれてきました。野口から東に続く「平岡町」の名称は、平らな岡の上に発達した地域の意味から名づけられました。また、印南野の沖あいの海は、印南野の海と呼ばれ、西国と都を結び、陸・海ともに交通の要所でした。そのためか、印南野(台地)については、『万葉集』にも多く詠まれ、『枕草子』にも登場します。しかし、水の極端に少なかった印南野台地の本格的な開拓が進むのは、江戸時代以降で、長い間、印南野台地は荒涼とした土地でした。「野口」の地名...大河・かこがわ(7)印南野台地(1)

  • 大河・かこがわ(6) 花崗(閃緑)岩・志方石

    花崗(閃緑)岩・志方石加古川市周辺の山地はほとんど流紋岩(凝灰岩)です。その中にあって志方町大藤山(おおふじさん・251.4メートル)付近の山容は少し違っています。それは山頂が平らで、その肩の部分は丸味をおび、斜面はふくよかで、その斜面は赤く厚い土壌層からなっています。山は風化が進んでいることを現しています。大藤山の近くの宮谷付近では、川原でもないのに角のとれた、ときには1、2メートルもあるような丸い岩塊が点在しています。このような状況が観察できる大藤山を中心にした、南北・東西それぞれ約三キロメートルには流紋岩類とは違って、岩石は花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)が広がっています。この岩石は中生代後期白亜紀末に地下から流紋岩の中に貫入してきた岩石です。花崗岩地域でよくみかけるように、この岩石は流紋岩に比べ早く激...大河・かこがわ(6)花崗(閃緑)岩・志方石

  • 大河・かこがわ(5) 竜山石(2)・広く古墳時代の石棺に利用

    竜山石(2)・広く古墳時代の石棺に利用竜山石(1)の続きです。古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像されます。河口は、竜山の採石場(写真)のあたりだったのでしょう。「風土記」で歌われている加古川の三角州「ナビツシマ」が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようです。真壁夫妻の研究によれば「5世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が五世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられます。竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれました。竜山石は、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅(しゅら)」に移しかえられ設置場所まで...大河・かこがわ(5)竜山石(2)・広く古墳時代の石棺に利用

  • 大河・かこがわ(4) 竜山石(1)

    それでは、私たちの地域の歴史探訪に出かけましょう。気の遠くなるほど昔の話から始めます。「竜山石」の話です。竜山石(1)播磨地方でもっともたくさん分布する岩石は、中生代の終わりの「白亜紀」の火山活動によってつくられたもので、いたるところにみることができます。単位を読み間違えないでください。7000万年前から8000万年まえのことでした。この火山岩は、流紋岩と呼ばれています。流紋岩は、珪酸分を多くふくみ、非常に粘り気の強い性質をもっています。したがって、粘り気の強いマグマの火山活動なので当然、多くの火山灰、大小の溶岩の破片などの火山砕屑物、それから、火砕流をしばしば噴出すということになります。これが固まって、岩石になったものが流紋岩質擬灰岩です。JRの宝殿駅から曽根駅にかけて両側の山々を見ると灰白色、やや黄味を帯び...大河・かこがわ(4)竜山石(1)

  • 大河・かこがわ(3) 大河「かこがわ」がある

    大河「かこがわ」がある少し前です。大阪の方とお話しをしていた時です。私の発音が悪かったのでしょうね。その人は、「(ところで、あなたのお住いの)カケガワ市って静岡県でしたかね。愛知県でしたかね」といわれるんです。「いえいえ、私は兵庫県のカコガワ市の出身です」と、訂正したことがあります。掛川市をインターネットで調べてみると人口118.023人(今年の6月30日現在)です。ということは、人口では加古川の半分より少ない都市です。加古川市は、それほど知名度の少ない都市のようです。これは近くに、神戸・明石・姫路市等々の全国級の都市があるためかもしれません。姫路市は、なんといってもお城で知られています。明石市は、子午線の通る街であり、行政的には神戸市と淡路をつなぐ大橋ですが、明石海峡大橋も誰もが知っています。そこで、加古川市...大河・かこがわ(3)大河「かこがわ」がある

  • 大河・かこがわ(2) 加印地域・ボーダーの地域

    加印地域・ボーダーの地域今、古墳時代~奈良時代を頭においています。律令制度(りつりょうせいど)の下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内(きない)といい、大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれです。播磨は、摂津に接していますが、畿内ではありません。中国地方に属していました。律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっていました。この時代は、播磨は都からは周辺部の地域でした。この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていました。自らを守るために、湧き上がるエネルギーを必要としたのです。都にとって加古川地方は、自らの安全を守るための最前線でした。また、加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるため...大河・かこがわ(2)加印地域・ボーダーの地域

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ひろかずのブログさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ひろかずのブログさん
ブログタイトル
ひろかずのブログ
フォロー
ひろかずのブログ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用