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  • 大河・加古川(1) 「加印地域」の歴史の話をしよう

    大河・かこがわ(1)「加印地域」の歴史の話をしよう「ふるさと」という言葉は、それだけで「詩」です。子どものころの思い出をいっぱい詰め込んだ言葉です。私は、この故郷(ふるさと)に、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町を頭に描いています。私的なことで申し訳ありませんが、私の中学校時代(昭和30~32年)の加古川市の人口は5万人ぐらいでした。現在は26万人を超えていますから、5倍以上に膨れたことになります。多くの人は、加古川市を「ねぐら」にして、神戸・大阪・姫路方面に通っておられます。そのためか、「加古川市」が、好きでたまらない故郷であると考える人が少ないようです。それに、「加古川市」特に、「加古川の歴史」のことが、あまり語られていないように思えなりません。ひどい場合「加古川市に誇れる歴史なんてあるの?」とまで言われる人...大河・加古川(1)「加印地域」の歴史の話をしよう

  • 宮本武蔵 in 高砂(34) 武蔵死す (最終回)

    武蔵死す(最終回)正保2年(1645)年、武蔵は熊本で亡くなりました。その時の様を、寺林峻氏は『双剣の剣客』で次のように書いておられます。きょうのブログは小説です。武蔵の最後は作者(寺林氏)の想像です。高砂の潮風をききながら・・・・「伊織よ、わしを生国播磨(高砂)へ運べ」末期の苦痛が武蔵を攻めているのがはた目にも明らかだった。「はい、父上。小康を得なされば、必ず・・・・」「ならぬ、今すぐだ。虚空に遍満せる真実はの、最後にはそれぞれがの、生まれし大地に伏せて受けとめるものなのだ」途切れとぎれに言うと、「いずこなるぞ、わが生国(高砂)は・・・」立てた右膝に身を預けたまま問う。「播磨国(高砂)はあの方角にございまする」伊織が寅(東北束)の山並みのはるか遠くを指す。武蔵は、一つ小さくうなずき、険しく大きい孤高の眼をその...宮本武蔵in高砂(34)武蔵死す(最終回)

  • 宮本武蔵 in 高砂(33) 宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

    宮本伊織の生誕400年(2012年)式典この記事は、2012年10月21日、泊神社(加古川町)木村で挙行されたときの再掲です。宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典の記事です。10月21日が伊織の誕生日で、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。伊織は明石藩の家老に武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1656年、荒廃する社殿を再建しています。宮本伊織・14代目当主参列式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。優しそうな方でした。なお、その少し前にNH...宮本武蔵in高砂(33)宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

  • コーヒーブレイク 宗佐遺跡(加古川市八幡町)

    今日はコーヒーブレイクです。昨日(27日)、午後1:30より、宗佐遺跡の説明会があり出かけました。この遺跡に関して、神戸新聞の記事がありましたのでお借りしました。宗佐遺跡(加古川市八幡町)兵庫県教育委員会は25日、東播磨道の延伸工事に伴い発掘中の宗佐遺跡(同県加古川市八幡町宗佐)で、弥生時代後期~古墳時代初頭(約1800年前)の竪穴住居跡2棟と、水路とみられる溝が見つかったと発表した。同遺跡の調査は本年度が最終となり、3年間で同時期の住居跡を計14棟確認。いなみ野台地のすそに、まとまった集落があったことが分かった。遺跡は2017年に発見され、3年間で約1万平方メートルを発掘。本年度は、うち3300平方メートルを4~8月に調査している。弥生後期~古墳初頭の住居跡は、直径約7メートルの円形と、約5メートル×約4メー...コーヒーブレイク宗佐遺跡(加古川市八幡町)

  • 宮本武蔵 in 高砂(32) 孤独な武蔵の生涯

    武蔵の年譜の続きとして、もう少し武蔵について続けます。孤独な武蔵の生涯それにしても、武蔵の一生は孤独でした。みずから孤独にのめりこんでいったようなところがあるようです。生涯のほとんどは放浪生活でした。30歳のころから消息不明となり、再び歴史の上に姿を現わすのは28年後の57歳のとき細川家の客分としてむかえられたときです。28年間どこでなにをしていたか謎で、彼かれには世間なみの青春というものがありませんでした。妻もめとっていません。ときおり、彼の見せる冷酷さもこのことと関係があるのかもしれません。武蔵は多芸の人この姿を消した30半ばから彼の生活に変化があり、武芸よりも思索の生活に入っていったようです。詳細は分かりません。武蔵の風貌は、身長5尺8寸(175cm)で力も抜群だったといいます。頭に疔を病んだため月代をそ...宮本武蔵in高砂(32)孤独な武蔵の生涯

  • 宮本武蔵 in 高砂(31) 宮本武蔵の年譜

    宮本武蔵の年譜「宮本武蔵in高砂」では、あまり順序だった記述になっていません。流れがつかみにくいと想像します。ここに、武蔵の年譜を紹介しておきます。整理ください。宮本武蔵の年譜1584年武蔵米田に誕生1588年このころ田原家から新免家(作州大原)に養子に行く1596年初めて、剣客と試合をして勝つ1600年黒田氏に陣借りをして関ヶ原の合戦に参加1604年京都・一乗寺で、吉岡一門との対決このころから、禅・絵画・作庭の研究1612年巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ1617年甥の伊織を養子とするこのころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする明石小笠原家の客分となる1626年養子官本伊織、小笠原家の家臣となる1634年伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる1636年伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵...宮本武蔵in高砂(31)宮本武蔵の年譜

  • 宮本武蔵 in 高砂(30) 武蔵の町割り(明石城)

    武蔵の町割り(明石城)元和3年(1617)11月、幕府は小笠原忠真に命じて瀬戸内海の要所の明石城を築かせました。明石城は、姫路城主本多忠政にも協力させて築かせた城です。その明石城の築城に当たり武蔵が町割りを行ったと伝えられています。数年後に書かれた明石の町年寄の記録には、「・・・元和四年、小笠原忠真様御家士、宮本武蔵といふ人、町割す」とあります。武蔵が小笠原の家士というのは誤っていますが、武蔵が町割りをしたことは、『明石記」や『播磨鑑』等々にも見られるので、何らかの形で町割りに加わったのは事実であろうと思われます。城下の町割りをする者には、軍略的知識のみならず、当地の地形、地勢、地誌を熟知し、その地の有力者と交渉する力も必要となります。ところが、本多家(姫路城主)も小笠原家も播磨の地に移封してきたばかりでした。...宮本武蔵in高砂(30)武蔵の町割り(明石城)

  • 宮本武蔵 in 高砂(29) 武蔵の絵「枯木鳴鵙図」

    武蔵の絵「枯木鳴鵙図」「枯木鳴鵙図」は、鵙が画面の上部の木の枝に高くにています。鋭い眼は、枯枝を這ってくる虫を捉えているだけでなく辺りを圧しています。筆遣いは、枯木は下から「すうっ」と伸び、さらに継いで右へ掻(は)ねています。細い枝が描かれています。右下の空間には、枝と葉がうすく面的に描かれています。上下左右の見事な画面構成で、武蔵の優れた空間感覚を示します。知らなければ、この絵は宮本武蔵が描いた絵とは思われないでしょう。この絵は、まさにプロの絵です。徳川幕府は、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、合戦の世を終息させるや、幕府は一国一城令を出し、藩主の居城を除き、他のすべての城砦の破却を命じました。これは諸大名の軍事力を削ぐための措置でした。続いて「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を公布して、大名を法的に規制し、同時に「禁...宮本武蔵in高砂(29)武蔵の絵「枯木鳴鵙図」

  • 宮本武蔵 in 高砂(28) 宮本造酒之助(三木之助)

    宮本造酒之助(三木之助)武蔵は、伊織の他に養子をとっています。造酒之助(みきのすけ)です。姫路藩主となった本多忠政の嫡男、本多忠刻(ただとき)は剣術を好み、宮本武蔵を七百石で召し抱え、自ら流儀を学び、家士にも学ばせたが、武蔵が暇を申し出たので、武蔵のもう一人の養子造酒之助(三木之助)を取り立て、忠刻は造酒之助から神明二刀滞の奥義を授けられたといいます。この辺りの状況を、小説ですが『双剣の客人(寺林峻著)』を読んでみます。造酒之助(三木之助)の殉死寛永三年(1626)初夏、三木之助(『双剣の客人』では、三木之助を使っています)が剣の指南をしていた本多忠刻が病死したのである。二年ほど前から忠刻は病がちになって剣の修練どころでなくなったので、三木之助は本多家から暇をもらって江戸へ出ていた。そこで、忠刻の死を知ると急ぎ...宮本武蔵in高砂(28)宮本造酒之助(三木之助)

  • 宮本武蔵 in 高砂(27) 養子・伊織は兄の子

    話の筋が前後して申し訳ありません。今まで宮本伊織について説明もなく書いていましたが、少し話を戻し説明をしておきましょう。養子・伊織は兄の子後に、武蔵の養子となる少年伊織も米田に生まれました。家系図に従えば、伊織は、武蔵の実兄・田原久光の第二子です。武蔵は、甥を養子に迎えたことになります。伊織、明石藩に仕え、そして小倉藩に移る妻子のなかった武蔵は、造酒之助の死後、新しい養子をもらいたいと、兄・久光に頼み、伊織を迎えることになりました。先に紹介したように、伊職は、田原本家を継いでいた久光の二男として、慶長17年(1612)に生まれています。15歳で、武蔵の推挙で明石藩主・小笠忠真に仕えました。武蔵は、伊織を養子として迎え、すぐに小笠原家に差しだしたようです。伊織は、忠真の側近として、次第に藩経営に才能を開花させ、弱...宮本武蔵in高砂(27)養子・伊織は兄の子

  • 宮本武蔵 in 高砂(26) 一乗寺下り松の決闘(吉岡一門との決闘)

    一乗寺下り松の決闘(吉岡一門との決闘)京都・洛東、一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)。由緒ありげな地名です。一帯は旧一乗寺跡で、かつて松の巨木が生えていました。これが、下り松です。関ケ原から四年。21歳の武蔵が吉岡一門の剣客集団を一人で打ち破った決闘の地です。吉岡家は、剣道指南に当たり、室町将軍の指南役として「室町兵法所」の看板を許され、都では重きをなしていました。自らも「扶桑(日本)第一」、つまり日本一の剣道家を名乗っていました。室町幕府の滅亡とともに、その威光も衰えましたが、それでもなお、京では多くの門弟を抱える老舗の道場でした。この名家と武蔵が、なぜ対決したのかはっきりとしませんが、それはともかく、武蔵と吉岡との決闘については、武蔵の養子・伊織が残した小倉碑文に刻まれています。決闘のクライマックスは、...宮本武蔵in高砂(26)一乗寺下り松の決闘(吉岡一門との決闘)

  • 宮本武蔵 in 高砂(25) 佐々木小次郎との決闘

    佐々木小次郎との決闘『宮本武蔵(魚住孝至)』(岩波新書)から引用させていただきます。(文体を変えています)・・・・あらためて、佐々木小次郎との決闘を確かな資料を用いて考えたいのですが、『五輪書』にも何も書かれていません。この「巌流島の勝負」の最も古い記録は、武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の没後九年になる承応三年(1654)に、小倉の手向山(たむけやま)に建立した武蔵顕彰碑の文章です。まず勝負が行われたのは、碑文では「長門と豊前との際」の「舟嶋」です。この島は、後に「巌流島」と呼ばれますが、当時長府藩領であったことを考えると、小倉藩の家老が関与し藩の検使が付いたという公式の勝負ではなく、武蔵と小次郎との間の私闘であったと思われます。真剣を以て勝負しようと言った岩流に対して、武蔵は「木刀でよい」とし、舟嶋で勝負をしてい...宮本武蔵in高砂(25)佐々木小次郎との決闘

  • 「ひろかずのブログ」が4.700号になりました

    「ひろかずのブログ」が4.700号になりました「宣言」です!5.000号まで続けま~す16年前に退職しました。それまで、退職後のことはあまり考えませんでした。忙しさのためです。とりあえず、退職後、ある大学で2年間、英語を勉強しました。その時の修士論文を少し修正し、編集した冊子が『AHistoryofKakogawaCity』(英語で読む加古川の歴史)です。問題は、その後でした。次に、することを考えなければなりません。時間は、たっぷりあります。地域を散策して、感想をブログで配信することにしました。その内に、在職中の残骸があり、話題がだんだん歴史(地域史)に焦点化してきました。その後「ひろかずのブログ」は大きな事故もなく続き、きょうで4700号になりました。こんな作業をしながら集めた記事の一部をまとめたのが『加古川...「ひろかずのブログ」が4.700号になりました

  • 明日(18日・木)のBAN‐BANラジオをどうぞ

    明日のBAN‐BANラジオをどうぞ明日(18日・木)、BAN-BANラジオで谷五郎さんと竹内明美さんと私で『加古川さんぽ』について話し合いが放送されます。以前にも冊子を何冊か出したことがありますが、こんなにも反響があったのは初めてでビックリしています。お時間がありましたらお聞きください。≪放送日時≫番組名:はりま~るラジオ7月18日(木)19:00~19:30(再放送)20日(土)9:00~9:30なお明日のブログ(宮本武蔵in高砂)は都合でお休みとします。(no4699)明日(18日・木)のBAN‐BANラジオをどうぞ

  • 宮本武蔵 in 高砂(24) 最初の決闘

    武蔵の決闘(1)最初の決闘武蔵は、『五輪書』に、生涯「60年ほど勝負(決闘)するとも、一度も負けたことはない」、と誇っています。ここで、武蔵の決闘を2、3を見ておきます。今回は、武蔵の最初の決闘です。下記は武蔵の年譜の一部です。1584年武蔵米田に誕生1588年このころ田原家から新免家(作州大原)に養子に行く1595年初めて、剣客と試合をして勝つ有馬喜兵衛との決闘(『佐用郡誌』より)初めての決闘は、武蔵の言葉によれば1595年に13才の時でした。闘いのあらましは、有馬喜兵衛の他流試合を誘う挑発的な高札に、武蔵が「明日、試合を受けて立つ」と墨書して立ち去りました。武蔵は、相当の悪ガキであったようです。武蔵を預かっていた寺の住職がそれを知り、驚き慌てて「子どものいたずら」と有馬側に詫びを入れました。有馬側は、納得し...宮本武蔵in高砂(24)最初の決闘

  • 宮本武蔵 in 高砂(24) 独行道の碑

    独行道の碑「五輪書」を書き終えたとき、武蔵は死を覚悟していました。洞窟(霊巌洞)に引きこもったまま、最後を迎えるつもりでした。武蔵のガンは進行していました。いかに、武蔵の意志であるとはいえ、周囲の者は放置できません。ようやく、鷹狩と称して胴窟を訪れた旧知の盟友が、帰宅を促し、居宅に連れ戻しました。正保二年(1645)、春も暮れようとするころでした。その年の五月、武蔵は身辺整理を始めました。高弟の寺尾孫之に「五輪書」を、その弟・求馬助信行には「兵法三十五箇条」を与えました。求馬助は、師の最後をみとるべく、側に付き添っていました。その求馬助に、武蔵は筆を所望し、流麗な筆致で、一紙に以下、21ヵ条を書きました。武蔵が自分の短所を克服するために自戒の事柄だといわれています。米田天神社の近くの「武蔵生誕地碑」がある同じ敷...宮本武蔵in高砂(24)独行道の碑

  • 宮本武蔵 in 高砂(23) 桶居山の伝承

    桶居山の伝承旧山陽道を少し西へゆきましょう。姫路市別所町佐土新に桶居山がそびえています。桶居山(写真)は、姫路市と高砂市との境に位置する山で、標高は247.6㍍の山塊です。山名は、岩が大きな升の形をして見えることからつけられたようです。宝暦12年(1762)の頃に成立したとされる『播磨鑑(はりまかがみ)』には、桶居山の項目に「宮本武蔵修業説」が紹介されています。桶居山で武蔵が天狗に兵法を習ったというのは創作でしょうが、山塊の形相はそんな雰囲気を醸し出しています。『播磨鑑』にこの話があるということは、地元では宮本武蔵高砂説が当然のごとく広がっていたようです。桶居山へ出かけました。暑い日でした。桶居山は心なしか白くかすんで見えるほどでした。『双剣の客人』で寺林峻氏は、桶居山の宮本武蔵修業説を取り入れ、次のように書い...宮本武蔵in高砂(23)桶居山の伝承

  • 宮本武蔵 in 高砂(22) 観月碑

    観月碑米田村の風景は、武蔵の時代と風景は、ずいぶん変わってしまいました。が、観月碑から当時の風景を偲んでみましょう。江戸時代、米田本村と米田新村(米新村)の間に、月見の名所といわれ俳諧を楽しむ人々で賑わった堤防も、洗川の流れの変更にともなって消えてしまった。これら周辺にあった石造物は米田橋西の路傍に集められています。・・・「観月碑」は、幕末の頃、俳諧仲間の集いや往来の人々の休憩所として活用された“観月亭”と伝えられるところに建てられた句碑・歌碑です。観月亭は、文化年間(1804-1817)に、砂部村の俳人・喜多順庵が、米田村神宮寺の住職(栗本玉屑)や松岡青蘿と相談し、加古川の川面に月が映える景勝地に建てたと言われます。場所は、加古川の旧流・洗川の堤に建てられたのですが、現在の「観月碑」はこの場所から移転されてい...宮本武蔵in高砂(22)観月碑

  • 宮本武蔵 in 高砂(21) 五輪之庭

    五輪之庭仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。五輪塔は、「地・水・火・風・空」の世界(当時の宇宙観)をかたどったものです。『五輪書』は、宮本武蔵が著した一書ですが、たんなる武術の指南書や奥義書ではありません。人間の真実、人生の真実をも解きあかした思想書といわれます。その概要は、「地之巻」では兵法をあらわし、「水之巻」では二天一流の太刀筋、「火之巻」では戦いの理を、「風之巻」には他流の批判を述べ、「空之巻」は結論となっており、ここに表れている武蔵の思想には、他の兵法者(書)とは著しく異なっています。そこで、米田町西光寺の庭に「五輪之庭」をテーマにした作庭が試みられました。仏教でいう五輪にちなみ、かつ武蔵の著した『五輪書...宮本武蔵in高砂(21)五輪之庭

  • 宮本武蔵 in 高砂(20) 神宮寺

    神宮寺(じんぐうじ)神宮寺は米田天神社に隣接する米田第一公民館の東隣にある寺院です。神仏混淆のあらわれとして、もとは米田天神社の付属寺院でしたが、明治以降の神仏分離によって独立しました。宮本伊織は、天神杜、神宮寺ともども崇敬しており、天神社修復の時に、「三十六歌仙額」等を寄進しました。伊織、神宮寺に鰐口(わにぐち)を寄進神宮寺には別に鰐口(写真)を寄進しています。鰐口は、参詣の際に本殿前で綱を振り動かして打ち鳴らします。お賽銭等をする前に「がらん・がらん」と鳴らすのでおなじみの音響具です。寄進された鰐口は、三重の円が刻まれており、その外円に「正保三年(1646)」「宮本伊織藤原朝臣貞次敬白の銘があります。鰐口を寄進することでねんごろな供養ができるとされますが、伊織が、銘文どおり正保三年(1646)にこれを寄進し...宮本武蔵in高砂(20)神宮寺

  • 谷五郎さん、『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介

    谷五郎さん、『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介先週、バンバンラジオで谷五郎さんとお話しください。という電話がありあした。おそるおそるOKしましたが、こんな経験はないので少し心配でした。きのう(10日)、5時からバンバンラジオ『はりま~るラジオ』の録音がありました。進行は、谷五郎さんと竹内明美さんです。私は、歯が抜けて発音がはっきりせずドキドキしていたんですが、お二人はさすがプロですね気持ち良い雰囲気を作っていただき、何とか終わりました。内容は、先日出版した『加古川さんぽ』と「加古川の歴史」についてでした。番組名は、「谷五郎のはりまーるラジオ」で、番組名・放送日・放送時間は下記のようです。7月18日(木)、19:00~20日(土)9:00~エフエムみっきぃ7月19日(金)13:00~・21:00~20日(土)...谷五郎さん、『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介

  • 宮本武蔵 in 高砂(19) 米田天神社

    このあたりでひと休みして、もう少し武蔵の故郷米田(高砂市米田町)を歩いてみましょう。米田に武蔵の影を捜してみます。米田天神社は子供の頃の武蔵の、絶好の遊び場であったのでしょう。米田天神社(米田)天神社は、米田(「武蔵・伊織の里」)の中心にあります。先に説明した加古川を挟んで隣接する泊神社(加古川市加古川町木村)の末社です。泊神社は、加古川東岸の木村、加古川などのほか、同西岸の今市、中島、そして米田など合わせて17か村の氏神で、末社が米田にあり、それが米田天神社です。江戸の初期、17世紀半ばには泊神の本社、末社とも随分荒れ果てていました。武蔵の養子・伊織が、その荒廃を憂えて、承応二年(1653)、泊神社を再建し、同時にその旧杜殿を移転ずる形で天神杜の再建も行っています。伊織にしてみれば、養父と自分の出生地である米...宮本武蔵in高砂(19)米田天神社

  • 宮本武蔵 in 高砂(18) 武蔵の生きた時代

    武蔵の生きた時代伊織・武蔵は、出自を明名言していません。播磨関係の他の資料でも確認できません。この他に材料はないので、伊織の直系の伝承に従って、武蔵が系図の通り田原家貞の次男であることにしておきます。こう見る方が、後述するように当時の時代背景にも合っており、自然なためです。播磨では、武蔵が生まれる直前の天正6年(1278)から8年にかけて、中央から進出してきた織田信長方と中国の雄・毛利方とに分かれた合戦が行われ、信長から派遺された羽柴秀吉の軍と戦って敗れた武士が数多くいました。織田方は次の安芸(あき)を本拠とする毛利家との決戦を控えていたため、播磨では他の地でのような鞍滅(せんめつ)・掃討を行わなかったのでしょう。敗れてもそのままその地の土豪として残った武士が多くいました。田原家も、その一つであったと思われます...宮本武蔵in高砂(18)武蔵の生きた時代

  • 宮本武蔵 in 高砂(17) 武蔵の生年

    武蔵の生年宮本武蔵は、天正12年158(1584)生まれというのが通説です。生年をこの年とするのは、『五輪書』の冒頭に「年つもって六十」と書いてあるので、武蔵が筆を起こした寛永20年(1643)を60歳とし、数え年で逆算して割り出したものです。これに対し、武蔵の養子である宮本伊織の直系に伝わる「宮本家系図」は、武蔵の没年を「天正10年生、享年64」と明記しています。武蔵の父である家貞の没年については、天正八年の播磨合戦(後述)の時の籠城者リスト(『図説三木戦記』「東西両軍将士名録」)の中に「田原甚右衛門家貞」の名があることが発見されたことから、父はこの時点までは生きていたらしいのです。復習です。伊織は、田原家の始祖は播磨の名門赤松氏一族である持貞で、応永年中に米堕(米田)村にあり、田原に改称しました。持貞は実際...宮本武蔵in高砂(17)武蔵の生年

  • 宮本武蔵 in 高砂(16) 宮本伊織奉納の棟札(1)

    宮本伊織奉納の棟札(1)棟札に武蔵の出自を書くすでに紹介した吉川英治の小説『宮本武蔵』は、大好評をはくしました。吉川英治は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」として物語を展開しています。そのため、武蔵は作州人だと信じられてしまいました。近年、この説に異議が唱えられています。「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説です。その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)の宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札(写真)の発見です。棟札について、少し説明を加えながら紹介します。・・・・武蔵は赤松一族の出身です。武蔵誕生は、250年ほど前のことです。赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまいました。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になりました。そして、姓も田原に変え、地侍と...宮本武蔵in高砂(16)宮本伊織奉納の棟札(1)

  • 宮本武蔵 in 高砂(15) 泊神社(加古川町木村)

    伊織奉納の「泊神社の棟札」説明の前に、泊神社の説明をもうすこしておきましょう。泊神社(木村神社)『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。かなりの大社であったようです。*神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。泊神社の氏子に注目します。泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田村、そして米田村など加古川右岸(西側)一帯に広がっていました。前号で紹介したように、木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。泊神社(木村)は、もともと加古川の西岸(西岸)にあった集落でした。「泊」は港(水門・みなと)を意味します。『日本書...宮本武蔵in高砂(15)泊神社(加古川町木村)

  • 宮本武蔵 in 高砂(14) 泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村

    米田と木村(加古川町)「米田町の米田天神がなぜ、川東の泊神社(加古川町木村)の末社であるのか」と不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。また、その泊神社から伊織(武蔵の養子)が寄進した武蔵が赤松家の流れをくむ田原家の出身であることを明記した棟札が発見されました。また、泊神社と棟札のことを知る前に、少し米田と泊神社のことを少し述べておきましょう。泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村上記の地図は「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、米田村近辺の解読図です。地図の点線の西部は印南郡で東部は加古郡です。その昔、郡境が決められた奈良時代、ここを加古川の本流が流れ、両郡の境になっていたのでしょう。が、なにせ加古川は洪水の多い暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし流路を変えています。(この元禄播磨図絵の時代も現在の加古川...宮本武蔵in高砂(14)泊神社のある木村と米田村は陸つづきの村

  • 宮本武蔵 in 高砂(13) 宮本武蔵誕生の地・『高砂市史』より

    米田は宮本武蔵誕生の地・『高砂市史』より『高砂市史(二巻)・近世』から、武蔵の主要な生誕地を紹介しておきましょう。・生国は播磨(『五輪書』)まず、唯一、武蔵が著したとされる兵法書である『五輪書』には、はっきりと「生国播磨」と書いています。・太子町宮本村次に、18世紀中頃に宮本伊織の出生地に隣接する平津村の平野庸脩(つうさい)が編んだ『播磨鑑(はりまかがみ)』があります。ここには、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也」と明記しています。この宮本村は、現在の揖保郡太子町宮本村です。ただし、『播磨鑑』には、もうひとつ佐用郡平福の説があるとしているが、その内容はありません。・生国は播磨(『二天記』・豊田景英)そして、安永五年(1776)に豊田景英が著した『二天記』があります。新免玄信すなわち宮本武蔵の伝記である同書に...宮本武蔵in高砂(13)宮本武蔵誕生の地・『高砂市史』より

  • 宮本武蔵 in 高砂(12) 手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む

    武蔵の生誕地にこだわっています。きょうは、高砂を少し離れ、手向山の武蔵顕彰碑により、高砂生誕地説を確かめましょう。手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む写真は、北九州市小倉区手向山(たむけやま)にある「宮本武蔵顕彰碑」です。この碑は、武蔵の死後9年目の承応3年(1654)伊織が建てたもので、碑文には「兵法天下無雙播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士碑」とあります。新免武蔵は、播磨の赤松氏の子孫で、二天と号したというのです。この碑文には、武蔵が父・新免無二から十手術を学んだこと、13歳の時、有馬喜兵衛と初めて試合をして勝ったこと、佐々木巌流(小次郎のこと)と船島で対戦したこと、など生涯の戦いを記録しています。最後に、伊織は、武蔵の偉業を後世に伝えるために、この碑を立てたと結んでいます。やはり、武蔵は高砂生まれこの...宮本武蔵in高砂(12)手向山(北九州市小倉区)の武蔵顕彰碑を読む

  • 宮本武蔵 in 高砂(11) 武蔵ワールド

    武蔵ワールドをお訪ねくださいこのブログでは、しばらく宮本武蔵と伊織と関連場所が登場します。すでに「田原(武蔵)家屋敷跡」と「武蔵生誕の碑」を紹介しました。今後、*武蔵の菩提寺(西光寺)・*米田天神社・*神宮寺がしばしば登場します。(それら*印の場所については後日詳しく説明します)なお、その時は、この地図で場所をお確かめ下さい。まさに、武蔵ワールドです。お時間がある時に、下の地図を片手にそれらの場所をお訪ねください。次の地図は『第23回武蔵・伊織まつり』からお借りしています。(no4684)宮本武蔵in高砂(11)武蔵ワールド

  • 宮本武蔵 in 高砂(10) 武蔵生誕の碑(2)・生誕高砂説

    武蔵生誕の碑(2)細川護貞氏が高砂説かねがね計画されていた「宮本武蔵・伊織生誕地碑」が完成し、(平成2年)6月3日に除幕式がおこなわれた。この碑は宝殿石を用いて作られ、重さ、約100トン、日本で一番大きなものではないかといわれる。細川護貞氏の見解題字は細川家当主、細川護貞氏によるもので、「自分は幼い頃から、武蔵は米田生まれと聞かされていた。しかし成人すると、武蔵は作洲生まれといわれていて、どちらが本当だろうと思っていたが、現在は米田生まれが史実であると考えている。父が作州の生誕碑の題字を書いたが、自分は父の誤りを正すために高砂、米田の生誕地碑の題字を書いた」という意味のことを述べられている。宮本武蔵一族会も高砂・米田説なお、「宮本武蔵in高砂(6)」で紹介した「田原家・宮本家父祖の地」の藩主の子孫碑文は宮本家1...宮本武蔵in高砂(10)武蔵生誕の碑(2)・生誕高砂説

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