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  • 宮本武蔵 in 高砂(9) 武蔵生誕の碑(1)・スケールは日本一

    武蔵生誕の碑(1)スケールは日本一(以下の記事は神戸新聞よりの転載)「武蔵誕生の地」のシンボルにと、宮本武蔵誕生説を唱える高砂市の武蔵・伊織顕彰会(松下歳和会長)が造った「生誕の碑」の設置作業が完了。(平成2年)6月3日に除幕式が行われる。同顕彰会では記念テレフォンカードの作製にも取りかかったほか、記念誌の発行も予定している。碑の設置作業は同市米田町米田の武蔵の生家と言われる田原家の生家と言われる田原家の土地で進められた。碑は縦2.5㍍、幅7㍍、奥行き1.5㍍で、重さも100トンと石碑では「日本一」(同顕彰会)というスケールの大きさが特徴。市内の採石場で、宝殿石を用いて造られ4月下旬に設置場所へ運び込まれた。以来、重心の安定を図ったり、汚れを落として碑に磨きをかけたりと、懸命の作業が続けられた。武蔵は作州(岡山...宮本武蔵in高砂(9)武蔵生誕の碑(1)・スケールは日本一

  • 宮本武蔵 in 高砂(8) 田原家(宮本武蔵生家跡)(2)

    田原家屋敷跡(2)「田原家跡」の場所ですが、西谷酒造の看板のあるすぐ横の道(歩道)を北へ100㍍ほど行った所です。歩道に沿ってあるので、すぐわかります。先日、暑い日の昼ごろ、この場所へでかけました。「米田の庄屋・田原家の屋敷跡」のイメージを描いて出かけたのですが、みごとに裏切られました。車の多い、南北の広い道沿で、屋敷跡は狭い空き地に無機質な「田原屋敷跡の碑」があるだけでした。クスノキは残った田原家屋敷は、この碑の南北に向かって広がっていたといいます。この辺りを見渡すと酒造会社の一角に大きなクスノキ(写真)が聳えています。最近まで、もう一本のクスノキが残っていたのですが、道路拡張に伴い切られてしましました。このクスノキは、樹齢700年といいますから、武蔵が生まれた頃でも300年をへていたわけで、武蔵も、伊織もこ...宮本武蔵in高砂(8)田原家(宮本武蔵生家跡)(2)

  • 宮本武蔵 in 高砂(7) 田原家(宮本武蔵生家)屋敷跡(1)

    田原家(宮本武蔵生家)屋敷跡(1)宮本武蔵の生家を探しに出かけました。暑い日でした。庭の掃除をしておられたお婆さんに聞くと、碑がありすぐに見つかりました。この碑について、1999年(平成11年)の神戸新聞は、次のように紹介しています。お借りします。田原家跡(宮本武蔵の生家跡)の碑江戸時代の剣豪・宮本武蔵とその養子伊織の高砂生誕説をPRしている武蔵・伊織顕彰会(松下歳和会長)はこのほど、武蔵の生家される「田原家」の屋敷があった同市米田町に碑を建てた。30日(1999年5月〉に開く「第13回武蔵・伊織まつり」で除幕式を行う。武蔵の生誕地は、吉川英治の小説などにより岡山県大原町とされてきた。しかし、最近の研究では、播磨で生まれ、幼いときに大原に養子に出されとする説が有力視されている。顕彰会の説明によると、北九州の宮本...宮本武蔵in高砂(7)田原家(宮本武蔵生家)屋敷跡(1)

  • 宮本武蔵 in 高砂(6) 赤松、田原、そして宮本へ

    赤松、田原、そして宮本へ田原と宮本の関係をのべておきましょう。話は、武蔵生誕から250年ほど昔にさかのぼります。そのころ、播磨全域に、強大な勢力を幾っていたのは豪族・赤松則村(円心)でした。円心には、四人の男子があり、その二男、赤松貞範が、田原家の祖とされています。赤松本家は、三男の則祐(そくゆう)が跡を継ぎ、貞範は、京都で別流をたてました。その貞範の孫に持貞という子がおり、室町幕府四代将軍足利義持の寵愛を受けるようになりました。義持は、播磨を、持貞に与えようとさえするほど持貞を溺愛しました。ところが、その持貞が、あろうことか、将車義持の側室に手を出してしまい、ことが発覚してしまいました。義持は激怒し、持貞に切腹を命じて、嫡男の家貞ら一族を京から追放してしまいます。応永4年(1427)のことでした。その追放先が...宮本武蔵in高砂(6)赤松、田原、そして宮本へ

  • 宮本武蔵 in 高砂(5) 武蔵の生国は播磨 『五輪書』にはっきりと

    武蔵の生国は播磨『五輪書』にはっきりと武蔵が美濃紙に書いた直筆の五輪書は焼失し、今伝わるのは、弟子たちが写したものです。この序文は、武蔵が直接書いたものではなく、武蔵が生前口にしていたことを後に、写本する際に再整理したという見方もあります。しかし、そうであったとして、まちがった内容を纏めているとは思われません。彼の生国は、播磨なのです。作州ではありません。ガンで死を目の前にして、生国についてウソを後世に伝える理由はありません。つまり、播磨生まれで、これを書き始めた寛永二十年(1643)に60歳だったといいます。ガンに冒されながらも、知力、気力を振り絞っての執筆でした。武蔵は、肉体と思考力の限界に挑んでいました。足掛け二年。およそ三万二千字に及ぶ武蔵の五輪書は、完成しました。この五輪書については後にも再度紹介する...宮本武蔵in高砂(5)武蔵の生国は播磨『五輪書』にはっきりと

  • 宮本武蔵 in 高砂(4) 歴史と小説

    宮本武蔵、作州大原誕生説米田について少しだけ紹介しました。でも、「ここ米田に(現在の高砂市)に天正12年(1584)年武蔵は生まれた」と紹介しても、武蔵高砂生誕説を主張する地元(高砂)はともかく、全国的には、すんなりと認めてもらえません。「宮本武蔵の生誕地は、作州(岡山県)大原村のはずである。寝ぼけたことを言うな・・・」とお叱り声が全国から聞こえてきそうです。その原因は、吉川英治の小説『宮本武蔵』です。歴史と小説吉川英治の小説、『宮本武蔵』は、昭和10年から朝日新聞に連載され始めました。この作品は全国の読者を魅了し、超ベストセラーとなりました。剣豪・宮本武蔵が、一点の謎もないかのように、描かれ物語そのものが史実であるかのような錯覚を読者に与えてしまったのです。吉川英治は、ストーリーの面白さに加え、剣豪の苦悩と成...宮本武蔵in高砂(4)歴史と小説

  • 宮本武蔵 in 高砂(3) 加古川大氾濫(応永32年・1425)

    加古川大氾濫(応永32年・1425)中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしません。というのは、ほとんど史料が残っていないからです。そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場します。『鎮増私聞書』は、『室町お坊さん物語(講談社現代新書)』に登場していますので、その一部を以下に引用します。・・・その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。・・・・加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。私(鎮増...宮本武蔵in高砂(3)加古川大氾濫(応永32年・1425)

  • 宮本武蔵 in 高砂(2) 米墮(よねだ)の伝承

    宮本武蔵の話をしましょう。武蔵は、現在の高砂市米田町(よねだちょう)に生まれました。そこで、宮本武蔵の話の前に、米田につて調べてみます。今日は、米田の伝承です。米墮(よねだ)の伝承大化元年(645)、船師の藤井という人が、年貢の米を船に積んで航海していました。その時、法華山一乗寺(いちじょうじ・今の加西市)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばして米を欲しいと申し入れました。藤井は、「自分だけの了見で米を渡すことができない」と断わったところ、鉢はふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米も法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。藤井は、驚いてあやまりに行きました。法道仙人が笑って許すと、米はもとのように連なって船へ飛んで帰りました。その米俵のうち一俵がこの地に落ちたことから米墮(よねだ)と...宮本武蔵in高砂(2)米墮(よねだ)の伝承

  • 宮本武蔵 in 高砂市(1)「宮本武蔵 in 高砂市」をはじめます

    お詫び予定を変更し、「宮本武蔵in高砂市」をはじめます現在「ひろかずのブログ」は、加古川市・高砂市・播磨町・稲美町ざっと探訪し、4674号になりました。はじめてから10年以上たったので2回目の探訪を播磨町から再度始めることにして、前号では、「播磨町をゆく・二子編」を予定しました。そこで、すでに紹介した播磨編を調べてみました。まだまだ紹介していないことはあるのですが、けっこう書いています。そこで、お詫びです。急遽予定を変更して「宮本武蔵in高砂市(米田町)」に変更することにします。計画性のないことで申し訳ありませんが、ご了解ください。(no4674)*写真:宮本武蔵と伊織(高砂市米田町西光寺)宮本武蔵in高砂市(1)「宮本武蔵in高砂市」をはじめます

  • 播磨町をゆく(8) 播磨町二子(1)・マップ

    播磨町をゆく(8)播磨町二子(1)・マップ「ひろかずのブログ」では、いろんなことを無秩序に紹介してきました。お読みいただいている方にとって、「少し、しんどなってきたな・・・」と思われていることでしょう。たいした内容は書いていませんので、お疲れの時は飛ばしてお読みください。それにもう一つお詫び(白状)しておかなければならないことがあります。加古川市・高砂市・稲美町・播磨町の地域の歴史・地理といいながら、高砂市の西部および播磨町については非常に内容が薄くなっています。これは、私があまり知らないからです。これから、できるだけ播磨町(特に東部)・高砂市西部地域の歴史・地理を調べることにします。先日、東播磨地域の古民家の保存・研究をされている団体(兵庫ヘリテージ東播磨)の方から、小冊子「播磨町町歩きマップ」をいただきまし...播磨町をゆく(8)播磨町二子(1)・マップ

  • 別府町をゆく(33) 別府町の写真集(一部)を終了

    別府町の写真集(一部)を終了別府町にお住いの呉田(ごでん)利明さんから懐かしい、貴重な写真の提供をいただきました。今では、想像さえできない別府町の写真がいっぱいです。「ひろかずのブログ」では、その一部を紹介させていただきました。ありがとうございました。まだ多くの紹介したい写真がありますが、今まで紹介した写真を一部として、後日第2部を掲載することにします。貴重な写真を保存しましょう他の地区でも、このような写真が多く眠っていると思います。そして、その多くが処分されているようです。まとまった数でなくとも、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町で、残っているそんな写真をお知らせください。残していきたいです。貴重な歴史の証言です。(no4672)*きょうの写真はいずれも昭和42年の写真です。写真:冬、海水浴場の休憩所で遊ぶ子供...別府町をゆく(33)別府町の写真集(一部)を終了

  • 別府町をゆく(32) 別府町大改造(2)・道路整備

    別府町大改造(2)加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められています。この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円で着工されました。神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。以上は前号で紹介した別府町の改造計画の一部です。きょうのブログの図は、別府町の一部の改造計画です。道路整備が中心に計画が進められています。(no4671)別府町をゆく(32)別府町大改造(2)・道路整備

  • 別府町をゆく(31) 別府町大改造(1)

    別府町大改造(1)加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められています。この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円で着工されました。神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。北側は、山陽電鉄路線沿いに600㍍、南側は西へ別府港から約1キロに囲まれた、総面積は96万平方キロメートルの広大な改造計画です。計画では同地区の西部を住宅地区、中心部を商業地区、南部を工場地帯に、それぞれ大別されました。工場進出に伴う道路網は、「東西に池田~別府港線(幅20㍍)を新設、浜国道を幅6.5メートルから10メートルに広げる。また、南北には新しい幅16メートルを新設し、現神野別府港線を幅6メートルから16...別府町をゆく(31)別府町大改造(1)

  • 別府町をゆく(30) そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

    そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。モータリゼーション...別府町をゆく(30)そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

  • 円照寺の花たち(204) 円照寺のアジサイ

    しばらく『加古川さんぽ』の注文・発送の事務で忙しく、「ひろかずのブログ」をおやすみにしていましたが、少し落ち着きました。明日から、ブログを続けますが、きょうの神戸新聞に円照寺のアジサイが紹介されていましたので、「円照寺の花たち」の続きとして掲載させていただきます。(以下、今日の神戸新聞朝刊より)アジサイ色とりどり〝花の寺〟で見ごろ加古川花の寺として知られる円照寺(兵庫県加古川市志方町広尾)で、アジサイ約300株が見頃を迎えた。約1千平方メートルの境内を青やピンク、純白に彩っており、7月上旬まで楽しめるという。上月義宗住職(72)が20年ほど前から育て、少しずつ株を増やしてきた。今年は例年より5日ほど早く咲き始めた。真っ白な「アナベル」や、八重咲きで手まりのような「万華鏡」、星の形をした「きらきら星」、華やかなガ...円照寺の花たち(204)円照寺のアジサイ

  • 「ひろかずのブログ」は、16日(日曜)まで休刊

    お詫び「ひろかずのブログ」は16日(日曜)まで休刊です6月5日に『加古川さんぽ(市内各町の歴史散策)』が新聞で大きく掲載されました。いらい、たくさんの電話をいただきました。思いがけない連日のたくさんの電話でした。そのため、申し込みの受け付け、発送(市内は原則配達)のため、いそがしくなり、「ひろかずのブログ」が、できない状態になってしまいました。このしばらく休んでいます。この状態は今週でおさまると思います。申し訳ありませんが、「ひろかずのブログ」は、次の日曜日(16日)まで休刊とさせていただきます。ご了解ください。よろしくお願いします。*なお、この本の購入希望は、自宅☏079-490-4641へお願いします。「ひろかずのブログ」は、16日(日曜)まで休刊

  • 別府町をゆく(29) 別府港の風景(昭和32年)

    写真は、昭和32年の別府港の風景です。(no4666)*写真:呉田利明氏提供別府町をゆく(29)別府港の風景(昭和32年)

  • 別府町をゆく(28) 浜の風景(12)、金沢新田(2)

    浜の風景(12)・金沢新田(2)金沢新田の復習です。金沢新田は、今の市場町(小野市)の近藤亀蔵をスポンサーに、開発願主は、金沢九郎兵衛で「金沢新田」は完成しました。今から170年ほど以前のことです。金沢家(東神吉町砂部)に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少しています。これは、一部のか所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。そのためか、天保11年から5ヵ年の年貢の減免が許されています。安政5年(1858)にも同様の措置がとられました。新田経営は、順調に進んだとはいえないようです。20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記さ...別府町をゆく(28)浜の風景(12)、金沢新田(2)

  • 神戸新聞で、加古川市内各町の歴史紹介

    きょうの神戸新聞の朝刊で『加古川さんぽ(市内各町の歴史散策)』が、大きく掲載されました。ご覧ください。きょうのブログは、神戸新聞からの臨時号です。(以下、神戸新聞より転載)加古川市内各町の歴史紹介郷土史・飯沼さんが本出版兵庫県加古川市の郷土史家、飯沼博一さん(75)が、地域の歴史を紹介する「加古川さんぽ市内各町の歴史散策」上下巻を出版した。縄文時代から昭和までの各地の歴史上のエピソードを分かりやすい文章で紹介。写真やイラストもふんだんに使っており、飯沼さんは「中学生や高校生にも地元の歴史がこんなに面白いんだ、と知ってもらいたい」と話す。(小森有喜)飯沼さんは同市志方町出身。市内の中学校で社会科教諭として勤務し、定年退職後から地史の研究に没頭。文献や古文書を読み、東播地域の各地を訪問し取材を続ける。ネット上では「...神戸新聞で、加古川市内各町の歴史紹介

  • 別府町をゆく(27) 浜の風景(11)・金沢新田跡

    浜の風景(11)・金沢新田金沢新田、金沢町の話をしておきます。前号の写真と合わせご覧くださいこの地(写真)にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛でした。金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。この時の新田は84町4反21畝でした。開墾費用は、銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛にそんな金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。少し余話です。・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫というところがあります。現在の小野市市場町です。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門...別府町をゆく(27)浜の風景(11)・金沢新田跡

  • 別府町をゆく(26) 浜の風景(10)、浜側から見る別府町の風景

    浜側から見る別府の町金沢新田の風景です。遠景に4本の煙突がみえます。多木製肥所の煙突です。その場所は、現在イトーヨーカ堂となっています。ですからこの写真の場所は大体のお分かりになると思います。もちろん、この新田に現在、神戸製鋼所が建設されています。ずいぶん変わってしまいました。(no4662)*写真:呉田利明氏提供(浜側から見る昭和32年の別府町の風景)別府町をゆく(26)浜の風景(10)、浜側から見る別府町の風景

  • 別府町をゆく(25) 浜の風景(9)、別府の浜

    浜の風景(9)別府の浜今週は、「別府町をゆく」にもどります。別府は潮風の町でした。浜の風景が思い出されます。そして、貝を採った思い出が忘れられません。写真は、昭和32年に撮られた写真です。年配の方は青春と重なる風景です.(no4661)*写真:呉田利明氏提供。別府町をゆく(25)浜の風景(9)、別府の浜

  • 季節限定の風景 亀の井(用水)堰

    今日から6月。話題を「別府町をゆく」に戻る予定でしたが、昨日、期間限定の「亀の井堰」を見学に出かけました。コヒーブレイクとして紹介しておきます。「別府町をゆく」は日曜日から掲載します。亀の井(用水)堰国包(くにかね・加古川市上荘町)は、5日も日照が続くと、ツルベで朝夕灌漑をしなければならず、他の村から嫁入りが嫌われていたといいます。そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門が美嚢川(みのがわ・三木市)が加古川に出る手前から、国包村、船町それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するために堰をつくりました。井堰の構造が割石を亀の背中のように丸く積み上げたことから、堰は「亀の井堰」、用水は「亀の井用水」と呼ばれました。現在、石組はなくなり、写真のようにコンクリートの堰に変わっています。取水方法も変わった。強力な...季節限定の風景亀の井(用水)堰

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