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2014/11/01

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  • 幻影

    母は<せん妄>の症状が現れたが、別に<認知症>との診断を受けた訳ではない。 そもそも<せん妄>とは、身体的に負担が掛かった時や、急な環境の変化に伴う 一時的な意識の混乱を指すし、母も入院をきっかけに症状が現れた。 実際、過去の記憶も維持されているし、人の顔や文字の認識も問題はない。 にも関わらず、数字や日付の感覚だけが一向に改善されない、というのは、 何とも解せぬ話という状況。 そんな具合の続く平成27年秋、特段の大きな異変もなく一日が終わり、 ベッド横の小さな照明一つだけが灯されている就寝前のひと時、薄暗い 部屋の隅を見つめた母が「衝立の後ろにいるのはトヨちゃんかい?」と 私に尋ねた。 ぎょっとした。 「トヨちゃん」とは、十年程も前に他界した母の姉の名である、 「おばさんが居るの?」と私は聞き返す。 「トヨちゃんではないの?」と母は繰り返す。 部屋を明るくし、もう一度確かめると、何事もなかったかのように 「居ないようだねえ」と言うと、また、何事もなかったかのように、 そのまま普段通り、眠りつく母であった。 レビー小体型認知症。パーキンソン病患者の脳には <レビー小体>という 蛋白質の塊が蓄積され、それが幻覚症状を引き起こすことがあるのだそう。 アルツハイマー型認知症のような記憶障害は、目立ってないが、現時点で 根本的な治療法が確立されていないことには違いがない。 そうとも思わぬ私は、中々に不気味な一夜を一人過ごす羽目になったのだが、 程なくし、床を走るネズミや、部屋の中を飛び去る鳥などの出没が相次いで、 その症状が現れていたと知ることとなった。

  • 失敗

    訪問リハビリは当初、週一回の日程で始まった訳だが、週二回へと増やされ、 訪問看護と合わせ、週三回の訪問を受けることとなる。そして、その効果は 着実に表れ始め、手添えでの歩行訓練も叶うようになっていった。 それまでの母は、ベッド外の生活行為全てに介助が必要だった。病院へは ベッドで着替えを済まし、そこから抱き上げて車まで運ぶし、入浴もまた、 ベッドで脱衣させ、そのまま抱き上げで浴槽まで運び、湯に浸していた。 排泄に関しては介護用オムツの常用し、ベッド脇にポータブルトイレの設置となる。 やはり、事後の始末のこともあり、排便だけは必ずポータブルトイレを使うのだが、 足の痛みのため、その移動すら私は介助を求められていた。 リハビリデイ体験利用から約二年、その時点では杖での自力移動が叶っていたのだ。 それに対し、手添えで支えられ、慎重に一歩一歩、歩みの感覚を取り戻そうとする 母の姿は何とも弱々しく、この二年の時間の重さを思わずにはいられなかった。 母自身、自分が足手まといな存在になっているという切実な意識がある。そんな中、 ようやく再開に漕ぎ着けたリハビリ歩行訓練、入浴などは変わらず、介助が要るが、 トイレくらいは何とか自分一人で済ませようと、試みが始まるのだが…。 パーキンソンは安静にしていたからといって、進行が止まるような病ではない。 なまじ安静が続いたため、その進行状況について、いかに疎くなっていたかを 動作を再開させたことで、母も私も思い知ることになる。 つまり、ベッドから出て、便座の蓋を開け、着衣を下ろし、座る。その当たり前の 簡単な動作も、以前のようにスムーズにできなくなっていたという話である。

  • 再開

    「パーキンソン」という病名を聞かされ早や三年、体重も35kgを割り、 激しいせん妄に悩まされ、生活の全てに助が必要となっている満88歳。 感染症による緊急入院から約3週間、退院に向けたカンファレンスから 週2回の訪問看護の手筈も無事整い、帰宅の運びとなる。 事業所はレスパイトを頼んだ療養病院が運営する看護ステーションとなった。 訪問サービスは、先ずはバイタルのチェック、そして、便通状況の確認から 排泄の対応、更に入浴の介助なども医療の一環として任せることができたが、 私は「簡単で良いから」とリハビリを頼んだ。 それを快く承諾してくれた看護スタッフはリハビリ科と連携をとり、ゆっくりと 簡単な手足の可動介助を始めることになった。そして、週二日の訪問日の一日を リハビリ科の理学療法士に任せる訪問リハに切り替えようとの話になっていった。 五月、満を持し、その訪問リハがスタートするのだが、それに派遣されてきたのは、 まだ医療学校を卒業したばかりの新人ではないのかという、うら若い娘さんだった。 訪問看護事業部は概ね、学校に通う子供を持つ位の中堅・ベテラン域のスタッフで 構成されている。看護であれ理学療法であれ、訪問ケアは監督者のいない各現場で 患者の安全に責任を負うべき立場。経験値は足りているのかとの懸念がよぎる程に、 訪れてきた女性理学療法士は若輩に見えた。

  • 待機

    「パーキンソン病の急性増悪、尿路感染症」ということで、昏睡状態となり 搬送された母。抗生剤投与の対処が中心で、約一か月間の入院が続くのだが、 ある時、病棟の看護師長が私のところにやって来て、退院後の生活について 方針を聞いてきた。 「退院後、施設への入所を選択肢に入れているのか」と師長は言うのである。 「パーキンソン」との診断から、この時点で母は約一年半、頼みの綱となる リハビリも頓挫したまま体力の衰えは目を覆わんばかり、加え、昏睡からの 覚醒直後とあって、案の定、再び強いせん妄に襲われている。 もし、適切な施設で、日毎のバイタル測定など体調管理に抜かりがなければ、 より速い段階で異変は感知され、これ程の大事にはなっていなかったのでは…。 そう言われると返す言葉もなく、この際は、自分一人での介護の抱え込みの 限界を先ずは認め、候補となる入所施設の検討に入るべきとの展開になった。 母は30代半ばまで国語科教員としての勤めがあったが、私達兄弟の出産後、 専業主婦となった。そのため、年金は共済と国民の二本立てとなっており、 同じく教員で定年まで勤め上げた父と比べ、役3分の2ほどの需給となる。 つまり「介護付きの有料老人ホーム」などは預金を切り崩しながらの入居を 迫られる分不相応な代物という話で、入居一時金が掛からず、入居者本人と 扶養者の負担力に応じ、月料金が7万から15万円程で済む公的施設である 「特別養護老人ホーム」を尋ねてみることに。 だが「特養ホーム」の現状とくれば、この時、待機登録者が全国で30万人程も 居るとされ、どこも順番待ちで溢れ空きはなく、こちらもほぼ門前払いの状況。 そうなってくると、他の予算に見合う民間の施設を見ていくしかなくなるが、 例えば「サービス付き高齢者向き住宅」などは自立生活を送れていることが、 入居前提となっている。並みの経済力で要介護度が高くなってきている者が 「特養ホーム」の待機組に回されてしまうと、もう後は何処か拾ってくれる 療養病院を探し出し、丸投げしてしまうしうくらいしか選択がないのである。

  • 見舞い

    父は白内障での入院中、多少の呆けもあったようだが、術後経過も良好で 退院後には、また一人で食材の買い出しに出掛けていくようになっていた。 白内障解決に伴い、視界も晴れ、足運びまでが何となく改善された印象で、 こちらの方は一安心といったところ。 その父が母の救急搬送翌日、入院の準備を整え病院へ向かおうとする私を 待ち構えていたかのように「自分も病院へ連れて行け」とねじ込んできた。 長年連れ添う夫婦としては、至極当然のことであろうが、できれば父には 自重してもらいたい局面だった。 母は抗生剤投与の効果で症状は安定の兆しがある一方、未だ意識は 戻らないままで、私は緊急入院による諸々の後処理に追われる状況。 病状説明があるのか、入院の手続きに時間をとられるか、とにかく、 その日の段取りがどうなるか、病院に行ってみなければ分からない。 父と一緒となれば、その見守りまで私に負荷されることになるし、 何より、意識も会話もままならない状態の母を見舞ったところで、 どうせ、仕切り直しの憂き目を見るだけの話しとなる。 「母の見舞いは、目が醒めて話せるようになってからにした方が…」と、 言ってはみたものの、この状況について一人悶々と気を揉んでいた父に その聞き分けの余地など一切なく、結局、入院用具一式と父を積み込み、 搬送二日目、病院ひ向うことになった。 病室に入いり、母を確認するや抑えていた感情を吐き出すかのように父は オロオロと泣き出す有様。私がこれ程に取り乱した父の嗚咽を聞いたのは 過去に一度だけ、父の母、祖母が亡くなった時だった。葬儀から帰った夜、 母を相手にしたたか酔い「祖母が哀れだ」などと呻き、声をあげて泣いた。

  • 延命治療

    パーキンソン病発症からおよそ3年、母も女性の平均寿命を超え、満87。 そして、感染症による緊急入院。そうなって次に聞かれることと言えば、 延命治療の可否について、となってくる。 今回の感染症入院での治療の選択について聞かれている訳ではない。 自発呼吸すら困難になったり、意識の回復も見込めなくなった場合、 酸素や栄養分の注入を人工的に続けてまで延命を希望するのか否か、 母本人とその確認は済んでいるのかと。 実は、延命治療は先のレスパイト入院でも聞かれていたし、この度の 緊急入院でも私は、その意思を未だ母から取れていないと理由をつけ、 「折を見て確かめておきます」と曖昧な返事しか返していない。 だが延命治療などは、たとえ我事の立場として問われたとしても、 それを「希望する」という選択は微塵ほどもなく、その価値観は 両親も同様のこととの認識を私は持っている。

  • 低気圧

    元来、母にはパーキンソン以前からの懸案として、喘息の持病がある。 急激な気圧の変化に自律神経が対応できず、一旦発作が出てしまうと、 常備する気道拡張薬を服用しても数時間は発作との格闘を強いられる、 そもそもがそんな体質なのである。 その母も齢を重ね、発作時の躰への負担も増し、酸素吸入器の備えを 迫られていたところだったのだが、奇妙なことにパーキンソン発症を 言われ出した頃から、その発作が現れなくなってくる。 主治医にさえ訝しがられ、明快な理由が示されなかったこの現象だが、 母にすれば、終生悩まされ続けてきた喘息からの解放である。当初は 願ってもことと、ただ短絡的に捉えていたのだが、浮かれてばかりも いられない要因もあることに、早晩気付くことになる。 季節の変わり目から夏の夕立や台風の接近まで、空気を搔き混ぜながら、 不吉な低気圧が接近してきて、発作を誘発するような要因が整ってくる。 そういう時に限り、パーキンソン処方薬の効能が、まるで効かなくなり、 躰の動きがビタリと止まってしまうのだ。

  • せん妄

    「せん妄」とは環境や体調の急変を機に突発的に現れる意識の混乱のことで、 特に高齢の入院患者によく観られる症状だという。 自宅で介護する家族の負担軽減のため健康保険を用い、期限を決め療養病院に 入院するレスパイト入院。先ずは母を 11月末から約二週間レスパイトで預け、 その期間中に父の白内障手術を片付けてしまおうという運び。母のレスパイト、 リハビリ科を備えた療養病院で、頓挫していたそのリハビリも日程に組まれる。 家族の負担軽減としてのレスパイトとはいえ、着替えやタオルの洗濯物管理は 家族の役割とされ、取り換えのため一日置きには病院に通わなければならない。 入院の事前説明を聞かされている時は正確に予定を理解していた母であったが、 面会の度に私は「何時までここに居るの?」と母から問い直されることになる。 母が聞く「何時」とは母自身が家に帰るための時間ことで、私が迎えに来たと 錯覚を起こしてしまっているのだ。何の問題もなく理解していたはずの入院が、 その入院を機に意識からすっかり抜け落ち、何度説明し直しても日が変わると、 また同じ問答が繰り返される。 一方、父は入院直後も状況把握に問題が出ている様子もなく、治療経過も理解し、 聞き分け良く順調な入院生活を送れているようだった。そして私が顔を見せると、 ベッドに寝ていてもむくり躰を起こし、大声で話せるはずもない病室で補聴器も 付けず、母や家の様子を尋ねてみたり、あれこれと話し掛けてくる。

  • 同時入院

    元より父は、母が介護認定を受けた時点で既に相当程度難聴が進行していて、 その時の母のケアマネージャーの手配で要支援2の認定を受けることになる。 だが、手足の不自由はなく「躰は動かせているから」と、日々の買い物から 炊事・洗濯まで制度に頼ることなく自立生活を成り立たせていた。 だが、今回の白内障入院にとりかかる一年程前にも「救急搬送された」と 緊急連絡を受ける騒動があった。母のリハビリデイセンター通所が頓挫し、 私がその事後交渉に翻弄され始め出した丁度そんな局面、交通事故である。 信号のない三差路の横断歩道上で、営業中の乗用車との接触事故だった。 車は低速だったが接触の弾みで父はボンネット上に倒れ込み、そのまま 路上に滑り落ち卒倒し、鎖骨にひびが入る全治三か月程の怪我を負った。 車の運転手は全面的に過失を認め、示談交渉も滞りなく完了したものの、 現場検証の警官からは老人の危険回避能力の衰えや外出時の付き添いの 必要性など、逆にこちらが何かと苦言を賜る羽目となった。 そこで、先ずは買い物代行ヘルパーの活用を始めてみようという話になる。 さすがにこの期に及んでは、人嫌いを極めた父も足腰の衰え防止のためと、 任せきりにせず一緒に出掛け、荷物だけを持ってもらうなど聞き分け良く、 暫くはヘルパーを受け入れくれていたのだが…。 左腕を固定していた三角巾が取れるとリハビリが始まる。きちんと通えば それだけ保証金も出るし、全身の機能回復にも良い効果となるはずだった。 だが、他の誰かのスケジュールに合わせ行動することで、自分の決めた 生活時間が守れなくなることをとにかく嫌う父は、左腕を庇いながらも 買い物の荷物を持つコツなど掴むや否や、せっかく手配したヘルパーも いつの間にか勝手に断ってしまい、リハビリにも通わなくなってしまう。

  • 記憶

    クリニックの日帰り手術でも治療が完結する白内障。誰もに起こる老化現象だが、 放置は禁物で、進行すると炎症がこじれ緊急手術の危険まで出てくるということ。 母とは異なり、父は自由に動けるのだから眼科くらいは自分で行けばよいものを、 手をこまねいているのは、ひとえに難聴の進行から、特に初対面の人との会話が 億劫になっていることに尽きる。補聴器を付けていても必ずどこかで聞き取りに エラーが出て間合いがずれてしまうのだ。 クリニックの通院といえど初診の受付から医師との問答、いつの間にか障壁が 高くなってしまい、又、険悪な息子に自分から折れ、助けを求める訳もいかず、 かと言って、役所に依頼し、付き添い介護を手配する機転などきくはずもない。 聴力ばかりか視力までもおぼつかなっていく不安を唯一の話し相手である母に 愚痴るしかなかった、そんな愚かとも哀れともつかぬ話である。 神棚蝋燭の撤去騒動から、もう数か月経っていたか、私は一方的に日取りを決め 「この日、一緒に眼科に行く、準備しておくように」と予定のメモを父に渡すと 「分かった」と父は素直に応じ、父との冷却期間がここで終了することになった。 元々、母には軽い緑内障があり、通っていたクリニックに父も連れて行くことにした。 人当たりの良い医者で意思疎通に関しても敷居が低く、父も馴染みやすいはずである。 クリニックは電車で一駅、駅からも近くの好立地であったが、その分、駐車場からは 少々不便で、母の場合は車椅子を押し、父には一緒に歩いてもらうことになる。

  • 信仰

    同じ昭和2年11月と12月生の両親は、平成23年時、満83歳。 母、平成23年2月、転倒左大腿部骨折、杖歩行状態、要支援判定1。 平成24年、診断パーキンソン症候群。同年12月、右大腿部肉離れ。 平成25年7月、正式診断指定難病パーキンソン病。要介護判定3。 同年9月、肉離れ部位状態再悪化、以後約1年間歩行困難状態継続。 転倒骨折で杖歩行状態となった母にパーキンソン病の診断が下され要介護判定3に、 更に右足の肉離れなども続いてしまう。そうなると、老人性難聴の進行した父では 母の介助は務まらす、経年、両親と居を別にしてきた私が実家に戻ることになった。 そんな有様の一端を 「老老夫婦」「父の生活~」 でも記してきたが、父に関しては、 他にも母から持ち掛けられていた相談事があった。それまでは精を出し般若心経を 詠んでいたはずの父がこの頃、どんな心境の変化か神道に傾倒。自室に持ち込んだ 神棚を前に朝な夕な詔を唱えるようになっていた。 そんな父を尻目に、天台宗の旧家を実家に持つ母などは「私は般若心経がしっくりくる」と 冷ややかだったし、今更父も家族を巻き込んだりもせず、心安らかに日々を過ごせるのなら、 こちらとしても特に取り立て何も言うこともない。が、問題は神棚に灯される蝋燭。これが 何とも危なっかしいと母は言うのだ。 何せ父は、すぐ横で鳴る電話の着信にさえ気づけない程、難聴が進行している。 にも拘らず、詔を唱える際は、必ず真っ新な小さな蝋燭が神棚に二本灯される。 そして、詔終了後もそれは消されず、完全に燃え尽きるまで放置されてしまう。

  • 父の老い

    同じ昭和2年11月と12月生の両親は、平成23年時、満83歳。 母、平成23年2月、転倒左大腿部骨折、杖歩行状態、要支援判定1。 平成24年、診断パーキンソン症候群。同年12月、右大腿部肉離れ。 平成25年7月、正式診断指定難病パーキンソン病。要介護判定3。 同年9月、肉離れ部位状態再悪化、以後約1年間歩行困難状態継続。 転倒骨折で杖歩行状態となった母にパーキンソン病の診断が下され要介護判定3に、 更に右足の肉離れなども続いてしまう。そうなると、老人性難聴の進行した父では 母の介助は務まらす、経年、両親と居を別にしてきた私が実家に戻ることになった。 そんな有様の一端を 「老老夫婦」「父の生活~」 でも記してきたが、父に関しては、 他にも母から持ち掛けられていた相談事があった。それまでは精を出し般若心経を 詠んでいたはずの父がこの頃、どんな心境の変化か神道に傾倒。自室に持ち込んだ 神棚を前に朝な夕な詔を唱えるようになっていた。 そんな父を尻目に、天台宗の旧家を実家に持つ母などは「私は般若心経がしっくりくる」と 冷ややかだったし、今更父も家族を巻き込んだりもせず、心安らかに日々を過ごせるのなら、 こちらとしても特に取り立て何も言うこともない。が、問題は神棚に灯される蝋燭。これが 何とも危なっかしいと母は言うのである。 何せ父は、すぐ横で鳴る電話の着信にさえ気づけない程、難聴が進行している。 にも拘らず、詔を唱える際は、必ず真っ新な小さな蝋燭が神棚に二本灯される。 そして、詔終了後もそれは消されず、完全に燃え尽きるまで灯され続けるのだ。

  • 献策

    私は母の利用した介護サービスのトラブルに対し、その代理として苦情申し立てや その事後交渉に翻弄された経緯をこの記事の中で回想してきた。その総括をしつつ、 どうしても、要介護者本人やその代理人に「契約」を求める現制度の根幹の有様に、 違和感を拭えずにいるのだ。 契約書には、苦情対応の在り方や、その先の相談窓口の宛先、訴訟を起こす場合の 管轄裁判所など細々とした記載がある。それに署名・捺印し「契約」を交わすとは、 止むを得ず申し立てる苦情も、それで埒が明かない場合の各窓口への相談も裁判も、 「その業者との関係は基本的に全て自己責任で完結させます」そう了解したという ことになってしまうからだ。 国(政治)は皆保険としての保険料納付の義務を国民に課す以上、逆に要介護認定を 受けた人達に対しては、確実な介護体制を整える義務を負うことになるはずであるが…。 事業認可を求めてくる事業者が本当に利用者の安全を疎かにしない組織なのかどうか、 利用者に確約できる程、綿密な審査を重ねた上で役所が判断を下している訳ではない。 その一方、行政が一定の確率での粗悪な業者の紛れ込みを想定していないはずもなく、 だからこそ、利用者の安全を担保するために、誠実な苦情対応の履行や介護サービス 利用上の相談窓口などを内容に入れ込んだ「契約」を交わせ、という話になってくる。 そして実際に、その業者が交わした契約事項を誠実に履行しない組織だったとなれば、 利用者は指定の相談窓口に実情を訴え、場合によっては事後交渉のサポートや仲介を 求めることにもなる。だが、ケアマネージャーも含め相談員の対応とくれば、業者に 「誠実な対応を」と口添えする程度で、最終的には「話し合いは当事者同士で」との 自己責任論を持ち出され、それ以上の支援は期待できないことを私は自身で体験した。

  • 献策

    私は母の利用した介護サービスのトラブルに対し、その代理として苦情申し立てや その事後交渉に翻弄された経緯をこの記事の中で回想してきた。その総括をしつつ、 どうしても、要介護者本人やその代理人に「契約」を求める現制度の根幹の有様に、 違和感を拭えずにいるのだ。 契約書には、苦情対応の在り方や、その先の相談窓口の宛先、訴訟を起こす場合の 管轄裁判所など細々とした記載がある。それに署名・捺印し「契約」を交わすとは、 止むを得ず申し立てる苦情も、それで埒が明かない場合の各窓口への相談も裁判も、 「その業者との関係は基本的に全て自己責任で完結させます」そう了解したという ことになってしまうからだ。 国(政治)は皆保険としての保険料納付の義務を国民に課す以上、逆に要介護認定を 受けた人達に対しては、確実な介護体制を整える義務を負うことになるはずであるが…。 事業認可を求めてくる事業者が本当に利用者の安全を疎かにしない組織なのかどうか、 利用者に確約できる程、綿密な審査を重ねた上で役所が判断を下している訳ではない。 その一方、行政が一定の確率での粗悪な業者の紛れ込みを想定していないはずもなく、 だからこそ、利用者の安全を担保するために、誠実な苦情対応の履行や介護サービス 利用上の相談窓口などを内容に入れ込んだ「契約」を交わせ、という話になってくる。 そして実際に、その業者が交わした契約事項を誠実に履行しない組織だったとなれば、 利用者は指定の相談窓口に実情を訴え、場合によっては事後交渉のサポートや仲介を 求めることにもなる。だが、ケアマネージャーも含め相談員の対応とくれば、業者に 「誠実な対応を」と口添えする程度で、最終的には「話し合いは当事者同士で」との 自己責任論を持ち出され、それ以上の支援は期待できないことを私は自身で体験した。

  • 考察

    「考察」とはいえ私の場合、彼等のネット上の発言や事業運営の方向性を読み解き、 判断するといった範囲になるが、それでもその検索と閲覧で私達利用者の思いとは、 また異なる事業者側の視点を知ることになった。 母を直接担当した初代センター長と後任センター長、理学療法士としての彼等が 現在運営する事業案内を見ると「通所」方式のデイサービスという形態ではなく、 初期投資が少なくて済む「訪問」介護リハビリセンターということになっており、 それに加え、訪問看護やセミナー事業部などを併設させていることが特徴である。 訪問看護は事業の範囲を医療保険にも広げ、経営を安定させるためであろうし、 理学療法セミナーは当初、同業の知人の企画を手伝う範囲だったようなのだが、 今では、自らが主催し指導するセミナーまであって参加が呼び変えられており、 起業に関心を示す若いセラピストを取り込んでいこうという思惑も見て取れる。 この「セミナー」を備えることで自分達も含め、若い起業家が熟練者から経験や技を 学べる環境を整えた。とのことだろうが、起業といっても彼等の場合、僅か一年程の おぼつかない「センター長」の経験があるだけ。その経験の浅さや利用者への安全を 軽んじていたとしても、独立後の営業面での採算性までを当たり前に判断するならば、 あの時点での起業は時期尚早という他なく、決断できる要素などなかったはずなのだ。 だが実際に彼等は、訪問看護も含めサテライトまで展開させ、順当な運営を見せているし、 彼等の去ったデイセンターも直ぐ別の後釜が据えられ、今も平然と営業が続けられている。 さては、どんな条件が揃ってくれば、あちこちでそんな事が可能になってくるものなのか。 と、改めて彼等のネット上での交友関係を見直してみた結果、そこに一人、私も当時直接 「交友」を持った人物が居り、それが交代人事で母の担当に就く要介護認定以降二人目の ケアマネージャーだったのだが…。

  • 検証

    「リハビリ特化型デイサービスの利用を機に体調悪化をきたした」との母の訴え、 その損害賠償請求交渉が不調のまま終わった経緯を前回までの投稿で記してきた。 令和3年を迎えた現在も『訴えは一切終了』をの踏ん切りに、何らの変化もない。 だが、矛を収めたはずの憤りと義憤が、まるでフラッシュバックに晒される如く、 当時そのままに蘇ってくる習慣がある。当事者達が性懲りもなく私達の生活圏に 足を踏み入れてくる姿を否応なく見せつけられる時、正にそれが蘇ってくるのだ。 今回はこれまでの回想録を一旦中断し、ネット上で確認できるで範囲であっても、 現在の彼等の了見を推察してみることにする。 先ずは、医療系学校法人の教育顧問なども肩書きに持つデイセンター社長であるが、 虚偽の経歴とともに紹介されていた顧問職については、本人の SNS の経歴からも、 学校法人の教員紹介欄からも表記が消えており、その任を解かれたものと思われる。 だが、そんなことすらも顧みる様子なく、他の学校での無垢な若者達を前にしての 怪気炎は、まだまだ衰える気配がない様子であった。

  • 履歴

    昭和2年生まれ、農家7人兄弟姉妹の真ん中、上からも下からも4番目。幼い弟妹の子守に 手を取られながら『こんな自分でもこれなら続けていけるかも』と女学校(中学生)の頃に 試してみたのが俳句だったのだと。そして農家ではないが、これまた6人兄弟姉妹の3番目 公務員の父と結婚。互いの親からの支援も乏しく、アパート一間の新婚生活が始まることに。 家事に子育てにと「俳句~」どころではない時代も経て、それでも愚直に執拗に関わり続け、 もはや「終生の生業」というべきか、冊子を発行したり、ささやかながら句会を主催したり、 この翌年になれば、遂に米寿を迎えるところまできたのである。そんな母が右腿痛再発以来、 丸1年、句会はおろか作句自体頓挫していた状況で「さくらさくら~」は久方ぶりに閃いた 一句jとなった。 「多くの人が読んでくれると~」などと母から担がれ「うん」と合わせはしたが、 これから始める介護ブログ、デイセンター体験利用以降は、制度への理解も含め、 自身に対する行動分析など、救いようのない鬱展開の交渉話が中心となってくる。 そんな風である程に、各項の心象に合う句を添えていけるとなると、これはもう 「瓢箪から駒」という以外、何者でもない。 そこで2項目「要介護認定」も同様、そそくさ原稿を渡し、待ってはみたのだが、 「そう都合よくはいかない、こうもベッドに縛られていては、どうにもイメージが…」 「俳句を載せたいのなら、私の自選集から選べばいい、好きなのを使っていいから…」という。 母が趣味にしているとはいえ、これまでは暇な年寄りの遊興のひとつ、位としか考えず、 琴線に触れることなどなかった俳句であったが、ブログ一項仕上げる度、母の自選集を いちいち一から読み直し、心象に添う一句を探し続けることになった。 選んだ俳句の中には現在の私よりも、まだ更に若い年代に詠まれたものも少なくないが、 何とも奇妙な感覚であった。それらはあたかも、その時代の母がこの先の自分の人生で、 このような境遇が待っていることを潜在的に予感し、俳句に投影させていたかのような…、 そしてそれらが、この目に留まり、記事の最後に添えられるのをまっていたかのような…。 そんな「手前味噌な錯覚」が、袋小路に陥っていた私の意識を徐々にではあるが 解放に向かわせ、このブログ投稿へと移行させていくことになるにはなるのだが…、 社会人となって以降、職務日報を記す程度が席の山だっ

  • 転換

    昼間から酩酊し、母に手を上げてしまったことでウィスキー断ちの決心をしたのだが、 夜中に目覚める度、襲われ続けている得体の知れない不安感や恐怖心までも、それで 解消された訳ではない。 母が肉離れを機に、離職し、介護漬けの生活がもう一年半以上も続いているのだから 「不安」の由来はそこにあるのだろうが、毎夜毎夜こうも決まって、恐怖心まで伴い 苛まれ続けているとなると、単純に「介護疲れ」という話では済まなくなってくる。 やはり、デイセンターに対する憤懣やる方ない思い、それを収められずにいるのだが、 結局それも、為す術なく翻弄されてきた己自身の不甲斐なさに向けられることになり、 忌々しさは一入となる。更に厄介なのは、これまでに繰り返されてきた交渉の局面が 不規則に蘇ってきて、意識は常に、憤りと後悔に支配され続ける状態にある。 負のスパイラルに陥り、迷走する意識を「リセット」する必要があった。 人はその時々において、なぜそう言い、そうしたか、また出来なかったか、 個々の性格や状況的要因が絡み、一つ一つの行動にはその理由があるはず。

  • 離脱

    作業が一段落したのは父が夕食を済ませ、夏の陽も西に傾きかけた頃だったか。 日没が近づき、幸いにも母の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻してはいくのだが、 私がそのことを確認したのは完全に衣類の整頓を終えてからのことで、たとえ、 不測の事態に陥っていたとしても気付かない程、私はただ作業にのめり込んだ。 そして、このタチの悪い酔い醒めの後に待っているのは、これでもかという程の自己嫌悪。 法律相談の際に弁護士から言われたことを思い出していた。内容証明で己の主張を相手に 送り付けるなどというのは「お前達と(社会的に)喧嘩をするぞ」と宣言するようなもの。 「交渉」や「係争」ではなく「喧嘩」という言葉を敢えて私に聞かせたその意味を…。 「勝てば官軍」その時こそ全ての手段が正当化され、意気揚々と闊歩していけば良い。 だが、仮にも「負ければ賊軍」相手の高笑いを尻目に、惨めさと更なる遺恨の呪縛に 喘ぐこととなり…。 「望むところ」と気色ばんだが、ものの見事に手も足も出せない状況に落とし込まれ、 ぐうの音も出ない。弁護士から言わせれば、端から「負ける喧嘩」ということだった。 そして実際、言われた通りの結果となり、その手っ取り早い八つ当たりの標的として、 あろうことか全く抵抗する術を持たない瀕死の母を餌食にしてしまったというオチだ。

  • 発散

    屋根瓦が真夏の直射日光に焼かれ、エアコンの室外機が唸りを上げ出し、母が息苦しさを 歌え始める少し前の時間帯。食材の調達など外出の要件を午前中に済ませてしまうと私は 炭酸割のウィスキーのグラスを片手に炊事場に立ち、フリーズドライの味噌汁に合うよう、 手際も悪くだし巻き玉子を焼いてみたり、酒の切り身を炙ってみたり、その時々の 母の希望により、白米を粥に替えたりしながら朝・昼兼用の食事作りに取り掛かる。 ベッドに縁に腰掛け、丁度、配膳が乗るサイズの椅子をテーブル替わりに、病院食よりも やや少なめの代わり映えしない献立をなんとか食べ終わると、再び母はベッドに横たわり、 午後からの灼熱攻撃に備える。上背150㎝の母の足元には丁度、人ひとりが座れる位の スペースができ、母が自分でみぞおちの辺りを押さえ始めると、私はそこに胡坐で鎮座し、 干からびたその足を摩りにかかるのだが…。 その日、母は「書き遺したいことがあるから、私用の引き出しから便箋を取って欲しい」 そんなことをベッドの座り込んだ私に向け言い始めた。足摩りを中断させられることが 煩わしかったし「書き遺す」など縁起でもない発想を私は反射的に拒絶したのだが、 「三段重の引き出し、便箋は中段に入れてあるから、お願い」と母の意思は明確だ。 仕方なく開けてみると、何かの冊子やチラシなどが雑然と詰め込んではあるが、解らない。 そこで、上下段も含め「ガサガサ」と紙類をかき分け探しはするも、便箋など見当たらず、 何が何だか見当もつかない。

  • 蓄積

    朝昼晩の三度の適切な食事摂取と一定の運動量の維持が、就寝と起床時間を規則正しく導き、 人としての機能を維持し続ける。そのリズムを止められてしまった齢86歳の母は、誰かに 足を摩り上げてもらうことを日課にしなければ、降りた血液を自力で心臓に戻せないまでに 衰弱が進行している。介助を担う側の人間は、自分の心身まで消耗しきってしまわないよう、 その制御法を心得ておくことも必要となってくるのだが…。 脚力が衰え、自力移動が困難となった時点から介護用紙オムツを常用している母ではあるが、 排便にそれを使用することはなく、介助要請が入る。排尿においても紙オムツが役立つのは 就寝し無意識に排出する時だけで、一旦、尿意を意識してしまうと、着衣のままでは用など 足せないと母は言うのだ。 その局面に備え、私は母の隣室で寝起きするのだが、正に今、自分も寝入ったという頃合に 名前を呼ばれることもあり、そんな時は、口から心臓が飛び出るかと思うほどに「ワッ」と 驚いて飛び起きる。別に危険が迫っている訳でもないと知っているはずなのに、バクバクと 心臓が音を立てて鳴り始め、その鼓動を治めるのに暫しうつ伏せ、呼吸を整えねばならない。 そうしてよたよた、介助を済ませ無事に母を眠りに戻せても、一度、吹き飛んだ私の眠気は そう簡単には呼び戻せない。 そのような事を繰り返すうち、誰かに起こされることがなくても私は、2・3時間程も眠れば 自然と目を覚ましてしまう体質となっていく。足りない睡眠は昼間の仮眠で補うことになるが、 夜中の目覚め、これがどうにもタチの悪いことになっていた。夜の闇がその引き金を引くのか、 ここでもやはり、心拍が高まり思わず嗚咽してしまう程に、みぞおちの奥底までもが重苦しい。 悪夢だったというのならまだしも、夢を見ていたのか、それすらも憶えていないのに、圧倒的な 不安と孤独に支配されている。

  • 考察

    母の利用した介護サービスのトラブルで、その母の代理として苦情の申し立てや 事後交渉に翻弄された経緯をこれまで記してきた訳だが、今回は、現行の制度が 要介護者本人やその代理人に「契約」を求める有様について、今、思うところを まとめてみたいと思う。 契約書には、苦情対応の在り方や、その先の相談窓口の宛先、訴訟を起こす場合の 管轄裁判所など細々とした記載がある。それに署名・捺印し「契約」を交わすとは、 止むを得ず申し立てる苦情も、それで埒が明かない場合の各窓口への相談も裁判も、 「その業者との関係は基本的に全て自己責任で完結させます」そう了解したという ことになってしまう。 国(政治)は皆保険としての保険料納付の義務を国民に課す以上、逆に要介護認定を 受けた人達に対して、確実な介護体制を整える義務を負うことになるのではないのか。 だが役所側は、事業認可を求めてくる者達が本当に利用者の安全を疎かにしない 誠実な事業所なのかどう、綿密な審査を経た上で認可を与えている訳ではない。 その一方、行政が一定の割合での粗悪業者紛れ込みを想定していないはずもなく、 だからこそ、利用者の安全を担保するのに、誠実な苦情対応の履行や相談窓口の 内容を入れ込んだ「契約」を交わせ、という話になってくる。 そして実際に、その業者が交わした契約事項を誠実に履行しない組織だったとなれば、 利用者は指定の相談窓口に実情を訴え、場合によっては事後交渉のサポートや仲介を 求めることにもなる。 だが、相談員の対応とくれば、業者に「誠実な対応を」と口添えする程度で、 最終的には「話し合いは当事者同士で…」などとの自己責任論を持ち出され、 それ以上の支援は期待できないことを私は自身で体験した。

  • 不法行為と債務不履行2

    自分が通念としてきた道徳観や善悪の基準と、実際の法律の解釈はまた別物。 日を改めての法律相談、そのことを、つくづくと思い知らされることになる。 過失傷害(不法行為)の立証が困難でも、契約を正しく履行しない(債務不履行)に絞れば、 示せる根拠は何なりとある。本来の事実経過を説明できれば、契約解除の無効も可能なはず。 と、私は考えていた。だが、それすらも「難しい」と弁護士は言うのだ。 「全く非はない」と先方が宣言し、こちらが「それは受け入れられない」と反論した以上、 先方にとって私達は「不信」な存在。信頼を前提にしての契約関係が維持できなくなった。 そのロジックについては、法的に成り立っているのだと。 私達が苦情を申し立てた必然性も以降の経緯も、関連を切り離して考えなければならない。 どう角度を変えたところで必要なことは「全く非はない」を覆す医学的見地に基づく立証。 結局はこの問題、医学的立証なくして、相手を交渉の席に着かせることはできない、と…。

  • 不法行為と債務不履行1

    「母の体調は二日前の体験利用と比べ、格段変わった様子はなかった、故に自分に全く非はない」 当事者である前センター長は代理人を介し、こう見解を翻した。それを受け前回の法律相談では、 終始、医学的な立証の困難さについての講釈を聞かされることになり、あえなく相談は終了した。 約半年経ち、改めての相談とは言っても、何か目新しい立証材料が確保できている訳ではない。 今回は前センター長の発言の整合性に、より照準を絞り、相談を展開する。裁判所というもの、 状況を鑑みての判断は、絶対にあり得ないのか。燻り続けるわだかりに、先ずはケリをつける。 その上で、捨ておくわけにいかない理不尽を弁護士に共有してもらわなければならない。 法テラスでの相談時間は一回30分の制約。だが、これはデイセンター側の過失による傷害 (不法行為)を立証し、損害賠償を勝ち取るという話。相談は1時間の予約で取られている。 私は母の既往歴もそこそこに、文書類を提示しながら、デイセンターの対応に重点を置いて、 一連の事柄を時系列に話を進めていく。そして、その内容をそのまま、この事業所が契約を 正しく履行しない(債務不履行)業者との訴えにも繋げていくのだ。

  • 法テラス法律相談

    不当な契約解除を無効に出来るか、という主旨の法律相談。前回とは別の法律事務所に 依頼することにした。事情を一から説明し直すとなると、時間効率も良いとは言えない。 だが、どうしても別の弁護士からも傷害についての意見を聞いてみたかった。 平成24年、母がパーキンソン病の疑いありと診断を受け、治療が始まる。その年12月、 右足肉離れで身動きが取れなくなったことを機に、在宅介護が始まるのだが、26年8月、 失職状態は変わらずに続いており、今回の法律相談は<法テラス>を利用することにした。 <法テラス>は経済的な理由で弁護士などへの法律相談が困難な人を対象に国が設けた無料の 法律相談ができる制度で、無料法律相談は市役所の市民相談室へ出向いての相談と弁護士会が 主催する電話相談を既に経験済みだ。 この市民相談室と弁護士会の相談に利用回数の制限はないようだが、相談時間には制限があり、 相談者側から希望の弁護士を指名したりはできず、最初の相談で時間切れとなれば、次はまた、 最初から事情を説明し直す必要がある。

  • 「不信行為」のレッテル

    リハビリ特化型のデイサービスに2度通所し、当日の検証を担当者と交した。その結果を元に、 処置を受けた母が担当者の落ち度により傷害を負ったとして、損害賠償に応じるよう求めたが、 その結果、契約解除の条項「契約を継続し難い不信行為を行う利用者」とのレッテルを貼られ、 契約を解除される羽目となった。そして、それが私の憤りを別次元に押し上げることになった。 新センター長への直談判も結局は断念した訳だが、その頑なな拒否姿勢に怯んだ訳ではない。 今、この若輩を相手にしても、手の内を晒して終わるだけ。こちらの主張、その<記録>は 温存しておくべきと思い直したからだ。 ただ、傷害の賠償に固執していては医学的立証責任の壁が立ちはだかり、そこから先には一歩も 進めなくなるというのも現実。料金直接払いの算段が潰えたというなら、また何か別の手立てを 考えればよい。損得勘定などは、もうどうでもよいことなのだから。

  • 医療裁判の勝訴率

    <医療過誤>や<介護の事故>といった言葉を検索し、何か有用の情報はないかと、見廻り <医療事故弁護士法律相談センター>開設の<医療裁判の勝訴率>というページに眼が止まった。 原告側の請求が一部でも認められた判決割合・認容率の近年の推移と解説が掲載されている。 それによると、昭和40年頃の認容率は10%程。それが50年代には30%台にまで上昇、 最も高かった平成15年が44%。近年はまた減少傾向で20%程と原告には厳しい状況で、 世情により増減はあるが、とにかく、医事関連の訴訟はそこまで立証が難しいという内容だ。 医事関連以外の民事訴訟の容認・勝訴率は85%ほどはあるということ。 「裁判をすれば勝てる」と見込めるからこそ、人は訴訟を起こし解決を目指す訳で、 「主張を認めさせることは法的には厳しい」と認識を持った時点で「裁判」という 選択自体が消える。民事訴訟において容認率が高いことは当然、との分析もあった。 年間の訴訟申し立て件数でも大きな差がある。医事関連の約千件に対し、それ以外の地裁での 通常の民事訴訟は約十数万件。法律相談に出向いてはみたものの、医療事案に関しての厳しい 現実を告げられ、裁判には踏み切れなかった結果が、この数字にも表れているのかもしれない。 私の場合は、相手が正規の医療機関ではないことで「裁判所が定める証拠を確保できない」と 悲観的な見通しが告げられた。遠回しに「早く忘れろ」と諭された印象さえある。損害賠償を 勝ち取れる見込みもないのに、裁判官相手に無念の思いだけをぶつけても意味が無いといった 見方になるのであろう。だが、そうなると「医療事案は立証の困難さ故に勝訴率も低い」との 理解には腑に落ちない点が出てくる。

  • 猛暑の試練

    体験利用から約1年。春頃からは、足の痛みは鎮静化をみせるも、そう老い逸れと、 リハビリ再開という訳にはいかない。梅雨も明けると、エアコンの24hフル稼働 室温管理となる。だが、築40年の実家、室温を一定に保ち続けているつもりでも、 体には徐々に熱がこもっていくのか、母からは息苦しさの訴えが出るようになった。 午前中は落ち着いていても、昼も過ぎると状態に変化が出始める。 「呼吸が苦しい」と肩で息をし始め、みぞおちの辺りを摩り出す。 見兼ね、介助に入ろうとすると「摩るなら、足をお願い」と言う。 足に降りた血液を自力では心臓に戻せなくなっているのだろうか、 ふくらはぎを下から上にゆっくり撫でられると、楽になるのだと。 身長145㎝の母、80歳を過ぎても体重45㎏ほどを維持していた。 それが骨折で40㎏を切り、更に肉離れで30㎏台前半にまで落ちた。 パーキンソン病の診断が下ったが、肉離れからの解放にも目処が立ち、 朝食前には杖を使いながらも、庭先での歩行練習を日課にできていた。 それがどれほど、掛け替えのないことだったか。ただもう、それだけで良かったのに。 一年が経過した今、呼吸すらおぼつかないまでに衰弱が進み、ベッドから離れられず、 ほぼ付き切りの介助生活を強いられている。自分の判断のどこに間違いがあったのか…。

  • 強攻の背景

    このデイサービスはフェイスブックを通じ、業務PRや活動の発信を行っており、その投稿から 一通りの人物相関が確認できる。社長自身が投稿に精を出すデイサービス法人用アカウントでは、 介護職に対する情熱や使命感、感謝と奉仕精神をもって職務に取り組む姿勢、純粋な人間性への 賛美が繰り返し発せられており、それらは、自分で自分の言葉に陶酔しているかのような印象で、 見る度に何とも言えない気分になる。 名刺の提示すらも拒否され、何の成果もなく終わったと思われた新センター長との面会、 それまでの電話応対でも、告げられたのはありふれた苗字のみともなれば、その応対に どれ程の違和感を持ったとしても、これまでは、彼についての<情報>などは得る術も なかった。だが、対面し面識を持ったことで、投稿画像から交友関係の確認に繋がった。 彼らのアカウントページには、前センター長と新センター長、二人の交友録が残されていた。 この二人、デイセンターのスタッフとして同僚となるその以前からの友人同士だったようだ。 この確認により、私が抱いてきた新センター長への違和感のゆえんが、幾分か腑に落ちても 良さそうではあるが…。 自らが提供したサービスについて、法的な責任は免れそうだと高を括っていられる神経だけは、 どうあっても私には理解できない。今回の母の一件から彼らが、どういった教訓を得たものか、 私はモニターを続けていくのだが、屈託のない交流からは、それを伺い知ることはできない。

  • 決行の顛末

    自分が責任者の任に就いた施設で、その前年、弁護士を代理に交渉する程のトラブルがあり、 その利用者家族が自分達の立場からの主張も聞いて欲しいと、記録物を持って目の前にいる。 契約解除といっても手続き自体まだこれからで、民生委員が横でずっと経緯を見ている。 今後、この地域の老人相手にリハビリセンターの施設責任者を務めていく立場となれば、 自分が指定・約束した時間に来所した利用者家族を無下にあしらうことは出来ないはず、 そう思っていたのだが…。 この若いセンター長は横にいる民生委員にどう思われようと、私を追い返すことが 自分の役割だと確信を持っているのか、間口に立ちはだかったまま、微動だにせず 「記録物を置いていかれても自分は見ないし、代理人に渡すだけだ」とにべもない。

  • 面会決行

    予定通り面会に出向く方針に何の躊躇もない。待ち合わせ、合流した民生委員Tさんには 「今日は横で話を聞いていてもらえばよいです」とだけ伝え、一緒にセンターに向かった。 現地集合のケアマネージャーに「Tさんと先に行っているから」と電話で断りを入れると、 「センターから来ないでくれと連絡が入った、自分はこれ以上関われない」と返してきた。 「Tさんが来てくれてるのは、あなたの提案あってのこと、顔を出すのが筋ではないのか」 そう諭すも「事業所の意向に逆らってまでは出来ない」と結局、このケアマネージャーも 事の顛末を見届けることはなく、土壇場で面子から外れることになった。 居宅介護支援と通所介護、同じ介護事業者同士の繋がりの方が利用者との信頼よりも 重要ということか。最初に話し合いの立ち会いを依頼した折の冷やかさが思い返され、 ただ、わだかまりばかりが深まってゆく。

  • 契約解除

    面会の約束は5時半、民生委員Tさんは私と待ち合わせ、センターに行く。 ケアマネージャーとは現地集合となった。当日は昼過ぎから気温も上昇し、 すっかり真夏の日和。7月も、もう下旬となっている。 提示する資料や記録を揃え、いざ出発といった矢先、携帯が鳴った。着信を見て胸がざわつく。 てっきり待ち合わせのTさんかと思ったが、そうではない。掛けているはあの代理人弁護士だ。 「当方(デイセンター)はそちらとの契約を終えることにした、本日の面会は取り止めて頂く」 などと。 新センター長と面会の約束を交わし一週間。途中、ケアマネージャーが加わることがあっても、 特に変更の話などはなかったが、約束の時間直前になって、ここで代理人が口を挟さんで来た。 一気に髪の毛までが逆巻いてくる。

  • 面会の約束

    利用再開の申し込み後、ケアマネージャーから「処遇検討中らしい」と報告を受けるも、 それ以外の音信なく、ひと月ほど経過。結局こちらから電話を掛け、確認をとることに。 「今は利用枠が全て埋まっており、順番待ちの状態、再開の目途が立たない」(新センター長) 「順番待ちはやぶさかでない、とりあえずは介護計画の作成をお願いしたい」(私) 「かなりの待機人数がある、再開時期の決められないと計画は立てられない」(新センター長) 「契約時に立てられた計画があるはず、それと現在の状態を比較し、助言をもらいたいと 言っているのだ」(私) 「自分はその時には、このセンターのスタッフではなかった、初めて会う利用者の体調の 比較はできない」(新センター長) 「前センター長を連れて来れば問題はなかろう」(私) 「前センター長は現在ここの勤務ではないのでそれも出来ない」(新センター長) 一体、どんな引き継ぎの受け方をすれば、このような応対が出てくるのか…。 たとえ、それがどのようであれ、ここは施設長として利用者からの話を聞き届け、事の次第を 確かめてみようとする柔軟さや臨機応変さが、この新センター長からはどうにも感じられない。 話し声から受ける印象は前センター長と同様、まだ若輩で、施設運営においての諸々の経験が やはり不十分なまま、任に就いているのではないかと想像された。

  • 嘘も方便

    大きな災害や事件・事故に自分や自分の家族が巻き込まれた人達への取材において、 「あの時から時間が止まっている」そんなコメントを幾度も耳にしてきた気がする。 『全く同じケースなどはないはずなのに、皆、口を揃え、同じこと言うものだ』と、 そんな感想でコメントを聞いていたこともあったが、自分自身がその当事者となり、 その心境はと聞かれると「あの時から、時間が止まった」これ以外の言葉が見つからない。 トラブルの渦中にある者は、内容の深刻さに各々違いがあっても問題の解決・払拭に相当量の エネルギーを割かれることになる。私自身も同様に、寝ても醒めてもそればかり考えてしまう 一大事と化していた。 あまり思い詰めてばかりもいけないと、例えば、病院に付き添う道中、紅葉や桜の季節になれば 車窓越しに景色も愛でるし、外食が困難でも、たまの贅沢として折詰など買い求めることもある。 しかしトラブルの渦中にあっては、それらを味わったり鑑賞をするに五感の全てや神経・意識を 集中させることは出来ない。 意識の先頭には、常に灰色の雲で覆われた<災い>が陣取り、心奪われる素敵な物や場面の 提供を受けたとしても、どうにも上の空で堪能しきれず、瑞々しい季節感や臨場感を伴った 体験とはならない。だから辿ってみても、味気のない色あせた記憶でしか再現されないのだ。 そして、それがおのずと「時間が止まる」という表現に繋がっていたのだと、この歳になり、 私は理解することになった。

  • 利用再開申し込み

    私から介護計画の作成を依頼された新センター長。 「このセンターでの利用は一旦終了したものと聞かされているのですが」と。 契約書の[契約の終了]の項には、 [利用者からの契約の解除は文書の通知をもって成立する]とあって、 [事業者からの契約の解除も文書の通知をもって成立する]ともある。 センター長の処置が原因で傷害を負ったとして苦情を申し立て、 文書で意見交換は行ったが、契約を終えるといった話ではない。 だが新センター長はというと、 「契約の終了の項目は、利用者から終了を申し出る場合の手続きが書かれているもので、 事業者側からの契約解除についてではない」などと、やはり一筋縄ではいかない模様。

  • 介護計画作成依頼

    一体、何度こんなことを繰り返しているのだろう。 連絡の放置から二週間、こちらから電話を入れた。 「午後から予定されていた前センター長の出勤がその日、取りやめとなった。 料金は代理の弁護士に渡してもらうようにと、本社から託けられた」(新センター長) 「弁護士は苦情交渉のための代理であって、料金の精算にまで仲介をさせる必要はない。 支払いは重要事項説明書に記載されている形式で進めて頂きたい」(私) 「自分は事情を知らない、本社の託けをそのまま伝言するしかない」(新センター長) 「その特殊な事情の伝言が丸二週間、なおざりにされている訳だが」(私) 「すいません、連絡するのを忘れておりました」(新センター長) 新センター長の早口でよく回る舌は、丁寧ではあるが、相手の納得を得ながら円満に事を 収めようとする配慮を感じない。そんな対応にもすっかり<免疫>のついた私は特に今更、 騒ぎ立てることはない。騒ぎ立てないが、礼を失する態度もここまでくると、ただ黙って それを受け流すわけにもいかない。

  • 雲隠れセンター長

    要介護者ばかりが集まる午後の枠があると、センター長に薦められた火曜日と木曜日。 6月に入ったその火曜日、午前のサービスが終わる頃合いを計い、デイセンターに電話を掛けた。 すると、応対するスタッフが「この4月でセンター長は交代しています」などと言うではないか。 唖然とするばかりだったが、今日は運良く、そのセンター長の午後からの出勤予定があるのだと。 「伝えたい要件があるので、今の責任者に替ってもらいたい」と言うと、 「承ります」と送迎から戻ったところの新任センター長が電話口に出た。 新センター長は新年度4月より、このデイサービスのスタッフに加わり、 前センター長は本社勤務となり、外回り中心で行動しているということ。 「昨年の未払い料金を担当したセンター長へ直接支払いたいと、母が希望している」と言うと 「本人が出勤すれば、連絡を入れさせる」と新センター長は私の連絡先を控え、電話を切った。 店舗開設が前年の6月ということだった。なんと一年経たず、責任者を代えてきたことになる。

  • 示談交渉の精算

    法律相談では証拠が揃わないと言われ、行政からも口を挟めないと言われ、 母においては、この期に及んで、そんな現実に触れたくないということか、 無気力に人生そのものを諦めかけているのか、交渉のことも制度のことも、 自分からは徐々に口にしなくなっていった。 そんな母が不憫だったし、息子としても交渉役としても自分が不甲斐無く、 なんとも消化不良でもあり「まだ、終われない」という思いが強くあった。 センター側は法的に過失責任を問われることはないと、高をくくっているのだろうが、 代理人弁護士を介しての発言も含め、私達に残していった痕跡を繋ぎ合わせてみると、 たちまち支離滅裂な実態が浮き出てくることになる。一時の責任回避のため、そんな 痕跡を残したままにするは、信用を糧に生業とする者が「愚か」という他ない。

  • 教育制度と介護制度

    平成23年10月に滋賀県大津市で地元公立中学2年の男子生徒がいじめを原因に、 自宅マンションから飛び降りて自殺した。母の転倒骨折の約8か月後のことである。 事実関係を簡単に伝えるだけであった発生当初の報道も、その扱いは次第に大事になっていく。 担任も学校も陰湿で執拗ないじめを把握しながら、見て見ぬ振りで対策がとられることはなく、 事後対応も、生徒達には事実を口外しないよう、口止めするなど不適切極まりないものだった。 検証を担う立場の市教育委員会も、いじめの事実を認めながらも自殺との因果関係は不明とし、 責任問題に発展しないように学校と組織ぐるみで証言の核心部を封印し、調査内容を隠蔽した。 更には、地元警察も家族からの被害届の受理を繰り返し拒否したりと、おかしな対応が次々に 露見してゆき、翌年にはマスコミが連日、学校に押し掛ける大騒動になっていった事件がある。 自殺した少年は、いたたまれず担任に助けを求めたということだが、窮状を訴えても、 同じ目線で話を聞いてもらえず、邪険にされたり厄介者の如くあしらわれるとなれば、 それを口にすること自体がストレスや罪悪感となり、諦めてしまうしかなかったのだ。 交渉の糸口が見つけられず、訴えをことごとく門前払いにされている状況を 母は「自分のことは、このいじめ問題とまるで同じだ」と言い出したのだが…。

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