母は<せん妄>の症状が現れたが、別に<認知症>との診断を受けた訳ではない。 そもそも<せん妄>とは、身体的に負担が掛かった時や、急な環境の変化に伴う 一時的な意識の混乱を指すし、母も入院をきっかけに症状が現れた。 実際、過去の記憶も維持されているし、人の顔や文字の認識も問題はない。 にも関わらず、数字や日付の感覚だけが一向に改善されない、というのは、 何とも解せぬ話という状況。 そんな具合の続く平成27年秋、特段の大きな異変もなく一日が終わり、 ベッド横の小さな照明一つだけが灯されている就寝前のひと時、薄暗い 部屋の隅を見つめた母が「衝立の後ろにいるのはトヨちゃんかい?」と 私に尋ねた。 ぎょっとした。 「トヨちゃん」とは、十年程も前に他界した母の姉の名である、 「おばさんが居るの?」と私は聞き返す。 「トヨちゃんではないの?」と母は繰り返す。 部屋を明るくし、もう一度確かめると、何事もなかったかのように 「居ないようだねえ」と言うと、また、何事もなかったかのように、 そのまま普段通り、眠りつく母であった。 レビー小体型認知症。パーキンソン病患者の脳には <レビー小体>という 蛋白質の塊が蓄積され、それが幻覚症状を引き起こすことがあるのだそう。 アルツハイマー型認知症のような記憶障害は、目立ってないが、現時点で 根本的な治療法が確立されていないことには違いがない。 そうとも思わぬ私は、中々に不気味な一夜を一人過ごす羽目になったのだが、 程なくし、床を走るネズミや、部屋の中を飛び去る鳥などの出没が相次いで、 その症状が現れていたと知ることとなった。