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2014/11/01

  • 待機

    「パーキンソン病の急性増悪、尿路感染症」ということで、昏睡状態となり 搬送された母。抗生剤投与の対処が中心で、約一か月間の入院が続くのだが、 ある時、病棟の看護師長が私のところにやって来て、退院後の生活について 方針を聞いてきた。 「退院後、施設への入所を選択肢に入れているのか」と師長は言うのである。 「パーキンソン」との診断から、この時点で母は約一年半、頼みの綱となる リハビリも頓挫したまま体力の衰えは目を覆わんばかり、加え、昏睡からの 覚醒直後とあって、案の定、再び強いせん妄に襲われている。 もし、適切な施設で、日毎のバイタル測定など体調管理に抜かりがなければ、 より速い段階で異変は感知され、これ程の大事にはなっていなかったのでは…。 そう言われると返す言葉もなく、この際は、自分一人での介護の抱え込みの 限界を先ずは認め、候補となる入所施設の検討に入るべきとの展開になった。 母は30代半ばまで国語科教員としての勤めがあったが、私達兄弟の出産後、 専業主婦となった。そのため、年金は共済と国民の二本立てとなっており、 同じく教員で定年まで勤め上げた父と比べ、役3分の2ほどの需給となる。 つまり「介護付きの有料老人ホーム」などは預金を切り崩しながらの入居を 迫られる分不相応な代物という話で、入居一時金が掛からず、入居者本人と 扶養者の負担力に応じ、月料金が7万から15万円程で済む公的施設である 「特別養護老人ホーム」を尋ねてみることに。 だが「特養ホーム」の現状とくれば、この時、待機登録者が全国で30万人程も 居るとされ、どこも順番待ちで溢れ空きはなく、こちらもほぼ門前払いの状況。 そうなってくると、他の予算に見合う民間の施設を見ていくしかなくなるが、 例えば「サービス付き高齢者向き住宅」などは自立生活を送れていることが、 入居前提となっている。並みの経済力で要介護度が高くなってきている者が 「特養ホーム」の待機組に回されてしまうと、もう後は何処か拾ってくれる 療養病院を探し出し、丸投げしてしまうしうくらいしか選択がないのである。

  • 見舞い

    父は白内障での入院中、多少の呆けもあったようだが、術後経過も良好で 退院後には、また一人で食材の買い出しに出掛けていくようになっていた。 白内障解決に伴い、視界も晴れ、足運びまでが何となく改善された印象で、 こちらの方は一安心といったところ。 その父が母の救急搬送翌日、入院の準備を整え病院へ向かおうとする私を 待ち構えていたかのように「自分も病院へ連れて行け」とねじ込んできた。 長年連れ添う夫婦としては、至極当然のことであろうが、できれば父には 自重してもらいたい局面だった。 母は抗生剤投与の効果で症状は安定の兆しがある一方、未だ意識は 戻らないままで、私は緊急入院による諸々の後処理に追われる状況。 病状説明があるのか、入院の手続きに時間をとられるか、とにかく、 その日の段取りがどうなるか、病院に行ってみなければ分からない。 父と一緒となれば、その見守りまで私に負荷されることになるし、 何より、意識も会話もままならない状態の母を見舞ったところで、 どうせ、仕切り直しの憂き目を見るだけの話しとなる。 「母の見舞いは、目が醒めて話せるようになってからにした方が…」と、 言ってはみたものの、この状況について一人悶々と気を揉んでいた父に その聞き分けの余地など一切なく、結局、入院用具一式と父を積み込み、 搬送二日目、病院ひ向うことになった。 病室に入いり、母を確認するや抑えていた感情を吐き出すかのように父は オロオロと泣き出す有様。私がこれ程に取り乱した父の嗚咽を聞いたのは 過去に一度だけ、父の母、祖母が亡くなった時だった。葬儀から帰った夜、 母を相手にしたたか酔い「祖母が哀れだ」などと呻き、声をあげて泣いた。

  • 延命治療

    パーキンソン病発症からおよそ3年、母も女性の平均寿命を超え、満87。 そして、感染症による緊急入院。そうなって次に聞かれることと言えば、 延命治療の可否について、となってくる。 今回の感染症入院での治療の選択について聞かれている訳ではない。 自発呼吸すら困難になったり、意識の回復も見込めなくなった場合、 酸素や栄養分の注入を人工的に続けてまで延命を希望するのか否か、 母本人とその確認は済んでいるのかと。 実は、延命治療は先のレスパイト入院でも聞かれていたし、この度の 緊急入院でも私は、その意思を未だ母から取れていないと理由をつけ、 「折を見て確かめておきます」と曖昧な返事しか返していない。 だが延命治療などは、たとえ我事の立場として問われたとしても、 それを「希望する」という選択は微塵ほどもなく、その価値観は 両親も同様のこととの認識を私は持っている。

  • 低気圧

    元来、母にはパーキンソン以前からの懸案として、喘息の持病がある。 急激な気圧の変化に自律神経が対応できず、一旦発作が出てしまうと、 常備する気道拡張薬を服用しても数時間は発作との格闘を強いられる、 そもそもがそんな体質なのである。 その母も齢を重ね、発作時の躰への負担も増し、酸素吸入器の備えを 迫られていたところだったのだが、奇妙なことにパーキンソン発症を 言われ出した頃から、その発作が現れなくなってくる。 主治医にさえ訝しがられ、明快な理由が示されなかったこの現象だが、 母にすれば、終生悩まされ続けてきた喘息からの解放である。当初は 願ってもことと、ただ短絡的に捉えていたのだが、浮かれてばかりも いられない要因もあることに、早晩気付くことになる。 季節の変わり目から夏の夕立や台風の接近まで、空気を搔き混ぜながら、 不吉な低気圧が接近してきて、発作を誘発するような要因が整ってくる。 そういう時に限り、パーキンソン処方薬の効能が、まるで効かなくなり、 躰の動きがビタリと止まってしまうのだ。

  • せん妄

    「せん妄」とは環境や体調の急変を機に突発的に現れる意識の混乱のことで、 特に高齢の入院患者によく観られる症状だという。 自宅で介護する家族の負担軽減のため健康保険を用い、期限を決め療養病院に 入院するレスパイト入院。先ずは母を 11月末から約二週間レスパイトで預け、 その期間中に父の白内障手術を片付けてしまおうという運び。母のレスパイト、 リハビリ科を備えた療養病院で、頓挫していたそのリハビリも日程に組まれる。 家族の負担軽減としてのレスパイトとはいえ、着替えやタオルの洗濯物管理は 家族の役割とされ、取り換えのため一日置きには病院に通わなければならない。 入院の事前説明を聞かされている時は正確に予定を理解していた母であったが、 面会の度に私は「何時までここに居るの?」と母から問い直されることになる。 母が聞く「何時」とは母自身が家に帰るための時間ことで、私が迎えに来たと 錯覚を起こしてしまっているのだ。何の問題もなく理解していたはずの入院が、 その入院を機に意識からすっかり抜け落ち、何度説明し直しても日が変わると、 また同じ問答が繰り返される。 一方、父は入院直後も状況把握に問題が出ている様子もなく、治療経過も理解し、 聞き分け良く順調な入院生活を送れているようだった。そして私が顔を見せると、 ベッドに寝ていてもむくり躰を起こし、大声で話せるはずもない病室で補聴器も 付けず、母や家の様子を尋ねてみたり、あれこれと話し掛けてくる。

  • 同時入院

    元より父は、母が介護認定を受けた時点で既に相当程度難聴が進行していて、 その時の母のケアマネージャーの手配で要支援2の認定を受けることになる。 だが、手足の不自由はなく「躰は動かせているから」と、日々の買い物から 炊事・洗濯まで制度に頼ることなく自立生活を成り立たせていた。 だが、今回の白内障入院にとりかかる一年程前にも「救急搬送された」と 緊急連絡を受ける騒動があった。母のリハビリデイセンター通所が頓挫し、 私がその事後交渉に翻弄され始め出した丁度そんな局面、交通事故である。 信号のない三差路の横断歩道上で、営業中の乗用車との接触事故だった。 車は低速だったが接触の弾みで父はボンネット上に倒れ込み、そのまま 路上に滑り落ち卒倒し、鎖骨にひびが入る全治三か月程の怪我を負った。 車の運転手は全面的に過失を認め、示談交渉も滞りなく完了したものの、 現場検証の警官からは老人の危険回避能力の衰えや外出時の付き添いの 必要性など、逆にこちらが何かと苦言を賜る羽目となった。 そこで、先ずは買い物代行ヘルパーの活用を始めてみようという話になる。 さすがにこの期に及んでは、人嫌いを極めた父も足腰の衰え防止のためと、 任せきりにせず一緒に出掛け、荷物だけを持ってもらうなど聞き分け良く、 暫くはヘルパーを受け入れくれていたのだが…。 左腕を固定していた三角巾が取れるとリハビリが始まる。きちんと通えば それだけ保証金も出るし、全身の機能回復にも良い効果となるはずだった。 だが、他の誰かのスケジュールに合わせ行動することで、自分の決めた 生活時間が守れなくなることをとにかく嫌う父は、左腕を庇いながらも 買い物の荷物を持つコツなど掴むや否や、せっかく手配したヘルパーも いつの間にか勝手に断ってしまい、リハビリにも通わなくなってしまう。

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