chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 青柳俊哉「ブドウを想う」ほか

    青柳俊哉「ブドウを想う」ほか(朝日カルチャー講座、2023年09月18日)受講生の作品。ブドウを想う青柳俊哉広大な石の野で整然と水晶を啄む鳥たち羽の内部で地の百合の花の匂いと風景の背後から降るなにものかの囁きがやむ一面に響きわたる雨音渇いた深夜にひとつぶの甘美なブドウを想うすべて鳥たちは澄んでいく肉体の果てにひそやかな囁きを握りしめよどの行が好きか。「風景の背後から降るなにものかの囁きがやむ」「ひとつぶの甘美なブドウを。ひとつぶが印象的」「3連目全体。一行なら、ひそやかな囁きを握りしめよ。美しい風景が思い浮かぶ。鳥、羽、囁きが印象に残る」私はいくつかの「対比」と「呼応」がいいと思った。特に2連目が複雑でおもしろい。羽(飛ぶ、空)と地、内部と匂い(匂いは外に漏れると同時に内にこもる、ここではその、こもる静け...青柳俊哉「ブドウを想う」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(44)

    「小アジアの田舎にて」。戦争後の「宣言起草」、結果は思いもかけないことに。しかし、あわてることはない。なんとなれば、名前のところだけ変えればいい。この詩は、事実にもとづくというよりも、「寓話」(寓詩)である。だからこそ、そこには不思議な「真実」がある。「事実」を超える「真実」がある。それは、いつでも、どこでも、だれに対しても「ぴったり」重なる。この「ぴったり」は、この詩に書かれているのだが、その「ぴったり」を含む行を取り上げるか、「名前」の行を取り上げるか、私は、ずいぶん悩んだ。「ぴったり」の方に中井の、訳語の工夫があるかもしれない。工夫といえば。タイトルの「小アジアの田舎にて」にも工夫がある。中井の訳か、カヴァフィスの選択か判断できないが、「小」のなかには「大」が含まれている。どんな小さなところにも「真...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(44)

  • 松岡政則『ぢべたくちべた』

    ぢべたくちべた松岡政則思潮社松岡政則『ぢべたくちべた』(思潮社、2023年07月31日発行)松岡政則『ぢべたくちべた』の「通りすがり」。その書き出し。ひるめしは道端食堂で塩ゆでの田螺をピリ辛ダレで喰うたじんわりと情の深まる滋味で「じんわり」はだれでもがつかうことばである。「じわり」というときもあるが、「じわり」よりも重い感じが私にはする。重いといえば「ずしり(ずっしり)」という表現もあるが、「じんわり」の方がゆっくりだ。私の印象、私が自分の思っていることをつたえるとしたら。なぜ、こんなことを書くかというと。私はときどき詩の講師をしている。そして、受講生に対して、「この『じんわり』を自分自身のことばで言い直すとなると、どうなる?」と質問する。これに対する答えは、なかなかむずかしい。「じんわり」で「わかってし...松岡政則『ぢべたくちべた』

  • 室園美音「ミーハオ」

    室園美音「ミーハオ」(現代詩講座、2023年09月16日)受講生の作品。「ミーハオ」は、教師の家庭訪問の体験を書いている。彼女が訪ねていく小学生の紹介にはじまり、直前の訪問先で待っている児童につれていかれるようにして家庭訪問する。「時系列」通りに、そのときのことが描かれている。「ニーハオ」という中国語の挨拶の言葉を新鮮に使っていたころ原爆ドームからほど近い小学校で三年生の担任をしていたクラスの中ではやや小さめで魅力的な笑顔で笑うかわいい男の子がいたその子の苗字が三原であることから休み時間などみんなに「ミーハオ」と呼ばれていて人気者だった家庭訪問のとき三原くんの家は校区外だったのでその日の最後に予定を組んだ彼は仲の良い最後から二番目の女の子の家で待っていてくれて一緒に家に向かったお母さんは家の外で待っていて...室園美音「ミーハオ」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(43)

    主人公は「名哲学者の学校出」。サッカスのもとで哲学を学んだ。しかし、厭きた。政治に首を突っこんでみた。つまらなかった。キリスト教の教会にも顔を出した。曖昧宿の常連にもなった。顔のよさが幸運をもたらした。でも、将来は?いつでも誂え向きのがあるさ。「誂え向き」以外に、ことばがあるだろうか。この詩の主人公、甘えん坊にぴったりのことばではないか。甘えん坊とは、いつも「誂え向き」の世界に受け入れられて、のうのうと生きて行ける人間のことだが、なぜだろう、そういう人間と、その手の世界は「一体」になっているようにも感じる。それこそ「誂えた」ように。そして、そのことばはまた、この詩のために「誂え」られたもののようにも感じてしまう。「一体」になっている。************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(43)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(42)

    「ダレイオス大王」。詩人フェルナセスが、ダイオレスがペルシャの王位を奪う詩を書いている。ダイレオスは、そのとき何を思うか。そして、詩が完成する寸前に戦争が起こる。ダイオレスは逃げ出す。そのさなかに、詩のハイライトで悩んでいたことばが、確かなものになる。驕りと陶酔--これだ、一番確かなのは。この一行にある、絶対的な皮肉。もちろん戦争に勝ったとき「驕りと陶酔」がダレイオスを包む。しかし、敗北したときもまた「驕りと陶酔」が炸裂する。それは、思い出として。この一行を読んだ瞬間、私は、またも「船上にて」を思い出すのだ。恋をしていたあのときの、「驕りと陶酔」。それは恋人を失ったことでさらに絶対的なものになる。それしか残されていないのだ。「驕りと陶酔」、それだけが確かなのだ。この詩には「恋」の「この字」も書かれていない...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(42)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(41)

    「亡霊たちを招く」。ロウソクを一本だけつけて、淡い光のなかで愛の亡霊を招くのだが、この「招く」を、こう言い直している。この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る、「作る」。これは「招く」よりも強い。招いても来ないかもしれない。しかし、作れば、そこに存在する。「船上にて」のスケッチ(素描)と同じである。思いのままに、そこに存在させることができる。「亡霊」など存在しない。「まぼろし」も存在しないからこそ「まぼろし」というのかもしれないが、それは作ってしまえば存在するのだ。そのとき「愛の亡霊」はかつての恋人ではなく、詩人の「恋心」、「恋した瞬間の思い」にほかならない。**********************************************************************★「詩は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(41)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(40)

    「船上にて」。一枚の素描を見ている。だれが描いたのか、中井の訳では分からない。「甲板で一気に描いた」という行がある。他の男が描いたのかもしれない。カヴァフィスが描いたのかもしれない。日本語は「主語」を省略できるので、そういう書き方ができる。そのあとに、こういう一行がある。似ている。でも奴はもっと美男だった。私ならもっと美男に描く、と読むことができる。しかし、そうではないだろう。私のスケッチはへたくそだ。彼はもっと美男だった、もっと美男に描くべきだったという後悔いが込み上げてくるのだ。もし「主語」が明示されていたら、生々しくなりすぎる。思い出しているということが、切実になりすぎる。でも奴はもっと美男「である」になってしまうかもしれない。「似ている」という現在形、「美男だった」という過去形。その「時制」の変化...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(40)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(39)

    「午後の日射し」。珍しく「女ことば」で訳されている。なんとなく、べたっとした響きに聞こえる。ああいう古い物って、まだ身のまわりに漂っているのね、きっと。この「漂う」という動詞が、それこそ「身のまわりに」からみついてくるようで、重たい。それに追い打ちをかけるように、「きっと」がつづく。もし「男ことば」として訳するなら、「きっと」は行末ではないだろうなあ、と思う。この「きっと」には、追いかけてくるような「未練」がある。そして、実際、この詩は未練の詩である。そう思うと、この詩を「女ことば」として訳したのは、深い配慮があるのだ。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、s...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(39)

  • Estoy Loco por España(番外篇399)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiaz"Lahuida"Realizadaenbroncepatinado,hierropatinado,mide2mx75x50cm"Lahuida".¿DedóndeyadóndehuyeestehombredeLuciano?¿Dearribahaciaabajo?¿Deabajohaciaarriba?Imaginounmovimientodeabajohaciaarriba.Laesferaesunasemilla.Deellacreceunbrote.Nadiesabehastadóndecrecerá.Subehastadondecrece.¿Quéveráentonceselhombre?Noesunmundovistoatravésdeunaes...EstoyLocoporEspaña(番外篇399)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(38)

    「九時から」は、ちょっと複雑な詩である。十二時半。九時からの時間の早さ。九時から何かをし始め、十二時半になった。時がたつのは速い。主人公(カヴァフィス)は何をしたのか。何もしない。ただ思い出していた。そして、思い出すのは、若かったときだ。だから、ここに書かれているのは、実は九時から十二時半までの三時間半ではない。彼の長い年月のことを書いているのだが、では、なぜ九時からなのだろうか。十二時半までなのだろうか。たぶん。九時から十二時半まで、彼は楽しんだのだ。あるいは、十二時かもしれないが。毎日。それは、日課だったのだ。中井は「早さ」という表現を一行目でつかっているが、最後の方では「疾き」という表現をしている。わざと、「速さ」を「早さ」と、書いているだと思う。「十二時半、帰らなくては」「まだ早いじゃないか」。そ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(38)

  • Estoy Loco por España(番外篇398)Obra, Jesus del Peso

    Obra,JesusdelPesoEstaobradeJesústambiénesextraña.Existeenunaformainestablesobreunapiedrainestable.Normalmente,estaobracaería.Peroahísigue.Comosiserinestablefueraelestadomásestable.Contradicción.Eldescubrimientodecontradiccionespuedeserelarte.No,elartenoeseldescubrimientodecontradicciones,sinolacreacióndecontradicciones.Creaalgoquenoexiste.Nohaycontradicci...EstoyLocoporEspaña(番外篇398)Obra,JesusdelPeso

  • 細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」

    細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」(「雨期」81、2023年08月30日発行)細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」。後者にブローディガンが登場する。ブローティガンを読んでいるのかもしれない。はっきり覚えているわけではないが、細田のこんかいのことばはブローティガン共通するものがある。(私は日本語訳で読んだので、こういう書き方は、かなりいい加減なものだが、まあ、詩だから、いい加減なことを書いた方が、間違いを侵さずにすむかもしれない。)何が共通しているか。ことばが詩になる前に動き出す。その動きに引っ張られて、あ、この「直接性」が詩なのかと気づく。詩は、ことばと遅れてやってくる。「ヴァージャイナ」の一連目。スカートをつけてハイヒールをはいてエルメスのバッグをさげてコツコツコツ路上に靴音をたててヴァージャ...細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」

  • 山本育夫『ことばの薄日』

    ことばの薄日月録詩集2019.09-2020.02山本育夫思潮社山本育夫『ことばの薄日』(思潮社、2023年08月20日発行)『ことばの薄日』には、「博物誌」に発表されたときに感想を書いたものもある。書いたかどうか忘れたものもある。「しの居場所」の「し」は「詩」か。しがありそうなところにはしはないみんながしだとおもっているところにはしはいないしじんがしだとおもっているところにはしはいないしは薄い薄い皮膜のようなところにひっそりと棲息しているしはかぎりなくふつうのことばのふりをしている「ない」「いない」が「棲息している」「ふりをしている」にかわる。なぜ、私たちは「否定形」のまま語り続けることができないのか。どうして「いる」のような「肯定形」をつかわないと何かを語れないのか。しかし、この肯定形は積極的(?)な...山本育夫『ことばの薄日』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(36)

    「忘れるな、身体よ……」は、自分自身の「身体」に呼びかける詩である。忘れるな、ああ、きみを見つめていた眼の中の、あの憧れのきらめきよ。「ああ」が美しい。「あ」の「あ」こがれのということばのなかで、「ああ」が繰り返される。いや、「ああ」が「あ」の「あ」こがれのという音を先取りしているのだ。「ああ」がなくても「意味」はかわらない。しかし、詩は「意味」ではない。「あの」ということばは、話者と聞き手が「あの」について共通の認識をもっているときにつかわれる。自分自身の身体なのだから、詩人と共通の認識をもってるのは当然なのだが、その共通の「あの」の「あ」が和音となって重なり、和音となって散らばる。この重なりと分散が、ああ、美しい。********************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(36)

  • 山本育夫『こきゅうのように』

    こきゅうのように月録詩集2020.04-2022.01山本育夫思潮社山本育夫『こきゅうのように』(思潮社、2023年08月20日発行)山本育夫『こきゅうのように』は『ことばの薄日』と同時に刊行された。以前「博物誌」に何篇かの詩の感想を書いた。しかし、『HANAJI』(2022年2月)以降は、感想を書いていない。「博物誌」で、たしか「私の好きな詩」というエッセイの特集をやったはずだが(私は山本かずこの詩集を取り上げ感想を書いたはずだが)、その特集号のときから、「博物誌」が私のところには届かなくなったからである。たくさんの有名詩人が寄稿しており、他の詩人に寄贈したら、部数がなくなったということかもしれない。山本が多忙になったのか、あるいは病気が重くなったのかもしれない。というわけで、ひさびさに山本の詩を読んだ...山本育夫『こきゅうのように』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(35)

    「カイサリオン」。この詩のテーマは「事実とは何か」である。だからこそ、次の行が登場する。きみの魅力は不確定性にある。「事実がわからない」。では、そのとき、ひとはどうするか。カヴァフィスは、どうしたのか。私の好きなことばで言えば「誤読する」。誤読には、誤読することでしかたどりつけない「真実」がある。「不確定性」は「誤読」を推奨する。その結果、どうなったか。詩を読んだ人だけがわかる。それでいい。詩を読まないひとに、結果を知らせる必要などない。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。メール(宛て先=yachisyuso...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(35)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(34)

    「アチュルの月に」は若くして死んだレウキオスの墓碑銘を読む詩。古い墓碑銘なので、ところどころの文字が欠けている。自然に欠けたのか、だれかが消したのか、それはわからない。その文字を拾いながら、読む。ふたたび「涙」「その友たる(われらの)愁い」。(われら)はカヴァフィスが補ったことばである。ほんとうは違う文字だったかもしれないが、カヴァフィスは詩の登場人物に、そう読ませている。そのとき、カヴァフィスは「われら」になる。想像力に加担することは、その想像力の人物になるということだ。もし、「われら」が「誤読」だとしたら、それは「加担」を通り越して、想像力を「引き受ける」ことである。引き受けなければならないカヴァフィスの「真実」、「間違わなければたどりつけない真実」がある。**********************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(34)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(33)

    「宵闇」は終わってしまった恋の詩。その最終行。せめて思いを散じたかった。和泉式部の「君恋ふる心は千々にくだくれど一つも失せぬものにぞありける」を思い出した。しかい、意味(論理)は逆になるかもしれない。カヴァフィスは、恋しい気持ちが強すぎるので、いろいろなものの上に思い散らすことで、安らぎを得ようとしている。もちろん、散らしたところで、散らばって消えていくものではなく、やはり「ひとつ」として失せず、無数なのに「ひとつ」に感じてしまうのが恋だろう。だが、そういった論理(意味)ではなく、私は、「散ずる/散じる」ということば、その音に、私は引きつけられる。意味はわかるが、私はぜったいにつかわない。そして、私のつかわないことばの存在が、詩に不思議な距離感をもたらす。主観的な共鳴を拒んでいるようにも感じられる。和泉式...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(33)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(32)

    「彼等の神々の一柱」。「彼等」は「私たち」ではない。そこには明確な区別がある。そして、「神」とは、「私たち」がけっしてなれぬ存在である。二重に「私たち」ではない。だから「彼等の神」ということばを発するとき、そこには拒絶がある、と言えるかもしれない。あるいは、蔑視が。人々は首を傾げた。ありゃどの神さまだ。「ありゃ」には、「違った存在」に対する蔑視が露骨にあらわれている。それなのに、その蔑視をそのまま受け入れているのは、カヴァフィスには「わしら」のことは「きみら」にはけっしてわからないという矜持があるからだろう。中井は、この矜持を「ありゃ」という口語、他者の発したことばのなかに籠めている。複雑に交錯した愉悦が駆け抜けていく詩である。***************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(32)

  • 木谷明「パスポートセンターで」ほか

    木谷明「パスポートセンターで」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年08月21日)受講生の作品。パスポートセンターで木谷明台風の前日にすでに旅先のような顔をしている人達がなにをそんなに話し込まれて立ちんぼで待たされてひときわ一人だけ友人なのかと見つめてしまう親しげに話す№8の窓口の女性の菱形の髪型にみとれていたそこに呼ばれてしまった美しいその人は書類をてきぱきこなす全部事項の謄本をわたしは閉じたまま渡す写真を出して免許証を返されてその手と口でいまわたし何を返しましたっけ同じ作業の繰り返しで分からなくなって何でも聞いてくださいにっこりしていうと国内連絡先は娘さんなんですね遠方の住所に目を落とし出来上がりは十六日ですお使いの予定はないとのことですからお忘れにならないでくださいね不規則の一瞬は除籍こうしてパス...木谷明「パスポートセンターで」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(31)

    「詩人アンモネス、六一〇年没、享年二九歳に」。詩人ラファエルに、詩人アンモネスの墓碑銘を依頼する。依頼するのは親しかった仲間だ。わしらの生活を行間に籠めてくれ。「わしら」とは「私とアンモネス」のことではない。「わしらとアンモネス」のことだ。このとき、アンモネスは「飾り」で、「わしら」そのものが主役なのだ。あるいは「生活」そのものが主役なのだ。個人(故人)ではなく、その「生活」。「街路にて」に「その子」が登場したが、「詩人アンモネス」は「その子」と呼ばれるひとりなのだ。ある人間を「その子」と呼ぶとき、「その」によって共有されるものがある。「その生活」がある。「わしらの生活」とは「その生活」なのだ。********************************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(31)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(30)

    「イグナチオスの墓」。墓碑銘。そのなかに、わが二八年、まさに消去さるべし。いつも、こころが震える。この詩は、「過去は消し去り、以後は聖職者として生きた」とつづくのだが、私はまったく違う意味で受けとめ、こころが震えるのだ。私は何年生きることになるのか。知らない。しかし「わが〇〇年、まさに消去さるべし。」というのは、私の理想の死だ。だれかが消し去ってくれるわけではない。自分自身で自分を消し去らなければならない。すべてを、ただ消し去りたい。墓碑銘はもちろん、墓もいらない。何もない、「完璧な無」を知りたいという欲望があって、なかなか死ねないという矛盾を私は生きている。**********************************************************************★「詩は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(30)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さんをフォローしませんか?

ハンドル名
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さん
ブログタイトル
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
フォロー
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用