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  • 第6回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 5」顕現と戯論の関係性について 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日

    明日からお盆月。いよいよ忙しくなるため、昼からも収録。引き続き戯論について。やっとミニ法話らしくなった、、第6回仏教ミニ法話「勝義と世俗5」顕現と戯論の関係性について岩瀧山往生院六萬寺2024年7月31日https://youtu.be/dH3NoFky-Hk?feature=shared第6回仏教ミニ法話「勝義と世俗5」顕現と戯論の関係性について岩瀧山往生院六萬寺2024年7月31日

  • 第6回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 5」顕現と戯論の関係性について 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日

    明日からお盆月。いよいよ忙しくなるため、昼からも収録。引き続き戯論について。やっとミニ法話らしくなった、、第6回仏教ミニ法話「勝義と世俗5」顕現と戯論の関係性について岩瀧山往生院六萬寺2024年7月31日https://youtu.be/dH3NoFky-Hk?feature=shared第6回仏教ミニ法話「勝義と世俗5」顕現と戯論の関係性について岩瀧山往生院六萬寺2024年7月31日

  • 第5回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 4」戯論について 離戯論とは 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日

    戯論についてやっと少し短く15分に収めた。前回のようなリップノイズもない。ただ、カラスの鳴き声が(😣)第5回仏教ミニ法話「勝義と世俗4」戯論について離戯論とは岩瀧山往生院六萬寺2024年7月31日https://youtu.be/XbheRwyih18?feature=shared第5回仏教ミニ法話「勝義と世俗4」戯論について離戯論とは岩瀧山往生院六萬寺2024年7月31日

  • 第4回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 3」般若心経について 般若心経の説く無とは 常見と断見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月30日

    もう8月に入れば無理になるだろうとして、何とか時間のあるうちにとして、続けて撮りましたが、話し方など色々と改善が必要だと改めて思います・・朝イチで撮るのも良くないですね・・頭が全く回っていない・・第4回仏教ミニ法話「勝義と世俗3」般若心経について般若心経の説く無とは常見と断見岩瀧山往生院六萬寺2024年7月30日https://youtu.be/yHfaHsiai1g?feature=shared第4回仏教ミニ法話「勝義と世俗3」般若心経について般若心経の説く無とは常見と断見岩瀧山往生院六萬寺2024年7月30日

  • 第3回 仏教ミニ法話「如来の無顕現とは」 衆生凡夫の顕現のあり方について 中観 断見と常見 悪取空見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月29日

    月2~3本のはずが、3日連続でもう3本・・しかもまた10分で収まっていない・・第3回仏教ミニ法話「如来の無顕現とは」衆生凡夫の顕現のあり方について中観断見と常見悪取空見岩瀧山往生院六萬寺2024年7月29日https://youtu.be/ATxdBo7_EH8?feature=shared第3回仏教ミニ法話「如来の無顕現とは」衆生凡夫の顕現のあり方について中観断見と常見悪取空見岩瀧山往生院六萬寺2024年7月29日

  • 如来の無顕現とはいかなる事態か

    如来に顕現しているものは何も無いといっても、それで、世界、宇宙に存在してあるものや現象が何も無いといっているわけではもちろんない。顕現とは、心に顕現しているものという意味である。感覚器官から入ってきた外部のものによることもあれば、心自身の側から現れてくるものも当然にある。後者は、業や煩悩、無明の力によるのである。こちらが大いに問題なのである。例えば、視覚されるものとか、そういう感覚器官を通じて入ってくるような表層的なものだけからの認識によるのではないということである。死んで、全ての感覚器官が止んでも、また、今の肉体が無くなっても、微細な心(次の輪廻へと向かう心)には心自身から(無明・煩悩・業により)現れてくるものが、無数に実はあるのである。(厳密には、心だけの存在というわけではなく、中有においても体となる...如来の無顕現とはいかなる事態か

  • 第2回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 2」 空と縁起 悪取空見の典型例 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月28日

    初回に続いて、仏教で最も難解となる後期中観思想における二諦説を扱うことになりましたが、これまで二諦をめぐっては、長らくある誤解や偏見によって、議論がややこしくなってしまっているだけで、本当は極めてシンプル、簡単な説であります。結局、補足が必要となり、しかも今回も10分では収まらなかった・・反省だ・・第2回仏教ミニ法話「勝義と世俗2」空と縁起悪取空見の典型例岩瀧山往生院六萬寺2024年7月28日https://youtu.be/BRco_qS2awI?feature=shared第2回仏教ミニ法話「勝義と世俗2」空と縁起悪取空見の典型例岩瀧山往生院六萬寺2024年7月28日

  • 悪取空見、「一切は縁起し空である」縁起について

    悪取空見の最たるは、一切空を理由として、悟れる、救われるとすることです。まあ、もとから一切空なのであるのだから、それなら輪廻の衆生、迷い苦しむ自分なども、もとから存在しない、していないことになるわけです。しかし、実際の現実は、自分自身も含めて、衆生は全くそんなわけなどはなく、一切空だからとして、悟れる、悟れている、救われる、救われているわけなどないのであります。結局のところは、輪廻、迷い苦しみの原因となっている無明、煩悩を対治しない限り、悟れることなどないのであります。また、「一切は縁起し空である」という場合の「縁起」は、世俗の側で「空」を理解するための便宜的な概念であり、仏陀、如来の側からは、「縁起」もあくまでも世俗、衆生の側の顕現してある世界におけることであるため、空性現量了解しかなされていない仏陀、...悪取空見、「一切は縁起し空である」縁起について

  • 浄土真宗本願寺派の『伝わる伝道』

    結局は、現世利益、一番は執行部自分たちの利益(がっぽり報酬)のために、余計なこと、全く必要ないことも、世間一般企業では当たり前にやっていることだからとの理由と、やってるよ感を出すためのPR&PRでもあるのでしょう…もちろん効果はなしどころか、混乱と停滞、悪評のマイナスだらけ、、本当に笑えない、、浄土真宗本願寺派の『伝わる伝道』

  • 第1回 仏教ミニ法話「勝義と世俗」 仏陀の認識論 蔓延る悪取空見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月27日

    16分、、初回から内容が内容だけに、10分では収められなかった、、とても説明しきれない。また補足をちゃんとしていきたいと思います。しかも、表題、法話が法語になってるし、、泣く第1回仏教ミニ法話「勝義と世俗」仏陀の認識論蔓延る悪取空見岩瀧山往生院六萬寺2024年7月27日https://youtu.be/PdcgnRdb5_k?feature=shared第1回仏教ミニ法話「勝義と世俗」仏陀の認識論蔓延る悪取空見岩瀧山往生院六萬寺2024年7月27日

  • 仏陀の認識「無分別」とは

    仏陀の現量には何も顕現しておらず、ただ映えているのは澄み渡る虚空の如き空性のみである事態を「無分別」と言うだけで、もちろん、それで、衆生の側の顕現が無くなっているわけではないのであります。また、衆生の認識、心、業、輪廻のありようも、対治していかない限り、そのまま進行しているのは何ら変わらないままなのである。これが理解できていないために、「新しい領解文」問題も、「疑心往生」説も出てきてしまっているのは、これまで何度も指摘してきた通りである。これを機に、古典的な空の間違った説や理解を改めることが、問題の解決、今後、同様の問題を起こさないための道筋となるのであります。・・一切知とは、我々に顕現している世界のあらゆるモノ・コトを隅々まで知ることではない。仏陀の認識には何も顕現しておらず、映えるのは澄み渡る空性しか...仏陀の認識「無分別」とは

  • 一切知とは

    一切知とは、我々に顕現している世界のあらゆるモノ・コトを隅々まで知ることではない。仏陀の認識には何も顕現しておらず、映えるのは澄み渡る空性しかないのである。一切知とは、衆生一人ひとりの顕現してあるありようを、衆生一人ひとりの認識を通して(借りて)ご覧になられて、その者の心、業のありようを過不足なくにお知りになられることなのである。全ての衆生の個々の心、業を知ることができるから、一切知者と呼ばれるのである。ただ、法身にて空性のみを現量で了解なさられているだけでは、衆生を救済することは仏陀であってもできない。仏陀は、福徳資糧により得たる色身による慈悲、方便の力にて、済度をお図りになられるのである。色身が、衆生一人ひとりの認識してある顕現を、その衆生一人ひとりの認識を借りて、把捉されて、衆生一人ひとりの心、業の...一切知とは

  • 仏陀・如来の認識論

    ラモジョマ氏の論文からタルマリンチェン大師の論書を何度読み直しても分からなかったが、やっと理解ができたことなのではある。私たち、それぞれの顕現してあるありようは、それぞれ自身の業によって映し出されてあるのである。だから、仏陀は、その人それぞれの顕現のありようを、それぞれその人の認識を借りてお知りになり、それにより、それぞれの業についてお知りになられるのである。唯識をしっかり学ばないと中観の最終まで理解ができない。これで顕教がやっと修まることになるチベット仏教の凄さである。仏陀・如来の認識論

  • ツォンカパ大師の認識論

    厳密には、ツォンカパ大師の認識論では、世俗の顕現のありよう、我々に映えてあるような顕現は、仏陀の色身にも顕現はされないのである。如来が世俗の顕現をご覧になるあり方は、仏陀自身の認識によるのではなく、他人の認識を借りられて認識なさられるのである。要は、凡夫に顕現してあるものを凡夫の認識を借りて知られるとされるのである。つまり、凡夫の心をご覧になられて、その顕現を知られるわけなのである。しかし、凡夫の顕現のあり方が如来にとって必要なわけではなく、あくまでも必要となるのは、済度へ向けて凡夫の輪廻、心、業のありようを知ることである。ここから推測されるのは、凡夫の顕現のありようを知られるのは、その者の輪廻、心、業のありようをお知りになるためではないかということである。中観で、一切唯心造、唯識が重要となるのもこのため...ツォンカパ大師の認識論

  • 「南無阿弥陀佛」の名号は仏の方便身か?

    浄土真宗の場合、法身の阿弥陀如来が、私たちをお救いくださることになりますから、阿弥陀如来法身仏(法性法身)が私たち一人ひとりの心、認識、業のありようを認識されているのではないでしょうかと。これは難しい質問であり、法身そのものにより救われるわけではなく(浄土真宗では、真実浄土へ往生後は、法身によって救われる、成仏できるとは考えますが)、具体的には方便(色身、報身、応身)によってのはたらきによるところとなりますから、あくまでも私たち一人ひとりの心、認識、業のありようを認識されて量られるのは、厳密には法身では無いと考えられるのであります。もちろん、もともと一体である存在を、ただ便宜的に分けてあるだけで、法身と色身を同体と見なせば、法身が量られてあるとも言えるわけですが、はたらきのあり方を考えると、やはり色身によ...「南無阿弥陀佛」の名号は仏の方便身か?

  • 如来の慈悲の平等性とは

    如来の認識には、空性しか映えないとなれば、衆生救済、慈悲の事業は成せないことになります。空性しか映えない如来の認識に、どのようにして輪廻にある衆生のありようが認識されるのか?これが福徳資糧により獲得したる方便の力、つまり、色身の力によるものであり、報身、応身において、ご覧にならない仕方にてご覧になられるあり方、離戯論のみをご覧になられるあり方にて、衆生の様子(個々人の心、認識、業のありよう)を量られるわけなのであります。特に応身であれば、私たちと同様に六識を用いてご認識なさられることもあるのであります。無分別智に対する誤解は、一切空を認識される如来の智を、一切空で、皆同じ、平等だと勘違いすることによる間違いなわけであります。平たく言えば、如来の現量では、全ては空性と認識されているだけで、世俗の縁起、因縁、...如来の慈悲の平等性とは

  • 如来の慈悲の平等性とは

    如来の慈悲の平等性とは、衆生、六道、個々人それぞれの輪廻・業のありようと、悟りへ必要な資糧をリアルタイム、進行形で過不足なく把捉なさられることを言うのであります。如来は、悟りに向けてそれぞれにおいて何が必要かを、差別なく、忖度もなくに見極められるのであり、これが、如来の智慧と慈悲による力なのであります。間違った例は、悟りへ必要な資糧を与えて下さって、悟りラインに並列に並べて頂けると思うことであります。浄土門の場合は、往生ラインと置き換えるとよいでしょう。往生への資糧を阿弥陀如来が皆に与えて下さると思ってしまう間違いになります。もちろん、そんな都合の良い話にはならないのですが、もしそうなら、阿弥陀如来が法蔵菩薩から成仏なさられた際に、衆生は皆、阿弥陀如来の本願により往生ライン、悟りラインに引き上げられて輪廻...如来の慈悲の平等性とは

  • 如来の慈悲の平等性について

    難しい問いを頂いたが、如来のお垂れになられて私たちそれぞれに向けて下さる慈悲の平等性は、無分別智を根拠とするものでないとしたら、何を根拠とするものであるのか。無分別智と言ってしまうと誤解が生じやすくなるため、如来の認識のあり方を便宜的に如量智、如実智と分けて、そのいずれかとなれば、それは、如量智を根拠とし、空性を現量で了解なさられつつに、凡夫の認識している世俗のありよう、凡夫それぞれの認識し、迷い苦しんであるありようを、それも個々、一人ひとりのそれぞれのありようについて、ご覧にならない仕方で、ご覧になられるのであります。慈悲の平等性とは、差別なくに個々人それぞれの迷い苦しみのありようだけではなく、それぞれの悟りへと向けたありようまでもを、如実に認識なさられてあるということを表わすものだと考えられるのであり...如来の慈悲の平等性について

  • 疑心往生説の問題点について

    疑心論争にあまり首を突っ込むと、そのうちに「聞け川口英俊川口英俊を救いたい」と、いつか枝廣慶樹氏にやられますよ、と忠告を頂いた、、それはどうかご勘弁を。とにかく、疑心往生の問題は、信心があろうが、なかろうが、疑心があっても、なくても、どんな信心であっても救われるとしたならば、それなら結局、なんでもありで救われることになり、教義の無用化、無効化となりかねないのであります。また、阿弥陀如来の本願のみで、皆、何をせずとも、信心があろうが、なかろうが、疑心があろうが、なかろうが、救われるものであるとするならば、輪廻の衆生、凡夫など、既に阿弥陀如来が如来となられた際に、皆、本願によって救われているはずなのであるが、実際には全くそうでないわけです。現実的に、輪廻の迷苦にあり、救われてない衆生、私があるわけですから、阿...疑心往生説の問題点について

  • 「新しい領解文」も「疑心往生説」も、その誤謬の共通した元凶となっているのは、「悪取空見」であると考えられる

    先に述べたように「新しい領解文」も「疑心往生説」も、その誤謬の共通した元凶となっているのは、「悪取空見」であると考えられ、それは、「空と縁起」、「無分別と分別」についての浅薄な理解から発してしまっていると思われるのであります。現代の日本仏教においても、「空>縁起」、「無分別>分別」と、空、無分別の方に比重が偏ったモノサシで仏典や論書、教義の意義を測ろうとしてしまうため、それが間違いを起こす原因となっているわけです。両者は、対等な概念性相互補完の関係にあるのであり、この対等な概念性相互補完の関係を「空=縁起」、「無分別=分別」として説明されてあるのが、「○○即○○」と言ったものにもなるのですが、いかんせんどうにもこれも誤解を招きやすい表現であるのです。この誤解を正すのに苦心なさられたのが、中観思想を大成なさ...「新しい領解文」も「疑心往生説」も、その誤謬の共通した元凶となっているのは、「悪取空見」であると考えられる

  • 無分別(空)についての誤解・誤謬が問題の根底としてある

    先日の岡林さんと問題にしていることの論点が異なるということについて読まれた方から、浄土真宗の「信心」を甘く見積もっていないという点では、瓜生崇氏と(拙生は)同じ立場になるのではないかと。確かに瓜生氏の主張は、一見、疑心はなくならない、完全、完璧な信心など、凡夫には不可能であるということで、信心を甘く見積もってはいないとは言えますが、拙生は、かなり難しいものではある(菩薩の第八地以上の同レベルの境地は必須)ものの、可能であると考えています。では、より具体的にどのような違いがあるのかとなると、他力信心へ至るための、他力における救いの根拠について、如来の慈悲はもちろんながら、瓜生氏は、如来の智慧の側、それも無分別の智慧に比重を掛け過ぎているのではないだろうかと思われるわけであります。つまり、如来は差別なく衆生も...無分別(空)についての誤解・誤謬が問題の根底としてある

  • こどもろくまんじ「夏の子ども祭り」・8/21「こども花火まつり」案内

    地元こどもろくまんじ「夏の子ども祭り」案内のポスターが届きました。8/21「こども花火まつり」は、昨年に続き、往生院の駐車場にて開催が決定!19時20分スタートお楽しみコーナーも予定しています。是非、親子でお越し下さい。駐車スペースは僅かしかありません。徒歩圏内の限定になりますが、ご容赦下さいませ。周辺少しは停めれるスペースもありますが、遠方からでない場合は、極力、徒歩でお越し下さい。雨天の場合は、翌日に延期になります。ご興味ございましたらLINEを登録下さいませ。お得情報もあります。こどもろくまんじ「夏の子ども祭り」・8/21「こども花火まつり」案内

  • 浄土真宗本願寺派「伝わる伝道」の問題

    本来、浄土への道を伝えるべきが、外道を伝え、邪教となり、ビジネスへ特化した成れの果てが伝わってくる伝道、、凋落を象徴するかの落ち葉マークと言ってしまったら、これは余計かもしれないが、教義のド素人連中が宗門運営に関わり、やることなすこと全てが裏目ったということであるのだろう…哀れすぎる。浄土真宗本願寺派「伝わる伝道」の問題

  • 岡林俊希氏との論点の違い

    (瓜生崇氏が)親鸞会講師の頃のように戻ったのか、自分がカルト的に、ミイラ取りがミイラになったということかとの意見も頂いたが、それは少し違うようには思う。先のポストでも書いたことは、例えば、身近な政治の世界においても言えることなのでもある。人気、支持、現状を維持しようと、有権者、世論など、その大衆側の欲している、望んでいるもの、考え方、思想へと論調、政策が偏っていくことになる場合があるのと同じなわけです。そうなると政治の場合では、公約違背や政策的な矛盾に、宗教の場合では、教義的な矛盾に陥りやすくなるということです。岡林さんは、カルト問題を宗教一般の括りから論じることによる弊害により、真宗における教義的あるべき論に対しての齟齬が生じているとの見方であるが、拙生とは論点がやや異なるのであります。https://...岡林俊希氏との論点の違い

  • 瓜生崇氏の本願寺派教学を逸脱していると見られている考え方、偏りの問題のその背景について考える

    もう7回以上、通しで視聴させて頂いた。やはり、日本の仏教、伝統教団、新興教団に限らずに、問題が出てくる原因の大きな要素には、悪取空見が根深くあると改めて考えさせられることになった。いや、悪取空見的思想が、長年にわたり日本において蔓延、浸透してしまっており、すでに麻痺しているために、ほぼ当たり前的なもの、なんとなく正しいものとして受容されてしまっている、その弊害であるとも言えるだろう。それは、日本仏教に留まらず、哲学思想においても、例えば、戦争利用された鈴木大拙哲学や西田幾多郎哲学も同様の悪取空見的な問題を抱えていたわけなのでもある。少し前の話になるが、小池龍之介氏の解脱騒動も悪取空見によるところが明らかなものであった。最近、進行形で最も顕著なのが「新しい領解文」騒動なのである。そして、この度の瓜生氏の本願...瓜生崇氏の本願寺派教学を逸脱していると見られている考え方、偏りの問題のその背景について考える

  • 楠木正行公の終焉地・楠木正行公御墓所について

    あれから上四条へは調査に全く行けていない・・楠木正行公の終焉地は、東大阪市上四条が有力地であるには変わらないが、ウィキペディアの解説はいまだに酷いものだ・・お墓も、四條畷のお墓より、歴史的な由来も、文献学的にも明らかに古いのは上四条の方なのである。もちろん往生院も上四条と同等以上に古い由来である。まあ、当寺には、楠木正儀公が、戦没翌年に楠木正行公供養のために往生院を訪れている。黙庵禅師より秘密裏に伝え聞いた楠木正儀公が、お墓参りの供養と楠木家頭領を継いだことを報告しに来たと考えられるので、その疑いはない。とにかく四條縄手古戦場の調査も早く進めたいが・・西光寺跡ももう少しで決着がつく。彼岸が終わるまでは再開が難しいか・・楠木正行公の終焉地・楠木正行公御墓所について

  • 2040年・河内往生院・開創1000年 2045年・河内六萬寺・開創1300年 2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年 記念事業・大法会へと向けて 2024年7月15日

    小林義孝先生から、金堂跡、国の史跡指定化についてアドバイス頂いたことから、少し先のことを考えてみた・・金堂の国史跡指定化、金堂復元建立、落慶大法会(日想観・来迎会練供養併修、行基菩薩像・安助上人像建立開眼併修)、四條縄手古戦場史跡指定化、供養塔・記念碑建立、復元建立金堂での楠木正行公大遠忌法会・・あと16年~24年後の話となるが・・2040年・河内往生院・開創1000年2045年・河内六萬寺・開創1300年2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年記念事業・大法会へと向けて2024年7月15日https://youtu.be/7xhHFRvPGNQ?feature=shared2040年・河内往生院・開創1000年2045年・河内六萬寺・開創1300年2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年記念事業・大法会へと向けて2024年7月15日

  • 河内・往生院の世界 アクロス歴史アカデミー2024前期 河内・往生院の成立 中興・金堂の建立 河内・浄土院との関係 解説資料

    事前に、万が一のため収録しておいた動画が、かなり役に立った。あとは動画内で言及していない要点を、動画を都度止めて補足して説明するだけで済みました。特に補足点は、摂関政治を支えた興福寺の一乗院・大乗院の門跡寺院が果たした役割について、また、春日大社の元春日が、枚岡神社など生駒西麓に点在してあることなど。つまり、中臣氏(藤原家)の先祖のルーツ、その力の源となったのが、元々は古来生駒西麓にあったということについて。更に、河内浄土院の当麻曼荼羅が、南北朝時代に修複されるに至った経緯についての推論など。まだまだ補足したいこともありましたが、続きはまたこれからの動画にて言及したいと思います。河内・往生院の世界アクロス歴史アカデミー2024前期河内・往生院の成立中興・金堂の建立河内・浄土院との関係解説資料https:/...河内・往生院の世界アクロス歴史アカデミー2024前期河内・往生院の成立中興・金堂の建立河内・浄土院との関係解説資料

  • >アクロス歴代アカデミー2024前期 第3回「河内往生院の世界」無事に終わる

    アクロス歴代アカデミー2024前期第3回「河内往生院の世界」、無事に前座講師としての役割を終えました。また、有り難いことにYouTubeでも講座の様子を公開して頂けるようです。講座で使用した拙動画は、また近々に限定公開から、公開へとさせて頂きます。小林義孝先生から、金堂跡は国指定の史跡にする価値が、十分にあることも教えて頂きました。16年後、2040年には、安助上人往生院開創1000年となります。2040年、開創1000年に、国の史跡指定と共に、日想観、来迎会などの特別記念法会をできれば有り難いことになると考えております。余談ながら、四條縄手の戦い、楠木正行公の終焉地論争も最後に少し再燃。小林先生はもちろん大東北条説(四條畷市と大東市の境目付近)、もちろん、拙生は、東大阪四条説である。もしかしたら、近々に...>アクロス歴代アカデミー2024前期第3回「河内往生院の世界」無事に終わる

  • 現代日本仏教においては、傾向として、悪取空見的な思想が、出てくる問題の根っこ部分に少なからずあるように思われる

    別の話題のポストへのコメント返信となるが、現代日本仏教においては、傾向として、悪取空見的な思想が、出てくる問題の根っこ部分に少なからずあるように思われるのである。引き続きに考えていければ、、今は本願寺派の新しい領解文問題がクローズアップされてしまいますが、全体的な傾向としてもあるのかもしれません。大なり小なりに起こっており、岡林愚聞さんの最新の動画を拝聴して、現代日本仏教全体的に問題が生じる根にあるのは、結局のところ悪取空見であるのだろうな、と、、、・・「正しい」ということに焦点を当てると、かなり相対性の高い問題となるため、非常に難しい議論となるわけでありますが、先のポストのコメント欄において、少し触れたことで、浄土真宗の聖教の説く正しさについての個々人における正しい認識に対して、それを握るな、手放せ、執...現代日本仏教においては、傾向として、悪取空見的な思想が、出てくる問題の根っこ部分に少なからずあるように思われる

  • 瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想3

    「正しい」ということに焦点を当てると、かなり相対性の高い問題となるため、非常に難しい議論となるわけでありますが、先のポストのコメント欄において、少し触れたことで、浄土真宗の聖教の説く正しさに対しての個々人における正しい認識に対して、それを握るな、手放せ、執着するな、となれば、それはもう浄土真宗でもなくなり、ただの一種の悪取空見的な思想の押し付けとなる可能性もあるのであります。そのような懸念について岡林さんがおっしゃっているとすれば、教義についての正誤の審議以前の問題となるわけです。「それ(聖教に基づいた正しい認識)を握るな、手放せ、執着するな」となれば、それも思考停止へと向けたいざないの一つとなってしまうこともあるのであります。一時流行った、何も考えるな、一切を離しなさい、全てを流しなさい、何も執着するな...瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想3

  • 瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想2・無分別智について

    無分別智について浄土真宗の教義の中で議論する違和感の原因が、この動画を拝聴して何となくわかってきた。浄土真宗は、往生や悟りへと向けた智慧のありようを扱うわけではなく、如来の慈悲の側面を重視した往生論、成仏論を扱うわけだから、本来、凡夫が悟りへと至るための智慧や空性理解を前提とした無分別智に関しての議論については、色々と誤解、誤謬がつきまとうのも当然なことなのである。やたらと、空だの、縁起だの、無分別だのと言い始めたのも、如来の慈悲の面だけでなく、智慧の面についても、やっぱり仏教であるならば、当然に考えていかねばということであったとも言えるが、いかんせん、そんな智慧を不必要であることを前提とする、むしろ否定する教義であるのだから、そもそも矛盾的あり方に陥るのもやむを得ないわけなのである。瓜生さんが、単純に分...瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想2・無分別智について

  • 瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想1

    まだ半分しか観れていないのだが…相対性の高い「正しさ」の議論よりも、もっとわかりやすい「思考停止」に焦点を当てた方が説明ができるようには思うが、ただ、浄土真宗には、考えるな、はからうな、自分のはからい、自力を全て捨てて、弥陀の救い、本願をそのままいただけと、教義を単純化してしまうと、ある意味では「思考停止」へのいざないに陥る危険性が常に孕んでいるのである。あるいは、みんな弥陀本願により救われるから大丈夫、とか、疑心あっても大丈夫、みんな弥陀の救いにあずかれるから、などや、個々人のどんな信心、味わいも全肯定、または逆に全否定するようなものも、思考停止へのいざないとなりかねない。それは、やがて教義そのものの無効化、無意味化にもつながるが、この思考停止により、全依存していく、させていく絶対的存在となる教祖を誕生...瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想1

  • 仏教「ミニ法話」配信のご案内 ミニ法話をはじめます コメント・オン リクエスト・質問はこちらのコメント欄まで コメント専用動画

    少しずつお盆の施餓鬼塔婆を書きながら、そろそろ法話をどうしようかと考えていたが、今回はアンケートのような形として、それを基にテーマ・話題を決めて、YouTubeでミニ法話を少しずつアップして、視聴してもらう形式でお応えしていこうかと考えている。いつも法話で思うのは、どうしても伝わりにくい、理解してもらいにくいということである。もともと難しい仏教用語もたくさんあるだけに、なかなか聴いて頂くだけでは理解が及ばないことも多々となる。もちろんこれまでの法話ではフリップを多用してきたわけではあるが・・とにかく、サブチャンネル(メインがどこかへいってしまった・・)となるが、YouTubeでアップしてきた歴史考察に関する動画は、メモやフリップ、図、文献等を示しやすくしたために、視覚的にも分かりやすいだけに好評であり、こ...仏教「ミニ法話」配信のご案内ミニ法話をはじめますコメント・オンリクエスト・質問はこちらのコメント欄までコメント専用動画

  • 『瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解』

    えだぽよ氏による批判、忠告は、親友と言いながら親友ではなかったようなので、どないやねんと思ったが、今回の岡林さんの分析には非常に興味がある。まあ、瓜生氏が、本願寺派でカルト対策や真宗の話をするならば、まさに「新しい領解文」問題には、間違った教義による強制カルト化への要素、反教義の独善的要素が強くあるため、非常に良い材料になり、本来、門外漢の拙生などよりも、猛烈な批判、反対があってしかるべくだとは思うのである。えだぽよ氏の批判動画の中では、個々人の味わいをそうは深くに吟味することなく肯定的に認めていこうとする傾向がみられたのはあまりよくないと思っている。それも結局のところ教義なんかいらん、なんでもありになりかねないからだ。このような傾向は、東本願寺・大谷派的な個々人の味わいを重視することによるものが、西本願...『瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解』

  • 「宗門正常化」へ向けた協議会が発足 西本願寺・本願寺派

    この発足した「宗門正常化」へ向けた協議会が、最後の防波堤になるのかどうかが注目になります。・・今の西本願寺・本願寺派は、外道の輩、奸臣、曲学阿世の徒が蔓延り、真宗でもなくなり、仏教でもなくなり、宗門として危機的末期の哀れな酷いありさまであるが、他宗派においても対岸の火事ではなく、他山の石として注視しておくのが肝要と考えます。更に一体何が元凶となったのかを見極めておくのも大切なことであります。第二、第三のオウム真理教や統一教会、破壊的カルトを生み出さないためのヒントにもなるでしょう。「宗門正常化」へ向けた協議会が発足西本願寺・本願寺派

  • 今の西本願寺・本願寺派は、外道の輩、奸臣、曲学阿世の徒が蔓延り、真宗でもなくなり、仏教でもなくなり、宗門として危機的末期の哀れな酷いありさま

    今の西本願寺・本願寺派は、外道の輩、奸臣、曲学阿世の徒が蔓延り、真宗でもなくなり、仏教でもなくなり、宗門として危機的末期の哀れな酷いありさまであるが、他宗派においても対岸の火事ではなく、他山の石として注視しておくのが肝要と考えます。更に一体何が元凶となったのかを見極めておくのも大切なことであります。第二、第三のオウム真理教や統一教会、破壊的カルトを生み出さないためのヒントにもなるでしょう。今の西本願寺・本願寺派は、外道の輩、奸臣、曲学阿世の徒が蔓延り、真宗でもなくなり、仏教でもなくなり、宗門として危機的末期の哀れな酷いありさま

  • 仏教における中観帰謬論証派

    変なカタチで帰謬論証が注目されている。。仏教における中観帰謬論証派は、チベットのツォンカパ大師にて確立するところとなるが、主張を何もしないわけではない。明確に空思想においての主張がツォンカパ大師によりなされている。帰謬論証が反証するのは、常に私たちの諦執のありよう、つまり、実体視してしまってのモノコトの認識のありようについてである。また、主義主張を明確にすべき政治においては、ただの詭弁となりかねないため、当然に注意が必要と考えるのである。仏教における中観帰謬論証派

  • チベット仏教サキャ派(ゴル系)の正式な在日公式団体主催による本格的な密教伝授が初めて開催

    いよいよチベット仏教サキャ派(ゴル系)の正式な在日公式団体主催による本格的な密教伝授が初めて開催されることになる。通訳は、ケンポ奥田剛師がなされるのであろうから、普通の通訳というわけではない。ゲルク派より古い伝統もあり、灌頂の内容も、ゲルク派とはまた違った尊格、形式もあることでしょうから、大変に興味深くあります。サキャ派の正統な教えが日本に流れ入る端緒ということになります。チベット仏教サキャ派(ゴル系)の正式な在日公式団体主催による本格的な密教伝授が初めて開催

  • 宗教がカルト化するとき、何が教祖を生み出すのか?

    もちろん、「人それぞれの考えを頭ごなしに全否定してくるような輩」も、人それぞれの考えを頭ごなしに「全肯定」してくるような輩にも気をつけないといけないことにもなります。「全肯定」も思考停止への誘いとなるところがあり、このあたりで見極めが難しいもので、特に後者は、岡林さんも懸念されていることが孕んである問題でもあります。・・宗教がカルト化するとき、何が教祖を生み出すのか?やはり、独善と思考停止でしょうかね。カルトは、独善的思想を、あの手この手とマジックショーのように駆使して巧妙に信者を洗脳し、そして、思考停止へと陥らせ、ロボットのように操り、人力、財産を吸い取り、大きく肥えていく。政治と同じで、独善思想にカリスマと策士があれば洗脳、扇動も可となるわけです。宗教も政治も自分でよくよく注意深く考えて行動することで...宗教がカルト化するとき、何が教祖を生み出すのか?

  • ヒョウゲモンは、私ではない

    また聞かれたが、ヒョウゲモンは、あなたではないのか、と。会ったことはもちろんないし、誰かも知らない、意見交換したこともない。そもそも文体が全く違うし、なりすましとか、いちいちそんなめんどくさいこともしない。また、真に問題の本質が何かというところでは違いが当然にある。門主批判は当然であり、早く辞めさせて代えるべきではあるのだろうが、それは宗門内でしかるべくにやるべき話であって、私には関係がない。血統を重んじるなら連枝を立たせて、さっさとやればよいのである。ヒョウゲモンは、私ではない

  • 石丸氏も政争の具となる

    広島一区は岸田文雄氏、自民ですから、自民から推されることはないのでは?当然のご質問ですが、つまり、清和会(安倍派)から出るということであり、岸田文雄氏に対しての一連のことへの報復というわけです。石丸氏も政争の具となるわけです。・・石丸氏、2位🥈知名度全国区となり、国政バッチ確実にて本人も大満足。神谷宗幣氏のように苦労したタイプとは別だが、ネット戦略はかなり奏功した。しかし、自民系による支援があったのが確実なだけに、やはり保守系からになると思われるのが残念である。まともなリベラル系をまとめて政権まで辿り着けるカリスマ指導者が出ないものかな、、与野党にせよ、いつまでも清和会系、経世会系(米追従)になるなら、間違いなく戦争加担による業果をまた国民は受けることになり、苦しむ事態となるだろう。まずは、ウクライナ、パ...石丸氏も政争の具となる

  • 宗教がカルト化するとき、何が教祖を生み出すのか?

    宗教がカルト化するとき、何が教祖を生み出すのか?やはり、独善と思考停止でしょうかね。カルトは、独善的思想を、あの手この手とマジックショーのように駆使して巧妙に洗脳し、信者を思考停止へと陥らせ、ロボットのように操り、人力、財産を吸い取り、大きく肥えていく。政治と同じで、独善思想にカリスマと策士があれば洗脳、扇動も可となるわけです。宗教も政治も自分でよくよく注意深く考えて行動することです。人それぞれの考えを頭ごなしに否定してくるような輩には気をつけないといけないでしょう。宗教がカルト化するとき、何が教祖を生み出すのか?

  • 東京都知事選・石丸氏2位に思う

    石丸氏、2位🥈知名度全国区となり、国政バッチ確実にて本人も大満足。神谷宗幣氏のように苦労したタイプとは別だが、ネット戦略はかなり奏功した。しかし、自民系による支援があったのが確実なだけに、やはり保守系からになると思われるのが残念である。まともなリベラル系をまとめて政権まで辿り着けるカリスマ指導者が出ないものかな、、与野党にせよ、いつまでも経世会系(米追従)になるなら、間違いなく戦争加担による業果をまた国民は受けることになり、苦しむ事態となるだろう。まずは、ウクライナ、パレスチナ戦争加担による間もなくに受ける業果に続けて。仏教としては、政治的中立にあるべきではあるが、釈尊のように業の因縁を常に心配せねばならない。東京都知事選、二番手に石丸氏となるかが注目である。いずれにしても自民の裏選対の別働隊であったのか...東京都知事選・石丸氏2位に思う

  • 親鸞浄土論

    親鸞浄土論。浄土教祖師方の中でも、かなり特異となるものではあるが、大智度論から拙生は理解を深めることができた。二種回向論と二種法身論、往生論、成仏論、仏性論も。しかし、それよりも、踏み絵によって選ばれた「新しい領解文」を正しいと認めている(と考えられる)者たちによる論が論じられることになるのかどうかが気になるところである。もちろん、この問題の根の深さは尋常でないのはよく分かってはいるが、、親鸞浄土論

  • ダライ・ラマ法王猊下、89歳のお誕生日

    ダライ・ラマ法王猊下、89歳のお誕生日。猊下の誕生を二羽の烏が祝福。一世様の頃より歴代ダライ・ラマは烏との縁が深くにあられます。御長寿を祈念申し上げます。口自在たる慧蔵にて至善なる勝者流の、教誨の真髄を持す比類なき御方、無数なる勝者の海を凝集せし御身に祈願せん。最上と共通の悉地を給わんことを。ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下に最敬礼申し上げます。(あなたは、)多様な戯論を離れた勝義〔空性〕に関するすべての勝者〔仏の別称〕の智慧の集まりの中に(住して)おられるけれども、同時に、(あなたは、)幸運な者たちの目に見えるように、この身体に化現されています。尊いラマよ、私はあなたにお願い致します。私たちと共に永く留まって、道を示してください。「偉大なる第十四世の長寿を祈願する如意自在王〔経...ダライ・ラマ法王猊下、89歳のお誕生日

  • アクロス歴史アカデミー2024前期・河内往生院の世界 河内・往生院の成立 中興・金堂の建立 河内・浄土院との関係

    何とか当日、前座にてお話する内容を30分にまとめて収録し、YouTubeに限定公開にてアップしておいた。限定公開は、URLを知る者でしか観れない設定になります。これで万が一、葬儀が入ったり、感染症になっても安心である。これなら全国、ネット環境があれば、どこの会場でもスクリーンで視聴を頂けることにもなる。動画データを送る必要さえない。Zoomにより参加もできますよ、とのことでしたが、もし、葬儀が入っても再生頂くだけで済み、迷惑を掛けることがない。当日、伺えれば、それはそれで、この動画を使い、更に補足をお話するだけで済む。その場によるプレゼンよりも、より分かりやすく、要点を伝えやすい。利点が多く、一つの方法としてお勧めである。アクロス歴史アカデミー2024前期・河内往生院の世界河内・往生院の成立中興・金堂の建立河内・浄土院との関係

  • 満井論文のお粗末さ・・

    問題の満井論文、実は自分で本論を書いておらず、研究所の所員か、勧学寮員かに無理矢理になんとかこじつけて書かせたもので、それに本人は「議論の余地はない」などとして序論を書いただけということなのだろう。これは呆れを通り越し、お粗末すぎて全くお話にならない・・そんなものに淺田寮頭のお墨付きを得たというのも当然に疑わしい。自分の名のもとに出されたデタラメなものを、実は私の書いたものではないとして、部下や寮頭のせいにして逃れようということなのであろうか、、なんともあさましい話である・・満井論文のお粗末さ・・

  • 信心のお味わいについて

    疑心に陥る、陥りそうになるのもお味わいの一つではないでしょうかとメッセージ頂いたが、まあ、法味の味わいは、確かにそれぞれにあり、尊重されるものではあるが、何でもかんでもを信心(決定・獲得)とするならば、法義の意味が逆になくなると考えるのである。ただ、真実法味をそのままに味わえない凡夫であるため、それぞれに味わいも異なっているのでもある。むしろ、味わいを介さずに本願勅命を飲み込むことが肝要と言えるのではないかと考えるのでもある。信心のお味わいについて

  • 舟形板碑五輪塔の由来について 村に伝わる伝承から読み解く 河内四條史を参照 南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!? 2024年7月1日

    舟形板碑五輪塔の由来について村に伝わる伝承から読み解く河内四條史を参照南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!?2024年7月1日https://youtu.be/DSvO3Fc5iio?feature=shared舟形板碑五輪塔の由来について村に伝わる伝承から読み解く河内四條史を参照南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!?2024年7月1日

  • 岩瀧山・滝行 実際の体験の流れについて 別の説明動画もご参考下さい ※概要欄 岩瀧山往生院六萬寺

    これは完全に失敗したな、、また実際の体験者の流れを了解をもらって撮って、編集することにする。岩瀧山・滝行実際の体験の流れについて別の説明動画もご参考下さい※概要欄岩瀧山往生院六萬寺https://youtu.be/oSI8loGa1Xo?feature=shared岩瀧山・滝行実際の体験の流れについて別の説明動画もご参考下さい※概要欄岩瀧山往生院六萬寺

  • 浄土真宗における信心と領解について

    もちろん、信心のあり方について、これまでも論じてきたように、拙生はさほど甘くは見積もっていない。個々人の信心、個々人の領解は尊重すべきだが、真実浄土への往生は、無疑心はもちろん当然ながら、他にも完備すべき条件を調えなければ不可であると考えている。全ての信心、領解を認める、如来は全てを受けとめてお救い下さるから大丈夫と言ってしまえば、何でもありとなり、そもそも教義すら不必要となってしまうのである。それは、「新しい領解文」と同様の悪取空的な失を犯すことになると、拙生は考えるのである。当然に、真宗の場合においては、こちらからはからって調えるものはありませんが、真実浄土へ往生するための条件に沿うあり方へと向かわねばならないものがあると考えています。でなければ、信心、領解のあり方も、条件なしに何でもかんでもを認める...浄土真宗における信心と領解について

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