当ブログについて当ブログは、公開、非公開を管理人の意思において定期的に行っております。公開、非公開はカテゴリー別において管理しています。そのため、公開も一部のみの限定公開となることが多いです。あしからずご了承下さいませ。現在、ご質問等の個別の対応は控えさせて頂いております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。 管理人拝当ブログについて
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寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日
未解明点といまだ謎となっている課題についてまとめてみました。寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日
「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・
もう1年近く相当なる有志が声高に反対しているにもかかわらず、「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・この問題の根底、裏にあるものが見えていないからでもあろう。的が外れているのである。もっと本質について2014年の門主交代の時期ぐらいからの過程をじっくりと見ていくべきであろう。新しい「領解文」問題点指摘の声明総研冊子に本願寺派有志「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・
7-2にも、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」はなく、7-3に持ち越しとなるのだろうか。しかし、くだんの論文が論外の間違いだらけのハリボテなのは誰からも明らかであり、それはそれとして、本丸は、新しい領解文の撤回、取り下げであり、この問題は門主の失政によるもので、門主の責任がやはり最も大きい。門主に諌言するのが勧学の役割であるのだから、遠回りの「声明」でなく、門主への「諌言状」として、「新しい領解文」の撤回、撤廃を図れるように、門主のこれまでの推進の意向の翻意を促すようにするのが、手っ取り早い解決の道になると思うのだが、、勧学・司教有志の会声明(七の二)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行...勧学・司教有志の会声明(七の二)について思ふ
河内ふるさと文化誌 「若楠(わかくす)」のご紹介 2024年4月24日
河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)について郷土文化誌は、地域地域の大切な文化資源を後世に伝えていくためにも大切な役割を担っています。やお文化協会さんの郷土誌「河内どんこう」は43年の歴史に幕を下ろされました・・120号にて終刊・・誠に残念なことでした・・https://blog.goo.ne.jp/.../8a42d802177f11b32d2749187fd3d48e皆様のご支援とご協力で、「若楠」(わかくす)が末永くに存続されていくことを祈念申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日https://youtu.be/X2tL_0loIlU?feature=shared河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日
『兜率天の百の神々』法話会 ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下
御寿まもなく89歳と思えないほどのご健勝、ご転法輪でございます。本当に尊く有り難いことでございます。口自在たる慧蔵にて至善なる勝者流の、教誨の真髄を持す比類なき御方、無数なる勝者の海を凝集せし御身に祈願せん。最上と共通の悉地を給わんことを。ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下に最敬礼申し上げます。合掌『兜率天の百の神々』法話会1日目https://youtu.be/Xw-eYRyamFY?feature=shared『兜率天の百の神々』法話会2日目https://youtu.be/kXb-aNsW9Bs?feature=shared2024年4月19-20日、インド、ヒマーチャルプラデーシュ州ダラムサラ/ツクラカンダライ・ラマ法王が『兜率天の百の神々』(gadenlhagyama)に...『兜率天の百の神々』法話会ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下
そう言えば、7-2があるのだろうが、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」は7-1にはないが、7-2にはやっぱりあるのかな?まあ、この問題は門主による失政でもあり、門主の責任がそもそも大きい。門主に諌言するのが勧学の役割でもあるのだから、「声明」ではなく、「諌言状」として、「新しい領解文」撤回への意向を門主が総局に促すようにすれば良いのではないかとは思うのである。勧学・司教有志の会声明(七の一)に思ふ
河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」
河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)、2024年春季号が無事に発行されました。拙生は、「玉日姫坐像について」。親鸞聖人自作坐像奉納との関連を詳しくご説明させて頂いております。やはり、これも往生院と九條家との関わりでありますね。次回は、「法然聖人三日月の御影について」。すでに原稿はお渡ししています。その次を「往生院と南朝について」(これも原稿入稿済)に予定していましたが、「歴史から消えていた謎の山麓寺院河内・浄土院について」に変更しようと思います。定期購読(年2000円)ご希望の方は、ご入会のお誘いを参照下さいませ。草川様はじめ、ご入会賜りました皆様、本当にありがとうございました。もうまもなくで届くかと存じます。引き続きに宜しくお願い申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」
河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ 現地見学説明会 2024年4月22日
本日に市文化財課に金堂跡の現況、そして、浄土院跡を確認して頂くために現地説明をさせて頂きました。調査へ向けて進むことを誠に願っています。とにかく、引き続き両者ともに調査研究を鋭意に進めて参ります。河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日https://youtu.be/89gh9chyprU?feature=shared河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日
『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて
あぁ、、問題論文、出されたのは1月だったか、、時が過ぎるのは速いな…反論文をお願いしますと言われたが、私は、正式な研究者でもないし、学術学会員でもなく、どの学会にも属していない。また、「議論の余地はない」と、念押しして述べてある時点で、呆れてその気も無くなるレベルでさえある。先に示した満井秀城勧学(与奪者)の改悔批判における『「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。』の主張に対しての拙反論のあれだけで、もう十分にお腹いっぱいという感じでもある。。要は、論文における下記に対して反論するだけで、もう十分ということである。『・・これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点...『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて
勧学・司教有志の会 声明(七の一) ー総合研究所冊子の問題点ー
かの低レベル問題論文への声明。彼岸中にあの大恥論文を門末全てへ郵送配布したことを聞いて呆れたのが先月、、暖簾に腕押し、厚顔無恥さに脱力したものです。勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)このたび池田行信前総局名で、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』という総合研究所の冊子(以下、冊子と呼ぶ)が、本願寺派全寺院へと送付された。その序論によれば、この冊子は、総局主催で行われた「新しい領解文」についての各教区の学習会において多くの僧侶・門信徒から投げかけられた疑問や困惑の声を承け、総合研究所所長(当時)満井秀城氏が自身の説明論理として作成したものであるという。しかし、...勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー
証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について 当麻曼荼羅の普及への貢献 2024年4月21日
動画にしていく方が考察が進むという・・文章にまとめるより楽という・・一つのサボりですね。まあ、記録にもなるので、助かる面も。。証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日https://youtu.be/QQg2DJPVb4I?feature=shared河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか?当麻寺との関係から読み解く2024年4月21日https://youtu.be/KX1wygsB1_o?feature=shared往生院六萬寺の歴史について(動画説明)新しい順http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日
浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も出てきた。九條道家により東福寺末寺となり、臨済宗に改宗した際に、浄土系儀礼を浄土院に全て引き渡したのかも。いや、むしろ引き継がせるために道家が1240年頃〜に浄土院を建立したのかもしれない。ならば、往生院中興開山は、証空上人、その近い門弟であった可能性もやはり高いか。再調査の際に憑依されてお知らせ下さった浄興と名乗られたお方なのか?いずれにしても、証空上人による西山浄土宗として往生院は中興されたのはもう明らかとなった。これも全ては当麻曼荼羅のお陰様である。浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も
当麻寺と九條家、九條家と往生院、信円さんと当麻寺、来迎会練供養と往生院、当麻曼荼羅と九條家(慶政、教実、頼経、道家等)、当麻曼荼羅と浄土院・往生院、当麻寺と葛城修験と往生院、、、いよいよ、往生院中興開山、ほぼ信円さん(興福寺・当麻寺別当)で間違いないかと。。河内・往生院中興開山についての推論
河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日
河内・浄土院についての関連から、往生院でも迎講、来迎会、二十五菩薩お練り供養、聖衆来迎練供養会が修されていたと考えられることについて。考古学者・小林義孝先生は、20年以上前に、早くからこのことを指摘されていました。色々と解明が進み、誠に有り難いことでございます。河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日https://youtu.be/jLFVh6IFfiI?feature=shared河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日
往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘
寺史掲載の考古学者、小林義孝氏の論文からである。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説されていたのである。慧眼に恐れ入る。もちろん、双子、兄弟寺院であった河内浄土院に本尊、当麻曼荼羅があったこととは無関係ではなかっただろう。つまり、浄土院、往生院ともに、迎講、来迎会、練り供養がなされていたのであろう。もちろん、往生院にも当麻曼荼羅があった可能性も極めて高い。東大阪市の文化財課の文化財調査官を往生院金堂跡とともに浄土院跡にも案内するが、練り供養がなされていたとなれば、娑婆堂と金堂が確実にあったと思われるため、その痕跡についてもその際にしっかりと見極めたい。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘
河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる
九條道家の兄、慶政上人(九條良経の子・兼実の孫)が、実質的に当麻曼荼羅の由来を世に広め、その普及に努めていたことを突き止めた。もちろん、証空上人の当麻曼荼羅普及に関することも書かれている。やはり、河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まったと共に、河内往生院にも当麻曼荼羅が本尊としてあり、二十五菩薩お練り供養がなされてあった可能性が極めて高い痕跡があることも改めてわかった。金堂跡の地勢から小林義孝氏の論文にてそれが詳細に述べられてある。後ほどにそれはあげることにする。https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/.../KU-1100-19940331-02.pdf河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる
字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!? やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日
結局は、字「院堂」に、桜井寺金堂、六萬寺金堂、安助上人御堂、往生院金堂、全て多重的に存在していた可能性がやはり高いかも、、字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日https://youtu.be/vwaqZ_RkML4?feature=shared字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日
正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日
いよいよ、本命となる六萬寺の探索へ向かった。残念ながら、奈良時代、平安時代の瓦は見つからなかったけど、別に成果があった。しかし、もう藪蚊がかなりすごい、、藪の中の探索はもう無理かな、、正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日https://youtu.be/LMt8vU0EuqM?feature=shared正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日
河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く 2024年4月15日
浄土院跡を確認できた流れに乗って、いよいよ、六萬寺の本丸を探すために、字「南九重堂」周辺へと行きたかったのですが、市の文化財課の調査官を迎える準備のために、まずは歴史館の資料整理、掃除を優先。往生院金堂跡、浄土院跡へも案内するため、効率よく回れるようにしたいですね。とにかく、やる気があるうちにやるしかない。。河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日https://youtu.be/Ikn99qGB93g?feature=shared河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日
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未解明点といまだ謎となっている課題についてまとめてみました。寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日
もう1年近く相当なる有志が声高に反対しているにもかかわらず、「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・この問題の根底、裏にあるものが見えていないからでもあろう。的が外れているのである。もっと本質について2014年の門主交代の時期ぐらいからの過程をじっくりと見ていくべきであろう。新しい「領解文」問題点指摘の声明総研冊子に本願寺派有志「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・
7-2にも、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」はなく、7-3に持ち越しとなるのだろうか。しかし、くだんの論文が論外の間違いだらけのハリボテなのは誰からも明らかであり、それはそれとして、本丸は、新しい領解文の撤回、取り下げであり、この問題は門主の失政によるもので、門主の責任がやはり最も大きい。門主に諌言するのが勧学の役割であるのだから、遠回りの「声明」でなく、門主への「諌言状」として、「新しい領解文」の撤回、撤廃を図れるように、門主のこれまでの推進の意向の翻意を促すようにするのが、手っ取り早い解決の道になると思うのだが、、勧学・司教有志の会声明(七の二)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行...勧学・司教有志の会声明(七の二)について思ふ
河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)について郷土文化誌は、地域地域の大切な文化資源を後世に伝えていくためにも大切な役割を担っています。やお文化協会さんの郷土誌「河内どんこう」は43年の歴史に幕を下ろされました・・120号にて終刊・・誠に残念なことでした・・https://blog.goo.ne.jp/.../8a42d802177f11b32d2749187fd3d48e皆様のご支援とご協力で、「若楠」(わかくす)が末永くに存続されていくことを祈念申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日https://youtu.be/X2tL_0loIlU?feature=shared河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日
御寿まもなく89歳と思えないほどのご健勝、ご転法輪でございます。本当に尊く有り難いことでございます。口自在たる慧蔵にて至善なる勝者流の、教誨の真髄を持す比類なき御方、無数なる勝者の海を凝集せし御身に祈願せん。最上と共通の悉地を給わんことを。ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下に最敬礼申し上げます。合掌『兜率天の百の神々』法話会1日目https://youtu.be/Xw-eYRyamFY?feature=shared『兜率天の百の神々』法話会2日目https://youtu.be/kXb-aNsW9Bs?feature=shared2024年4月19-20日、インド、ヒマーチャルプラデーシュ州ダラムサラ/ツクラカンダライ・ラマ法王が『兜率天の百の神々』(gadenlhagyama)に...『兜率天の百の神々』法話会ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下
そう言えば、7-2があるのだろうが、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」は7-1にはないが、7-2にはやっぱりあるのかな?まあ、この問題は門主による失政でもあり、門主の責任がそもそも大きい。門主に諌言するのが勧学の役割でもあるのだから、「声明」ではなく、「諌言状」として、「新しい領解文」撤回への意向を門主が総局に促すようにすれば良いのではないかとは思うのである。勧学・司教有志の会声明(七の一)に思ふ
河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)、2024年春季号が無事に発行されました。拙生は、「玉日姫坐像について」。親鸞聖人自作坐像奉納との関連を詳しくご説明させて頂いております。やはり、これも往生院と九條家との関わりでありますね。次回は、「法然聖人三日月の御影について」。すでに原稿はお渡ししています。その次を「往生院と南朝について」(これも原稿入稿済)に予定していましたが、「歴史から消えていた謎の山麓寺院河内・浄土院について」に変更しようと思います。定期購読(年2000円)ご希望の方は、ご入会のお誘いを参照下さいませ。草川様はじめ、ご入会賜りました皆様、本当にありがとうございました。もうまもなくで届くかと存じます。引き続きに宜しくお願い申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」
本日に市文化財課に金堂跡の現況、そして、浄土院跡を確認して頂くために現地説明をさせて頂きました。調査へ向けて進むことを誠に願っています。とにかく、引き続き両者ともに調査研究を鋭意に進めて参ります。河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日https://youtu.be/89gh9chyprU?feature=shared河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日
あぁ、、問題論文、出されたのは1月だったか、、時が過ぎるのは速いな…反論文をお願いしますと言われたが、私は、正式な研究者でもないし、学術学会員でもなく、どの学会にも属していない。また、「議論の余地はない」と、念押しして述べてある時点で、呆れてその気も無くなるレベルでさえある。先に示した満井秀城勧学(与奪者)の改悔批判における『「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。』の主張に対しての拙反論のあれだけで、もう十分にお腹いっぱいという感じでもある。。要は、論文における下記に対して反論するだけで、もう十分ということである。『・・これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点...『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて
かの低レベル問題論文への声明。彼岸中にあの大恥論文を門末全てへ郵送配布したことを聞いて呆れたのが先月、、暖簾に腕押し、厚顔無恥さに脱力したものです。勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)このたび池田行信前総局名で、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』という総合研究所の冊子(以下、冊子と呼ぶ)が、本願寺派全寺院へと送付された。その序論によれば、この冊子は、総局主催で行われた「新しい領解文」についての各教区の学習会において多くの僧侶・門信徒から投げかけられた疑問や困惑の声を承け、総合研究所所長(当時)満井秀城氏が自身の説明論理として作成したものであるという。しかし、...勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー
動画にしていく方が考察が進むという・・文章にまとめるより楽という・・一つのサボりですね。まあ、記録にもなるので、助かる面も。。証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日https://youtu.be/QQg2DJPVb4I?feature=shared河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか?当麻寺との関係から読み解く2024年4月21日https://youtu.be/KX1wygsB1_o?feature=shared往生院六萬寺の歴史について(動画説明)新しい順http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日
浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も出てきた。九條道家により東福寺末寺となり、臨済宗に改宗した際に、浄土系儀礼を浄土院に全て引き渡したのかも。いや、むしろ引き継がせるために道家が1240年頃〜に浄土院を建立したのかもしれない。ならば、往生院中興開山は、証空上人、その近い門弟であった可能性もやはり高いか。再調査の際に憑依されてお知らせ下さった浄興と名乗られたお方なのか?いずれにしても、証空上人による西山浄土宗として往生院は中興されたのはもう明らかとなった。これも全ては当麻曼荼羅のお陰様である。浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も
当麻寺と九條家、九條家と往生院、信円さんと当麻寺、来迎会練供養と往生院、当麻曼荼羅と九條家(慶政、教実、頼経、道家等)、当麻曼荼羅と浄土院・往生院、当麻寺と葛城修験と往生院、、、いよいよ、往生院中興開山、ほぼ信円さん(興福寺・当麻寺別当)で間違いないかと。。河内・往生院中興開山についての推論
河内・浄土院についての関連から、往生院でも迎講、来迎会、二十五菩薩お練り供養、聖衆来迎練供養会が修されていたと考えられることについて。考古学者・小林義孝先生は、20年以上前に、早くからこのことを指摘されていました。色々と解明が進み、誠に有り難いことでございます。河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日https://youtu.be/jLFVh6IFfiI?feature=shared河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日
寺史掲載の考古学者、小林義孝氏の論文からである。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説されていたのである。慧眼に恐れ入る。もちろん、双子、兄弟寺院であった河内浄土院に本尊、当麻曼荼羅があったこととは無関係ではなかっただろう。つまり、浄土院、往生院ともに、迎講、来迎会、練り供養がなされていたのであろう。もちろん、往生院にも当麻曼荼羅があった可能性も極めて高い。東大阪市の文化財課の文化財調査官を往生院金堂跡とともに浄土院跡にも案内するが、練り供養がなされていたとなれば、娑婆堂と金堂が確実にあったと思われるため、その痕跡についてもその際にしっかりと見極めたい。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘
九條道家の兄、慶政上人(九條良経の子・兼実の孫)が、実質的に当麻曼荼羅の由来を世に広め、その普及に努めていたことを突き止めた。もちろん、証空上人の当麻曼荼羅普及に関することも書かれている。やはり、河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まったと共に、河内往生院にも当麻曼荼羅が本尊としてあり、二十五菩薩お練り供養がなされてあった可能性が極めて高い痕跡があることも改めてわかった。金堂跡の地勢から小林義孝氏の論文にてそれが詳細に述べられてある。後ほどにそれはあげることにする。https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/.../KU-1100-19940331-02.pdf河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる
結局は、字「院堂」に、桜井寺金堂、六萬寺金堂、安助上人御堂、往生院金堂、全て多重的に存在していた可能性がやはり高いかも、、字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日https://youtu.be/vwaqZ_RkML4?feature=shared字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日
いよいよ、本命となる六萬寺の探索へ向かった。残念ながら、奈良時代、平安時代の瓦は見つからなかったけど、別に成果があった。しかし、もう藪蚊がかなりすごい、、藪の中の探索はもう無理かな、、正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日https://youtu.be/LMt8vU0EuqM?feature=shared正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日
浄土院跡を確認できた流れに乗って、いよいよ、六萬寺の本丸を探すために、字「南九重堂」周辺へと行きたかったのですが、市の文化財課の調査官を迎える準備のために、まずは歴史館の資料整理、掃除を優先。往生院金堂跡、浄土院跡へも案内するため、効率よく回れるようにしたいですね。とにかく、やる気があるうちにやるしかない。。河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日https://youtu.be/Ikn99qGB93g?feature=shared河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日
当然に、「称名」によって本願を知った後に、本願の疑心を破るのが「最勝真妙の正業」としての「称名」となります。称名→本願→志願・疑心称名(正業)→志願・疑心称名(正業)→念仏→南無阿弥陀佛(名号・称名)→正念(信心決定・信心獲得)疑心を完全に破らせて、絶対他力、他力本願と至らしめるもの当体が、南無阿弥陀佛(名号・称名)となるわけですが、その前の「念仏」とは、一体誰の念仏かが、非常に重要な鍵になるものと考えています。阿弥陀如来の念仏諸仏の念仏報身阿弥陀如来の念仏応身釈迦如来の念仏獲信者の念仏衆生の念仏(信心は問わない)自分の念仏この中で、実際の念仏として考えられるのは以下の三点となります。獲信者の念仏衆生の念仏(信心は問わない)自分の念仏自分の念仏は、疑心を破ろう、自力やはからいを捨てようとしての念仏と言えま...称名破満釈・融会合釈について・2
称名破満釈しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。融会合釈称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。従前から理解されている「無明」の解釈は、本願への疑心とされてあるわけですが、拙生は、やや違うのではないかとみています。単に阿弥陀如来の本願の真実功徳が届いてあることを知らない心、まさに、まずはその無知ではないかと。そもそも本願が届いてあることを知らなければ、疑心を生じることもないわけです。これは、通仏教における無明として、真理を知らない無知ということが、真理を本願に置き換えて、本願を知らないとしての無知と同様と言えるのではないかと考えます。通仏教の場合、そ...称名破満釈・融会合釈について・1
「阿弥陀如来の本尊瑜伽」と「阿弥陀如来の称名」の何が違うのか。本尊瑜伽は、自分を本尊と観想して、仏の智慧と慈悲を仮想体験することで、簡単には空性理解と功徳実践のシュミレーションの行となります。まずは真正な空性の理解はできなくても「一切は空である」と観想してから、自分を仏として観想し、仏の智慧の身体である法身と救済の活動となる色身の二身のありようを観想していくことになります。空性を観想する智慧により、仏身を顕現させ、その顕現を自分だと観想する。法身獲得への準備行となる。救済を観想する慈悲により、仏身を顕現させ、その顕現を自分だと観想する。色身獲得への準備行となる。とそれぞれ、悟りへと向けた智慧と福徳の資糧となる観想の方法が、本尊瑜伽となります。一方、「阿弥陀如来の称名」とは、阿弥陀如来の往還二種回向による、...「阿弥陀如来の本尊瑜伽」と「阿弥陀如来の称名」の相違
仮に、今回の「新しい領解文」において、浄土真宗が、本覚思想、如来蔵思想になったとして、では何が問題となるのかということですが、勧学・司教有志の会の声明(一)での危惧としての「・・法義の領解を大きく誤り、きわめて安易な現実肯定論に陥るおそれがある。歴史的に検証され批判されてきたものであるが、その現実肯定論とは、世俗のありさまをすべて肯定する思想であり、戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく、むしろ正当化する根拠とさえなる。それはまた、人間の意思と努力を無意味なものとし、信心も念仏も、仏法を聴聞することさえも不要とする思想に繋がる。煩悩と菩提が「本来一つ」であれば、救われる必要すらないからである。・・」における、特に、「戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく...仏(阿弥陀如来)の慈悲(救い)を根拠とした報恩行の誤用への懸念について
「もちろん、まず報恩行から成すべし的なことは、ある意味、宗門や教団、本山のために奉公すべし的な組織的事情によることからもあるでしょう。」会におけるある方のコメントの内容を拝見して、やはり、中らずと雖も遠からずかと思ったのですが・・宗旨教義を捻じ曲げてまでしなければならないぐらいに切羽詰まっているのだろうか・・財政事情までは正直分からない。それよりも、かなりその昔から、大行よりも信心、信心よりも報恩という、先に指摘した「報恩→信心→大行」の流れが強くあった延長にあることが、いよいよ「新しい領解文」にて先鋭化したのだと言えるのかもしれない。しかし、報恩が前面に出てきてある理由の一つは、やはり、「既に救われているから」という理屈もあるのだろう。「救われてますよ→救ってくれてありがとうですよ→報恩の行いをしましょ...浄土真宗の行信論について・5
本願寺派教学においては、獲信を想定した議論が展開されることが往々にしてあり、その際たるが「報恩の称名」であると。そして、その「報恩の称名」を未信者にも勧める傾向があって、更には、報恩の行を、称名以外においても勧めようとしていく傾向があるのだとも。大行→信心→報恩が、報恩→信心→大行と、報恩が先になるような感じであろうか。確かに、阿弥陀如来の救いの中にあることを、もう救われたとしての議論があるようには思えるが、本当に救われたかどうかは、往生後においてでしか分からないことなのである。それは、二種法身の獲得が一如宝海でなければ不可であるからだ。もう救われたとするならば、現世で二種法身を得ていなければおかしなことになる。もちろん、現世今身で還相は可能だと考える意見もあるだろうが、それにしては二種法身を得れたと言え...浄土真宗の行信論について・4
拙論として、大行の体を「釈尊の称名」としたわけですが、それが阿弥陀如来の本願のはたらきそのものによるにせよ、諸仏の称名によるにせよ、衆生の称名によるにしても、阿弥陀如来の方便法身のはたらきとしての本願真実功徳を有したる垂名示形としての名号、称名と出逢えてある私たちがあるということは、事実、現実であります。そして、それは信心の有無も関係なく、「ある」わけです。「ある」のはなぜか、当然に阿弥陀如来の二種回向によるからであります。その回向されたる本願の救いの中に「いる」わけです。「ここ」の自分も。では、その回向とはどのようなものかを喩えるならば、宇宙マイクロ波背景放射のようなものとなりますでしょうか。それを観測(名号・称名によって)して、実証実験(自力やはからいがあってはとても救われない、どこまでもどこまでも愚...浄土真宗の行信論について・3
名号、称名の無い世界には阿弥陀如来の救いは無いのですか?いや、娑婆世界のみならず、阿弥陀如来の本願の救いは、無量無辺に遍くに届いてあるはずです。問題は、その届いてあることを知ることができるかどうかで、それを知るためとなるのが、名号、称名であるだけで、名号、称名が無い世界でも本願の救いは届いているものの、それを知るすべがない状態であるということになります。当然に知ることができなければ、信心も難しいことになります。知ることができる、救いをたずねることができる、名号、称名には、そのはたらき、役割があるわけです。もし、名号、称名が無くても救われる、信心獲得できるならば、その必要性を説く意味がなくなりますし、そもそも救われているとするならば、迷い苦しみある存在など無いはずなのですが、全くそうではありません。いずれに...浄土真宗の行信論について・2
浄土真宗の行信論において、大行には、おおよそ三つの考え方があります。「法体の名号」・・空華学派「衆生の称名」・・石泉学派「諸仏の称名」・・豊前学派阿弥陀如来の本願真実功徳としての方便法身のはたらきとして「垂名示形」したる「名号」・「称名」をどのように捉えて、「信心正因」とするのか、ということが、浄土真宗の一番の要となります。いわゆる教義の根本となりますが、なぜその根本となる大行には、大きく三つの学説があり、未だに収拾、決着がうまくつけれていないのか。これは当然に「信心決定」・「信心獲得」の事態がいかなるかの明示が不可であること(自内証の問題)、絶対他力は、私たちのはからいや分別の超えたものであること(離戯論・戯論寂滅)、滅罪滅業の因果を超えてしまうこと(因果論の超越)などいくつかの要因が考えられるのであり...浄土真宗の行信論について・1
「名号」と「称名」の違い、、親鸞聖人は、両者の違いを明確には定義付けされてはいませんので、拙生も異なるものとしては扱ってきていないつもりでしたが、「名号」の方を重視しているのではないかという、今までの拙論の傾向からそのように見えるところがあるとのことで、改めて問われたものと思われます。両者は、違いはないものであっても、あえて申せば「本願真実功徳を有する阿弥陀如来の方便法身のはたらき」としてあるものが「名号」、私や皆に届くものが「称名」と拙生は解しています。本来、その方便法身のはたらきは、見えるもの、聞こえるものではないが、方便法身のはたらきとしてこの娑婆世界に、見えるもの、聞こえるものとして有り難くにも示現したるものが「名号」、「称名」は、その方便法身のはたらきを私や皆に頂けるためのはたらきのあるもの、つ...「名号」と「称名」について
私たち凡夫人間はどこまでも愚かであり、「正義」を扱うことが不可能であるという深い洞察が、親鸞聖人にはあったわけです。(悪人正機)互いの「正義」を振りかざしての争い、利権の奪い合いや暴力、殺人、戦争・・歴史を振り返れば、なんと愚かなことが多いことか・・もちろん、現在進行形で国内外多発中です・・今回の「新しい領解文」のことも、どちらも「自分が正しい」と思って争っていることは明らかながら、親鸞聖人は、きっと愚かな争いを相変わらずしているな、として嘆かれることでありますでしょう。しかも、この祝いの場の席で・・この度のことは、私自身の愚かさも当然ながら、互いの愚かさを認め合い、もちろん、教えを変えるような無駄なこと、無駄な行いもしようとは思わずに、浄土真宗の本義に戻って、真なる安心、真なる平和、真なる幸福のために、...『ただ「称名」に帰りなさい』
「信心の社会性」、つまり、「自信教人信」(自分の信を他人に教え、他人にもその信を勧める)の拡大解釈が、今回の新しい領解文の背景にはあり、「他力の信心」を他人に勧めていくための一つの方便として、社会性のある活動展開(ボランティア・奉仕・慈善活動等)を積極的に伴わせようという意図があること、その事自体は、普通世間一般的な考え方からすれば、何も悪いこと、批判を受けることではないとは考えます。また、それが門主さんの心でもあるのでしょう。問題は、「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)として、実質的には法義の肝要、つまり、宗旨教義の第一義的なものとして正式に発布したことにより、それを基とした活動の計画・展開(教化・社会活動)を宗門として半ば強制的に進めていくことが含まれてあったために、事はこれだけ大きなものになっていっ...浄土真宗の「信心の社会性」・「自信教人信」について
ちなみに、この拙論は通説とは異なります。通説では、微細な意識=光明、の理解となりますが、これでは、認識するものが、認識されるものとなり、認識するという少し分からないものとなります。刀は自分自身を切れないのと同じ理屈で、微細な意識は、微細な意識そのもの、自分自身は認識できないと考えます。その認識するもの自身に現れてあるものを認識するためには、それを認識するものが必要なはずです。それが意成身の意識と拙生は考えるわけです。これは微細な意識とは微妙には異なりますが、微細な意識により派生したる少し粗い意識となるでしょうか。この粗い意識が光明を認識するあり方を清らかにすることが、光明が空性であることを理解するために必要になると考えるわけです。もちろん空性と理解はできたとしても、その光明の現れは実体的なものとして現れて...死の光明と究竟次第の定寂心について・2
空性を十分に理解できていれば、死の際における死の光明も空性だと認識できて、解脱可能なのではないのか?空性について、知識としての理解、記憶としての理解では、脳組織が機能を停止すると共に役に立たないものとなり、死の光明を空性と認識することはできずに、また輪廻することになってしまいます。死により覚醒した微細な意識にて、その意識に現れる死の光明を空性だと認識するには、究竟次第における定寂心を実現できていない限り不可能となります。これはなぜか?拙生は、理由は簡単だと思っている。要は、意識は、意識自体を認識することはできない。つまり、見るものは、自分の目を見れないのと同じであり、微細な意識から現れる死の光明とは、自分の目と同じで、それが死の光明であるとは分からなく、そのまま輪廻へと向かっていくことになると言えるからで...死の光明と究竟次第の定寂心について
クラウドファンディングが始まりました。早速にご支援させて頂きました。クラウドファンディングCAMPFIRE「新しい領解文」の問題点を浄土真宗本願寺派全寺院へ郵送したい!https://camp-fire.jp/projects/view/668015?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=tw_sp_share_c_msg_backers_show新しい領解文の騒動は、従前より西本願寺・本願寺派の宗門内の問題に留まるものではないと考えておりますが、言論統制、言論弾圧が露骨となってきている中、宗門内において、今一度しっかりと議論されるべきであるのは言うまでもないことであります。宗門内での正常な討議、議論へと向けて、クラウドファンディングによる支援...クラウドファンディングCAMPFIRE「新しい領解文」の問題点を浄土真宗本願寺派全寺院へ郵送したい!
ようやく猊下への誤解を解くための声明が正式に出されました。有り難いことでございます。合掌この度の猊下のことは、一番には弟子たちの怠惰が招いたことであり、行に励み直しなさいということと、猊下を陥れて利を得ようとする者たちや、平和や慈悲を説く猊下を疎んじる者たちによる意図的なものがあります。とにかく、気をつけないといけません。ダライ・ラマ法王のビデオに隠された事実https://www.tibethouse.jp/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E6%B3%95%E7%8E%8B%E3%81%AE%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E3%81%AB%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81...ダライ・ラマ法王のビデオに隠された事実・デマに騙されないようにしましょう
今日(4/18)の東本願寺の南枝さんの法話は、本当に良かった。宗教、仏教、浄土真宗、聖なるあり方から世俗を冷静に捉えて、善き、清らかな流れに変えるために、私たち宗教者はどうあるべきかを述べられていた。社会の流れや時代の流れ、あるいは、国家権力、イデオロギーと、世俗のありようの顔色をいちいちうかがい、日和見的に迎合して、都合よく教義を変えられてはたまらないものになる。明治から昭和、特に戦争が終わるまでの、聖なるありようからは程遠い、愚劣なありように墜ちてしまっていたことへの反省はいったい何だったのか、、このままでは、また同じ過ちを繰り返すことになりかねない。今回の新しい領解文をめぐる騒動は、まさに一昔前の戦時下へと向かう日本の縮図のような様相を呈している。全くの対岸の火事ではない。日本全体もまた同じように戦...新しい領解文をめぐる騒動は、戦時下へと向かう日本の縮図である
多く問い合わせを頂いていましたが、中外日報さんに抗議文として紙面で取り上げて頂いていた、掲げた歌は、「おまかせしはからい捨てよが弥陀本願あれこれせよとは領解しかねる」である。新しい領解文の後半におけることを問う内容であり、A3二枚に書いたものを掲げさせて頂いた。その後に、しかるべき宗会議員さんから、本山のしかるべき要職のお方にお渡し頂き、ご門主さんへと届いており、私の身元もお伝え頂いているのは確かながら、今のところ、返歌は頂けていない。返歌があれば、また問歌をとは考えていたが、この状況ならば、もう難しそうである。もちろん想定していた返歌もある。「あれこれははからい捨てるためとなる弥陀本願に通ず道なり」のような内容だ。そこから更に深く問答をとも考えていたのだが、もう恐らく何もないだろう、、誠に残念である。と...「おまかせしはからい捨てよが弥陀本願あれこれせよとは領解しかねる」
諸々の動向を受けて、4月25日午前10時から予定の拙生の西本願寺境内での一向念仏行は、拙生自身は赴く予定(葬儀が入れば中止)ですが、ご一緒して頂けるとご連絡いただいている4名のお方には、事態を受けて、共の念仏行はお断りを入れさせて頂いた。一時間半ほど、ただひたすらにお念仏申し上げるのみですが、このままでは何らかの危害が及ぶ恐れがあるため。ご容赦賜りたくに存じます。合掌新しい「領解文」を考える会https://www.facebook.com/groups/754460852681528/・・浄土真宗における信心は、阿弥陀如来の往相・還相二種回向の本願への信心であり、二種回向を純粋に頂けたかどうか、心底より疑いのない本願を頂けたかどうか、本願で満ち溢れて余分が一切もないかどうかということが重要になると考えて...4/25予定・西本願寺境内での一向念仏行について
「ゲルク派版チベット死者の書」改訂新版(Gakken)平岡宏一先生深遠なるチベット密教の教えが著されてある「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」(ヤンチェン・ガロ大師)は、無上瑜伽タントラを学ぶための必読書であり、その内容について学ぶことのできる本書が、このほど約30年ぶりに改訂されました。旧版でも十分に学ぶことができますが、この間における著者の新たなる知見から、色々と加筆・補遺されており、また、この間におけるダライ・ラマ法王猊下における日本での灌頂や法話等におけることからも解説が加えられており、より理解しやすいものとなっています。特に、新たに無上瑜伽タントラを学びたいと思う者にとっては朗報も載っており、去年(2022年)7月のダライ・ラマ法王猊下が大阿(導師)として厳修されたチャクラサンヴァラ灌頂(...「ゲルク派版チベット死者の書」改訂新版(Gakken)平岡宏一先生