残り少ない道のりになりましたが、 気持ちをこめて! ありのままを!
大きな病気を三つ抱えてておりますが、自伝小説や詩を書いたり、ネット囲碁、ゴルフなどたまにやったりして日々を過ごしております。
僕は未だ小学校に入ったばかりである。貧乏というものがどのようなものであるかを理解するには幼すぎる。頭脳も知識も事の善悪すら判断できない程の未熟児童集団であったからである。貧乏をある程度理解でき始めたのはこれから2年ぐらい経ってからである。つまり友達との比較において、他との比較において自分はどうかという意識が芽生えて来てからのことである。一般的に誰だってそうであろう。従ってこの頃の僕の記憶というものは殆ど学校内でのことに集約されている。特に我が家の場合、何だかばらばらで、親子4人が揃って食事などのコミュニケイションが乏しく特段の事がなくずるずると低学年時代を過ごしてきたせいでもあろう。思い出そうとしても出ない。一方学校というところは遊びに行くところぐらいにしか捉えていなかったもののとに角楽しいところであった。入学...思い出の道(11)
終戦直後のことである。誰もかれも貧乏である。食べていくのが精一杯,必死の時代である。「ここまで追い詰めた責任者は一体何者だろうね」とささやき合っていたおばさん達の声が今でも耳に残っている。余程憤懣やり方ない大変な時期であったろうと想像する。食べ物は殆どが配給制であった。何でもアメリカでは家畜の餌に使っているとかのトウモロコシの粉などまでもが配給されて「これ美味しいね」と言ったら母がそのように説明してくれたことを覚えている。焼け跡は畑に変わった。此処で芋や野菜を作り我が家の食料の足しにし、売って得るお金が生きていく資金にになることを知った始まりである。売るという役割が僕の日課になって行ったからである。竹で編んだざるにこぼれるようにいろんなものを入れて近所20件ぐらいを1軒1軒声を掛けて売り歩くのである。朝早くから...思い出の道(10)
「急だけれど、今日連れて行ってくれないか。どうしても紅葉を見たいんだ」「へえ、今日?今から?」「そうだよ。今日をおいてほかにチャンスはないと思うんだ」「また始まりましたね。はいはい、いつでも準備は出来ていますから」「有難い、この間話していたあのルートで行こう」「鷹ゴルフの近くの食堂でそば食べてそれから足尾に向かうコースですね」「そうだ、10時には出たいからすぐに準備にかかるぞ」此処の食堂は昔良く使った。実に美味いそばであった。此処でたっぷり腹ごしらえをして裏日光を越えて足尾に出る。このコースも何回か使ったことがあるが車窓からの紅葉の眺めは一流である。密かに暖めていた取って置きの紅葉の道、想像しただけでも胸躍る。幸い天気は良い。胃の調子もまずまずだ。痔の方は冶具を当てておれば何とかなる。こんな3拍子揃う日なんてめ...来年の約束
小さな食卓を囲んで久しぶりの親子4人。夫々が夫々に感慨を胸に抱いてその晩は大変な賑わいであった。ありあわせのものを全部並べて母は行ったり来たり、父と兄は乾杯、乾杯である。その光景は今でもはっきり思い出せる。「よくぞ帰って来たね。広島に大きな爆弾が落ちたと伝え聞いて心配しちょったが…」「よく分らんが、軍の幹部は予測しちょったがと違うやろか」それからは難しい話ばかりになって僕は良く分からず不明な点が多い。どうやら原爆投下直前に帰されたようである。兄の晃一は悔しがっていた。陸軍で偉い人になって馬に乗って部下を従えて闊歩する姿を夢見ていたのである。夢は吹っ飛び、それどころか3発の焼夷弾が命中して我が家は消滅した。こんな田舎のちっぽけな所でさえこんな悲劇に襲われている。東京など都会の惨状は見ていられないほどの恐怖の都市に...思い出の道(9)
身体が悲鳴を上げ続けている。こっちもとうとう我慢の緒が切れてな。身体障碍者手帳取得の手続きに入ったよ。脱落するは残念だけれど、これからの余生はこの印籠を使わせてもらいます。仕事を諦め、何の稼ぎもなくなってからは出費を抑えるほか手段無しと悟って10年。煙草を止め、酒を止め、ゴルフを止め、旅行も止めたが逆に病院代の出費が増えてきた。思ってもいなかった事態である。まだあるぞ。せめて家事の一端、力仕事は任せておけと威張っていたが、それがそうではなくなった。重い物持つのは女房殿。部屋のレイアウトの変更も女房が机やベッドを動かす。僕はね、じっと座ってみているだけ。今やれているのはゴミ出しだけだ。それだけではないぞ。これは厭、あれは駄目だと文句並べて食事にもいろいろな注文を付けはじめた。さすがの女房殿もほとほと呆れ返ったいる...よく考えろよ
鹿江婆さんと秀馬爺さんは名うての頑張り屋だったと聞く。お金がないとなると農業の傍ら精米や諸々の仕事に精出して子供たちの教育費を工面した。母は高知市内に下宿して親の思いに応えるべく猛勉強をして資格を取ったという。長女であるが故に両親の苦労を間近に見てきたのであろう。その話をすることが自らを奮い立たせる原動力になったのではないかと今にして思う。怖い母親であった。それに比べれば新屋敷の岡野家はやはり噂通りの豪農であったのだろうと思う。3人の子供たちを自由に上の学校に行かせ、僕の父長男はハーモニカ吹いたり(ラジオ放送で流したことがあるほどの腕前だったとか)バイオリンをやったり、かなり勝手気儘の曲者であったとか。次男は京都大学で電気を勉強し、次女は女学校でのんびり過ごしていたとか。僕の父母の育った環境があまりに違ったせい...思い出の道(8)
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