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シャボン玉の詩 https://blog.goo.ne.jp/getanooto

残り少ない道のりになりましたが、 気持ちをこめて! ありのままを!

大きな病気を三つ抱えてておりますが、自伝小説や詩を書いたり、ネット囲碁、ゴルフなどたまにやったりして日々を過ごしております。

シャボン玉の詩
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久喜市
出身
高知市
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2014/09/27

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  • 思い出の道 (18)

    思い出の道 (18)

    2房のバナナを飯台に置いて「さあ皆で食べよう」と言ってドカッと座った。当時バナナは高くて滅多に食べられないご馳走であった。3人が黙々と食べ始めた。「どうだ、彰ノ介、美味いだろ。もう一つ喰ってもいいぞ」それは舌を溶かすような美味しさであった。僕はあっという間に2個食べて御飯に切り替えた。3人での食事は幾カ月ぶりであろう。それはそれで嬉しいのであるが雰囲気はぎくしゃくしていた。僕はさっさと食事を終え、読みかけの本の続きを読むために大急ぎで布団の中にもぐりこんでうつぶせになった。僕が一緒だとやりづらいだろうという配慮もあった。僕は僕なりに神経を使っているのである。聞き耳立てて様子を伺っていたがどうやらお金の話ばかりであった。静かに話し合っていた。僕は安心して本を閉じ、眠りに就いた。僕は5年生になった。級長とか学校委員...思い出の道(18)

  • 思い出の道(18)

    思い出の道(18)

    月明かりの下でびゅんと風の吹く晩秋の道。音のしないひどく静かな帰り道である。カラン、カランと響く二人の足音だけが澄み渡った空気を裂く。2人とも一言も発しない。夫々が夫々に自分の置かれた立場とこれからのことを考えていたのであろうか。それとも今の垣間見た現実を何度も何度も思い詰めていたのであろうか。―――こんな家庭ってもう厭だ、と何度思ったことか。父は反応しなかった。4日目、学校から帰ってみると置手紙が置いてあって母はいなかった。「しばらく留守にしますが、よろしく頼みます」と書いてあった。宛先もなければ、いつまでの一言もない。多分母は一寸働きに出たか、急な要件で止むを得ず出かけたものだろうと推測した。僕は急に寂しくなってきた。さてどうしようかと考える。父の帰りは恐らく夜中の2時か3時頃になるだろう。朝は早く起きて御...思い出の道(18)

  • 思い出の道(17)

    思い出の道(17)

    11時と言われても眠ってすぐのことである。僕はその時間が来るまで眠らないことにした。今、僕は夕食を終えて後片づけを手伝ったのちすぐに布団の中にもぐりこみ、うつぶせになって本を読むのを唯一の楽しみにしていた。偶然友達から借りた雑誌や貸本屋さんから借りた本が面白くて毎日9時ごろまでこれを読んで眠くなったら眠る習慣になったていた。兄は三重県の大学、父とは滅多に言葉を交わさない今、事実上母との二人暮らしみたいなものだ。静かな毎日であるが夫々が夫々の家事や仕事を受け持って何とか生活は成り立っていた。ただ、兄への送金が大きな負担になっていることは母の表情から読み取れる。母からの頼みごとに否やのあろう筈はないのであった。僕は母に声を掛けられる前にはもう本を閉じ、何時でも起きる心の準備が出来ていた。何処へ、何しにまでは分ってい...思い出の道(17)

  • 思い出の道(16)

    思い出の道(16)

    その日、授業が終わって雁首揃って校長室でこんこんと説教を受けた。「他人が懸命に育て上げたものを勝手に取るなんてことは盗人である。取った柿を玄関に並べたことについては情状酌量の余地があるとはいえ夜中に断りもなしのこの行為は泥棒である」ビシビシと追及され、さすがに足が震えた。さほどに悪い事とは認識せずにやったことではあるが。大変なことをしてしまったと後で気がついた。その日の晩、仲間たちとその家へ謝りに行った。「やったのは君たちか。それにしても大胆なことをしたものだ。然しいたずらの枠を超えているぞ。悪にならないように勉学に励んで下さい」お爺さんは怒った表情で、目が笑っていた。僕らはほっとした心地で帰ろうとしたら「持って行きなさい」と言われ、柿を2個ずつ手新聞紙に包んだ。僕らは深々と頭を下げて帰った。以来そのお爺さんと...思い出の道(16)

  • 思い出の道(15)

    思い出の道(15)

    その頃、小学生の生徒が5,6人のグループを作って「火の用心」、つまり火災の安全運動をやっていた。もう3年にもなろうか、3年生から5年生までの子供らが拍子木を持ち寄って集まり、「火の用心、火の用心」と大声を出しながら約30分ほど近所を回り、呼びかけるのである。空襲の恐怖もやっと終わり、戦後の所謂平和への象徴の一環として「火災撲滅」を子供たちに託して平穏を祈ったのであろう。僕らはそれはむしろ楽しみの一つであった。日が暮れてからの外での団体行動である。蛍を追いかけ、走り競争したり、「缶蹴り」を楽しみながら家から離れて自由の気分であったからである。ある日、リーダー格になった僕は「今度あそこで忍者ごっこしようか」と持ち掛けた。学校の北側の塀を挟んで大きな家がある。その塀沿いに大きな木が3本見事な枝を張って伸びている。あそ...思い出の道(15)

  • 思い出の道(14)

    思い出の道(14)

    4年生になったころから僕はガキ大将の片鱗を見せ始め、クラスの中ではひょうきん者の「彰ノ介」言われるようになった。これは僕自身がそのDNAを先祖の誰かに頂いたものではないかと思っている。兄もそのような傾向があったようで、大学祭の時漫才をやって喝采を浴びたという話を聞いている。最早覚えているものなど居ないと思うが、音楽の授業の中であっと驚くようなハプニングがあった。先生には叱られ、クラスの大勢の仲間から指さし笑われしばらくは話のネタになった。その日、先生は3拍子の拍子の取り方についてトライアングルという楽器を使って教え始めた。先生は3拍子の音楽をピアノで弾いている。それに合わせてツン、タ、タと打つのである。前端に腰掛けている2,3人の生徒に順に教え始めた。2,3回練習して上手にできるようになった。僕はその時、友とふ...思い出の道(14)

  • 思い出の道(13)

    思い出の道(13)

    こうして戦争の激震はこんな片田舎の果てにまでひたひたとその影を落としているのであった。が、小学校低学年の僕らにはそんな事には皆目気付いていない。汚い身なりでイモ食っていてもみんながそうだからこんなものかと気にも留めないのである。むしろ空襲警報や爆撃の恐怖などすっかり忘れてしまったかのように伸びやかに現状を受け入れているのであった。矢張り伸び盛りの子供である。当時田舎にいたのも幸いしたと思う。棲み処、食べ物、親兄弟の消息等悲痛な思いに明け暮れた都会はその数知れず、津波のように悲惨な人々の群であったろうと想像するからである。此処新屋敷は静かである。規模が小さいから何とかやっていたのだろうと想像する。それでも時々進駐軍の兵隊さんの見回りがあった。「来たぞ、来たぞ」と言って皆に知らせ大切なものは取られないように隠したも...思い出の道(13)

  • 思い出の道(12)

    思い出の道(12)

    3つ目はあの薬である。錠剤であったか、粉末であったか全く覚えていないのであるがあの薬のことはきっと死ぬまで覚えている。腰を抜かすほどに驚いた事件であった。「回虫が皆さんのお腹の中にたくさんいるかもしれません。それを退治するための薬です。必ず飲んで下さい。明日一人一人に確認しますからね。ズボラは許しませんよ」先生はそんな恐ろしいことを言って脅し、全員がもれなく飲むように指導した。僕は何をそんな馬鹿げたことを言ってるんだと殆ど耳を傾けず、友達とワイワイガヤガヤやりながら然し大切に持ち帰った。母に話しても「そんな物知らないね、ただの虫下しじゃない」と言ってそっけない。然し学校の先生からあれほどきつく言われた薬である。僕は夕食後忘れずそれを飲んで寝た。あくる朝、いつものようにトイレに入ってウンチした。何気なくのぞき込ん...思い出の道(12)

  • 思い出の道(11)

    思い出の道(11)

    僕は未だ小学校に入ったばかりである。貧乏というものがどのようなものであるかを理解するには幼すぎる。頭脳も知識も事の善悪すら判断できない程の未熟児童集団であったからである。貧乏をある程度理解でき始めたのはこれから2年ぐらい経ってからである。つまり友達との比較において、他との比較において自分はどうかという意識が芽生えて来てからのことである。一般的に誰だってそうであろう。従ってこの頃の僕の記憶というものは殆ど学校内でのことに集約されている。特に我が家の場合、何だかばらばらで、親子4人が揃って食事などのコミュニケイションが乏しく特段の事がなくずるずると低学年時代を過ごしてきたせいでもあろう。思い出そうとしても出ない。一方学校というところは遊びに行くところぐらいにしか捉えていなかったもののとに角楽しいところであった。入学...思い出の道(11)

  • 思い出の道(10)

    思い出の道(10)

    終戦直後のことである。誰もかれも貧乏である。食べていくのが精一杯,必死の時代である。「ここまで追い詰めた責任者は一体何者だろうね」とささやき合っていたおばさん達の声が今でも耳に残っている。余程憤懣やり方ない大変な時期であったろうと想像する。食べ物は殆どが配給制であった。何でもアメリカでは家畜の餌に使っているとかのトウモロコシの粉などまでもが配給されて「これ美味しいね」と言ったら母がそのように説明してくれたことを覚えている。焼け跡は畑に変わった。此処で芋や野菜を作り我が家の食料の足しにし、売って得るお金が生きていく資金にになることを知った始まりである。売るという役割が僕の日課になって行ったからである。竹で編んだざるにこぼれるようにいろんなものを入れて近所20件ぐらいを1軒1軒声を掛けて売り歩くのである。朝早くから...思い出の道(10)

  • 来年の約束

    来年の約束

    「急だけれど、今日連れて行ってくれないか。どうしても紅葉を見たいんだ」「へえ、今日?今から?」「そうだよ。今日をおいてほかにチャンスはないと思うんだ」「また始まりましたね。はいはい、いつでも準備は出来ていますから」「有難い、この間話していたあのルートで行こう」「鷹ゴルフの近くの食堂でそば食べてそれから足尾に向かうコースですね」「そうだ、10時には出たいからすぐに準備にかかるぞ」此処の食堂は昔良く使った。実に美味いそばであった。此処でたっぷり腹ごしらえをして裏日光を越えて足尾に出る。このコースも何回か使ったことがあるが車窓からの紅葉の眺めは一流である。密かに暖めていた取って置きの紅葉の道、想像しただけでも胸躍る。幸い天気は良い。胃の調子もまずまずだ。痔の方は冶具を当てておれば何とかなる。こんな3拍子揃う日なんてめ...来年の約束

  • 思い出の道(9)

    思い出の道(9)

    小さな食卓を囲んで久しぶりの親子4人。夫々が夫々に感慨を胸に抱いてその晩は大変な賑わいであった。ありあわせのものを全部並べて母は行ったり来たり、父と兄は乾杯、乾杯である。その光景は今でもはっきり思い出せる。「よくぞ帰って来たね。広島に大きな爆弾が落ちたと伝え聞いて心配しちょったが…」「よく分らんが、軍の幹部は予測しちょったがと違うやろか」それからは難しい話ばかりになって僕は良く分からず不明な点が多い。どうやら原爆投下直前に帰されたようである。兄の晃一は悔しがっていた。陸軍で偉い人になって馬に乗って部下を従えて闊歩する姿を夢見ていたのである。夢は吹っ飛び、それどころか3発の焼夷弾が命中して我が家は消滅した。こんな田舎のちっぽけな所でさえこんな悲劇に襲われている。東京など都会の惨状は見ていられないほどの恐怖の都市に...思い出の道(9)

  • よく考えろよ

    よく考えろよ

    身体が悲鳴を上げ続けている。こっちもとうとう我慢の緒が切れてな。身体障碍者手帳取得の手続きに入ったよ。脱落するは残念だけれど、これからの余生はこの印籠を使わせてもらいます。仕事を諦め、何の稼ぎもなくなってからは出費を抑えるほか手段無しと悟って10年。煙草を止め、酒を止め、ゴルフを止め、旅行も止めたが逆に病院代の出費が増えてきた。思ってもいなかった事態である。まだあるぞ。せめて家事の一端、力仕事は任せておけと威張っていたが、それがそうではなくなった。重い物持つのは女房殿。部屋のレイアウトの変更も女房が机やベッドを動かす。僕はね、じっと座ってみているだけ。今やれているのはゴミ出しだけだ。それだけではないぞ。これは厭、あれは駄目だと文句並べて食事にもいろいろな注文を付けはじめた。さすがの女房殿もほとほと呆れ返ったいる...よく考えろよ

  • 思い出の道(8)

    思い出の道(8)

    鹿江婆さんと秀馬爺さんは名うての頑張り屋だったと聞く。お金がないとなると農業の傍ら精米や諸々の仕事に精出して子供たちの教育費を工面した。母は高知市内に下宿して親の思いに応えるべく猛勉強をして資格を取ったという。長女であるが故に両親の苦労を間近に見てきたのであろう。その話をすることが自らを奮い立たせる原動力になったのではないかと今にして思う。怖い母親であった。それに比べれば新屋敷の岡野家はやはり噂通りの豪農であったのだろうと思う。3人の子供たちを自由に上の学校に行かせ、僕の父長男はハーモニカ吹いたり(ラジオ放送で流したことがあるほどの腕前だったとか)バイオリンをやったり、かなり勝手気儘の曲者であったとか。次男は京都大学で電気を勉強し、次女は女学校でのんびり過ごしていたとか。僕の父母の育った環境があまりに違ったせい...思い出の道(8)

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