生きづらいものが生きていくために。回復とサバイバルについて考えていきます。
生きづらさは重い負荷ですが、それにより自分が生きるために必要なものへの意識や関心が深くなります。生きづらい人は誰のためでもなく、自分が生きていくために世間にまだ存在しないものを創りださなければいけない切実さを抱えています。生き抜くことは全く保証されていない。それにも関わらず生き残ろうとする人たちの創造は、通じる課題を持つ人たちの力となり、そして自身だけでなく、周囲の世界も回復させる力を持ちます。
京都のらびと学舎では、2020年6月〜11月の間、畑のオープン日をもうけます。月曜日のおおよそ11時〜14時の間に岩倉幡枝町の畑にはだいたい誰かがいるので、畑の様子を見物したり、希望があれば作業に参加したりできます。 これは特に何かを教えたり伝えたりという目的ではなく、時間内出入り自由で、散歩の途中についでに見るだけで畑にきたり、畑にいる人に会いにきたり、お昼どきに昼ご飯を持ってきて畑で食べていったりなど、公園的利用のようなイメージをしてもらって構いません。 ただサービスする側とサービスされる側の関係ということではないので、天気の悪くなりそうな日に誰もいなかったりとか、たまたま来た時にもう一つ…
岩倉の畑をはじめたころからお世話になっている方が高齢になってその方の畑もぼちぼち終わろうかというようなことを話されているそうだ。 いつも野菜や苗を自家消費以上にたくさん作って人にあげられている。その量が多すぎていつももらいきれない。何の銘を打たなくてもフードバンクのような方だ。 今日はその方のエンドウの整理のお手伝いへ。これをあげるぞ、あれをあげるぞ、前にあげたあれは足りているか、と何度も何度も言われながら、僕たちももらえるだけはもらいつつも、もらえる以上の分に対しては、足りてます、大丈夫です、と何度も何度も言うけれどそれでもなお言われ続けるというのがいつものやりとり。 そのやりとりのなかで、…
フレイレの読書会。 別の2つの読書会でも僕はフレイレをやっているので、三重にフレイレをやっている。 フレイレは以下のようにいう。 行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。 僕は自分が埋没している「現実」を変えるには、言葉を変える必要があると思う。そして自分の状態や状況を変えていくためにそうしてきた。しかしそれは、今まで「〜婦」と呼ばれていたところを「〜師」に変えるような、単語だけの変化ではなく、「Aは、Bだ。」といってきたことを「Aは、Bではなく、Cである」というように、そ…
日常で出会うこと、連想したことなどがきっかけとなって、これまでもなんども繰り返さてきた苦しい感覚や責められる感じなどが再現され、一度その状態がくるとなかなか元に戻らないとき。 筋肉が攣(つ)って、しばらくどうしようもなく痛みを経験させられるように、関連する感じのきっかけがきたら、その状態がおこり、たえがたい「攣り」に苛まれるとき。 その時におこる嫌な思考や気持ちに対して、意思的に「肯定的」な考えや強引な気持ちの切り換えで対応しようとするけれど、あまり効果がないとき。 劇的な回復を期待しないで、ぼちぼちの対応をしていくと緩和するように思える。劇的な回復の期待は、追い詰められた思考の反動であり、そ…
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