いまでも、あの日抱いた感情の名前をさがしている。ずっと、ずっと、いまも。 大学受験を控えた夏休みだった。休みとは名ばかりの、夏期講習と模擬試験と判定に一喜一憂する日々に埋め尽くされた、スケジュールもメンタルもぎゅうぎゅうに追い詰められるような、あの夏。 講習から帰り、昼ご飯をかきこみながらリビングのバラエティを眺めていた。ひとときの休息の時間で、一時間くらい昼寝できるかななどと考える頭の表面にテ...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
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いまでも、あの日抱いた感情の名前をさがしている。ずっと、ずっと、いまも。 大学受験を控えた夏休みだった。休みとは名ばかりの、夏期講習と模擬試験と判定に一喜一憂する日々に埋め尽くされた、スケジュールもメンタルもぎゅうぎゅうに追い詰められるような、あの夏。 講習から帰り、昼ご飯をかきこみながらリビングのバラエティを眺めていた。ひとときの休息の時間で、一時間くらい昼寝できるかななどと考える頭の表面にテ...
ひとりでいいから。ちいさなうそをつくたびに、すこしずつ孤独に鈍くなった。 だれでもいいから。これまたうそを口にすれば、すこしずつ夜を乗り越えるのがじょうずになった。 ほんとうは、たったひとりがほしい。ずっと。ずっと前から。 すこしずつ、それを声に出せなくなるのは、なぜ。 部屋を出ようとすると、夜のなかに雨が降りしきっていた。一瞬、ごくわずかに躊躇した椎菜の背中に声があたって、転がる。「傘持ってん...
記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
つぎの日の朝までは、佳踊の顔を見たら「ちゃんとできた!」とかなんとか報告するつもりだった。 けれど、実際に風海に笑いかける佳踊の顔を見ると、ゆうべ思い浮かべた佳踊のしどけない姿を思い出してなにも言えなかった。風海が心で作った佳踊の姿は夢に出てきそうなほどの色を帯びていたから。「第一幕のはじめから出番があるんだ」 うれしそうに語る佳踊が、ひどく遠い。「そうなんだ、よかった」と相槌を打ちながら、こう...
その夜、風海は佳踊が語ったようにおっかなびっくり手のひらで自分の性器に触れてみた。そうっとこすっているとたしかに反応はしてくる。頭をもたげたものを今度は指を使って撫であげてみた。これでいいのかな、とちらっと思う。―……俺がしているとこ見たいの? ふっと昼間のせりふがよみがえって、いっぺんにどきどきした。手のなかのものが膨張を増す。 佳踊が一心に自分と同じようにしているところを思い浮かべた。舞台の上...
「……どうして?」 風海はやっと言葉を絞り出す。七未にうそをつくのはいやだったし、ごまかせるほど口がうまくもない。七未がいたずらっぽい口調で言った。「去年の公演でここに来たとき、風海くんと佳踊が裏庭でキスしているのを見ちゃったんだよねー。小五だったくせに、ふたりともおませちゃんなんだから」 舞台袖のざわめきがすうっと遠くなる。佳踊、ばれちゃったよ、どうするんだよ。問いに対する答えはもちろんなかった。...
風海だけがなんとなく気恥ずかしいまま、ふたり揃って舞台袖にむかうと七未の声がした。「もう、佳踊、どこにいたの。六年生なんだから、ちょっとは団の手伝いをしなさいよ」「七未ねえちゃん、ごめん。僕が佳踊に訊きたいことがあったんだ」 風海が佳踊をかばうように言うと、七未は「なになに?ひみつの話?」と笑った。まさしくその通りなので、ふたりして黙ってしまう。七未は「いやだもう、なんの話をしていたの」ところこ...
どきどきしたまま黙り込んでいると、佳踊がいたずらっぽく風海の顔を覗きこむ。「俺、たいてい風海のこと考えながらやってるし」「えっ?どんなふうに?」 佳踊が笑う。ぱあっとたんぽぽの綿毛が風に散るような笑いかただった。なぜだろう、僕たちっていまとてもよくない、後ろめたいような話をしているんじゃなかったっけ、と風海は思う。「どんなふうに?って風海、俺がしているとこ見たいの?」 風海は一気に血が頬に昇るの...
「風海、笑ってよ。どうしたの、ほんとに」「……佳踊に会えるのはうれしいよ。だけど、すこしだけ気まずい」 気持ち悪がられてもいい。嫌われてもいい。隠し事をしているのはよくない、隠していてもいつか佳踊には知られてしまう気がする。佳踊は風海のことならなんでもお見通しなのだから。 風海は自分の身に起こった出来事を佳踊につっかえつっかえ小声で打ち明けた。夏の日差しがじりじりと頭のてっぺんを焼いている。 風海...
《小学校六年生》 夏に団の公演を控えている佳踊に会うのが、ことしはほんのすこしだけ怖かった。両腕に余る大きな荷物を抱えて、あっちこっちうろうろしている気分だ。これは完全に風海の問題で、佳踊にさえなんと伝えたらいいのかわからない。 春のはじめ、目が覚めたら風海は精通を迎えていた。 それだけならまだなんということもないのだけれど、その前に見ていた夢に佳踊がいた。夢の舞台の上、何もまとわずに軽やかに舞っ...
佳踊はことし、どうやら風海と口づけを交わすことに執心しているようだった。 舞台袖で人目をはばかって、バックヤードで、裏庭で、風海はなんども佳踊とキスをした。そのたびに佳踊の唇がかさかさ乾いていたり、しっとり湿っていたりするのがふしぎでおもしろかった。佳踊の両手に腕を掴まれて口づけられると、自分のすべてが肯定されている気がした。自分の居場所はここなんだ、ここにならいていいんだ、というふうに。 この...
七未がまた踊るようになる。風海は素直にうれしかった。「そうなんだ。またバレエに戻るんだ」「うん。『こればっかりは業だねー』って言って」 佳踊が七未と美佑をおだやかな目で見ながら言う。とてもいいものを遠くから見る目だった。 たしかに、佳踊が風海を好きな限り、あの光景は佳踊の手の届くところには決して存在しない。だんだん、さすがの風海にもそういうことがわかってきた。風海は一瞬だけ目を伏せて、ちいさな声...
《小学校五年生》 佳踊のバレエ団は秋口に公演を控えている。佳踊は去年とおなじくふた幕にわたる出番をもらったそうで「俺、あんまり出世しないな」と恥ずかしそうに風海に告げた。「そんなことないよ。あんなにたくさんの人のまえで踊るなんてすごい」 去年の冬の舞台をはじめて通して観た。話の流れは完全に理解できなかったものの、とてもうつくしいものを観たのだ、ということは心の底から感じた。 そして、佳踊は。満員御...
照れもあってふたりで小突き合いながらステージに戻ると、ちょうど佳踊の出番のある場面の練習がはじまるところだった。佳踊が慌てて舞台へと駆けていく。その背中をなんとも言えない気持ちで見送った。さっきまで、あの細くて強い腕のなかにいた。 去年までの佳踊はステージの半分くらいを使っての舞いが多かったのに、今年は舞台全体を軽やかに駆け、跳び、くるくると回転している。あいかわらず、まっすぐに伸びた背中が凜と...
風海の告白を聞いた佳踊は顔をあげると、かすかに微笑んだ。ほんのりとした光のようなその笑顔を留めておきたいと、風海は胸の内に強く願った。消えないで。巡るたくさんの記憶に埋もれてしまわないで。ずっと僕の心の表層にいて。 風海から唇をあわせる。なぜか、そうすべきだとわかった。 ひと気のない劇場の裏庭で佳踊とキスをしている。去年の夏は、その行為にどういう意味があるのかうすぼんやりとしかわかっていなかった...
佳踊に手を引かれて、バックヤードを通って冷たい風が吹き渡る裏庭に出る。冷えた空気を吸うと、肺が透明になっていく気がする。 あのさ、と繰りかえして言う佳踊は風海を引っ張ってきたくせに、なにか言い淀んでいる。土を靴底でざりざりとこすりながら、佳踊がようやくうつむいたまま言った。「風海は、やっぱりうちの母さんみたいな美人が好き?」 佳踊の発言の意図がわからず、首をかしげると「風海、好きな女の子とか、い...
そのときだ。凜と張る声がした。「あなたが風海くん?」 うつくしい声に振りかえると、佳踊と目鼻立ちのよく似通った女性がこちらにむかって歩み寄ってくるところだった。すらりとした足が、軽やかに床を踏む。「こんにちは、風海くん。毎年なかなかご挨拶できなくてごめんなさいね。佳踊の母です」 なにか言わなければと思うのにぽかんと口が開いたままの風海からはなんの言葉も出ない。至近距離で見れば、圧倒的にこれまでの...
「なっ」と念を押してくる佳踊はずるい、と風海は思う。そう言われてしまったら、もう風海にはどうしようもないのに。 けれど、本気で腹が立つわけでもないので「佳踊はずるいなぁ」とわざと声に出した。「知らなかった?風海、俺、けっこうずるいよ」 風海がくすくす笑うと、佳踊は「ほんとだって!」とむきになるのがなおのことおかしい。 「おふたりさーん!」と声が飛んでくる。見なくてもわかる、七未の声だ。 けれど...
《小学校四年生》 風海が四年生の冬、佳踊のいるバレエ団は北風がぴうっと頬に厳しく、冷たくなるころに風海の街にやってきた。 ことしは会えないのかなとさびしい気持ちでいたので、父親から「お前の友達のいるバレエ団が来週水曜日からくるぞ」と聞かされたとき、心のなかでてんでばらばらに太鼓が打ち鳴らされているみたいだった。胸が躍るとはこういうことを言うのだろうか。 新調してもらったダウンコートを着て水曜日の放...
弾んだ声で、名を呼ばれる。この世でただひとつ、聞きたがえようのない声。「風海!」 稽古が終わったのだろう、佳踊が舞台から袖に戻ってきた。うれしそうに手を振っている。ぺたんと汗で前髪が額に貼りつき、手放しの笑顔もあいまって、すこし幼い印象になっている。「佳踊、じょうずになったな」 風海が言うと佳踊は照れたみたいに、「がんばればうまくなれるんだって最近わかってきた」と言う。 七未が口をはさむ。すこし...
夏の劇場は暑い。人いきれだけではなく、夏休み興行とあって一段と練習に熱が入る。完全には効ききらない空調が冷気をそれでも送り出している。 佳踊に会いに来る風海の存在に劇団員は慣れたのか、軽く頭を下げてくれるもののそれぞれの仕事の傍らで、という感じだ。 佳踊はことし、ほんのすこし大きな役をもらえたといって張り切っていたので、練習を見るのをとても楽しみにしていた。舞台の上に立つ佳踊の背中はまっすぐな糸...
「七未ねえちゃんがバックヤードで団員の男の人とこうしてた。あとで聞いたら、ほんとうに好きな相手とはこうするんだよって教えてくれた」 しずかな声で佳踊は言った。とても大事なものを差し出すような声が、そのあとにつづく。「僕、風海のことが好きだよ。ほかのだれより風海が好き。おかしいかな」 風海はかぶりを振る。佳踊が好きだと言ってくれた。だれより好きだと。ただ、うれしかった。発光しているみたいなきれいで大...
風海は玄関を手で示した。佳踊が「ん?」というふうに首をかしげる。「あがってく?」「いいの?ありがとう。喉乾いちゃったから麦茶もらっていい?」 いいよ、と答えて佳踊を家にあげる。きちんとそろえられた佳踊のスニーカー。留守にしているらしい母親がきれい好きでよかった、とちらっと思う。どうしてそんなことを思うのか、風海は自分で不思議だった。散らかった家だったら佳踊を招かなかった?そうじゃない、そんなこと...