ひとりでいいから。ちいさなうそをつくたびに、すこしずつ孤独に鈍くなった。 だれでもいいから。これまたうそを口にすれば、すこしずつ夜を乗り越えるのがじょうずになった。 ほんとうは、たったひとりがほしい。ずっと。ずっと前から。 すこしずつ、それを声に出せなくなるのは、なぜ。 部屋を出ようとすると、夜のなかに雨が降りしきっていた。一瞬、ごくわずかに躊躇した椎菜の背中に声があたって、転がる。「傘持ってん...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
「ブログリーダー」を活用して、風埜なぎささんをフォローしませんか?
ひとりでいいから。ちいさなうそをつくたびに、すこしずつ孤独に鈍くなった。 だれでもいいから。これまたうそを口にすれば、すこしずつ夜を乗り越えるのがじょうずになった。 ほんとうは、たったひとりがほしい。ずっと。ずっと前から。 すこしずつ、それを声に出せなくなるのは、なぜ。 部屋を出ようとすると、夜のなかに雨が降りしきっていた。一瞬、ごくわずかに躊躇した椎菜の背中に声があたって、転がる。「傘持ってん...
記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「風海とがんばるって約束したのに、なかなかいい役がもらえないんだ。まだまだ子どもなんだからってお父さんには言われた」「でも、今回の舞台でも出番はあるんだよね?」「うん、端役だけど……」「僕は佳踊が好き。舞台に立っている佳踊が好き」 この1年で出した結論を告げると、佳踊はすこしうなだれたまま頬を赤らめて「ありがとう」とちいさくつぶやいた。 らしくない佳踊の反応になぜかどきどきしながら風海は思う。1年に...
《小学校二年生》 佳踊の所属するバレエ団は、翌年の秋、ふたたび風海の父親の持つ劇場にやってきた。それを聞かされた夏のなかばからずっと、風海の心は佳踊に会えるという希望でふわふわとはずんでいた。 佳踊たちの到着の当日、弾むような足取りで下校し、ランドセルを自室においてから劇場にむかった。秋のやわらかな光がさしているロビーに足を踏み入れると、背後から「風海!」という声が背中をたたいた。心臓が痛いほど鳴...
風海の言葉に佳踊は驚いたように目をぱちぱちさせたけれど、「わかった」と言って、風海の指先から住所のメモを受け取った。すっと紙が指から離れたとき、自分たちが離ればなれになってしまうことを風海は痛感した。 佳踊と離れるのだと思うと、まるで心をえぐられるような気持ちがする。あんなに毎日、劇場で会っていたのに。たったひとりのひみつの友達を失ってしまう。でも、どうしてこんなに、まるでたくさんの針が心に刺さ...
佳踊の立ち居振る舞いがとても洗練されていること、背筋がいつもまっすぐに伸びていること、考え込むときにかすかに首をかしげる癖があること。放課後の劇場で風海は佳踊について少しずついろいろなことを知っていった。自分だけのひみつの友達ができたようでうれしかった。 佳踊は博識で、ほんとうにいろいろなことを知っていた。ラスコーの壁画のことや天体をめぐるミステリーの話、全国を巡業中に食べたおいしいものの思い出...
佳踊の声が心配そうにかげった。風海の目をじっと見てくる。「風海くん、きょうは楽しくなかったの?」「うーん、算数のドリルの宿題がいっぱい出たから、やだなぁと思って」「いっぱいあるんだったら、はやく家で終わらせないと」 佳踊のもっともな発言に、背負っていたランドセルを急に重く感じた。佳踊は風海の感情の起伏に気づいたのか、「それか、ここでやっちゃえば?」ととびきりの提案をするように言った。 風海はいい...
そこから、風海は佳踊についていくつかのことを知っていった。恥ずかしげながらに、佳踊が教えてくれたのだ。はにかんだような笑顔がよく似合うな、と風海は思う。 佳踊は言葉を選び選び、語った。両親がバレエ団にいるのであちこちを転々としながら暮らしていること、風海とおなじ小学校一年生だということ、将来は両親とおなじようなバレエダンサーになりたいと思っていること。 風海も自分について話した。といっても、「こ...
《小学校一年生》 はじめて劇場で佳踊を見かけたのは、小学校にあがったばかりの春、埃っぽい匂いのするひと気のないロビーでだった。 両手に持った紙パックのオレンジジュースを飲みながら、ぶらぶら足を振っていた。振り子のように規則正しく振られるまだ小さなかかとは、ロビーの椅子に腰かけると中途半端に宙に浮いていた。春の日差しが淡く高窓から差し込み、色素の薄い少年の髪のうえで踊っていた。光のかたまりみたいだ、...
「あ、風海くんだ」 舞台袖からこっそりステージをのぞいていると、背後から声がかかる。懐かしい声に振り返る。快活な笑みをたたえた女性が立っていた。風海の声が自然とはずむ。「七未(なみ)ねえちゃん、ひさしぶり」「風海くんもこの一年で大きくなったねぇ。うちの佳踊もすごく背が伸びたよ」「男子高校生だからね、水を飲んでも背が伸びる」 風海の言葉に七未は「ありえる」とわらうと、「佳踊を呼んでこようか?」と舞台...
バックヤードの薄暗くてどこか埃っぽい階段をのぼっていく。一段、また一段。造りがしっかりしているので、乱暴に駆けあがってもきっと軋まないだろう。けれど、いつもこの階段をのぼるとき、足運びは慎重になる。 だんだんと耳に届いてくる音楽や、靴が床に擦れる高い音、飛び交う言葉。最後の一段までのぼりきり、舞台のあるフロアとおなじ階の通路の重い扉を押し開けると、音と光と人の気配の洪水に包まれる。 衣装や音響、...
優羽の指が墓石からそっと離れるのと、恋人のほがらかな声が聞こえるのが同時だった。「優、持ってきたよ」 優羽に柄杓を手渡すと、足元にバケツを置き、供えられた花束を交換している。そのやわらかい横顔を無性に好きだと思った。智伸の眠る墓石をすっかりきれいにして、手を合わせる。――俺、たぶん大丈夫。だから、心配しないでゆっくり休んでくれ。最後、苦しかったぶんもゆっくり眠って。 優羽が目を開けると、神妙な顔で...
恋人と距離を詰めていったのはごくゆっくりだった。そのあいだ、彼が焦れる様子もなく優羽のそばにいてくれたのが、たぶんきちんとつきあうことになった決定打だった。優羽をちゃんと尊重してくれている。そう思えるようになって、はじめて優羽は彼のまえで泣いた。与えられる優しさに、改めて智伸の不在が浮き彫りになったから。 キスをされても、抱きしめられても、抱かれても、なにもかもが智伸とはちがった。ちがうと思うこ...
《それから》 薄手のタートルネックの背中を、ガラス越しのおだやかな午後の日差しが照らしている。暖かさにうつらうつらしていると、ふいに手の甲を叩かれる。淡い眠りの海から引き戻されるとき、とても優しい夢を見ていた気がした。「優、着くよ」 聞きなれた駅名を繰りかえすアナウンスが流れる。 覗きこんでくる笑顔に微笑みかえして、優羽はそっとかばんを膝に乗せなおした。ちいさなかばんに収まった線香の香りがかすかに...
とうとう智伸と優羽がそれぞれ暮らすアパートの最寄り駅に到着してしまう。先に改札をくぐった優羽は振り返って智伸を見上げた。「ありがとう。旅行につきあってくれて。……見舞いに行くから」 「ああ」と答えた智伸が優羽の両手をぎゅっと握りしめた。あたたかい体温が伝わってくる。「あしたがいい日でありますように。どんなに優羽がつらくなっても、お前に降り積もりつづけるあしたが、ずっとずっといい日でありますように」...
「……そんなこと、できない」 かたくなな優羽の声に、智伸がつないだ手を軽く揺らした。「いつでもいい、どんなにゆっくりでもいい。俺がいなくなること、乗り越えてくれないか。優羽のためじゃないよ、俺のために。そうだな、これが俺の最後のわがままだな」「会えなくても、抱きしめられなくても、愛してるから。だから、そういう痛みを抱えて、ずっと生きていきたい」「痛む胸を抱えたままでも、しあわせにはなれるよ。優羽には...
そのままの姿勢で空を仰いでいると、智伸がそっと声をかけてきた。いたわるような声音だった。「優羽、そろそろ行ったほうがよくないか。新幹線の時間もあるし」「……だな」 そっと空から視線を戻して、優羽は智伸を見遣った。世界のだれよりいとおしい笑顔の、いちばんそばにいられる時間の終わりが刻々と迫っている。手に取って、眺められるんじゃないかと思うほど克明に。 神社をあとにしながら、優羽は智伸の手を取った。驚...
目的地には迷いようもなく到着した。神社仏閣のたぐいを頻繁に訪れるタイプではないのだが、優羽は少々あっけにとられた。電車の駅からほど近い智伸と並んで訪れたここは、荘厳な雰囲気というよりはむしろ観光地の趣がつよい。 パワースポット。たしかにすこし、軽い響きかもしれない。 それでも智伸は楽しそうで、参拝のあと、なんでこんなにと思うほどの種類のお守りを売っている店を覗いて「おい、優羽。お守り買ってやるよ...
つぎの日もすこんとよく晴れて、「晴れ男はどっちだったんだろうな」と空の青を映して智伸は笑った。弱い海風がその髪を揺らしていた。優羽は智伸の髪が光に透けるさまをぼうっと眺めている。 この旅の最後の日。15時すぎになったらふたりで新幹線に乗り、智伸も優羽も帰途につく。 それからは、と優羽はゆっくり思う。それからは、離ればなれだ。智伸は病院へ、優羽は日常へ、引き裂かれるように帰っていく。智伸を失って、...
その晩はぬる燗をつけてもらい、智伸とすこしだけ飲んだ。そうしているとやはり、病気のことも、入院のことも、やがて訪れる智伸の死のことも、たちの悪い冗談のように思えそうだった。けれど、浴衣の袖から覗く智伸の痩せた腕が優羽に現実を思い知らせてしまう。「どうした、優羽」 沈みがちな優羽になにか察したのか、智伸が心配そうに尋ねる。 自分がくりかえし似たような錯覚とそれを打ち崩す現実を行ったり来たりすること...
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら部屋に戻って、畳の上で壁にもたれかかり、寄り添うようにくっついて座った。体育座りのまま、智伸が言う。頭を智伸の肩にに乗せている優羽は、音と振動でその声を聞く。「もっと早く、俺が気持ちを伝えていたらどうなっていたかな。たとえば高校のときとかに」 幼い片想いを打ち明けあっていたなら。もっと早く、両想いなのだとわかっていたなら。優羽は頭のなかに作りものの光景を思い浮か...
智伸は回復すると「温泉に浸かりたい」と言い出したので昼間からふたりで湯に浸かり、「大名みたいだな」などと言いあって笑った。大きな窓から差す光に、ふたりの声がぼやぼやとにじんだ。優羽には音声が光を反射して、きらきらきらめくさままで見えるようだった。 風呂あがり、旅館の受付のまえの小さな土産物コーナーを冷やかして、ロビーでなにを話すわけでもなく椅子に身体を沈めた。 ゆっくりと時間が傾斜して、終わりへ...