仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
鉱山業は古くから我が国で行われており、貴重な鉱物資源を産出し続けましたが、江戸時代から明治にかけて特に多く産出したのが銅でした。銅は貿易における重要な輸出品のひとつで、外貨を得るための貴重な資源であるとともに、鉄と並んで重化学工業で幅広く使用されました。しかし、鉱山での肉体労働が著(いちじる)しく体力を消耗(しょうもう)するのみならず、副産物として発生する鉱毒にも長年悩まされ続けました。もし鉱毒が...
※今回より「第106回歴史講座」の内容を更新します(3月7日までの予定)。資本主義の発達によって、我が国でも賃金労働者が増加するようになりましたが、その多くは紡績(ぼうせき)業や製糸業で働いており、明治33(1900)年の段階での工場労働者数のほぼ6割を占(し)めていました。また、同じ明治33(1900)年の調査によって労働者の88%が女性であったことが分かっていますが、当時は女工(じょこう)や工女(こうじょ)と呼ば...
※「弥生時代以前」の更新は今回が最後となります。明日(1月30日)からは「第105回歴史講座」の内容を更新します(3月7日までの予定)。239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。その後、...
中国大陸では220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち華北(かほく)を支配していた魏に使者を送ったのが、有名な邪馬台国(やまたいこく)でした。「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連...
当時の中国の歴史書には、我が国の小国が中国と様々な外交を展開したことが記されています。例えば、前漢(ぜんかん)の歴史をまとめた「漢書」地理志(「かんじょ」ちりし)によれば、紀元前1世紀頃の倭人(わじん)社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。楽浪郡とは先述のとおり朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。なお、「倭...
環濠(かんごう)集落は弥生(やよい)時代の大きな特徴の一つですが、この他にも、瀬戸内海沿岸や大阪湾岸にかけての平野部や、海を広く展望できる丘陵(きゅうりょう)には、見張りや砦(とりで)などの機能を持つ高地性集落が見られます。このような環濠集落や高地性集落が広まったのは、先述のとおり軍事的な緊張が高まったからでした。収穫物を求めるなどして我が国も争いの時代に入っていったのです。集落同士の争いは、より...
さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...
その後、弥生時代を迎えて水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ文化を導入する必要に迫られました。しかし、我が国における青銅器(せいどうき)や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器(さいき)がつくられたのは先述したとおりです。つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジして...
世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙(ねら)われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダ...
アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、放射性炭素年代法など...
ところで、中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆様の多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲耕作などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書に書かれてい...
さらに、男性のみがもつ遺伝子の「Y染色体」を周辺諸国とともに調査したところ、日本人男子の約34%がもつY染色体が、他の地域にはほとんど存在しないことが分かりました。歴史を振り返れば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったま...
また、歴史教科書にはこのような記述も見られます。「弥生文化は、農耕社会を既(すで)に形成していた朝鮮半島から必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文(じょうもん)人とともに生み出したものと考えられる」。上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と従来の縄文人が共存した」...
【ハイブリッド方式】第106回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年1月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第106回黒田裕樹の歴史講座...
ところで、現在の歴史教科書では弥生(やよい)文化のはじまりについて概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲(すいとう)耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、こ...
国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方はいずれも文化の先進地域として栄え、祭祀(さいし)を共通とする大きな連合体が作られていたと考えられています。なお、島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡は大量の青銅製祭器が発掘されたことで有名です。ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさど...
弥生時代には、それまでの石器から新たに金属器が使われるようになりましたが、我が国では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝来していたと見なされています。このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり...
また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭りを重んじるようになりましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古...
弥生時代の死者は、集落近くの共同墓地に大型の甕棺(かめかん)を用いた甕棺墓(かめかんぼ)や、大型の平らな石を配した支石墓(しせきぼ)などに葬(ほうむ)られましたが、縄文時代の屈葬(くっそう)と異なり、体全体を伸ばしたままで伸展葬(しんてんそう)された事例が多いのが特徴です。また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ...
水稲耕作が中心の農耕社会の出現は、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化をもたらしました。人々は水田の近辺で生活したほうが便利なことから、やがて平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴(たてあな)住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。...
弥生時代が進むにつれ、農業の技術も次第に発達していきました。農具は初期の木製から鋤(すき)や鍬(くわ)、刀子(とうす)、斧(おの)などの鉄製農工具が現れ、水路の造成や耕地の開拓も進んで乾田(かんでん)の開発も進められました。弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(...
初期の水稲耕作は、もともと水分を多く含んだ低湿地(ていしっち)で行われていました。これを湿田(しつでん)といいます。当初は籾(もみ)を田んぼに直接まく直播(じきまき)を行っていましたが、やがて苗(なえ)を育てて水田に植えていく田植えが広まっていきました。耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほ...
弥生時代の大きな特徴の一つとして、先述した弥生土器が挙げられます。この時代の土器は縄文土器に比べて薄手(うすで)で赤褐色(せきかっしょく)であり、また良質の粘土を高温で焼いているために硬いものが多いです。弥生土器は主として煮炊(にた)き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生...
紀元前500年頃、中国大陸や朝鮮半島に近い北九州を中心に新たな文化が生まれました。この文化は、水稲耕作や金属器(青銅器や鉄器)を使用し、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生(やよい)土器が使用されました。これらの文化を弥生文化といい、3世紀末までのこの時代を弥生時代といいます。ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生...
中国大陸で群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の春秋・戦国時代の紀元前6世紀頃には、先述のとおり青銅器にかわって鉄器が普及し始め、紀元前3世紀には始皇帝(しこうてい)の秦(しん)が大陸を史上初めて統一し、始皇帝の死後に秦が滅亡すると、かわって漢(かん、または前漢=ぜんかん)が成立しました。なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇...
※今回より「弥生時代以前」の更新を再開します(1月29日までの予定)。我が国で縄文(じょうもん)文化が長い時間をかけて発展し続けた頃、中国大陸では急速に文化が進展していきました。紀元前5000年~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土(こうど)地帯でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう)下流域でも水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)が始まって、農耕社会が成立しました。紀元前16世紀...
※「第105回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月7日)からは「弥生時代以前」の更新を再開します(1月29日までの予定)。日露戦争は多額の戦費を公債や外債でまかないましたが、賠償金をもらえなかったことが我が国の経済に深刻な影響をもたらしたことで、明治40(1907)年の恐慌をきっかけに企業の倒産が相次ぎ、不況が続くようになりました。そんな中、財閥と呼ばれた少数の企業家が我が国の経済を懸命に支...
重工業部門においては、政府による造船奨励政策によって、日清戦争後に三菱長崎造船所などの民間の大規模な造船所が建設されました。しかし、その材料となる鉄鋼は輸入に頼っており、19世紀後半の厳しい帝国主義の世界においては、武器の製造や造船業といった国家の諸産業にとって最重要となる鉄鋼の国産化、すなわち製鉄業を我が国のものとすることは喫緊(きっきん、差しせまって重要なこと)の課題でした。このため、政府は日清...
大量の物資や人員を一度に輸送できることから、鉄道業にも投資が集中しました。明治14(1881)年に華族(かぞく)を中心として設立された我が国初の私鉄である日本鉄道会社が明治24(1891)年に上野~青森間を開通させたのをはじめ、商人や地主らの会社設立ブームに乗ったかたちで鉄道会社の設立が相次ぎました。明治22(1889)年に官営の東海道本線(東京~神戸間)が全通した頃には、営業キロの総数で民間が官営を上回る勢いとな...
明治政府は旧幕府や諸藩が経営していた造船所や鉱山などの事業を引き継ぐとともに、殖産興業を目指して先述した富岡製糸場などの官営模範工場を次々と開設しました。しかし、官営事業の多くが赤字経営だったうえに、西南戦争による多額の出費で財政危機を迎えた政府は、明治13(1880)年に工場払下げ概則を公布して官営事業の民間への払下げを始めました。ところが、払下げの条件が厳しかったために進展が見られず、その流れのなか...
寄生地主の多くは企業を興したり、あるいは公債や株式に投資したりしましたが、彼らの行為は結果として形を変えて国家の収入を増やしたことになります。まさに「カネは天下の回りもの」ですね。もちろんすべての寄生地主が成功することはなく、様々な興亡を繰り返したうえで、より大きな寄生地主が誕生することになるのですが、成長した寄生地主がより多額のおカネを国内で投資することで、さらに国家全体の財政が潤(うるお)うと...
ところで、寄生地主制と関連して一般的な歴史教科書で必ずと言っていいほど紹介されている項目のひとつに当時の「小作農の生活」の様子があり、以下のような内容が一般的です。「高額な小作料の支払いに苦しむ小作農の中には、子どもを工場へ出稼ぎに出したり、副業をしたりして何とか生活を営(いとな)むという有様でした」。寄生地主と比較して貧富の差を強調することで、いわゆる「貧農史観」を前面に押し出す姿勢がみられます...
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仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...