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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 社会運動の発生・前編 その2

    鉱山業は古くから我が国で行われており、貴重な鉱物資源を産出し続けましたが、江戸時代から明治にかけて特に多く産出したのが銅でした。銅は貿易における重要な輸出品のひとつで、外貨を得るための貴重な資源であるとともに、鉄と並んで重化学工業で幅広く使用されました。しかし、鉱山での肉体労働が著(いちじる)しく体力を消耗(しょうもう)するのみならず、副産物として発生する鉱毒にも長年悩まされ続けました。もし鉱毒が...

  • 社会運動の発生・前編 その1

    ※今回より「第106回歴史講座」の内容を更新します(3月7日までの予定)。資本主義の発達によって、我が国でも賃金労働者が増加するようになりましたが、その多くは紡績(ぼうせき)業や製糸業で働いており、明治33(1900)年の段階での工場労働者数のほぼ6割を占(し)めていました。また、同じ明治33(1900)年の調査によって労働者の88%が女性であったことが分かっていますが、当時は女工(じょこう)や工女(こうじょ)と呼ば...

  • 小国の分立と邪馬台国 その4

    ※「弥生時代以前」の更新は今回が最後となります。明日(1月30日)からは「第105回歴史講座」の内容を更新します(3月7日までの予定)。239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。その後、...

  • 小国の分立と邪馬台国 その3

    中国大陸では220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち華北(かほく)を支配していた魏に使者を送ったのが、有名な邪馬台国(やまたいこく)でした。「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連...

  • 小国の分立と邪馬台国 その2

    当時の中国の歴史書には、我が国の小国が中国と様々な外交を展開したことが記されています。例えば、前漢(ぜんかん)の歴史をまとめた「漢書」地理志(「かんじょ」ちりし)によれば、紀元前1世紀頃の倭人(わじん)社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。楽浪郡とは先述のとおり朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。なお、「倭...

  • 小国の分立と邪馬台国 その1

    環濠(かんごう)集落は弥生(やよい)時代の大きな特徴の一つですが、この他にも、瀬戸内海沿岸や大阪湾岸にかけての平野部や、海を広く展望できる丘陵(きゅうりょう)には、見張りや砦(とりで)などの機能を持つ高地性集落が見られます。このような環濠集落や高地性集落が広まったのは、先述のとおり軍事的な緊張が高まったからでした。収穫物を求めるなどして我が国も争いの時代に入っていったのです。集落同士の争いは、より...

  • 世界に誇れる日本文明 その8

    さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...

  • 世界に誇れる日本文明 その7

    その後、弥生時代を迎えて水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ文化を導入する必要に迫られました。しかし、我が国における青銅器(せいどうき)や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器(さいき)がつくられたのは先述したとおりです。つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジして...

  • 世界に誇れる日本文明 その6

    世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙(ねら)われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダ...

  • 世界に誇れる日本文明 その5

    アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、放射性炭素年代法など...

  • 世界に誇れる日本文明 その4

    ところで、中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆様の多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲耕作などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書に書かれてい...

  • 世界に誇れる日本文明 その3

    さらに、男性のみがもつ遺伝子の「Y染色体」を周辺諸国とともに調査したところ、日本人男子の約34%がもつY染色体が、他の地域にはほとんど存在しないことが分かりました。歴史を振り返れば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったま...

  • 世界に誇れる日本文明 その2

    また、歴史教科書にはこのような記述も見られます。「弥生文化は、農耕社会を既(すで)に形成していた朝鮮半島から必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文(じょうもん)人とともに生み出したものと考えられる」。上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と従来の縄文人が共存した」...

  • 【ハイブリッド方式】第106回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年1月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第106回黒田裕樹の歴史講座...

  • 世界に誇れる日本文明 その1

    ところで、現在の歴史教科書では弥生(やよい)文化のはじまりについて概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲(すいとう)耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、こ...

  • 弥生文化 その11

    国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方はいずれも文化の先進地域として栄え、祭祀(さいし)を共通とする大きな連合体が作られていたと考えられています。なお、島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡は大量の青銅製祭器が発掘されたことで有名です。ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさど...

  • 弥生文化 その10

    弥生時代には、それまでの石器から新たに金属器が使われるようになりましたが、我が国では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝来していたと見なされています。このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり...

  • 弥生文化 その9

    また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭りを重んじるようになりましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古...

  • 弥生文化 その8

    弥生時代の死者は、集落近くの共同墓地に大型の甕棺(かめかん)を用いた甕棺墓(かめかんぼ)や、大型の平らな石を配した支石墓(しせきぼ)などに葬(ほうむ)られましたが、縄文時代の屈葬(くっそう)と異なり、体全体を伸ばしたままで伸展葬(しんてんそう)された事例が多いのが特徴です。また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ...

  • 弥生文化 その7

    水稲耕作が中心の農耕社会の出現は、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化をもたらしました。人々は水田の近辺で生活したほうが便利なことから、やがて平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴(たてあな)住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。...

  • 弥生文化 その6

    弥生時代が進むにつれ、農業の技術も次第に発達していきました。農具は初期の木製から鋤(すき)や鍬(くわ)、刀子(とうす)、斧(おの)などの鉄製農工具が現れ、水路の造成や耕地の開拓も進んで乾田(かんでん)の開発も進められました。弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(...

  • 弥生文化 その5

    初期の水稲耕作は、もともと水分を多く含んだ低湿地(ていしっち)で行われていました。これを湿田(しつでん)といいます。当初は籾(もみ)を田んぼに直接まく直播(じきまき)を行っていましたが、やがて苗(なえ)を育てて水田に植えていく田植えが広まっていきました。耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほ...

  • 弥生文化 その4

    弥生時代の大きな特徴の一つとして、先述した弥生土器が挙げられます。この時代の土器は縄文土器に比べて薄手(うすで)で赤褐色(せきかっしょく)であり、また良質の粘土を高温で焼いているために硬いものが多いです。弥生土器は主として煮炊(にた)き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生...

  • 弥生文化 その3

    紀元前500年頃、中国大陸や朝鮮半島に近い北九州を中心に新たな文化が生まれました。この文化は、水稲耕作や金属器(青銅器や鉄器)を使用し、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生(やよい)土器が使用されました。これらの文化を弥生文化といい、3世紀末までのこの時代を弥生時代といいます。ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生...

  • 弥生文化 その2

    中国大陸で群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の春秋・戦国時代の紀元前6世紀頃には、先述のとおり青銅器にかわって鉄器が普及し始め、紀元前3世紀には始皇帝(しこうてい)の秦(しん)が大陸を史上初めて統一し、始皇帝の死後に秦が滅亡すると、かわって漢(かん、または前漢=ぜんかん)が成立しました。なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇...

  • 弥生文化 その1

    ※今回より「弥生時代以前」の更新を再開します(1月29日までの予定)。我が国で縄文(じょうもん)文化が長い時間をかけて発展し続けた頃、中国大陸では急速に文化が進展していきました。紀元前5000年~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土(こうど)地帯でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう)下流域でも水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)が始まって、農耕社会が成立しました。紀元前16世紀...

  • 資本主義の発達 その4

    ※「第105回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月7日)からは「弥生時代以前」の更新を再開します(1月29日までの予定)。日露戦争は多額の戦費を公債や外債でまかないましたが、賠償金をもらえなかったことが我が国の経済に深刻な影響をもたらしたことで、明治40(1907)年の恐慌をきっかけに企業の倒産が相次ぎ、不況が続くようになりました。そんな中、財閥と呼ばれた少数の企業家が我が国の経済を懸命に支...

  • 資本主義の発達 その3

    重工業部門においては、政府による造船奨励政策によって、日清戦争後に三菱長崎造船所などの民間の大規模な造船所が建設されました。しかし、その材料となる鉄鋼は輸入に頼っており、19世紀後半の厳しい帝国主義の世界においては、武器の製造や造船業といった国家の諸産業にとって最重要となる鉄鋼の国産化、すなわち製鉄業を我が国のものとすることは喫緊(きっきん、差しせまって重要なこと)の課題でした。このため、政府は日清...

  • 資本主義の発達 その2

    大量の物資や人員を一度に輸送できることから、鉄道業にも投資が集中しました。明治14(1881)年に華族(かぞく)を中心として設立された我が国初の私鉄である日本鉄道会社が明治24(1891)年に上野~青森間を開通させたのをはじめ、商人や地主らの会社設立ブームに乗ったかたちで鉄道会社の設立が相次ぎました。明治22(1889)年に官営の東海道本線(東京~神戸間)が全通した頃には、営業キロの総数で民間が官営を上回る勢いとな...

  • 資本主義の発達 その1

    明治政府は旧幕府や諸藩が経営していた造船所や鉱山などの事業を引き継ぐとともに、殖産興業を目指して先述した富岡製糸場などの官営模範工場を次々と開設しました。しかし、官営事業の多くが赤字経営だったうえに、西南戦争による多額の出費で財政危機を迎えた政府は、明治13(1880)年に工場払下げ概則を公布して官営事業の民間への払下げを始めました。ところが、払下げの条件が厳しかったために進展が見られず、その流れのなか...

  • 資本主義の成立・後編 その5

    寄生地主の多くは企業を興したり、あるいは公債や株式に投資したりしましたが、彼らの行為は結果として形を変えて国家の収入を増やしたことになります。まさに「カネは天下の回りもの」ですね。もちろんすべての寄生地主が成功することはなく、様々な興亡を繰り返したうえで、より大きな寄生地主が誕生することになるのですが、成長した寄生地主がより多額のおカネを国内で投資することで、さらに国家全体の財政が潤(うるお)うと...

  • 資本主義の成立・後編 その4

    ところで、寄生地主制と関連して一般的な歴史教科書で必ずと言っていいほど紹介されている項目のひとつに当時の「小作農の生活」の様子があり、以下のような内容が一般的です。「高額な小作料の支払いに苦しむ小作農の中には、子どもを工場へ出稼ぎに出したり、副業をしたりして何とか生活を営(いとな)むという有様でした」。寄生地主と比較して貧富の差を強調することで、いわゆる「貧農史観」を前面に押し出す姿勢がみられます...

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