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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 保元・平治の乱 その1

    先述のとおり、院政は摂関家から皇室へ政治の実権を取り戻すきっかけにはなったものの、天皇の父(もしくは祖父)として「治天の君」と称されるまでになった上皇(=法皇)の権力は頂点に達し、その独裁的な政治手法が、結果として周囲の混乱をもたらすことになりました。白河法皇は、孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた保安(ほう...

  • 武士団の成長と源氏の進出 その4

    後三年の役の勝者となった清原清衡は、源義家が東北を去った後に藤原氏に復姓して「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」を名乗り、豊富な資金力で工作した結果、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらいました。藤原清衡は奥州の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわた...

  • 武士団の成長と源氏の進出 その3

    さて、前九年の役の際に朝廷に味方した清原氏でしたが、戦後の恩賞によって陸奥一体の支配権を与えられるとともに、棟梁の清原武則(きよはらのたけのり)が新たに鎮守府将軍に任ぜられるなど、前九年の役は清原氏にとって最大の利益をもたらしました。また、滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻として新たに迎えられました。武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清...

  • 武士団の成長と源氏の進出 その2

    平安時代初期に坂上田村麻呂らが蝦夷(えみし)を平定して以来、東北地方は陸奥(むつ)と呼ばれ、朝廷の支配下に置かれましたが、この頃の東北地方は金や銀などの貴金属や、毛皮などの珍しい物産の宝庫であり、繁栄を極めていました。こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍(あべ)氏が、日本海側を清原(きよはら)氏が地方豪族として支配し、その力は次第に強くなっていきました。永承(えいしょ...

  • 武士団の成長と源氏の進出 その1

    平将門の乱から約90年後の長元(ちょうげん)元(1028)年、将門の遠縁にあたる平忠常(たいらのただつね)が、強大な武力を背景に上総国(かずさのくに、現在の千葉県中部)で反乱を起こしました。乱は3年近くも続きましたが、清和源氏の血を引く源頼信(みなもとのよりのぶ)によって忠常は倒されました。この戦いを「平忠常の乱」といいます。清和源氏は、先述した藤原純友の乱の鎮圧に成功した源経基が始祖とされており、経基...

  • 院政の成立 その6

    さて、それまでの摂関家にかわり、院政によって皇室が政治の実権を再び握るようになったわけですが、摂関家の荘園が減少した一方で、院や大寺院の荘園が増加して、荘園自身の権限も強化されるなど、土地の支配をめぐる根本的な制度には結果として大きな変化はありませんでした。また、院に経済的基盤が集中したことによって「治天の君」と称された上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さらに「天皇の父(あるいは祖父)」と...

  • 院政の成立 その5

    また、上皇は近臣の女性を院に準じた待遇である「女院(にょいん)」として多くの荘園を与えたり、特定の寺院にも多数の荘園を寄進したりしました。例えば鳥羽上皇が皇女で八条院(はちじょういん)と号したショウ子内親王(しょうしないしんのう・注)の名義とした「八条院領」は約220か所、後白河上皇が長講堂(ちょうこうどう)に寄進した「長講堂領」は約180か所にのぼったと伝えられています。なお、八条院領は鎌倉時代に「大...

  • 院政の成立 その4

    院政時代を築いた各上皇は仏教を篤(あつ)く信仰され、それぞれ出家して法皇(ほうおう)となられました。各法皇は、白河法皇が天皇ご即位時の承保(じょうほう)3(1076)年に建てられた法勝寺(ほっしょうじ)などの造寺(ぞうじ)・造仏(ぞうぶつ)事業を行われるとともに、熊野三山(くまのさんざん)への熊野詣(くまのもうで)や、高野山(こうやさん)への高野詣(こうやもうで)を繰り返されました。なお、院政期に皇室...

  • 院政の成立 その3

    堀河天皇の父として政治の実権を握られた白河上皇は、周囲から「治天(ちてん)の君(きみ)」と称されたほか、自らの政務の場所として院庁(いんのちょう)を開かれ、実務を院司(いんし)に担当させました。院政のもとでは、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)や、院庁から発せられる公文書である院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)などが国政に対して大きな影響力を持つようになりました。また、白河上皇は直属の警備機関...

  • 院政の成立 その2

    後三条天皇は、荘園整理令を出された際に枡(ます)の大きさを等しくして、不正をなくすとともに計量の単位を統一されました。これを「宣旨枡(せんじます)」といいます。その他にも天皇は物価の公定価格を定められたり、国司の重任(ちょうにん)を禁止されたり、右大臣(うだいじん)に摂関家以外の貴族を起用されたりするなど、制度面や人事面において様々な改革を行われました。後三条天皇の子で、延久4年旧暦12月(1073年1月...

  • 院政の成立 その1

    さて、約50年に渡って摂関政治の実権を握ってきた藤原頼通でしたが、娘が成長した男子を産むことができなかったので、治暦(じりゃく)4(1068)年に藤原氏を外戚(がいせき、母方の親戚のこと)としない後三条(ごさんじょう)天皇が即位されました。摂関家(せっかんけ)と外戚関係のない天皇のご誕生は、宇多(うだ)天皇以来、実に約170年ぶりのことでした。ご即位の際に35歳と働き盛りであられた後三条天皇は、学問好きで個性...

  • 国風文化 その10

    書道の世界も、漢文が中心の唐風から、流麗(りゅうれい)な和風の書である和様(わよう)が発達して、小野道風(おののみちかぜ)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)の「三蹟(さんせき)」などが知られました。なお「三蹟」は「三跡」とも呼ばれています。平安時代の貴族の衣装は、奈良時代の唐風のものを日本人向きに改良したものが用いられ、男性の正装は束帯(そくたい)もしくはそれを簡略に...

  • 国風文化 その9

    弘仁・貞観文化の仏像は、一本の木から一体の仏像を彫りおこす「一木造(いちぼくづくり)」が主流でしたが、国風文化の頃になると、仏師(ぶっし)である定朝(じょうちょう)によって、仏像の身体をいくつかの部分に分けて別々に分担して製作し、これらを寄せ集めて仕上げるという能率的な「寄木造(よせぎづくり)」の技法が創案され、大量の造仏(ぞうぶつ)が可能となりました。定朝による仏像は、女性的な柔和(にゅうわ)で...

  • 国風文化 その8

    平安時代中期には、阿弥陀仏(あみだぶつ)を信仰し念仏を唱えて、来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願うとする「浄土教(じょうどきょう)」が流行しました。浄土教は10世紀半ばに空也(くうや)が諸国をめぐって念仏をすすめ、さらに源信(げんしん)が「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著して浄土教の教義と往生念仏(おうじょうねんぶつ)の教えを説くと、貴族から庶民...

  • 国風文化 その7

    奈良時代の天平(てんぴょう)文化や、平安時代初期の弘仁・貞観文化でも紹介した「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」は、国風文化の頃までにはさらに進化して「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が生まれました。これは「我が国の八百万(やおよろず、非常に多いという意味)の神々は、実は様々な仏が化身(けしん、仮の姿という意味)として現れた」という考えのことであり、神の化身の姿のことを「権現(ごんげん)」といい...

  • 国風文化 その6

    その他の代表的な国風文化の文学としては、紀貫之が国司としての任期を終えて京へ戻るまでを日記風に綴(つづ)った、紀行文の名作である「土佐(とさ)日記」があります。土佐日記はその後の宮廷女性による多くの仮名日記文学に大きな影響を与え、この後にも藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)による「蜻蛉(かげろう)日記」や、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による「更級(さらしな)日記」などが生まれました...

  • 国風文化 その5

    前回(第98回)の講座で紹介したように、藤原氏が摂政や関白を独占するきっかけになったのは、安和(あんな)2(969)年に源高明(みなもとのたかあきら)を謀略で朝廷から追放した「安和の変」でした。源高明は「皇族から臣籍降下した源氏」であり、光源氏と条件が全く一緒です。一方、同じく謀略によって朝廷から北九州の大宰府に追放され、亡くなってから怨霊(おんりょう)と化して大きなタタリをもたらした後に「天神様」とし...

  • 国風文化 その4

    源氏物語といっても、源頼朝(みなもとのよりとも)のような鎌倉時代の源氏の話ではなく、天皇の皇子で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)して一般貴族になった光源氏(ひかるげんじ)が主人公の物語です。光源氏が様々な恋愛を経ながら出世を重ね、准太上天皇(じゅんたいじょうてんのう、天皇を退位した上皇に準じる地位になること)にまでなるというサクセスストーリーが物語中盤までの構成で...

  • 国風文化 その3

    文学の世界では和歌のみならず、優れた物語も次々と著(あらわ)されました。平安時代の前期には、大陸南部の民間説話が由来とされる「竹取(たけとり)物語」や、六歌仙の一人である在原業平が主人公とされる歌物語(うたものがたり、和歌にまつわる説話を集めた物語のこと)である「伊勢(いせ)物語」などが完成しました。このうち竹取物語は我が国最古の物語とされ、また「かぐや姫」の童話として現代でも有名ですね。さらに平...

  • 国風文化 その2

    既(すで)に万葉集などで盛んとなっていた和歌でしたが、平安時代の頃には公式の場でも広まるようになりました。延喜(えんぎ)5(905)年には醍醐(だいご)天皇の命令によって紀貫之(きのつらゆき)らが我が国初の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編纂=へんさんすること)和歌集である「古今和歌集(こきんわかしゅう)」を完成させました。古今和歌集に見られる歌風は繊細(せんさい)かつ技巧的であり、古今...

  • 国風文化 その1

    平安時代に我が国と隣国との正式な外交関係が途絶えて、大陸との関係が大きく変化すると、これまで摂取してきた大陸文化を巧(たく)みに消化することによって、我が国の風土や日本人の生活あるいは人情、嗜好(しこう)などにかなった、優雅で洗練された新しい文化が生み出されました。こうした動きの中で、平安時代の中期から後期には我が国独自の文学や美術などが数多く生まれ、後世の文化にも多大な影響を与えるようになりまし...

  • 対外関係の変化と刀伊の入寇 その5

    当時の朝廷では、和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる、と本気で信じていた傾向がありました。その「鉄則」からすれば、藤原隆家が武力で海賊を撃退したことは「余計なこと」であり、だからこそ当時の朝廷は隆家に恩賞を与えなかったばかりか、彼を叱責すらしたのです。当時の朝廷の行為には理解しがたいものがありますが、冷静に考えれば、現代の私たちも「悪いことが起きませんように...

  • 対外関係の変化と刀伊の入寇 その4

    その理由としては、刀伊の入寇が起こったことの朝廷への報告が遅れて、朝廷が侵略を知った頃には既(すで)に女真族が撃退された後だったからという「手続上の問題」が挙げられていますが、そんな形式的な理由よりも、当時の朝廷による「鉄則」が背景にあったからでした。では、その「鉄則」とは何でしょうか。カギを握るのは、我が国固有の文化である「和歌」です。平安時代前期に編纂(へんさん)された古今和歌集(こきんわかし...

  • 対外関係の変化と刀伊の入寇 その3

    寛仁(かんにん)3(1019)年旧暦3月、刀伊(とい)と呼ばれ、後に金(きん)を建国した女真族(じょしんぞく)を中心とする海賊の船団が突如(とつじょ)として我が国の対馬(つしま、現在の長崎県)に来襲しました。海賊はその後も壱岐(いき、現在の長崎県)から北九州へと移動して、各地で多数の住民を殺害あるいは捕虜(ほりょ)としました。この非常事態に、当時の大宰権帥(だざいごんのそち)であった藤原隆家(ふじわらの...

  • 対外関係の変化と刀伊の入寇 その2

    現在の中国東北部の満州(まんしゅう)を拠点として我が国にしばしば使節を派遣し、友好的な関係が続いていた渤海(ぼっかい)でしたが、926年に遼(りょう)によって滅ぼされました。遼は「契丹(きったん)」とも呼ばれ、満州からモンゴル高原東部にまで及ぶ帝国を築きましたが、我が国とは正式な国交を結びませんでした。また、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が9世紀末までに衰えると、10世紀始めに建国された高麗(こうらい)によ...

  • 対外関係の変化と刀伊の入寇 その1

    平安時代の初期には、前回(第98回)の講座で紹介した「弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)文化」が栄えるなど、唐風(とうふう)の文化に対する貴族の関心は高いものがありました。しかし、唐自体が8世紀半ばに安史(あんし)の乱が起きるなど衰えを見せ始めると、多大の出費と航海による危険を冒(おか)してまで遣唐使(けんとうし)を派遣する必要がないと考えられるようになりました。その背景には、いつまでも中国大陸か...

  • 武士団の形成と地方の反乱 その4

    地方武士の実力を知った朝廷は、彼らを「侍(さむらい)」として奉仕させたり、9世紀末に設けられた「滝口(たきぐち)の武士」のように、宮中の警備に用いたりするようになりました。なお、滝口の武士は「滝口の武者(むしゃ)」とも呼ばれます。つまり、武士たちをガードマンとして雇(やと)うようになったのです。なお「さむらい」という言葉は、身分の高い人のそばで仕えることを意味する「さぶらふ(=さぶらう)」が由来で...

  • 武士団の形成と地方の反乱 その3

    桓武平氏の一族は東国に早くから土着していましたが、平将門(たいらのまさかど)は下総国(しもうさのくに、現在の千葉県北部など)を根拠地として武力を蓄(たくわ)えていました。将門は一族と争いを繰り返すうちに、やがては国司にも反抗するようになり、天慶(てんぎょう)2(939)年に常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県など)の国府(こくふ)を攻め落として反乱を起こしました。この戦いを「平将門の乱」といいます。将門...

  • 武士団の形成と地方の反乱 その2

    平安時代の各地の公領たる国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)でも、豪族や有力農民たちが外からの侵略に対抗するために、自らが武装するようになりました。彼らは家子(いえのこ)と呼ばれた一族や、郎党(ろうとう、または家人=けにん)と呼ばれた従者(じゅうしゃ)を率いて武装集団を形成するようになり、やがては侵略防止のみならず、所領の秩序も維持するようになりました。これが「武士団」の誕生のきっかけです。...

  • 武士団の形成と地方の反乱 その1

    ※今回より「第99回歴史講座」の内容の更新を開始します(来年1月13日までの予定)。ところで、皆さんは「平安時代」と聞いてどのような印象をお持ちになられるでしょうか。一般的には藤原氏による摂関(せっかん)政治が花開いた、きらびやかな時代という印象が強いようですが、その全体像についてはあまり知られていないことが多いようです。実は、約400年続いた平安時代は、庶民(しょみん)にとっては非常に住みにくい、地獄の...

  • 国民生活の変化 その7

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(12月2日)からは「第99回歴史講座」の内容を更新します(来年1月13日までの予定)。革新自治体は、私が住む大阪府でも誕生したことがありました。昭和46(1971)年の大阪府知事選挙において、社会党と共産党の支持を受けた憲法学者の黒田了一(くろだりょういち)が、現職知事を約25,000票の僅差(きんさ)で破り、初当選を果たしたのです。黒田知事は選挙公約でもあった公害...

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