1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
先述のとおり、院政は摂関家から皇室へ政治の実権を取り戻すきっかけにはなったものの、天皇の父(もしくは祖父)として「治天の君」と称されるまでになった上皇(=法皇)の権力は頂点に達し、その独裁的な政治手法が、結果として周囲の混乱をもたらすことになりました。白河法皇は、孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた保安(ほう...
後三年の役の勝者となった清原清衡は、源義家が東北を去った後に藤原氏に復姓して「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」を名乗り、豊富な資金力で工作した結果、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらいました。藤原清衡は奥州の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわた...
さて、前九年の役の際に朝廷に味方した清原氏でしたが、戦後の恩賞によって陸奥一体の支配権を与えられるとともに、棟梁の清原武則(きよはらのたけのり)が新たに鎮守府将軍に任ぜられるなど、前九年の役は清原氏にとって最大の利益をもたらしました。また、滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻として新たに迎えられました。武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清...
平安時代初期に坂上田村麻呂らが蝦夷(えみし)を平定して以来、東北地方は陸奥(むつ)と呼ばれ、朝廷の支配下に置かれましたが、この頃の東北地方は金や銀などの貴金属や、毛皮などの珍しい物産の宝庫であり、繁栄を極めていました。こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍(あべ)氏が、日本海側を清原(きよはら)氏が地方豪族として支配し、その力は次第に強くなっていきました。永承(えいしょ...
平将門の乱から約90年後の長元(ちょうげん)元(1028)年、将門の遠縁にあたる平忠常(たいらのただつね)が、強大な武力を背景に上総国(かずさのくに、現在の千葉県中部)で反乱を起こしました。乱は3年近くも続きましたが、清和源氏の血を引く源頼信(みなもとのよりのぶ)によって忠常は倒されました。この戦いを「平忠常の乱」といいます。清和源氏は、先述した藤原純友の乱の鎮圧に成功した源経基が始祖とされており、経基...
さて、それまでの摂関家にかわり、院政によって皇室が政治の実権を再び握るようになったわけですが、摂関家の荘園が減少した一方で、院や大寺院の荘園が増加して、荘園自身の権限も強化されるなど、土地の支配をめぐる根本的な制度には結果として大きな変化はありませんでした。また、院に経済的基盤が集中したことによって「治天の君」と称された上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さらに「天皇の父(あるいは祖父)」と...
また、上皇は近臣の女性を院に準じた待遇である「女院(にょいん)」として多くの荘園を与えたり、特定の寺院にも多数の荘園を寄進したりしました。例えば鳥羽上皇が皇女で八条院(はちじょういん)と号したショウ子内親王(しょうしないしんのう・注)の名義とした「八条院領」は約220か所、後白河上皇が長講堂(ちょうこうどう)に寄進した「長講堂領」は約180か所にのぼったと伝えられています。なお、八条院領は鎌倉時代に「大...
院政時代を築いた各上皇は仏教を篤(あつ)く信仰され、それぞれ出家して法皇(ほうおう)となられました。各法皇は、白河法皇が天皇ご即位時の承保(じょうほう)3(1076)年に建てられた法勝寺(ほっしょうじ)などの造寺(ぞうじ)・造仏(ぞうぶつ)事業を行われるとともに、熊野三山(くまのさんざん)への熊野詣(くまのもうで)や、高野山(こうやさん)への高野詣(こうやもうで)を繰り返されました。なお、院政期に皇室...
堀河天皇の父として政治の実権を握られた白河上皇は、周囲から「治天(ちてん)の君(きみ)」と称されたほか、自らの政務の場所として院庁(いんのちょう)を開かれ、実務を院司(いんし)に担当させました。院政のもとでは、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)や、院庁から発せられる公文書である院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)などが国政に対して大きな影響力を持つようになりました。また、白河上皇は直属の警備機関...
後三条天皇は、荘園整理令を出された際に枡(ます)の大きさを等しくして、不正をなくすとともに計量の単位を統一されました。これを「宣旨枡(せんじます)」といいます。その他にも天皇は物価の公定価格を定められたり、国司の重任(ちょうにん)を禁止されたり、右大臣(うだいじん)に摂関家以外の貴族を起用されたりするなど、制度面や人事面において様々な改革を行われました。後三条天皇の子で、延久4年旧暦12月(1073年1月...
さて、約50年に渡って摂関政治の実権を握ってきた藤原頼通でしたが、娘が成長した男子を産むことができなかったので、治暦(じりゃく)4(1068)年に藤原氏を外戚(がいせき、母方の親戚のこと)としない後三条(ごさんじょう)天皇が即位されました。摂関家(せっかんけ)と外戚関係のない天皇のご誕生は、宇多(うだ)天皇以来、実に約170年ぶりのことでした。ご即位の際に35歳と働き盛りであられた後三条天皇は、学問好きで個性...
書道の世界も、漢文が中心の唐風から、流麗(りゅうれい)な和風の書である和様(わよう)が発達して、小野道風(おののみちかぜ)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)の「三蹟(さんせき)」などが知られました。なお「三蹟」は「三跡」とも呼ばれています。平安時代の貴族の衣装は、奈良時代の唐風のものを日本人向きに改良したものが用いられ、男性の正装は束帯(そくたい)もしくはそれを簡略に...
弘仁・貞観文化の仏像は、一本の木から一体の仏像を彫りおこす「一木造(いちぼくづくり)」が主流でしたが、国風文化の頃になると、仏師(ぶっし)である定朝(じょうちょう)によって、仏像の身体をいくつかの部分に分けて別々に分担して製作し、これらを寄せ集めて仕上げるという能率的な「寄木造(よせぎづくり)」の技法が創案され、大量の造仏(ぞうぶつ)が可能となりました。定朝による仏像は、女性的な柔和(にゅうわ)で...
平安時代中期には、阿弥陀仏(あみだぶつ)を信仰し念仏を唱えて、来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願うとする「浄土教(じょうどきょう)」が流行しました。浄土教は10世紀半ばに空也(くうや)が諸国をめぐって念仏をすすめ、さらに源信(げんしん)が「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著して浄土教の教義と往生念仏(おうじょうねんぶつ)の教えを説くと、貴族から庶民...
奈良時代の天平(てんぴょう)文化や、平安時代初期の弘仁・貞観文化でも紹介した「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」は、国風文化の頃までにはさらに進化して「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が生まれました。これは「我が国の八百万(やおよろず、非常に多いという意味)の神々は、実は様々な仏が化身(けしん、仮の姿という意味)として現れた」という考えのことであり、神の化身の姿のことを「権現(ごんげん)」といい...
その他の代表的な国風文化の文学としては、紀貫之が国司としての任期を終えて京へ戻るまでを日記風に綴(つづ)った、紀行文の名作である「土佐(とさ)日記」があります。土佐日記はその後の宮廷女性による多くの仮名日記文学に大きな影響を与え、この後にも藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)による「蜻蛉(かげろう)日記」や、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による「更級(さらしな)日記」などが生まれました...
前回(第98回)の講座で紹介したように、藤原氏が摂政や関白を独占するきっかけになったのは、安和(あんな)2(969)年に源高明(みなもとのたかあきら)を謀略で朝廷から追放した「安和の変」でした。源高明は「皇族から臣籍降下した源氏」であり、光源氏と条件が全く一緒です。一方、同じく謀略によって朝廷から北九州の大宰府に追放され、亡くなってから怨霊(おんりょう)と化して大きなタタリをもたらした後に「天神様」とし...
源氏物語といっても、源頼朝(みなもとのよりとも)のような鎌倉時代の源氏の話ではなく、天皇の皇子で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)して一般貴族になった光源氏(ひかるげんじ)が主人公の物語です。光源氏が様々な恋愛を経ながら出世を重ね、准太上天皇(じゅんたいじょうてんのう、天皇を退位した上皇に準じる地位になること)にまでなるというサクセスストーリーが物語中盤までの構成で...
文学の世界では和歌のみならず、優れた物語も次々と著(あらわ)されました。平安時代の前期には、大陸南部の民間説話が由来とされる「竹取(たけとり)物語」や、六歌仙の一人である在原業平が主人公とされる歌物語(うたものがたり、和歌にまつわる説話を集めた物語のこと)である「伊勢(いせ)物語」などが完成しました。このうち竹取物語は我が国最古の物語とされ、また「かぐや姫」の童話として現代でも有名ですね。さらに平...
既(すで)に万葉集などで盛んとなっていた和歌でしたが、平安時代の頃には公式の場でも広まるようになりました。延喜(えんぎ)5(905)年には醍醐(だいご)天皇の命令によって紀貫之(きのつらゆき)らが我が国初の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編纂=へんさんすること)和歌集である「古今和歌集(こきんわかしゅう)」を完成させました。古今和歌集に見られる歌風は繊細(せんさい)かつ技巧的であり、古今...
平安時代に我が国と隣国との正式な外交関係が途絶えて、大陸との関係が大きく変化すると、これまで摂取してきた大陸文化を巧(たく)みに消化することによって、我が国の風土や日本人の生活あるいは人情、嗜好(しこう)などにかなった、優雅で洗練された新しい文化が生み出されました。こうした動きの中で、平安時代の中期から後期には我が国独自の文学や美術などが数多く生まれ、後世の文化にも多大な影響を与えるようになりまし...
当時の朝廷では、和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる、と本気で信じていた傾向がありました。その「鉄則」からすれば、藤原隆家が武力で海賊を撃退したことは「余計なこと」であり、だからこそ当時の朝廷は隆家に恩賞を与えなかったばかりか、彼を叱責すらしたのです。当時の朝廷の行為には理解しがたいものがありますが、冷静に考えれば、現代の私たちも「悪いことが起きませんように...
その理由としては、刀伊の入寇が起こったことの朝廷への報告が遅れて、朝廷が侵略を知った頃には既(すで)に女真族が撃退された後だったからという「手続上の問題」が挙げられていますが、そんな形式的な理由よりも、当時の朝廷による「鉄則」が背景にあったからでした。では、その「鉄則」とは何でしょうか。カギを握るのは、我が国固有の文化である「和歌」です。平安時代前期に編纂(へんさん)された古今和歌集(こきんわかし...
寛仁(かんにん)3(1019)年旧暦3月、刀伊(とい)と呼ばれ、後に金(きん)を建国した女真族(じょしんぞく)を中心とする海賊の船団が突如(とつじょ)として我が国の対馬(つしま、現在の長崎県)に来襲しました。海賊はその後も壱岐(いき、現在の長崎県)から北九州へと移動して、各地で多数の住民を殺害あるいは捕虜(ほりょ)としました。この非常事態に、当時の大宰権帥(だざいごんのそち)であった藤原隆家(ふじわらの...
現在の中国東北部の満州(まんしゅう)を拠点として我が国にしばしば使節を派遣し、友好的な関係が続いていた渤海(ぼっかい)でしたが、926年に遼(りょう)によって滅ぼされました。遼は「契丹(きったん)」とも呼ばれ、満州からモンゴル高原東部にまで及ぶ帝国を築きましたが、我が国とは正式な国交を結びませんでした。また、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が9世紀末までに衰えると、10世紀始めに建国された高麗(こうらい)によ...
平安時代の初期には、前回(第98回)の講座で紹介した「弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)文化」が栄えるなど、唐風(とうふう)の文化に対する貴族の関心は高いものがありました。しかし、唐自体が8世紀半ばに安史(あんし)の乱が起きるなど衰えを見せ始めると、多大の出費と航海による危険を冒(おか)してまで遣唐使(けんとうし)を派遣する必要がないと考えられるようになりました。その背景には、いつまでも中国大陸か...
地方武士の実力を知った朝廷は、彼らを「侍(さむらい)」として奉仕させたり、9世紀末に設けられた「滝口(たきぐち)の武士」のように、宮中の警備に用いたりするようになりました。なお、滝口の武士は「滝口の武者(むしゃ)」とも呼ばれます。つまり、武士たちをガードマンとして雇(やと)うようになったのです。なお「さむらい」という言葉は、身分の高い人のそばで仕えることを意味する「さぶらふ(=さぶらう)」が由来で...
桓武平氏の一族は東国に早くから土着していましたが、平将門(たいらのまさかど)は下総国(しもうさのくに、現在の千葉県北部など)を根拠地として武力を蓄(たくわ)えていました。将門は一族と争いを繰り返すうちに、やがては国司にも反抗するようになり、天慶(てんぎょう)2(939)年に常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県など)の国府(こくふ)を攻め落として反乱を起こしました。この戦いを「平将門の乱」といいます。将門...
平安時代の各地の公領たる国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)でも、豪族や有力農民たちが外からの侵略に対抗するために、自らが武装するようになりました。彼らは家子(いえのこ)と呼ばれた一族や、郎党(ろうとう、または家人=けにん)と呼ばれた従者(じゅうしゃ)を率いて武装集団を形成するようになり、やがては侵略防止のみならず、所領の秩序も維持するようになりました。これが「武士団」の誕生のきっかけです。...
※今回より「第99回歴史講座」の内容の更新を開始します(来年1月13日までの予定)。ところで、皆さんは「平安時代」と聞いてどのような印象をお持ちになられるでしょうか。一般的には藤原氏による摂関(せっかん)政治が花開いた、きらびやかな時代という印象が強いようですが、その全体像についてはあまり知られていないことが多いようです。実は、約400年続いた平安時代は、庶民(しょみん)にとっては非常に住みにくい、地獄の...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(12月2日)からは「第99回歴史講座」の内容を更新します(来年1月13日までの予定)。革新自治体は、私が住む大阪府でも誕生したことがありました。昭和46(1971)年の大阪府知事選挙において、社会党と共産党の支持を受けた憲法学者の黒田了一(くろだりょういち)が、現職知事を約25,000票の僅差(きんさ)で破り、初当選を果たしたのです。黒田知事は選挙公約でもあった公害...
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1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...