仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
科学や芸術の分野においては、中断していた文化勲章の授与が昭和21(1946)年に復活し、昭和23(1948)年以降は毎年11月3日の「文化の日」に授与されるようになりました。また、昭和24(1949)年には理論物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき)が日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞し、敗戦後の国民に大きな勇気を与えました。同年には、あらゆる分野の科学者を代表する機関としての「日本学術会議」が設立されています。一...
大東亜戦争の敗北によって我が国は大きな痛手をこうむることになりましたが、戦後の復興は、文化の様々な分野での新しい流れを生み出しました。文学では、社会常識や既成のリアリズムに挑戦したり、自身の戦争体験を表現したりするといった、戦後の新しい価値観を代表した、太宰治(だざいおさむ)や坂口安吾(さかぐちあんご)、大岡昇平(おおおかしょうへい)や野間宏(のまひろし)などの作品が当時の人々の話題を呼びました。...
ところで、バブル景気といえば、一般的には「投機的な面が強く、実態とかけ離れていた」という否定的なイメージが強いようです。確かに、バブル景気には経済の実態を反映していない側面がありましたが、自由経済の下ではこうした事態は有り得ない話ではなく、時間が経てば自然に落ち着くか、あるいは政策によって緩やかに収束させれば良いのです。バブル景気で株価や地価が上がって大儲(もう)けをした人がいたのも事実ですが、そ...
円高不況の到来に伴い、日本銀行は公定歩合を引き下げました。なぜなら、公定歩合を下げることによって銀行が企業にお金を貸しやすくなり、企業が不況を乗り越えやすくなるからです。また、円高の加速によって我が国が内需拡大型の経済転換を強(し)いられたことで、公共事業の拡大や、所得税減税による内需拡大・低金利政策などが矢継ぎ早に実施されました。これらの政策が功を奏すると同時に、輸出産業がマイクロ=エレクトロニ...
【ハイブリッド方式】第100回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年1月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...
我が国における農産物の輸入自由化を実現したアメリカでしたが、貿易摩擦がその後も続いたこともあって、平成元(1989)年からの「日米構造協議」において、アメリカは「貿易の不均衡の原因は両国における諸制度や構造そのものにある」として、我が国の経済構造の改革を求めました。また、それ以前の昭和60(1985)年には、アメリカの呼びかけで国際通貨基金(=IMF)の五大国(日本・アメリカ・西ドイツ・フランス・イギリス)に...
1980年代前半の我が国は、第2次石油危機を省エネルギー化の成功で乗り切ったこともあり、低率ながら安定した成長を続けました。また、省エネルギー化をもたらした優れた技術を持つ日本製の工業製品が世界を席巻(せっけん)したことで、我が国の輸出が拡大しましたが、それは同時に欧米先進国の日本に対する輸入超過となり、特にアメリカは毎年膨大(ぼうだい)な額の対日貿易赤字を続けました。このため、アメリカは我が国に自動...
ところで、中曽根首相が昭和60(1985)年に終戦記念日である8月15日に靖国神社を公式に参拝した際に、教科書誤報事件と同様に中韓両国などによる猛反発を受けたことで、以後の参拝を中止しました。このことが、我が国の一部マスコミが中心となって歴代首相や大臣らが靖国神社に参拝することをためらわせる風潮をつくり上げるきっかけとなったのではないか、と考えられており、現代の内閣にまでその影響が続いています。なお、中曽...
昭和57(1982)年11月、鈴木善幸にかわって中曽根康弘(なかそねやすひろ)が首相となり、内閣を組織しました。「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根内閣は「行財政改革」を推進して、電電公社と専売公社を昭和60(1985)年に民営化(現在のNTTとJT)したほか、昭和62(1987)年には国鉄(=日本国有鉄道)を分割民営化(現在のJRグループ)させました。また、昭和59(1984)年には首相直属の諮問(しもん、意見を求めるという意味...
ところで、この鈴木内閣の時代に我が国の教育や国益そのものを著しく損ねる出来事が起きてしまったのをご存じでしょうか。いわゆる「教科書誤報事件」のことです。鈴木内閣時代の昭和56(1981)年に、政府与党の自民党が教科書制度改革案を発表しましたが、これに危機感を抱いた人々によって「日本が再び軍国主義の道を歩む」などと政治問題化されたとともに、わざわざ中華人民共和国や韓国に「ご注進」が行われました。そして、翌...
1979(昭和54)年2月にイラン革命が起きると、これをきっかけに石油生産が中断されたことを受けて、原油価格が大幅に上昇しました。これを「第2次石油危機」といいます。2度にわたる石油危機において、企業は「省エネルギー」を進めたほか、新規採用の抑制やパート労働への切り替えなどで人件費を削減した「減量経営」を行いました。こうした努力の結果、第2次石油危機の影響は、かつての第1次石油危機と比べるとそれほど大きいも...
福田内閣の後を受けて昭和53(1978)年12月に成立した大平正芳(おおひらまさよし)内閣は、国会における「保革伯仲」状態と与党の内紛が続く中で、財政再建をめざしました。ところで、大平内閣時代の昭和54(1979)年4月に、我が国の伝統文化に根差すとともに、日本人の歴史観の根幹を形成してきた元号が法制化されました。いわゆる「元号法」のことです。大化の改新の始まりでもある「乙巳(いっし)の変」が起きた645年に我が国...
昭和51(1976)年12月に成立した福田内閣は、当時の円高不況や欧米との貿易摩擦の解消、あるいは東南アジア諸国との関係強化をめざすとともに、昭和47(1972)年に国交正常化させた中華人民共和国との条約交渉に臨み、昭和53(1978)年8月に「日中平和友好条約」を結びました。条約において、主権・領土の相互尊重や相互不可侵・相互内政不干渉が明記されるとともに、中華人民共和国側からの賠償金請求が放棄されました。しかし実...
首相の政治資金調達をめぐる疑惑となった「金脈問題」によって田中角栄内閣が昭和49(1974)年12月に総辞職すると、かわって三木武夫(みきたけお)内閣が成立しました。三木内閣は「クリーン政治」をスローガンに掲げて、政治資金規正法を全面的に改正しました。しかし、昭和51(1976)年にアメリカ・ロッキード社の航空機売り込みをめぐった田中内閣時代の汚職事件が明るみになり、田中前首相が逮捕されるという事態が発生しまし...
ところで、原油価格の高騰は我が国のみならず世界経済にも大打撃を与え、1973(昭和48)年を境に経済成長率の低下や物価あるいは失業率を上昇させるなど、深刻な事態をもたらしました。このため、日本・アメリカ・西ドイツ(後のドイツ)・イギリス・フランス・イタリアの6か国の首脳による「先進国首脳会議(サミット)」が1975(昭和50)年に開催され、経済成長や貿易問題などの先進国間での経済政策を調整しました。先進国首脳...
第1次石油危機に見舞われた我が国では、昭和48(1973)年11月に第二次田中内閣が石油緊急対策要綱を閣議決定して総需要抑制策を行いました。この結果、我が国の消費が低迷するともに、大型公共事業が凍結あるいは縮小されることとなりました。また、田中内閣は一般企業に対して石油・電力の20%削減を要請しましたが、大混乱の中で企業がこぞって原材料を買い占(し)めたこともあって「物不足」が喧伝(けんでん、盛んに言いふら...
田中内閣は、当時太平洋沿岸に集中していた工業地帯を全国各地の拠点都市に分散させるとともに、これらの間を新幹線や高速道路などの高速交通網で結ぶとする「日本列島改造論」を掲(かか)げて、公共事業を積極的に推進しました。しかし、これらの政策は将来の事業化を見込んでの土地投機などによる地価の高騰を招き、社会問題と化しました。そんな折、我が国はおろか世界中に大打撃を与える事態が発生しました。1973(昭和48)年...
米中の歴史的和解を受けて、田中首相も中華人民共和国との国交樹立に向けて動き出し、内閣成立からわずか3か月足らずの昭和47(1972)年9月に、首相自らが訪中して周恩来首相と会談して「日中共同声明」を発表し、いわゆる「日中国交正常化」を実現させました。一方、日中共同声明の直後に、日本政府が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了したものと認められる」と表明したことにより、台湾の国民党政府が我が国との外交関係の...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。昭和47(1972)年7月、7年8か月続いた佐藤栄作(さとうえいさく)内閣に代わって、田中角栄(たなかかくえい)が「決断と実行」をキャッチフレーズとして内閣総理大臣に就任しました。田中内閣が誕生する頃、世界情勢は大きな変化を遂げていました。同じ1972(昭和47)年2月に、アメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問して、毛沢東(もうたくとう)...
※「第99回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月14日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。絵画では、大和絵(やまとえ)の様式によって時間の経過に従って絵や詞書(ことばがき)を織り交ぜながら物語を描くという絵巻物(えまきもの)が発達し、「源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)」や「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき...
当時のその他の文学作品としては、我が国やインドあるいはチャイナに伝わる1,000余りの説話を集めた「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」があり、当時の我が国の武士や庶民の生活などが見事に表現されています。ちなみに、前回(第98回)の講座で紹介した「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」や「受領は倒るるところに土をつかめ」のエピソードは今昔物語集が由来となっているほか、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の...
院政期に入ると、朝廷を中心に栄えてきた貴族文化が地方へと広がっていきましたが、その背景には、この頃までに新たに勢力を伸ばし始めた武士の存在がありました。当時の建築としては、奥州藤原氏による平泉の「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)」や、陸奥(むつ、ここでは現在の福島県いわき市)の「白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)」、豊後(ぶんご、現在の大分県豊後高田市)の「富貴寺大堂(ふきじおおどう)」な...
源頼朝や足利尊氏(あしかがたかうじ)、あるいは織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)など、後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに、確固たるビジョンを持てない「開拓者」としての立場でしかなかった平氏政権の悲劇でもありました。武士として初めて政治の実権を握った平氏は、当時の国民の代表たる武士たちの共感を得ることがで...
そんな折に、平氏が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平氏であれば、必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。ところが、祖父の正盛の代から皇室や貴族と接することの多かった清盛には「武士のための政治」がどのようなものであるかが理解できませんでした。明確なビジョンを持っていなかったゆえに、清盛は摂関家と同じやり方で政治を行う以外に...
各地で武士が誕生し、その武装力を高めることによって、地方を中心に武士が世の中を支えるようになりましたが、そんな彼らには大きな悩みがありました。平安時代の頃には、それまでの公地公民の原則が完全に崩壊して、荘園制度が全盛期を迎えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。実際に田畑を耕しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝...
平氏による政権に反発する勢力の中には、後白河法皇もおられました。そもそもご自身の院政の強化のために武士を使っていたはずが、いつの間にかその武士に政権を奪われたことがご不満であられたのです。安元(あんげん)3(1177)年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(ししがたに、現在の京都市左京区)に集まって平氏打倒の計略をめぐらしていましたが、事前に発覚して失敗しました。これを「鹿ヶ谷の陰謀」といいます。陰謀...
平氏政権は武士による政権でしたが、平清盛が安徳天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父のこと)となったり、平家一門が次々と朝廷の要職に就(つ)いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持つようになりました。平氏は荘園や知行国の他にも「日宋(にっそう)貿易」という大きな経済的基盤をもっていました。先述のとおり、我が国と宋とは正式な国交を結びませんでしたが、民間の商船との交易は盛んに行われていました。清...
さて、保元の乱や平治の乱によって朝廷内の勢力争いに武士の持つ戦闘力が利用されたということは、それを背景として、武士が積極的に政治に介入し始めたことも意味していました。永暦(えいりゃく)元(1160)年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して、武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並べることになりました。後に清盛は仁安...
清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方...
さて、平治の乱で非業(ひごう)の最期を遂げた義朝には多くの子がいましたが、長男の源義平(みなもとのよしひら)は処刑され、三男で当時14歳だった源頼朝や、九男でまだ赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)らが捕らえられて、清盛の前に引き出されました。選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は本人のみならず子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺され...
保元3(1158)年旧暦8月、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった信西(しんぜい、出家前の名は藤原通憲=ふじわらのみちのり)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じら...
しかし、近衛天皇は久寿(きゅうじゅ)2(1155)年旧暦7月に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになった、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を、後白河天皇として強引に即位させました。我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天...
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仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
宇野内閣の後継には海部俊樹(かいふとしき)氏が首相に選ばれ、平成元(1989)年8月に第一次内閣を組織しました。海部首相は平成2(1990)年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織しましたが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌平成3(1991)年1月に勃発(ぼっぱつ)した「湾岸戦争」においては、人的支援の不手際もあったことからその対策に苦慮することになりました。その後、自らが政策...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...