1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
高度経済成長のひずみは、人々が都市部に集中したことによる住宅不足や交通渋滞、あるいは騒音といった深刻な問題をももたらしました。このため、都市部では住民運動が活発化し、経済成長よりも福祉を優先させる革新政党に支持が集まるようになりました。その結果として、昭和42(1967)年から54(1979)年まで東京都知事を務めた美濃部亮吉(みのべりょうきち)に代表されるような、革新勢力出身の自治体首長たる「革新首長」が大...
高度経済成長によって、日本人の多くは物質的に豊かとなり、自分が人並みの生活を享受していると自覚するとともに、社会の中層に位置していると考えた「中流意識」を抱くようになりましたが、年月が経つにつれて、高度経済成長のひずみが海水や河川の汚染、あるいは大気汚染などの公害問題として表面化し始めました。熊本県の水俣(みなまた)病に関する訴訟をはじめとして、富山県のイタイイタイ病、新潟県の新潟水俣病、三重県の...
高度経済成長期以後の我が国では、鉄道などの交通網も幅広く整備されました。東京オリンピック開催直前の昭和39(1964)年10月1日には、当時世界一の速度を誇った「東海道新幹線」が開業し、東京と大阪(新大阪)間を4時間で結びました(現在は2時間20分台にまで短縮)。東海道新幹線は開通からすでに半世紀を超えましたが、これまでに重大な事故を起こしておらず、我が国の科学技術力の高さの象徴となっているほか、近年は諸外国...
昭和11(1936)年の国際オリンピック委員会(=IOC)において、ドイツのベルリンの次の開催地として、日本の首都である東京が選ばれました。開催の年である昭和15(1940)年は、神武(じんむ)天皇がご即位以来の皇紀(こうき)2600年の記念すべき年であり、国内での盛り上がりも大きいものがありましたが、日華事変(=日中戦争)の泥沼化などの影響により、日本政府は昭和13(1938)年に実施を中止せざるを得ませんでした。その...
【ハイブリッド方式】第99回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年11月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、今年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコードはこちらです。(クリック...
長きにわたる好景気は国民の消費意欲を大幅に高め、いわゆる「大衆消費社会」をもたらすとともに、消費革命と呼ばれる様々な現象を引き起こしました。例えば、後に「電化元年」と呼ばれた昭和28(1953)年以降には、白黒テレビや電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされ、昭和40年代には「新三種の神器」といわれたカラーテレビ・クーラー・自動車も定着しました。このうち、後者はそれぞれの英語の頭文字をとっ...
高度経済成長によって、我が国の国土や社会の有り様が大きく変化しましたが、当時は国民生活そのものも著しく変貌(へんぼう)を遂げた時期でもありました。池田勇人内閣の頃には、道路・港湾の建設や、太平洋ベルト地帯での巨大な石油化学コンビナートの建設が始まりました。大都市を中心に次々と建てられた工場の労働者は、主として農村から供給されたため、人口の流失した農村では「過疎化(かそか)」が進み、食料自給率が急速...
昭和35(1960)年にアメリカと結んだ新安保条約(=日米相互協力及び安全保障条約)は、固定有効期限を10年としており、以後は自動延長と定められていたことから、延長の数年前より、日本社会党や日本共産党などが自動延長の反対や条約そのものの廃棄、さらにはベトナム戦争反対を主張し始めました。そんな折の昭和43(1968)年に東京大学医学部や日本大学で紛争が起きると、これらを発端(ほったん)として全国で激しい大学紛争(...
昭和43(1968)年にそれまでアメリカの支配を受けていた小笠原諸島の返還を実現した佐藤首相は、翌昭和44(1969)年にアメリカのニクソン大統領と会談し、その後に発表された日米共同声明で「沖縄の日本復帰」が発表されました。佐藤首相は、沖縄に関して「施政権返還」と「基地使用」とを分離し、在米基地を残した状態でのいわゆる「分離返還」でニクソン大統領と合意したのです。その後、沖縄では昭和45(1970)年に国政参加選挙...
大東亜戦争末期の昭和20(1945)年6月に沖縄は米軍の直接軍政下に入りましたが、アメリカは地政学上などの戦略的価値を重視して沖縄の長期保有を目論(もくろ)み、昭和24(1949)年頃から恒久的な基地の建設に着手しました。こうしたアメリカの姿勢に対して、かねてより米軍の統治に反発していた沖縄の人々の間から祖国復帰運動が自然と高まってきましたが、昭和26(1951)年に結ばれたサンフランシスコ講和条約では復帰がかなわ...
終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、佐藤栄作内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月11日とする」という政令を発したことで、かつての紀元節が、昭和42(1967)年からようやく国民の祝日として復活しました。ちなみに、当時発表された世論調査によれば「2月11日を建国記念の日とする」案...
神武(じんむ)天皇が即位されてから約2680年が経ちましたが、これを皇紀(こうき)ともいい、例えば令和5(2023)年は皇紀2683年にあたります。また、現在の建国の日である2月11日は、神武天皇のご即位の日である1月1日が旧暦であるため、現在の暦に修正したものです。神武天皇による建国のご意思は、長いあいだ我が国の理想として絶えることなく伝承され続け、明治時代には「紀元節」として祭日となり、大東亜戦争の終戦後も、昭...
なお、日韓基本条約において、日本政府が「北朝鮮を含めた」朝鮮半島の人々への直接的な個人補償を提案すると、その後の協議によって、韓国政府がすべての補償を受け取って分配することになりましたが、実際には「韓国の経済発展のため」に使用されました。さらに、条約の締結によって、日韓両国は「北朝鮮を含むすべての戦後補償は完全に解決した」ということになっていますが、現在においても、様々な手段を通じての個人補償の請...
4年以上続いた自由民主党(=自民党)の池田勇人(いけだはやと)内閣の後を受けて、昭和39(1964)年11月に誕生した佐藤栄作(さとうえいさく)内閣は、7年8か月にも及ぶ長期政権となりました。佐藤内閣は大韓民国(=韓国)との国交正常化に取り組み、翌昭和40(1965)年2月に朴正煕(ぼくせいき、または「パク・チョンヒ」)政権との間で「日韓基本条約」を結びました。条約の締結によって、明治43(1910)年に結んだ日韓併合条...
高度経済成長によって輸出が拡大したことから、昭和30年代後半に我が国は大幅な「貿易黒字」に転換するようになりました。開放経済体制の下で国際競争力を高めるために、我が国の企業も様々な動きを見せました。例えば、昭和39(1964)年には財閥(ざいばつ)解体によって3社に分割された「三菱重工」が再合併しました。また、昭和45(1970)年には八幡製鉄と富士製鉄とが合併して「新日本製鉄」が創立されるなど、企業の大型合併...
所得倍増計画を確実に進めるため、池田内閣は当時国交がなかった中華人民共和国との貿易の拡大をめざすなど「政経分離」の方針をとり、昭和37(1962)年には「準政府間貿易(=LT貿易)」を実現させました。なお「LT貿易」とは、交渉に当たった日本代表の高碕達之助(たかさきたつのすけ)と、中華人民共和国代表の廖承志(りょうしょうし)の両名の頭文字をとったものです。我が国は昭和35(1960)年に「貿易為替自由化大綱(たい...
高度経済成長においては、労働生産性の向上や若年層を中心とする労働者不足もあって、労働者の賃金も大幅に上昇し、また農業部門においても、農業生産力の上昇や農外所得の増加などがあって農家所得が上昇しました。こうした労働者や農民の所得の増加が国民全体の所得を引き上げるとともに、国内市場の拡大にもつながったことから、所得倍増計画が予想を超える早さで進んでいったとも考えられるのです。高度経済成長によって日本経...
高度経済成長の実現のためには世界の動きも重要でしたが、国内的な要因も欠かすことはできません。当時は企業間の競争が激化したことに伴って、新製品や新技術の導入あるいは開発の争いが展開されたり、そのための設備投資も同時に著しく増加したりするなど、各企業が積極的に生産の拡大に努めていました。産業界はこぞって技術革新(=イノベーション)の成果を導入し、積極的な設備投資を行ったことでオートメーション化が進み、...
それにしても、1960年代に我が国はなぜ高度経済成長を果たしたのでしょうか。その背景の一つとして挙げられるのは、この時期がちょうど世界的にも高成長の時代であったことですが、同時に我が国が大東亜戦争に敗北したことによって、それまで海外で働いていた、優れた技術を持った国民が多数帰国したことも大きな要因だったともいえるでしょう。例えば、東海道新幹線は満州(現在の中国東北部)に展開していた「南満州鉄道株式会社...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(12月1日までの予定)。昭和35(1960)年7月、安保闘争による混乱の責任を取って退陣した岸信介(きしのぶすけ)内閣にかわって首相に就任した池田勇人(いけだはやと)は「寛容と忍耐による話合い」を唱えながら、革新勢力との対立を回避しようとしました。そして、岸内閣が構築した「国防をアメリカに依存した日米安保体制」を背景として、防衛費を抑制する代わりに経済の高度成...
※「第98回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(11月12日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(12月1日までの予定)。荘園のシステムが固定された11世紀の頃までには、田堵(たと)と呼ばれた有力農民の多くが荘園内の名田(みょうでん)の耕作を請け負うようになりました。彼らは下人(げにん)や作人(さくにん)などを使用して名田の耕作を続けることで、やがては名田の納税責任者たる「名主(みょう...
話が複雑になってきましたので、もっと簡単に整理してみましょう。私を含む皆さんが例えば地元の耕作者であったとすれば、自己の田地をそのまま放っておけば、政府から(正しくは国司=受領が自己の取り分を上乗せした)法外な税を取られてしまいます。そこで、田地を有力貴族らに「名義貸し」をして、自分はただの「管理人」という形にしてしまうのです。こうすると、表向きは有力貴族らの「荘園」となりますから、国司から税は取...
それにしても、なぜ摂関家などの中央の有力貴族や寺社が「救いの神」となって、彼らに荘園が集中したのでしょうか。その裏には、これから述べる「大きなカラクリ」がありました。いくら荘園といえども、その大半は税の負担がかかる輸租田(ゆそでん)でした。しかし、名目上の荘園領主の権威を手に入れた農民らは、先述した官物(かんもつ)や臨時雑役を免除してもらうという「不輸(ふゆ)」の特権を認めさせるようになりました。...
さて、先述した大名田堵(だいみょうたと)は各地で成長するにつれて次第に地主化し、自らの所有権を主張するようになりました。「開発領主」と呼ばれた彼らは、従来のように地元で在庁官人として国司の下で働く人々がいる一方で、重税を要求する国司からの圧迫から逃れようと知恵をしぼる人々も現れました。そんな彼らにとって「救いの神」となったのが、摂関家などの中央の有力貴族あるいは寺社でした。彼らは、自己の所領を有力...
信濃守(しなののかみ)の国司として赴任し、任期を終えて京へと帰ることになった藤原陳忠(ふじわらののぶただ)でしたが、その途中の峠(とうげ)で乗っていた馬が橋を踏み外し、馬ごと谷へ転落しました。その谷はとても深く、随行者たちは陳忠が生きてはいないだろうと思っていたら、やがて谷底から「籠(かご)に縄をつけて降ろせ!」と言う声が聞こえてきました。随行者たちが言われたとおりにして籠を引き上げると、籠には陳...
任期中に巨額の財産を得ることも可能となった国司には希望者が殺到し、貴族たちは様々な手段で国司などの役職を得ようとしました。例えば、朝廷の行事や寺社の造営を請け負って、そのかわりに国司などに任じてもらうという「成功(じょうごう)」や、同じ方法で引き続き同じ国の国司などに任命される「重任(ちょうにん)」などが行われるようになりました。清少納言(せいしょうなごん)による随筆として有名な枕草子(まくらのそ...
国司は「田堵(たと)」と呼ばれた地元の有力農民に対して田地の耕作を請け負わせ、従来の租・庸・調や公出挙(くすいこ)にあたる官物(かんもつ)、雑徭に由来する臨時雑役(りんじぞうやく)を課しました。課税の対象となる田地は請負人の名をつけて「名田(みょうでん、または名=みょう)」と呼ばれ、その請負人自体は「負名(ふみょう)」と呼ばれました。なお「堵(と)」は垣根(かきね)を意味しており、負名は「名田の経...
「延喜・天暦の治」にあたる10世紀の初めから半ばにかけての頃は、荘園の数が増加したことなどにより、律令政治を支えてきた土地公有の原則が音を立てて崩れ始めた時代でもありました。政府は先述した延喜の荘園整理令の後もたびたび整理令を出すことで不明確な荘園を没収したり、荘園の新設を禁止したりしようとしましたが、荘園の最大所有者である有力貴族が荘園を取り締まるという体制には無理があり、効果は上がりませんでした...
ところで、平安時代の初期である9世紀になると、農民の間にも貧富の差が拡大し、浮浪(ふろう)や逃亡(とうぼう)、あるいは延喜14(914)年に三善清行(みよしのきよゆき)が醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条(いけんふうじじゅうにかじょう)」にも指摘されている、戸籍をごまかす偽籍(ぎせき)が増えるなど、班田収授の実施が困難となっていきました。先述のとおり、桓武天皇は班田をそれまでの「6年に一度」から実情に...
藤原道長によって全盛期を迎えた藤原氏の権力は、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)にそのまま引き継がれました。後一条天皇の摂政から関白となった頼通は、その後も後朱雀(ごすざく)天皇、後冷泉(ごれいぜい)天皇の外戚として関白の地位に就き、約50年に渡って政治の実権を握り続けました。このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを「摂関(せっかん)政治」とい...
円融天皇がご即位されたときはまだ11歳と幼かったので、大伯父(おおおじ、親の伯父のこと)にあたる太政大臣の藤原実頼が摂政となりました。翌天禄(てんろく)元(970)年に実頼が死去すると、甥(おい)の藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が摂政となりましたが程なく病に倒れ、以後は伊尹の弟である藤原兼通(ふじわらのかねみち)と藤原兼家(ふじわらのかねいえ)との間で激しい勢力争いが行われるようになりました。兄弟同士...
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1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...